≪特集全体のリード≫ ≪参考 この特集の目次≫ ≪参考 この号の特集以外の記事≫ ※NHK教育テレビ番組に対する安倍晋三の干渉は、これを番組への政治介入と呼ばなければ何を政治介入というのか、というほどの露骨なものでした。 |
日本最大の放送局や日本を代表する政治家が、放送局にとっての「憲法」ともいうべき放送法を、いかに軽んじ、平然と踏みにじっているか。NHKのETV2001特集「問われる戦時性暴力」への政治介入問題は、そのことを白日の下にさらけ出したといえる。
朝日新聞の2004年1月12日付記事でNHK幹部を呼んだと名指しされた自由民主党の衆議院議員・安倍晋三(当時・内閣官房副長官)は、即日、自らのホームページで次のように反論した。(段落冒頭を字下げしたほか原文ママ)
朝日新聞の記事『NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘』に関し、
朝日新聞らしい、偏向した記事である。
この模擬裁判は、傍聴希望者は「法廷の趣旨に賛同する」という誓約書に署名しなければならないなど主催者側の意図通りの報道をしようとしているとの心ある関係者からの情報が寄せられたため、事実関係を聴いた。その結果、裁判官役と検事役はいても弁護士証人はいないなど、明確に偏って内容であることが分かり私は、NHKがとりわけ求められている公正中立の立場で報道すべきではないかと指摘した。これは拉致問題に対する鎮静化を図り北朝鮮が被害者としての立場をアピールする工作宣伝活動の一翼も担っていると睨んでいた。告発している人物と朝日新聞とその背景にある体制の薄汚い意図を感じる。
今までも北朝鮮問題への取り組みをはじめとし、誹謗中傷にあってきたが、私は負けない。
安倍晋三
これを読み、私はとても奇異に感じた。朝日に反論するつもりで放送前日の01年1月29日のことを具体的に書いた結果、番組に干渉した証拠を自ら提出したのも同然だからだ。
署名付きの本人の証言「だけ」に基づいても、NHKに対して番組干渉があったことは火を見るより明らかである。記事に捏造部分があろうと、背景に薄汚い意図があろうと、そんなことで本人証言が覆るはずもない。
政治家や政府高官が、放送局幹部に会い、放送前で制作中の特定の番組について、明確に偏向した内容と判断したうえで、「〜すべきではないか」と意見を述べることを、日本国はじめ民主主義社会では「放送番組に対する干渉」と呼ぶ。そして、政治家や政府高官が放送番組に干渉することを、日本国はじめ民主主義社会では「政治介入する」「政治的圧力をかける」などと言い習わす。
もちろんこれは、放送法の第1章の2「放送番組の編集等に関する通則」の「(放送番組編集の自由)第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」という条文に抵触する放送法違反だ。
ついでにいえば、日本国憲法第21条の1「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」にも抵触する憲法違反でもある。
私たちの社会は、北朝鮮や中国でもなければ戦前の日本でもないのだ。この自由な社会で、放送局がまだ放送すらしていない番組を政府要人が偏向と決めつけ、ああしろこうしろと注文することが許されるはずがない。
そんなことは、自由な民主主義社会のイロハである。
その後の安倍晋三のコメントを見ると、自分から番組干渉の動かぬ証拠を出したという自覚すらないらしい。これがまず不可解だ。
また、次期首相の呼び声すらある有力政治家が「番組干渉した」としか読めず解釈もできない証言をしたにもかかわらず、危機感を表明する者が極めて少ない。
テレビやラジオなど放送局は、自らが寄って立つ基本法をないがしろにされているわけだが、抗議の声を上げようともしない。これも困ったことである。
沈黙するのは放送局だけではない。政府高官が特定の番組を狙って政治的圧力を行使した問題は、放送局のみならず全新聞や全出版社はじめ言論・表現活動にかかわるすべての人びとが看過できない事態のはずだが、多くの「表現者」はNHKと朝日のケンカと話を矮小化し、高見の見物を決め込む。なんともだらしないことである。
朝日新聞が報じ、直後にNHKの内部告発者が会見して2か月。一連の動きを見ると、これまで放送が曲がりなりにも表看板として掲げてきた「放送の自主・自律」が音を立てて崩れていく思いを禁じ得ない。ここで踏みとどまることができなければ、日本の放送はおしまいかもしれない、とすら思う。
放送局は、いまこそ放送の基本とは何か、自らがよりどころとする放送法とは何かを振り返り、今回の事件への対応を考えなければならない。そこで、制定時にさかのぼって放送法の条文を点検し、その意義を再確認しよう。それを踏まえ、政府高官だった政治家の不可解な対応に改めて触れることにする。
1950年に成立した現在の放送法は、日本を占領したアメリカが、日本民主化のプロセスのひとつとして私たちの社会にもたらした。端的にいえば、新憲法、農地改革、6・3学制、労働組合などと同様、戦争に負けた日本にアメリカがくれたものである。
そのことを象徴するのが、47年10月22日にGHQ(連合軍総司令部)で配布されたいわゆる「ファイスナーメモ」(正式文書名「日本放送法に関する会議に於ける最高司令部示唆の大要」)。直前の10月16日、GHQ一部門のCSS(民間通信局)調査課長代理ファイスナーが、日本が新しく作るべき放送法規・制度の根本原則について、逓信省とNHKに口頭で伝えた示唆をまとめたメモだ。
内容は「基本法は、a放送の自由、b不偏不党、c公共サービスに対する責任の充足、d技術的諸基準の順守という4つの一般原則の上に立つべき」「あらゆる種類の放送を管理運営する機関の設立について規定すること」「同法は、将来、現在の日本の鉄道機構すなわち公営民営並立方式にも比すべき放送(運営)方式の発達を許すようにすべき」「番組(編成)の自由を保障」などA〜Kの11項目である。
誌面の都合で4つだけ抜き書きしたが、順に放送法第1条、放送法と同時に成立した電波監理委員会設置法、NHKと民放の並立を貫く放送法全体、放送法第3条に反映されていることがわかる。
この示唆を受けて放送法の作成に着手した逓信省は、48年6月に最初の放送法案を国会に提出したが、会期切れと内閣交代で11月に撤回。その直後、GHQのLS(法務局)が興味深い動きを見せた。
LSは、ニュース放送の制限を定めた法案の第4条について、表現の自由を損なうから全文削除を求めるとの修正意見を逓信省に出したのである。第4条の内容はこうだ。
「第4条 ニュース記事の放送については、左に掲げる原則に従わなければならない。(1)厳格に真実を守ること (2)直接であると間接であるとにかかわらず、公安を害するものを含まないこと (3)事実に基づき、且つ、完全に編集者の意見を含まないものであること (4)何等かの宣伝的意図に合うように着色されないこと (5)一部分を特に強調して何等かの宣伝意図を強め、又は展開させないこと (6)一部の事実又は部分を省略することによってゆがめられないこと (7)何らかの宣伝意図を設け、又は展開するように、(1)の事項が不当に目立つような編集をしないこと」(第2項以下は略)。
これに対するLSの意見は、次のようなものだった。
「この条文には強く反対する。なぜならば、それは憲法第21条に規定されている表現の自由の保障とまったく相容れないからである」「政府にその意思があれば、あらゆる種類の報道の真実あるいは、批評を抑えることに、この条文を利用することができるであろう。この条文は、戦前の警察国家のもっていた思想統制機構を再現し、放送を権力の宣伝機関としてしまう恐れがある」
逓信省はこの修正を受け入れ、第4条を全文削除した。その後、放送を所管する行政委員会方式の電波監理委員会をめぐって、内閣の行政権を侵すとする日本側と政府からの独立を求めるGHQが対立したが、マッカーサー書簡まで出て、結局、日本側が折れた。こうして翌50年4月、放送法は成立した。
なぜ五十数年前の昔話をしたかといえば、放送法がもっとも重視するのが「放送の自由」であることを示すためである。
アメリカは敗戦前年から戦後日本の放送制度を研究し始め、放送を日本民主化の極めて重要なツールと考えた。GHQには、ニューディールの流れを汲む民主派・改革派が少なくなく、理想に燃えた彼らは日本をいわば「実験場」として民主化政策を次々に打ち出していったわけだ。
放送法もその一つである。第1条が掲げる放送法3大原則の二つめ「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。」や、第3条「放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」との規定は、何よりも戦前の言論統制下に放送(ラジオ)が政府に支配され大本営発表報道だけを流したことへの反省に立って、放送は政府の支配から脱して不偏不党・自律・自由を貫かなければならないという、いわば宣言なのだ。
アメリカがそうすべきだと私たちの親や祖父母やその親の世代に教え、日本人は「12歳の少年のように」(ダグラス・マッカーサー)素直に受け入れた
だから放送法第1条は、法の立法者(国会)や執行者(政府)が(注=断じて「放送局が」ではない)放送の不偏不党、真実、自律を保障し、放送による表現の自由を確保するのが原則だという意味。第3条は、放送番組はとりわけ政府からの干渉や政府による規律を排除せよという意味である。
制作中のNHK番組に、内閣官房副長官という要職にあった政府高官が「〜すべきではないか」(朝日新聞記事では「中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った」と安倍晋三が記者に語ったことになっており、「発言部分は捏造」という安倍側の主張は調べても見つからなかった)と注文したことは、放送法の精神からは、もっとも排除すべき番組干渉なのだ。
私は、アメリカが日本にもたらした放送法は民主主義社会の放送のあり方を定める基本法として、成立後半世紀以上をへて、なお、守るべき意義があると確信している。
アメリカがくれたものなど気に食わんという気持ちはわかるが、新憲法、農地改革、6・3学制、労働組合などと同様に放送法も、戦前の日本の制度とは比べものにならない優れたものであることは、疑う余地がない。
したがって、今回明らかになった番組干渉は、断固として糾弾されてしかるべきだと思う。もっとも、放送法第3条は一種の精神的な規定で罰則はないから、元官房副長官が「もうしない」といえば、それでいい。
ところが、元官房副長官に放送法の根本原則に反しているとの自覚がないのは、どうやら「公正中立の立場でやれと正当な注文をしたのだから、番組介入には当たらない」との考え方によるらしい。これは、実は民主主義とは何かがわかっていない考え方だ。
わかりやすく、ちょっと乱暴な言い方をすれば、民主主義とは「正しい」政治というような価値観をともなう概念ではなく、手続きや形式を「民主的にやる」という手法(手続き論)にすぎない。民主主義を続ければ、徳があって立派な君主政治より悪い衆愚政治に陥る恐れもある。それでも過去数千年の人類の歴史を振り返れば、もっとも間違えることが少ない望ましい手法と思われるから、多くの先進国で採用しているのだ。
民主主義社会の言論・表現の自由についても同様で、ある特定の価値観を掲げるのでなく、価値観など関係なしに自由にしておくという手法の問題。そのほうが望ましい価値観が社会に広まるという考え方である。
だから、手続きや手法が違法であれば、正しいことを言ってもダメなのだ。放送法は番組干渉はダメという手続きを――「手続きだけ」を規定しているのだから、「正しい注文をつけたのだから介入ではない」という元官房副長官の考え方はまったく誤りである。
「ニュースは公安を害するものを含まないこと」という一見すると文句のつけようがない一文ですら、政府の統制に利用され戦前の警察国家を再来しかねないとして最初の放送法案から削除されたことを、私たちは忘れてはならない。
政府要人の口にする「公正中立」は疑ってかかれ、なぜならば戦前にさんざん騙されたからだ、というのが放送法のそもそもの狙いだ。「自律」を謳う放送法第1条を読めば、何が公正中立か放送局が自分で考えなければならないことは明らかである。「公正中立に」という「正しい注文」すらも放送局は番組放送前に受け付けるべきではない。
私は、戦時性暴力で昭和天皇の責任を問うのはナンセンスという考えだから、この点では、たぶん安倍晋三と同意見だろう。だが、番組が伝えるテーマが自分の考えと異なるから番組干渉して阻止するというのは、偏狭で独善的な、北朝鮮のような独裁国家のやり方だ。だから、私は断じて否定する。
戦時性暴力について昭和天皇に責任があるという女性たちが日本にいてもよいし、テレビがそのような女性たちの活動を伝えても、かまわない。そのような多様な意見を許す社会が、自由で居心地がよいからである。多様な意見を許さない社会は、北朝鮮のように居心地が悪く、ダメな社会だ。
よりよい社会を作るために、放送法は守らなければダメなのである。
大幅に加筆訂正し、別ページにupしました。以下を参照してください。