異業種が狙う放送ビジネス!?
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実は私は、ニッポン放送をめぐるライブドア対フジテレビの買収合戦にあまり興味がない。
ライブドアが立会外取引 でニッポン放送株を大量に取得し、「フジサンケイグループとの提携によるインターネットと放送の融合」を掲げて保有率三五%超の筆頭株主に躍り出たのは、二〇〇五年二月八日。直後の十一日、自分のサイトで私が書いたのは、次の二つだ。
「二十年ほど前M&A(企業買収) が流行りはじめたころ、『BIGMAN』あたりで田原総一朗などとさんざん取材した。東洋経済の記者とはミネベアの高橋高見を追いかけ、田園調布の家の前で張り込んで帰宅したところ家に上げてもらったり、軽井沢の工場に行ったり、本社から出てくる社員を喫茶店に連れ込んで取材したりもした。企業買収で会社を大きくし毀誉褒貶《きよほうへん》の激しい人物ですが、『だいたい経営というのは時間を買うもんだ』『融資してうまくいかない企業に人を送り込みボロボロにして、結局乗っ取るのが日本の銀行。腐っているのはやつらだ。私の企業買収のどこが悪いんだ?』という言葉を鮮明に覚えている。正論です」
「そういうことを知っていたから、私が編集長だったGALACの編集会議で『放送局の買い方教えます』という企画を検討したことがある。しかし、放送局が無防備すぎ、今回のような手口があまりにも簡単にできるので、ボツにしたことがあります。ただし、この手の話は最終的にカネ(資金調達力)のあるヤツが勝つので、ライブドアはフジテレビの敵ではない。どこで手打ちをするか、というだけの問題(間違えるとヤバイのはライブドア)」(以上『すべてを疑え!! MAMO's Site』日録メモ風の更新情報)
次に書いたのは二月十四日。
「私は『どこで手打ちするかの問題』と書きましたが、(注 フジ側の)『手打ちしない宣言』が出てしまったので問題はこじれるでしょう。それにしても、この手の問題で、しかもこんな段階で会長を出すとは、驚きました。大きな会社でこういう問題が起こったとき、業界団体のトップまで務める会長がテレビで何かいうものですかねえ?」(同。注は新たに挿入)
以後、求められればテレビや新聞でコメントしたが、自分からは書いてない。大前提として私は「放送は、最終的に全コストを負担して番組を享受する視聴者のもの」と考えており、誰が放送局の経営者でもよいからである。
それに加えて「どこで手打ちするかの問題」――ようするに大騒ぎする話ではないと思っており、実際、この原稿を書いている段階(三月中旬)で、フジとライブドアはどこで手打ちするかという和解交渉を詰めている。ライブドア社長の堀江貴文は「将棋は詰んでいる」といったが、大局観からすればライブドアがフジを支配するのは最初から「無理筋」で、和解以外に落としどころはないと見るのが当たり前だ。
そんな私の見方は、すわ大事件だ乗っ取りだと騒いだマスコミ一般の見方とは違っている。まず、私の見方の根拠を記そう。
第一に指摘すべきは、今回の出来事が極めて「特殊なケース」であり、放送メディアの根幹を揺るがす問題と言うのも憚《はばか》られる「お粗末なケース」だということである。これは買収を仕掛けた側と仕掛けられた側の双方にいえる。
ライブドアについては、村上ファンド その他のファンド(投資家)と組み、立会によらない時間外取引という「抜け道」的な手法を使ってニッポン放送株を手に入れた。
多くの株主は、証券取引市場というのは午前九時〜十一時(前場)と午後〇時半〜三時(後場)に開かれ、そこで公明正大に売り買いするものだと思っている。しかし、株主資本主義という立場を標榜《ひょうぼう》して「会社は株主のもの」「大株主の権利を認めよ」とフジテレビに迫ったライブドアが、多くの株主が従っている周知のルールによらず、株式市場の全参加者を軽んじたことは確かだろう。
多くの株主を尊重するならば、市場でTBO(株式公開買い付け) を宣言するのが筋。それはやらなかったのだから、株主資本主義などと偉そうにいえる立場とも思えない。違法行為はしていなくても、コソコソと策を弄した観が否めないのはお粗末である。
今回の抜け道は金融庁その他が問題視したため、同じ手法はもう使えない(大量取得が制限される)。 すると今回の騒動は一回きりの「特殊なケース」に終わるわけで、放送局一般の問題としてとらえるにも無理がある。
フジテレビ側の特殊な事情は、上場すれば当然、株の買い占めその他の攻撃にさらされることが明らかなのに、規模の小さなラジオ局であるニッポン放送が最大規模の民放テレビ局フジテレビの大株主になっている「ねじれ」 を放置したことだ。必要な対応をせず後手後手に回ったのは、誉められた話ではない。
金融機関のペイオフが全面解禁となった今、日本に最後に残る護送船団の放送業界では、過去に世間一般の意味の「経営」がなされたことは(この国に民放をもたらした「大正力」こと正力松太郎の場合を除き)ほとんどないと、私は思う。社員千数百人にも満たない東京キー局が、国内最高水準の給与を払ってなお都心に超高層の本社ビルを構えることができるのは、別に「経営者」が優れていたからではなく、ただ競争のない寡占状態で保護されてきたからにすぎないというのが、私の持論である。
だから放送局は、上場しても、さまざまな企業が過去に経験している仕手筋との争闘やそれを通じて学んだ対応策に思いをめぐらせることがなかったのだろう。
さらに、フジテレビが対抗策として打ち出した「ニッポン放送が新株予約権を発行しフジが引き受ける」という作戦 は、明らかにニッポン放送の株主(ライブドアが筆頭)を無視したものだった。日本を代表する民間放送局の経営判断を、地裁と高裁が二度までも無効と判定したことは、残念ながら放送業界のイメージを大きく損なってしまった。
第二に、今回の騒動では背後に外資が控えているという見方が一部に出され、日本の放送局が買われてしまう懸念も生じたが、これは過剰な心配というか、ライブドアへの過大な評価と思われる。
ライブドアの背後には信販会社や商工ローンその他の投資家の影もちらつくが、政界や財界が一斉に「他人の家に土足で上がり込む暴挙」と言い出したので、表に出ることができなくなくなった。政治家に献金したり財界活動をしたりする経営者が、今回の一件で儲けようとしていたとバレてはまずい。
「ハゲタカ・ファンド」と呼ぶらしいカネ目当ての投機筋はさておき、国内のまともな投資家は「土足で上がり込む者と同じ穴のムジナ」と見なされることを恐れ、近づかない。だから新たなファイナンス先を見つけるのが難しい。ライブドアは資金面から見て長期戦ができず、早期に手仕舞うしか道はない。
国内投資家は敬遠するかもしれないが、世界には三〇〇兆円以上ともいわれるファンドが、投資先を求めて蠢いている。これが脅威だという見方はあって当然だ。
しかし、平均すれば、すでに日本の上場企業株の三五%は外資が所有しているという(大前研一「荒野のガンマンvs.白馬の騎士」文藝春秋二〇〇五年五月号)。その状況下で、外資が日本企業の間接支配に乗り出したと騒ぐのも、何をいまさらと思わざるをえない。
しかも、日本国全体の公共財である電波を借りて寡占的に営業する放送局は、流す情報の社会に与える影響が大きいこともあって、外資規制も含めてさまざまな規制に縛られている。日本の放送局の株を買って儲けたい外国の投資家は大勢いても、日本独自の文化的・経済的な土壌にあって日本人むけに番組を流す放送局を買おうという外国人は、普通はいない。
旧郵政省は一九九三年、テレビ朝日の報道局長が「新政権を応援する方向で選挙報道をした」と産経新聞が書いただけで、事情を調べもせずに即日「停波(免許取り上げ)もありうる」という見解を発表した。 つまり、放送免許はどんな理由でも取り上げると脅すことができる。放送局への外資支配の排除など、恣意的にどうにでもなるともいえる。外国勢力に乗っ取られて困るなら、免許を取り上げればよい。
なお、総務省情報通信政策局は、四月八日に「放送局の外資規制に関する法改正の基本的考え方」 という文書を出した。電波法を改正し、NTTの外資規制にならって地上放送への間接出資規制を導入する。早ければ六月までに改正電波法が国会で成立する見込みだ。
第三に、ライブドア側のいう「インターネットと放送の融合」が、単なる思いつきか、内容のない空疎なキャッチフレーズにすぎないのではないかと強く疑われる。
たとえば、堀江貴文は「最終的にはすべてインターネットになるわけだから、いかに新聞、テレビを殺していくかが問題」(週刊ダイヤモンド)という。放っておいて死ぬものなら、殺し方などどうでもよく、わざわざ支配する必要など、なおなさそうに思える。
一方、ライブドアはインターネットビジネスにおいて、孫正義が率いるソフトバンク・ヤフーBB や三木谷浩史が率いる楽天 に、明らかに遅れを取っている。どちらもプロ野球に参入できたのに、ライブドアはできなかった。
すると、このままではテレビや新聞が死んだ後すべてのメディアの王様として君臨するインターネットの、堀江貴文は三番手以下となるわけだろう。ならば、インターネットで競争して孫正義や三木谷浩史を追い越すほうが、テレビにちょっかいを出すより必要なことと思える。
「その競争上はテレビ局を手に入れたほうが有利」と思えば「テレビを殺していく」などと放送局が怒りそうなことはいわずにテレビに近づけばよいと思う。なぜそうしないのか、よくわからない。
「平成ホリエモン事件」を特集した文藝春秋五月号のインタビューでライブドア社長は、
「僕はずっと『既存メディアとインターネットの融合』と言ってきました」
「インターネットとは、その通信、放送のすべてを包括する概念ですから、将来、通信や放送をのみこんでいくのは宿命といっていい」
と、同じページで語っている。こういう言葉づかいも、よくわからない。
「果物はリンゴやミカンを包括する概念」というのはよい。「リンゴとミカンを掛け合わせたい(融合)」というのもよい。だが、同時に「リンゴと果物の融合」といっているようだから、「?」《ン》と思わざるをえない。
結局、現状では「インターネットと放送の融合」に深い中身はないのだろうと判断するしかなく、興味が湧かないのだ。何か別の考えがあって「インターネットと放送の融合」といっているなら、額面通り受け取って論じる意味は、ますます薄れる。
右に書いたような理由で、私はあまり関心がないのだが、この際、書いておいたほうがよいと思うことがある。
それは「インターネットと放送の融合」というキャッチフレーズを、あまりにも無邪気に信じる人が多いということである。
たとえば、楽天の三木谷浩史も、
「同じパソコンの画面で見ているのに、ネット(経由)で見るのと地上波(のテレビ経由)で見るのは、何が違うのか。(放送と通信を)分けている意味がない。いずれ融合するのでしょう。二十年先なのか五年先なのかはわからないが」(読売新聞二〇〇五年四月十三日)
と語っている。
もちろんインターネットで商売をする人びとが、自らの企業に資金を集めたり、事業を展開しやすくするためにインターネットの成長性を強調し、やがてメディアの王様になると主張するのは当たり前。自分の業界は成長性がないなどという経営者はおらず、ビル・ゲイツも孫正義も三木谷浩史も堀江貴文も、インターネットがテレビを飲み込むと発言するのは当然だろうし、とくに文句もない。
だが、冷静に考えて彼らの主張通りになるかといえば、そう簡単にはいかない。少なくとも私が生きている間は、そんなことにはならないと私は考えている。
というのは、テレビとパソコンは、形態が同じモニタを使うため多くの人が同じようなメディアと考えているが、それはハードに引きずられた誤解だからである。新聞の社説が盛んに通信と放送の融合と書くが、わかって書いているとはまったく思えない。
テレビは居間に置き、家族がみんなで見る。家族がいなければ一人で見るしかないが、テレビは大勢で見たほうがおもしろい。対してパソコンは書斎や子ども部屋などの机上に置き、個人が一人で使う。だから「パーソナル・コンピュータ」「デスクトップ」などと呼ばれる。
テレビは小型で九八〇〇円とか大型で五万円とかいう価格のものを買ってアンテナにつなげば、スイッチを入れるだけで映る。しかも基本的にタダだ。パソコンは十数万円するものを買い、それとは別に通信回線を自前で用意してプロバイダと面倒な契約(月額一〇〇〇円〜数千円)を交わす必要があり、しかもスイッチを入れただけでは望みの情報は得られない。
一〇〇個(それもEnterだのDeleteだの、よその国の言葉が刻印されている!)からあるボタンをあれこれ間違いなく押さなければ、テレビの番組表(テレビ番組ではない)すらも、表示させることはできない。
テレビのニュースやドラマや野球は、居間に寝っ転がってビールを飲みながら見ることができる。しかし、現時点でパソコンで同じものを見るには、寝っ転がっては不可能だ。寝っ転がってボタンを二つ三つ押せば使えるパソコンが十年後に登場すると思っている技術者は、全世界に一人もいないだろう。
現在のテレビをパソコンで置き換えることができると思うのは、テレビが何であるかもパソコンやインターネットが何であるかも突き詰めて考えたことのない者の「幻想」である。
著作権の問題があるからインターネットにテレビ番組が流れないという以前に「メディアが違う」のだ。同様に、パソコンは本や雑誌の紙面と同じものを表示することができるが、本や雑誌をパソコンで置き換えることは当面できない。これも「メディアが違う」。
地上デジタルの一セグ放送 が携帯電話で見られることをもって、通信と放送が融合しはじめるという意見があるが、これもまったく的はずれ。地上デジタルの携帯受信は、これまで車載用や携帯用に使われていた小型液晶テレビが携帯電話と合体するだけの話。「ハードが合体する」のと「メディアが融合する」のは異なる。同じラジカセでFM放送とCDを聴くことができても、FMラジオ放送とCD音楽産業が融合したとはいわない。
そもそもテレビ放送は、高画質の映像情報を数千万という規模の受信者(家庭や企業)に送り届けるには、現時点でもっとも低コストのシステムである。これをわざわざ光ファイバーで送らなければならない積極的な理由などない。
大多数の人びとは「一方向システム」のテレビを喜んで見ているのだから、番組を送信するために双方向の回線を引くのはムダである。
視聴率四〇%のNHK紅白歌合戦は何千万人かが同時に見る。何千万人かが同時に高画質映像を見ることのできるインターネットのシステムが存在しているとは、私は聞いていない。ADSLという「つなぎ」のナローバンドでハイビジョンのような高画質映像を簡単に送信できるとも思わない。
総務省によると、FTTH(ファイバー・トゥー・ザ・ホーム) の加入世帯は二〇〇四年九月末でたったの二〇三万。情報通信白書に書かれた二〇〇二年十月時点のFTTHの加入「可能」世帯数は、一六〇〇万世帯にすぎない。
光ファイバーを引き込むことのできる(あくまで可能性がある)世帯がテレビを見る四八〇〇万世帯の三分の一、実際に光ファイバーを引き込む世帯が二〇〇万という現状で、インターネットがテレビを飲み込むうんぬんは、リアルなビジネスの話とはなりえない。
なお、NTTによれば最終的にFTTHを実現できるのは全世帯の八割強だから、通信と放送が融合しようとしまいと、日本の世帯の二割近く(一〇〇〇万世帯前後)は通信によらない放送を視聴し見続ける見込みである。
ライブドア側が右のことを知らないか、知っていて黙っているのかは、私は関知しない。
いずれにせよ、インターネットと放送の融合の例として「テレビドラマに出てきたTシャツをやバッグをインターネットで売る」などというようでは、話にならないと思うのが正解だろう。ドラマグッズをネット販売したければ、テレビ局やグッズの提供先に申し入れればよく、八〇〇億円も動かす必要はなかろう。
さて、報道によればライブドアとフジテレビは和解し、ライブドアが持つニッポン放送株の全数がフジテレビに渡るようである。
つまり、フジテレビは長年の懸案だったニッポン放送との資本の「ねじれ」を、ライブドアのお陰でほんの二〜三か月で一気に解消できることになる。ニッポン放送やフジテレビが上場したのは、かつてフジサンケイグループを乗っ取った鹿内(信隆)一族の支配を断ち切るためだったが、これも片付く。
この点でライブドアのフジに対する「貢献」は極めて大きい。そのための必要経費と思えば、フジサンケイグループにとっては三〇〇億円や五〇〇億円をライブドアに渡しても安いものなのかもしれない。結果的にライブドアが宣伝になり一定の利益も得たとなれば、ライブドアはフジテレビとニッポン放送のねじれ解消業務を請け負ったのと同然、ともいえる。
それだけでは身も蓋もないからライブドア登場の意味を探せば、会社は株主のものという当然の考えを広めM&Aに警鐘を鳴らしたこと、堀江貴文が「巨大メディア相手でもこの程度の立ち回りはできる」と世間に示し、若い世代に希望を与えたことだろうか。
最後に一言。今回の騒ぎにあった「会社は誰のもの?」という議論を聞くにつけ思い出すのは「テレビは誰のもの?」という問いである。
日本の放送所管官庁(総務省)、全放送局(NHKと全民放)、全家電メーカーが合意している「国策」によれば、現在の地上テレビ放送はあと六年余で完全に停止されることになっている。その受信機は現在三〇〇万台程度が普及した段階で、現在の放送しか見ることのできないテレビが依然として一億二〇〇〇万〜一億三〇〇〇万台ほど残っている。これでは視聴者は、テレビ局が誰に買われようが知ったことかと思って当然だろうと、私は思う。
「一放送局が買われるか、買われないか」をテレビのクライシス(危機)と呼ぶなら、「全世帯四八〇〇万世帯で現在の放送が映らなくなる」という国策を、私たちは何と呼ぶべきだろうか。
01【立会外取引】
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02【M&A(企業買収)】
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03【村上ファンド】
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04【TBO】
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05【時間外取引の制限】
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06【フジテレビとニッポン放送の資本のねじれ】
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07【新株予約権】
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08【外資】
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09【椿発言事件】
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10【外資規制の電波法改正】
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11【孫正義】
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12【三木谷浩史】
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13【一セグ放送】
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14【FTTH】
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15【和解条件】
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