メディアとつきあうツール  更新:2004-08-09
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

「感情増幅」装置としてのテレビ
――テレビは、なぜ感情を増幅するか?

≪リード≫
北朝鮮の拉致被害者や家族の帰国。イラクで人質になった日本人。政治家やキャスターらの年金未納・未加入。アジア杯サッカー……。テレビを見ていると、そこにはむき出しの感情が渦を巻き、見る側の私たちもまた、怒りや同情といった感情的な反応を繰り返していることに気づく。
なぜテレビは感情を、そして感情だけを強く増幅し続けるのか。テレビは視聴者のニーズに応えているだけなのか。視聴者はそれを本当に喜んでいるのか。テレビ制作側の姿勢、視聴者側の心理を分析し、解き明かす

≪GALAC発表時の目次≫
特集 「感情増幅」装置としてのテレビ
「家庭」と「子ども」が感情のツボ/岩本太郎
テレビは、なぜ感情を増幅するか?/坂本 衛
「感情」「情報」両輪で"いい物音"を/兼高聖雄
メディアが伝えた感情増幅〈事件史〉

(「GALAC」2004年08月号 特集「『感情増幅』装置としてのテレビ」)

もっとも泣かせ、もっとも
笑わせ、もっとも怒らせる

 テレビは、人びとの感情を増幅する装置である。いや、テレビは、もっぱら人びとの感情だけを刺激し、しかもそれを極端に増幅する装置である、とすらいえるかもしれない。【脚注1】

 この1年間、あなたをもっとも泣かせたものは? こう聞けば、泣くことが仕事の赤ん坊や、ケンカが絶えない子どもや、親しい人との別離があった人などを除き、多くの人がテレビドラマと答えるに違いない。

 この1年間、あなたをもっとも笑わせたものは? こう聞いても、多くの人はテレビと答えるだろう。いうまでもなく泣き笑いは、悲しみやおかしみという感情の身体的な表出である。

 テレビを見て「なんだ、こいつは?」「なにいってんだ、馬鹿野郎!!」と呆《あき》れたり怒ったりすることも、私たちは非常に多い。怒りのあまり放送局に電話する人が少なくないので、新聞のテレビ欄は局の電話番号を記載する。

 オリンピックやサッカーW杯などの際には、優に1000万単位の人びとがテレビに釘付けとなり、日本代表の戦いぶりにハラハラドキドキする。ゴールの瞬間「やった!」「よーし」などと声を上げる人も多いはずだ。

 タタミ半畳も占めない電気仕掛けの箱が映し出す画像に、全国津々浦々の人びとが見入って一喜一憂ギャーギャーと騒ぎ立てるのは、思えば不思議とも異様ともいえる話である。

 人類は、そんな装置をつい半世紀ほど前までは持たなかった。ところが現在の日本人のテレビ視聴時間は4時間5分で、1日24時間の6分の1。【脚注2】

 生まれたときテレビがあれば、75歳までになんと「12年半!!」もテレビを見続ける計算なのだ。

 私たちは、一緒に暮らす家族、学校の友だちや教師、職場の上司・同僚・後輩・客などと日々感情を刺激し合い、泣いたり笑ったり怒ったりしている。それら直接の人間関係から受ける影響を除けば、テレビ装置が人びとの感情面に与える影響が非常に大きいことを否定する人はいないだろう。

テレビの影響力は
あくまで限定的である

 ただし、誤解されないよう断っておかなければならないのは、テレビが泣かせ笑わせ怒らせるといっても、その影響力は限定的であることだ。テレビや新聞などマスコミュニケーションが受け手に与える効果は、受け手がすでにもっている態度(考えや感情)を強める効果しかないと考えられている。

 テレビのせいで子どもが人を殺したと浅薄《せんぱく》な発言をする人があるが、テレビには人を殺人に踏み切らせるほど強く直接的な影響力はない。

 子が親を殺すのは親子という人間関係の中で、少女が同級生を殺すのは友だちという人間関係の中で殺すのであって、加害者と被害者の人間関係のほうが加害者とテレビの関係よりも深い(むろん影響力も大きい)に決まっている。通り魔殺人や公園の浮浪者を袋叩きにして殺す場合は加害者・被害者の人間関係はないが、人を殺すとおもしろいと思う子どもを作る親子関係や、袋叩きにするとおもしろいと相談し合う子ども同士の人間関係のほうが、加害者とテレビの関係よりも深いことは明らかだ。

 薬会社がどれほどテレビCMを流しても、患者が信頼する医者のアドバイスを覆すことはできない。自動車会社がどれほどテレビCMを流しても、買い手が信頼するディーラー以上の影響力は持ち得ない。だから、薬会社は病院で使わない薬のCMし か流さない(病院で使う薬は病院回りをして直接売り込む)し、自動車会社は若者の見る番組にしかCMを流さない(ずっとトヨタと決めている年輩者は諦める)。

 テレビで観光地や店やグッズを紹介すると人びとが殺到する。だから「テレビの影響力はものすごく大きい」と、ホテルや店の関係者がテレビでよく話している。これも実は旅に出たい、うまいものを食べたい、こんなものがほしいと思っている人がいるところに、テレビが「どこ・どれを選ぶか」という限定的な影響力を発揮しているわけだ。

 「レ・ミゼラブル」を書いたユーゴーは「新聞がなかったらフランス革命は起こらなかった」といった。この伝で「ベルリンの壁を崩壊させたのはテレビ」(東側の人びとが見た西側の衛星放送)――「テレビがなかったらベルリンの壁は崩れなかった」といえないこともない。

 しかし、本当のところは、自由を希求し政府にはもううんざりだと思う東側の人びとが多数いるところに、彼らの思いをテレビが一気に増幅させたのである。東側諸国の政府が何十年もテレビで流し続けた体制宣伝は、決定的な影響力を持つことはな かった。

テレビの送り手側は
感情に訴えようとする

 テレビが人びとの感情に作用する場合も、基本的な事情は同じと考えるべきである。

 テレビが初めて映し出した人物に対して人びとが好悪《こうお》の感情を抱くときは、テレビが人びとの感情を左右しているように見える。しかし、その人物とレストランで隣り合わせたとしても、人びとはやっぱり同じような好悪の感情を抱くだろう。ということは、人びとは人物一般に対する好悪の物差しをあらかじめ持ち、テレビでもレストランでもそれを適用していると考えなくてはならない。

 テレビが少年犯罪を報じると、政治家が「親を市中引き回しにせよ」と極めて感情的な発言をするのは、その人物が日頃そういうことを考えていたからに違いない。テレビは彼の感情的なむき出しの本音を引き出す影響力はもたらすが、そのような人物を作るほどの影響力はない。

 にもかかわらず、テレビが人びとの感情を強く刺激しそれを大きく増幅す()るように見えるのは、なぜだろうか。

 ここでは(1)テレビの送り手、(2)テレビという送受信装置(の手順)、(3)送られるテレビの内容、(4)テレビの視聴者の4つの側面に分けて見ていこう。

 第1にテレビの送り手、つまり放送局の最大の前提は、できるだけ多くの人に番組を見てもらうことである。とりわけ民間放送はそうだ。

 そこで、娯楽・エンターテインメント・スポーツ部門では、人びとの好感度が高く興味の強い人物を多数配し、できるだけ人びとを惹き《ひ》つける番組をつくろうとする。学校の授業のように退屈な番組ではなく、おもしろい、楽しい、笑える、泣けるなど、そもそも人びとの感情にダイレクトに響く番組をつくるわけだ。

 感情ではなく理性や知的な判断に訴えることが主眼であるはずの報道部門でも、テレビ・メディアの最大のセールスポイントである速報性を重視しつつ、できるだけ人びとを惹きつける番組をつくろうとする。

 そもそも無数にある現実の一部分だけをテレビカメラで切り取る段階で、でっち上げとはいわないが、送り手の意図が入った現実の誇張または矮小化が必然的に起こる。それをさらに、わかりやすく、刺激的で、現在進行形のニュースという観点から編集する。

 飽きさせないため一つひとつのテーマを短く(ということは浅く)明解にするから、白黒をハッキリさせるが、グレーゾーンの微妙なニュアンスは切り捨てる。結果として、視聴者が好悪や快不快の感情をハッキリ抱くことになる表現に単純化する。

 テレビは光と音のメディアで、送り手は当然どちらも最大限に利用しようと思う。すると、画面には字幕スーパーのさまざまな文字や記号があふれ、ブリッジ(2つのシーンの橋渡し)、アクセント(シーンをまたがない)などと呼ばれる短い音楽が、視聴者心理の変化を増幅させるために挿入される。

 「聞けば気の毒、見れば目の毒」(聞いたり見たりすると欲望が起って心身によくない)とは、まさにテレビのことではないかと思うほどだ。

 ようするに送り手は、受け手が理性的な思考より感情に基づくことが多いと見なして、その感情に訴えるようにテレビをつくるのである。

間断なく送られる情報に
受動的に関わる

 第2にテレビという装置について考える。

 「光と音のメディア」テレビの、新聞・雑誌メディアとの際立った違いは、映像と音声が送り手側のペースで次から次に出ては消えていくことである。聞き漏らし「えっ、なんだって?」と思っても巻き戻しは不可。新聞や本ならば自分のペースで読み進み、不明瞭な点はページを戻して理解し直せばよいが、テレビはそれができない。

 言い換えると、読者は活字メディアと能動的に関わるが、視聴者はテレビと受動的に関わる。電車に乗って出かけわざわざ2000円を払って見る映画とも、複雑な操作で情報を検索するインターネットとも異なる。主体的な関与の余地が少なく、ゆっくり考えたり思い出したりする余裕がないから、テレビには瞬間瞬間で反応するしかない。テレビは、人びとが感情的に対応せざるをえない装置なのだ。

 このことはテレビを通じた学習や記憶の難しさにも関係している。身体と同じく精神も活動と休息が必要で、記憶するには入力作業をいったん停止し、思い出すとかまとめ直すとかいう手順が要《い》る。

 ところがテレビはダラダラと出力し続ける機械で、受け手は入力作業を(スイッチを切る以外に)中断できない。テレビを見たあと非常におもしろかったが筋は忘れたという経験は誰でもあると思うが、そのためだ。テレビの刺激やテレビに氾濫する情報をすべて取り込んでいたら、人間の脳や心は壊れてしまう。

 テレビが伝えることは記憶に適さないから、ものごとを深く考える手がかりとなりにくい。

反復映像で感情を刺激
サウンド・バイトの好感アップ

 第3にテレビの内容は、送り手の狙いや発想について見たように、もともと感情に強く訴えかけるように作られている。

 しかも、象徴的な映像の反復使用、それも伝えようとしていることとはあまり関係のない漠然としたイメージ映像が使われることが少なくない。

 同じ映像が反復提示されると、それは意識せずに長期記憶に入り、人びとは慣れ親しんで好感を持つようになる。9・11ツインタワー崩壊の衝撃映像すら、「きれいだ」と感じる人が出てくる。テレビの好感度タレントの順位も、つまりは反復の効果であり、テレビにおける露出度の順位、時間の関数にすぎない。

 横並び映像の繰り返しは大事件だけに限らない。送り手はあまり意識的でないようだが、テレビが伝える内容には、たとえばランドセルを背負った下校中の小学生、渋谷センター街にたむろする若者、新橋駅頭のサラリーマン、昼メロにはまった主婦、農作業中のおじいさん、巣鴨地蔵に集まるおばあさんなど、固定的、画一的、単純にステレオタイプ化されたものが多い。なぜかサラリーマンは有楽町でも品川でもなく新橋というのが「お約束」だ。

 どのテレビ局も伝えようとすることに代わり映えがせず、取材がラクな素材を選ぶため、テレビにはこの種の紋切り型が極めて多い。日々強い刺激を与えるテレビの底流にあるステレオタイプ的な表現も、人びとの感情や気分に作用しているわけだ。

 もともとラジオが発祥で現在はテレビでも使われる「サウンド・バイト」という言葉がある。政治家などの気の利いたフレーズの意味だ。その典型はニュースで日々流される首相官邸一階での小泉インタビュー。佐世保の少女カッター殺人では「痛ましい」と、まるで内容のないことしかいわず、時間も10秒前後というようにごく短い。

 しかし、政治的な問題でも社会的な流行でも何でもかんでも、毎日出てきて一言だけはいう。この映像を見る人びとは、意識せず徐々にであるが、明らかに小泉首相への好感度を増すのだ。この露出をCMでやれば何十億円かかるかわからず、しかも、いくらカネを積んでも通常はCMを打つことができないNHKニュースで流れる。政治的な効果は、どんな選挙運動にも増して絶大だ。

 これもまた、テレビが伝える内容がじわじわと人びとの感情に働きかける典型例である。

見えざるテレビ共同体が
感情を増幅させていく

 ここまではテレビが、送り手側でもテレビ装置としても内容を見ても、もっぱら人びとの感情に働きかけるという話である。だが、これだけでは感情に強く作用はしても、感情を増幅することにならない。

 感情の増幅については、第4に視聴者側の事情を吟味する必要がある。

 テレビ・メディアの特徴は「速報性」「生」だといわれる。しかし私は、テレビというメディアのもっとも重要な特徴は、多くの人が同時に同じ映像を見るという時間と映像の「共有」であると思う。

 そして、この社会には「テレビ共同体」とでもいうべき共同体が成立していると、私は断言してしまいたい。

 テレビ共同体は血縁共同体や地縁共同体のように実体として存在する共同体ではなく、私が勝手に想定する観念としての共同体である。テレビのもたらす共同幻想(古い言葉だが)を「共有」するバーチャルな共同体といってもよい。

 モンティパイソンにフリーメーソンは奇妙な握手をするのでそれとわかるというギャグがあったが、テレビ共同体の構成員がそれとわかる挨拶は「昨日のあれ見た?」だ。

 そして私は、とくに挨拶を交わさなくても北海道のA氏と、また沖縄のB氏とも、同じテレビ共同体のメンバーとしてつながりがあると感じる。前回のサッカーW杯のときもそう思った。いや、W杯のときは街中に小さなテレビを持ち出して熱狂するテレビ共同体の構成員を何人も見かけた。大事件や大イベントの日は、「今日はテレビ共同体の祭り日だ」と思う。

 A氏はイラク派遣の自衛隊を黄色いリボンをつけて送ったかもしれず、B氏は米軍基地の撤去運動に熱心かもしれないが、そんなことは関係ない。彼らとのつながりは、いまや、日本国という国家共同体の一員としてよりも、テレビ共同体の一員としての結び付きのほうが強いとすら思うのだ。

 75歳の寿命で12年半もテレビの前に座っていれば、そうであって当然ではあるまいか。

 そしてテレビ共同体には、テレビ共同体なりの緩やかなルールや規範(掟)が生じる。テレビは感情に訴えるメディアだから、そのルールは楽しいことはいい、格好いいのはいい、というような気分的な価値基準である。

 社会学や心理学に「準拠集団」(自分もああなりたい、彼らと比べて自分はどうだろうと思う集団)という概念があるが、テレビ共同体の構成員の準拠集団は「テレビによく出る人」だ。構成員自体は、普通はテレビには出ない。そして、テレビ共同体のメンバーは、漠然としたルールを暗黙のうちに了解しており、逸脱する者を他のメンバーと同じようにさせようとする圧力をかけがちである。

 テレビ共同体のメンバーであって、逸脱する者や異質な者とは何か。

 それは「テレビに出る人」である。だから視聴者は、普段出ないはずの人がテレビに出て極端なことをいうとき猛烈に反発する。イラク人質事件の家族、拉致事件の家族、そのほか多くの事件の証言者が執拗に叩かれるのは、そのためだろう。

 ようするにテレビは感情に訴えるメディアであって、多くの場合もともと人びとの持っていた感情をより強くする。そして、テレビ共同体に属する大多数の人びとは、テレビの前で感情的に反応するだけでなく、見たテレビについての感想を家族、友だち、仕事仲間など多くの人と話したり、確認しあったりする。子どもでは「明日学校で話をするためにテレビを見る」ことも珍しくない。

 そんなプロセスがあるから、テレビが刺激した感情は、人びとの間で増幅されていく。テレビが感情の増幅装置であるというのは、そういうことだろうと、私は考えている。

 イタリアの社会学者、V・パレート(1848〜1923)は、「人間は理性的な思考よりも感情に基づいて行動することが多い」と指摘し、「政治的エリート(支配エリート)は理性的な関心より感情に訴える操作や強制によって権力を維持する」と主張した。

 パレートが述べた感情の「操作」や「強制」は、今日の先進社会では表立っては見られない。

 しかし、テレビ装置を手にした私たちの社会は、100年前よりもなお感情に基づいて動くことが多いのではないかと、私は懸念している。

欄外の脚注

【脚注1】 感情 心理学では感情feelingは「感覚や観念にともない生じる快・不快・好き・嫌い・おかしみなどの意識現象すべて」を指す。情緒(情動)emostionは急激に起こり激しい一過性の心的作用で身体的表出のある怒り・怖れ・悲しみなど。情熱passionはさらに激しい欲求を含む。気分moodは弱いが長い心的作用で、刺激対象が不明確なうえ身体・環境状況に影響されがち。情操sentmentは美的・宗教的・道徳的など知的な認知判断を含む。広義の感情は以上すべてを含む。 ▲もどる

【脚注2】 テレビの視聴時間 4時間5分は1日、週平均、NHKと民放の合計で、NHK放送文化研究所2003年11月調査による。前年は3時間48分で4時間超は初めて。なおフジ系列「W杯バレー男子」日本戦が影響した可能性がある。世論調査研究員の井田美恵子は、視聴時間は80年代末から90年代を通じ漸増、背景に高齢化・週休2日制や学校週5日制の普及・大事件や大事故の発生・バブル崩壊不況、視聴時間が増えたのは民放を見る女性でNHK視聴時間は変化なし、などと分析。 ▲もどる