メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

椿発言その後
――政治介入を阻止せよ

≪リード≫
1993年の椿発言を機に、
テレビへの政治介入が加速した。
テレ朝・ダイオキシン報道叩き、
マスコミ世論調査への過剰反応など、
その流れはエキサイトする一方だ。
言論報道を自立させない政治のモラルの低さと、
権力に及び腰なマスコミの姿勢を問う!
(「GALAC」1999年05月号 特集「テレビは政治を変えうるか?」)

規制すれば、テレビが全部ダメになる

 自死した自民党の政治家・新井将敬《あらい・しょうけい》に、行政や政治の放送への介入について質問したことがある。5年ほど前、椿発言の半年後の話だ。

 新井は、行政、つまり主として郵政省放送行政局発のテレビへの介入について、
 「あれは役所だから。官僚はいろいろいうだろうが、自分では何も決められないし、責任も取れない。政治的な力に押されて動いているだけだ」
 と、断言した。

 1993年10月、テレビ朝日・椿貞良取締役報道局長(当時)の発言が表面化したとき、江川晃正放送行政局長(同)は「放送法に違反する事実があれば、電波法第76条によって、たとえば一定期間電波を止めることができる」と、管掌《かんしょう》する法律を盾に、役人にありがちな嵩《かさ》にかかった物言いでテレビ局を恫喝《どうかつ》した。

 また、「(発言を報じた)産経新聞の内容を読んで、多くの人が(椿局長の発言を)おかしいと思えば、政治的中立性が損なわれていると考えるべきだ」と、放送の政治的公平が一新聞記事に対する読者の印象で決まるかのような、不適切で荒唐無稽《こうとうむけい》な暴言を吐いた。

 郵政省はその後、報道局長発言問題に関する報告書を手取り足取りテレビ朝日に作らせ、同局を厳重注意処分にし、免許の更新も条件付きで認めるなど、圧力をかけ続けた。

 さらに今日まで、TBSオウムビデオ、多チャンネル(視聴者)懇、苦情処理機関、広告間引き、ピカチュウ、バタフライナイフ、Vチップ、青少年と放送専門家会合と、行政はことあるごとにテレビに圧力をかけ、放送法改正や規制強化をちらつかせる。

 新井将敬は、そうしたことは官僚が政治家の顔色をうかがい、意向を汲み取りながらやっているにすぎないと、切って捨てたわけである。大蔵官僚出身で、WOWOW立ち上げのとき、郵政を巻き込んで設立したSt.GIGAを強引に割り込ませた新井の発言だけに、妙に説得力があったことを覚えている。

 ではこの政治家は、自民党をはじめとする政治発のテレビに対する介入をどう見ていたか。新井は、こんなことをいった。

 「テレビは政治家の個性や体臭までも茶の間に伝え、政治家像を拡大した。細川政権ができた過程でも、テレビに罪はないと思う。あんなことでいちいち証人喚問なんて、やめたほうがいい。たかが一テレビ局の報道局長に、国会挙げてとは大人気ない。テレビには確かに問題もある。しかし、規制をかけてテレビのよいところだけを残すのは無理だ。規制をかければ、テレビ全部がダメになってしまう」

 至極正論である。新井将敬は、テレビが政治を国民の身近なものにしたという役割を認め、その役割を殺《そ》ぐような政治の介入を明確に否定した。余裕というか、おおらかというか、言論報道の自由についての許容範囲も広い。

 孤独だったかもしれないが、自分一人の責任でものを考える政治家の発言であったと思う。

自民党は2000人でモニター開始

 では、椿発言から5年以上たったいま、政治とテレビの関係はどうなっているか。

 昨年、目についた動きの一つに、与党自民党が始めた「報道モニター制度」がある。これについて自民党は、ほめられたことではないとの自覚があるのか、取材に応じていない。党情報調査局が98年10月に出した「自由民主党報道モニター制度の創設について」なる文書から、概要を紹介しよう。

 それによると、制度の目的は「昨今のマスコミ報道には、日本の進路を決定する重要課題について、誤解や無理解からの誤った報道、明らかに公正さを欠く発言、事実に反する報道が見受けられ、国民の利益を損なう恐れがある。そこで、不適切な報道がなされた場合、報道機関に対し、直《じか》に問題についての理解を促し、必要に応じ抗議、訂正を求めていくこと」(要旨)である。

 具体的には、国会議員が推薦し党幹事長が委嘱《いしょく》するモニターを、全国に約2000名配置する。モニターは、テレビ・ラジオ・新聞などで不適切な報道があれば、報道機関に抗議するとともに党本部情報調査局に通報する。局では調査し、当本部執行部に報告し、その報道機関に対して必要な措置を取るという。

 これを危険視するテレビ局やメディア関係者も少なくない。しかし私は、政府が始めたわけでなく一政治団体が内部で勝手にやることだから、いやらしい全体主義的な制度ではあるが、そう騒ぎ立てる必要もなかろうとも思う。

 というのは、自民だろうが日共だろうが、これはと思う報道について党本部が放送をモニターするのは当然。また、とくにモニター制度として確立してなくても、一部の部落解放運動団体、宗教団体、政党では、問題と思われる番組を見た構成員が局への抗議と同時に本部に通報することが当たり前となっている例がある。実質的にモニター制度をもつようなものだが、そちらはよくて、自民党のモニター制度だけが悪いという理由もあるまい。

 問題があるとすれば、モニターしている(つまりテレビを見ている)ことではなく、その結果として、放送局に暴力的な抗議や、悪質な嫌がらせや、理不尽な圧力がかかることである。それは個別に対応すればよく、モニター制度なんてどうでもいい、といえばいえる。

 ただ、自民党モニター制度スタートを見て抱くのは、「自民党たるものが、とうとうそこまでテレビを気にし始めたか」という情けなくも哀れな感想である。

 ある自民党員によれば、自民党がモニターを始めた背景には「テレビの一部番組の報道や一部キャスターの発言に視聴者が左右され、それが党や政権の支持率低迷に結びついているのではないか、という思いがある」という。

 しかし、たとえば98年7月の参議院選で自民党が大敗したのは誰のせいかといえば、そんなもの自民党政治のせいに決まっているではないか。もちろん橋本政権のせいといっても、バブル崩壊不況のせいといってもいい。大蔵省と銀行のせいとも、100兆円だかの不良債権のせいといっても、大きな間違いではない。

 だが、それらのせいにする前にマスコミのせいにするのは、経済や社会に無知で、国民の痛みや怒りがわからず、政治家としての責任に何の自覚もない証拠だ。そんな阿呆な政治家が自民党の多数を占めているとは考えにくい。

 すると、モニター制を導入した自民党のモチーフは、低迷の主な原因がマスコミにないことなどわかってはいるが、いくぶんかはテレビのせいもあるはずだから、これを監視し牽制しよう、というところに落ち着くだろう。

 情けなく哀れというのは、そこだ。そんないくぶんかにすぎないテレビを逐一チェックするために、なりふり構わず2000人も動員しなければならない。自民党は、そこまで自信を喪失し、打つ手をなくし、追い詰められてきたのである。

 自民党機関紙「自由新報」のテレビ評を見ても、同じ印象を受ける。焦りと苛立ちから、特定の番組に極めて神経質に反応し、番組(出演者)の表現を自分たちだけに向けられた悪意の批判と受け取って、これに低次元のいちゃもんをつけているのだ。

 かつて悠然と森を支配していた猛獣が、大きな傷を負い、錯乱して、出会うものすべてに憎しみのうなり声を上げている――最近の自民党のテレビへの対応を見ると、そんなイメージが浮かんでくる。

テレ朝憎しの逓信委参考人招致

 テレビ朝日「ニュースステーション」のダイオキシン報道をめぐっては、自民党はうなった後で、いきなり噛みついた。一連の政治介入を振り返ってみよう。

 問題の放送は1999年2月1日だが、23日の自民党政務調査会通信部会には郵政省の品川萬里《しながわ・ばんり》放送行政局長も呼ばれ、委員からは、「なぜ同じキャスターに10年もやらせるのか」、「郵政省はなぜ動かないのか」といった声が続出した。

 その後、3月2日に開かれた自民党総務会では、こんな発言が飛び出している。

 「ダイオキシン報道に限らない。ヤクザな話し方の解説委員が一方的に発言するのはけしからん」(元建設相・中尾栄一)
 「党通信部会では、ダイオキシン報道で農家に生じた損害を局に賠償させよとの意見が出ている。放送法を改正し規制強化すべきだ」(山口俊一)
 「椿発言の際にも衆議院逓信委員会で証人喚問をおこなった。今回も迅速な対応が大事だ」(前郵政相・自見庄三郎)

 これらは党の政務調査会や総務会という、いわば身内の会合での発言だから、抑制がきいていないことは割り引くべきだが、それにしてもなんとも感情的で、短絡的で、余裕のない発言である。政治に押されて動かざるをえない郵政省は、これらの声に答えてテレビ朝日にいわずもがなの質問状を出すというパフォーマンスを演じた。

 同じ日、自民党の電気通信問題調査会は、テレビ朝日に対して2月1日のビデオの提出を求めることを決めた。むろん、警察が局にビデオ提出を求める場合だって、もっと慎重に検討に検討を重ねる。むろん断られるのを承知の、局に対する嫌がらせだ。そもそも、2000人もモニターがいるなら、手分けして、ちゃんと録画しておけばよいではないか。

 その後、自民党は各党に根回しをおこない、1999年3月11日、テレビ朝日社長・伊藤邦男、同報道局長早河洋、民放連専務理事酒井昭、BRC(放送と人権等権利に関する委員会)委員長・清水英夫の4人が、衆議院逓信《ていしん》委員会に参考人として招致された。

 逓信委員会の質疑はスカイパーフェクTVの国会TVで見たが、テレビ朝日の発言要旨は、
 「表現や説明が不十分だったことは確かで、すでに番組で訂正し謝罪した。農家に迷惑をかけたことを重ねてお詫びし、今後繰り返さないようにしたい。ただし番組として誤った報道をした(誤報である)とは考えていない」
 というものだ。しつこく謝りすぎとは思ったが、ちゃんと筋が通っていた。

 一方、委員たちの発言は、「まだ反省が足りない」「今後も十分自覚して報道せよ」など、説教じみたパフォーマンスに終始した。BRCと民放連には通り一遍の話しか聞かず、叩きたいのはテレビ朝日、それも「ニュースステーション」の、久米宏だけで、両者は刺身のツマとして呼んだことが見え見えの展開だ。参考人に対して野次を飛ばした程度の低い議員もいた。

 ようするに、テレビ局トップと報道責任者を呼びつけ、入れ替わり立ち代わり吊し上げ、謝罪させたという以外、新しい知見が得られたわけでも、報道についての議論が深まったわけでもない。実に空《むなし》い応答の繰り返しだった。

 同じような場面は、1998年5月27日、やはり衆議院逓信委員会で見られた。この時も、「ニュースステーション」という個別番組の、久米宏という個別キャスターの、個別の発言を取り上げ、「もっと違う言葉づかいがあるのではないか。自重すべきではないか」と質問した議員がいたのである。(「GALAC」1998年08月号「政治のテレビ脅しを許すな!!」参照)。

 どちらも、死んだ荒井将敬の言葉通り、「大人気ない」としか、いいようがあるまい。

隙を見せるな。毅然として権力と対峙せよ!!

 「逓信委員会は、いつでもテレビ局のトップを国会に呼び出し、番組のないようについて文句をつけることができる――言論・報道の自由という観点から決して許してはならない前例が作られてしまった」

 そうGALACが書いてから1年も立たないうちに、案の定、同じ局が呼ばれた。二度あることは三度あると考えておいたほうがいい。この種の参考人招致はテレビへの政治介入手法としてすっかり確立されてしまったようである。

 自民党がテレ朝「ニュースステーション」やを問題視する声は、もちろん椿事件より前からあったことだ。閣僚クラスが不買運動を呼びかけたり、スポンサーに対して圧力をかけたり、実際に降りたスポンサーもある。だが、トップの国会呼び出しというのは、いかにも直裁《ちょくせつ》な、能のないやり方だ。やはり、自民党の焦《あせ》りがそこまでさせたとしか思われない。

 テレビ番組が独自におこなった都知事選立候補予定者に関する世論調査の結果を発表することを、自民党が各局に圧力をかけてやめさせたのも、明らかに言論・報道の自由を侵す重大な政治介入だ。

 かつてあったのは、自民党が新聞や放送局のおこなった世論調査のデータを、発表前に手に入れていたという事件である。危なそうな候補にテコ入れするのにでも使ったのだろう。もちろん、その報道機関の政治的な公平を疑わせる大問題だったが、自民党は報道機関をそこまで手中にしていたという話である。

 ところが、時代は変わり、今度は世論調査を出すなといっている。これは、テコ入れもクソもない。自分のところの候補者が下位すぎるので隠したいという、ただそれだけの話だ。

 手負いの猛獣は、何をするかわかったものではない。言論報道機関である放送局は政治介入に、どのように立ち向かうべきだろうか。

 第一に、テレビ、とりわけその報道部門は、政治勢力が付け込む余地を与えるような隙《すき》を、これ以上見せるべきではないと思う。

 今回は、他のテレビ局や新聞・雑誌など他のメディアが、参考人招致を露骨な政治介入とは見なかった。そして、テレビ朝日を質した議員の所属は自民党に限らず、その多くが、委員会でテレビ局の責任者に説教したり注文をつけたりするのは、テレビにとっても国民にとってもよいことだと思い込んでいた。

 質問の内容を聞いていると、恨み骨髄に達しているはずの自民党が必ずしも強行ではなく、むしろ野党議員が露骨な番組介入に当たるような発言をしたりする。ようするに与野党の国会議員たちは、民放のトップを国会に呼ぶことが言論報道の自由に関わるとは全然思っていないのだ。それは、明らかにテレビ朝日側に、ミスがあったからだ。

 ただミスをなくせといっても抽象的すぎるから、一つ提案したいのは、報道番組に関するモニター制度をもっと拡充したらどうか、ということ。モニターを実施している局もあるが、これは差別表現がないかというような表面的なチェックに止まっている。ジャーナリストOBのような人間が報道を校閲し、足りない取材はこれ、不要な表現はこれ、続編を作るならこれというように具体的なアドバイスする――たとえばそんな仕組みが必要ではないだろうか。

 第二に、テレビ局は、免許事業という負い目のあることはわからないではないが、もっと毅然として、政治権力に対するべきだ。

 マスメディアに「番犬」(ウォッチドッグ)の役割があるとは、マスコミ入門書の第一章に書いてあることだ。テレビのその役割を裏付けるのは視聴者、つまり大衆という存在である。そしてテレビは、映像と音声のもつ力、さらに報道を娯楽や広告とともに総合的に伝達する力によって、大衆にもっとも受け入れられやすいメディアなのだ。

 だからテレビは、大衆を背負って権力と対すれば、恐れるものなど何もない。それなのに恐れ、萎縮しているのは、テレビが大衆のほうを向いていないからにほかならない。