メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

氾濫する字幕番組の功罪

≪リード≫
近ごろめったらやたらと多いバラエティ分野の字幕番組。
いったいそのルーツは?
なんでこんなに流行《はや》るの?
どんな意味があるワケ?

(「GALAC」1999年06月号)

ひと昔前と違うのは、
過剰なまでの字幕氾濫!!

 民放テレビの情報バラエティやお笑いやワイドショーであれば、どの局のどの番組でもいい。15年か20年前のVTRを取り寄せてみる。そして、現在放送されている同じジャンルの番組と見比べてみる。さて、目につくのはどんなことだろうか。

 現在のほうが、現場の映像(スタジオ外で撮ったVTR)が多い。一つ一つのコーナーが短く、早いテンポで話題が切り替わり、全体としては盛り沢山だ。素人(っぽい)出演者が多い。俳優、歌手、落語家、学者などが、本業を披露するためではなく、タレントとして登場する場合が多い。

 あるいは現在のほうが、出演者のしゃべりが速く、くだけており、友だち相手のような調子で話す。CGが多用されている。電飾がカラフルだ。日本語をうまく話す外国人が多い。ナンバープレートや子どもの顔など、モザイク映像が目立つ。――そんな、さまざまな感想が出ることだろう。

 だが、昔のVTRと今のVTRを早送りでざっと眺めただけでも気がつく大きな違いが、もう一つある。それは、一言でいえば「字幕スーパーの過剰なまでの氾濫《はんらん》」である。

 現在のテレビ、とりわけバラエティやワイドショーで多用される字幕は、ほんのひと昔前はとても珍しかった。現在の番組は、当時のVTRと比べると、異常と思えるほど字幕が多い。

 この変化は少しずつ起こったので、私たちは字幕スーパーにすっかり慣らされてしまっている。今では、どの局のどの番組でもやっているから、別段おかしいとも思わない。とくに、子どもたちは、テレビに字幕がかぶるのは当然と生まれたときから思っている。

 しかし、10年、20年というスパンで考えれば、これはたいへんな変化である。しかもテレビが視聴者のものの考え方、生活や行動の仕方などに、ジワジワと及ぼしていく影響を、私たちは完全に把握しているとはいえない。だから、これだけ氾濫する字幕が、本当にあったほうがよいものなのかどうかも、ハッキリしない。

 このあたりで立ち止まり、氾濫するテレビ字幕の意味を考えることは、決して無益な試みではないだろう。

音だけでは聞き取りにくい
だから字幕をつけた

 ここでいう字幕あるいは字幕スーパーは、画面上方に出るニュース速報、映像を説明する見出し、場所や人物の名前、制作者や権利関係の表示などに使われる字幕(テロップ)のことではもちろんない。

 ここで指すのは、出演者が口にした言葉をそのまま、あるいは要約して表わす字幕である。この意味での字幕のルーツは、いうまでもなく吹き替えなしの外国映画だ。

 映画の中の会話が英語フランス語など外国語で、ほとんどの日本人には何といっているかわからないから翻訳をつける。それが字幕の始まりである。

 だから、吹き替えなしの映画を流す場合を除けば、テレビが最初につけた字幕スーパーは、インタビューする相手の声が聞き取りにくい(たとえば電話や、雑音が多い工事現場での取材など)か、話し手の方言が強くて聞き取りにくい場合が、もっぱらだった。

 老人がぽつりぽつり断片的に話す場合や、発声が不自由な身障者が話す場合も、字幕が使われた。これはバラエティに限らずニュースやドキュメンタリーでも、当たり前におこなわれた。

 さらに、顔を隠す必要のある証言者のインタビューで、音声を変えたため聞き取りにくい場合にも使われた。

 また、ドッキリ番組など隠しカメラで撮る映像で、話し手の顔や口元が映っていないのに声だけ流れるというのは、どうも落ち着きが悪い。そこで、この場合も字幕が使われた。

 ここまでは、あくまで「声だけでは聞き取りにくい」という理由が明確である。もちろん今でもその理由で字幕を使うことはよくある。

 しかし、おそらく90年代に入ったあたりから、必ずしも聞き取りにくいからという理由によらない字幕スーパーが、登場しはじめた。

「マジカル!」に見る
字幕スーパーのルーツ

 過去の代表的な番組のVTRをすべてチェックしたわけではないから、あるいは誤っているかもしれないが(その際はぜひご投稿を)、私はテレビが現在のような字幕氾濫の時代に至るルーツは、日本テレビの一連の情報バラエティにあると考えている。

 そのつくり手たちは極めて意識的、自覚的に新しい字幕(吹き出しといってもいい)を使ったのであり、その姿勢と生み出された番組の新しさを、高く評価したいとも思っている。

 たとえば、1990年10月にスタートした「マジカル!頭脳パワー!!」(日本テレビ)。ジャンルはクイズ番組で、回答者はタレントである。しかし、決して知識の量や正確さが問われるのではなく、瞬間的な反応の速さや、隠された引っかけに気づくかどうかが問われる。回答者は思い思いの答えを書き、同じ答えの数がもっとも多かった場合に、その答えを書いた回答者にポイントが入るクイズもある。

 だから、知識の少ない子どもでも、回答者や一緒に見ている親に勝てる。それが、番組の第一の魅力だ。

 第二の魅力は、反応が鈍い、まんまと引っかかる、とんでもないヘンな答えを書くなど、タレントが失敗したときの反応や、それに突っ込みを入れる司会者(板東英二)との掛け合いのおもしろさである。

 番組で使われる字幕は、この第二の魅力と深い関係がある。出演者はざっと10人以上もいるから、どうしても声が重なったりする。ボソッと低く小さな声で、とてもおかしなことをつぶやく者もある。そこで、そんな声を、字幕スーパーにして強調するわけだ。 これも最初は、せっかくおもしろいことをいっているのに聞き取れなくては意味がない、また、子どもやお年寄りには文字にしたほうがわかりやすいという「親切」な発想から始めたことだろう。

 しかし、ある段階からは、意識的におもしろいセリフ、クスグリ、オチなどを拾い、字幕化して際立たせ、楽しく個性的な番組を演出する一つの手法として、確立されていく。やがて、ところどころに挿入される字幕そのものが番組のおもしろさの一要素となり、他の番組との違いを強調する仕掛けの一つともなっていった。

 番組のプロデューサーは、CMから日テレ入りした鬼才五味一男。手がけた番組はいずれも視聴率20%超という打率10割のヒットメーカーである。

 五味は「視聴率は親切率」(より親切な番組がより高い視聴率を取る)、「100の自分と200の自分」(前者は普通の人としての、後者はクリエーターとしての自分で、前者がヒットを生む)、「隙間理論」(他の番組がやらない隙間を狙え)といった独特のヒット哲学で知られる。

 この「五味理論」と「マジカル!」の字幕に密接な関係があることは、いうまでもないだろう。

 「クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!」「投稿!特ホウ大国」「歌の大辞テン!」や期首期末のバラエティ特番など、五味の番組には、この手の字幕スーパーがとても多い。

「電波少年」では
笑いの”間”を字幕化

 もう一つ、聞き取りにくいからという以外の理由で新しい字幕の使い方を開発した日本テレビの番組を見よう。1992年7月に始まった「進め!電波少年」(現在は「進ぬ!電波少年」に改題)である。

 この番組には、松本明子と松村邦洋のアポなし取材や、渋谷のチー坊更生など、ヤバい企画が多い。

 すると、カメラは入れずドアのむこうで松本の声がするとか、カメラは安全な場所から撮り松村はボコボコ殴られているというように、音源をカメラがとらえていない場合も多々ある。

 顔や口元が映っていない場合の音声は聞き取りにくいので、字幕をつけよう、ということになる。

 ところが「電波少年」では、さらに新しい字幕の使い方、たとえば「と」「と、その時!」「ところが」というような言葉を大きく表示する字幕の使い方が登場した。

 映像素材に区切りやメリハリをつけるもので、出演者のしゃべった言葉の字幕化でなく、いわばプロデューサーやナレーターの言葉の字幕化だ。この点が、従来の字幕とは質的に異なっている。

 「電波少年」のプロデューサー、土屋敏男は、番組を「ドキュメンタリー的な手法を用いたお笑い番組」ととらえる。そして、自分のお笑いの師匠はテリー伊藤と萩本欽一と語り、萩本には「笑いの理論――フリがありオチがありフォローがあるというセットが笑いだ。フリからオチへいく間《ま》は『、』で、これが決定的に重要なのだ」と学んだという。

 その笑いの「間」が、番組の「と」「と、その時!」「ところが」といった字幕なのである。

 ここでも五味の番組同様、字幕が番組の演出手法として、極めて意識的、自覚的に使われており、それがドキュメンタリー映像とよくマッチして、番組のおもしろさにつながっていることがわかる。

 土屋敏男は、「放送レポート」(1995年09月号)で、
 「今の高校生たちは、ファミコンのRPGゲームをたくさんやっていて、スーパーを読むのが早い。テンポよくスーパー処理をすると、こちらが意図していることが速く伝わるようだ」
 とも語っている。

 「字幕をパッと読み取り理解していく」というゲーム世代の情報の受容の仕方を自らの番組に反映させ、それによって番組は彼らのものだと強く印象づけ、彼らを視聴者としてしっかり取り込もうというわけだ。

 つまり「電波少年」は、視聴率を取るために字幕スーパーを戦略的に使いはじめた番組でもあった。同じ字幕の使い方は、土屋がプロデュースしている「ウリナリ」でもよく見られる。

字幕の遊びや工夫に
子どもたちは喜ぶが……

 以上二つは、聞き取りにくいからという以外の理由で、いち早く字幕スーパーを使った典型的な事例だ。日テレ「元気が出るテレビ」あたりで字幕を使った例もあると思うが、とりあえず確認できたものについて書いた。

 もちろん、どちらも日本テレビのバラエティであることは偶然ではない。 80年代を代表するお笑い番組であるフジテレビ「ひょうきん族」では、字幕など使われなかった。それは、フジの笑いが人(タモリ、たけし、さんま)が取る笑いだったからだ。

 フジの「人の笑い」が飽きられはじめたころ、日テレは人ではなく「企画の笑い」をぶつけた。「マジカル!」や「電波少年」がそうだ。

 企画で笑わせるのだから、回答者は誰でもよく(実際毎回違う)、ユーラシア旅行は猿岩石でなくてよい(実際ドロンズや朋友でやった)。だから企画するプロデューサーやディレクターが字幕を入れ、それが効果を発揮する余地があった。日テレの番組に字幕スーパーがまず登場したのは、そんなわけである。

 ところが今は、日テレに限らずどの局の番組も、字幕であふれている。字幕のパターンもさまざまだ。

 たとえば字幕を、画面奥から視聴者にむかって飛び出すように出す、段階的に大きくしていくなどと強調する。「ガーン」といった字幕を振動させて動揺を表わす。長音の「ー」をビヨーンと伸ばして振るわせ、おかしさを出す。「?」を一つずつ出していき最後に「……」と、どこまでいっても意味不明という感じを演出する。キレた発言には「キレる」マークをつける。

 そんな、さまざまな遊びや工夫がされている。この種の遊びは、子どもの手紙によくある絵文字(たとえば「ゴメン」と書いた脇に冷や汗の水滴を描く)に似ているし、漫画の吹き出しにも非常に影響されている。

 パソコン通信では「ヤッター!!」と書いた後「\(^○^)/」(バンザイしてる)、「ゴメン」と書いた後に「m(_×_)m」(両手をつき平謝り)などと打ち込む。こういうものとも、たいへん感覚が近い。

 「ウリナリ」「メチャイケ」などでこうした字幕に親しんでいる何人かの子どもに感想を聞くと、
 「何いってるかわからないってことがないから、わかりやすくていい」
 「おもしろい。ヘンな字が出てくると楽しい」
 という。おもしろがらせる番組なのだから結構なことだと思いたいが、よくよく見ていくと、そうとばかりもいってはいられないようである。

無自覚な字幕化は迷惑
文字の誤りも根絶を!

 始末に悪いのは、いち早く字幕を多用しはじめた番組が高視聴率を取ったために、同じような番組のつくり手たちが、どんどん無自覚に字幕スーパーを使いはじめたことである。

 字幕の意味や効果を深く考えず、かたちだけマネするから、そうおもしろくもない発言でも機械的に字幕にしてしまう。まるで字幕も出して耳と目両方から入れてやれば、つまらない言葉も少しはおもしろくなる、とでも思っているかのように。また、適度な間やリズムといった感覚なしに、めったやたらに字幕化するから、字幕だけが目について非常にわずらわしい、異様な番組ができあがる。

 視聴率10%の番組に20%の番組が入れている字幕を入れれば少しはましになるかもと考えるのは、サッカーの全日本がブラジル代表のフォーメーションで戦えば韓国に勝てるかもと考えるのと同じくらい馬鹿げている。

 しかし、若い連中が的を外した字幕過剰番組を作っても、制作や編成の上司たちは、そもそも字幕の意味など考えたことがないから批判する能力がなく、注意もできない。だから、猿マネ番組が横行する。

 その結果が、今のテレビの字幕スーパー氾濫、吹き出し過剰ではないか。 猿マネ番組は論外だが、字幕を入れる番組のつくり手は、さしあたり次の二つを忘れないでほしいと思う。

 第一に、「過ぎたば及ばざるがごとし」で、何事もやりすぎはよくない。テレビが字幕によって、おもしろ発言やオチなどの勘所を逐一教えると、視聴者はそれこそ何もせず漫然と画面を見ていても、なんとなくわかってしまう。そのことは、会話の起伏や言葉のアヤからおもしろさを感じ取るという視聴者の能力を奪っているのではないか、という重大な懸念がある。

 落語のオチ(サゲ)に「考えオチ」というのがある。寄席で聞いたときはよくわからない。帰り道にどこがおもしろいのかズーッと考え、寝床に入ってもまだ考え続け、夜更け頃なるほどそうかと一人笑うというオチだ。これにはさんざん頭を使う。しかし、テレビの字幕スーパーは考えオチを許さない。視聴者は、ますます馬鹿になっていかないだろうか。

 第二に、誤植、文字の誤用が多すぎる。いまの子どもや若者はテレビやゲーム映像を見る時間が長く、本を読まない。画面で字を読む機会がとても多いのだ。ところがテレビの字幕スーパーは、恐ろしく間違いが多いときている。これは許し難い。

 とくに多いのは「いまだに」を「今だに」(正しくは「未だに」だが、子どもは読めないから平がなでよい)、名詞の「話」を「話し」とする例。私の見た限りでは、この二つは誤用のほうが多い!! 字数の制限からか「〜のようだ」を「〜の様だ」と書く例も多いが、これもやめたほうがよい。

 テレビの字幕を書いたり打ったりする人間は、まず辞書を引くべきだ。しかるべき国語能力を備えた人間の校閲も必要で、考査のモニター室には「編集必携」を置くべきである。国語審議会の連中も、もっとテレビを見よ。

 とにかく、何でもかんでも字幕にするテレビの風潮は、いい加減にすべきであると思う。

≪参考≫
関連する以下の論考もご覧ください。ただし、もともと女の子たちの原稿なので、カラフルで重いです。
   テレビ画面に躍る文字たちの生態学