メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

世紀末を彩る
テレビ界「破廉恥」の
自家中毒症

―下半身はともかく、
感覚がズレている人びと―

≪リード≫
「庶民の苦しみなんてまったくご存知ないようです」とは、
テレビのニュースキャスターが政治家を批判する場合の
常套句《じょうとうく》だ。
しかし、テレビ局の人間たちこそ、
およそ”庶民の苦しみ”とは無縁の環境にいるのではないか。
その環境こそ、破廉恥事件続出の温床ではないのか――。
(「時事解説」1999年12月7日号)

よくも、これだけあったもの

 1999年は、テレビ局の不祥事が相次いだ年だった。2月のテレビ朝日「ニュースステーション」ダイオキシン報道、7月に相次いだTBS破廉恥《ハレンチ》事件、11月に番組打ち切りとなったフジテレビ「愛する二人別れる二人」のやらせ……。

 もちろん昔から、テレビ局に不祥事といわれるものの種はつきない。

 90年代に限っても、

 などなど。

「テレビ演出論」で語るべきも

 だが、テレビのために一言弁明すると、こうした問題はもっぱら新聞・雑誌メディアによるテレビ・バッシングとして語られるため、事の本質を議論しないままテレビも平謝りし、「100%テレビが悪い」で片付けられてしまう例が多い。

 たとえばNHKムスタン事件では、蹴飛ばして流砂を起こしたのは「やらせ」であり「捏造」《ねつぞう》、つまり「嘘」だとされたが、問題はそれほど単純ではない。1か月に何度か流砂が本当に起こるのであれば、その間カメラの三脚を立てて待ち続けるわけにいかないから蹴飛ばすというのは、「嘘」よりは「演出」に近い。

 新聞や雑誌でも、たとえば現場に行かない人間が見てきたように見聞記を書く、何人かに個別に話を聞いたうえで座談会形式にまとめるといった演出を、日常的にやっている。

 ムスタン事件で語られるべきは、テレビ演出論だったはずなのだ。しかし、サンゴ事件の意趣返しに燃える朝日新聞がひたすらNHKを叩き、テレビはただ謝罪して、不毛なままに話は終わった。

 最近の例でいえばダイオキシン問題も、テレ朝が100%悪いわけではない。数値の出し方には確かに不備があったが、それは早い段階で訂正した。しかも、ホウレンソウ畑の映像と同時に茶畑の映像も出しており、実際、茶のダイオキシン濃度は無視できないほど高かった。行政サイドや農協がそれを伏せていたのも事実。バッシングだけでは、話は一歩も進まない。

 しかし、日本の巨大マスコミは、読売新聞と日本テレビというような系列関係が優先され、たとえばテレビ朝日が問題を起こすと、日テレはテレビと活字の手法の違いなどおかまいなしに、読売系列として朝日系列を叩いてしまう。

 看護婦でない人間を看護婦として登場させたなどという馬鹿げた問題を除けば、そんな事情で、テレビが必要以上に悪者にされる例が少なくない。

 ところが最近のテレビ局の不祥事には、NHKムスタン事件のような弁解の余地すら見出せぬ、実も蓋もない事象が増えてきた。テレビ演出論など出る幕はなく、ようするに普通の社会人としてお話にならない事例が、続々噴出してきたのだ。

 その典型が、まだ記憶に新しいTBSの破廉恥事件である。

”下半身異常”社員が多い

 まず、九九年夏に世間を騒がせたTBSの一連の不祥事を振り返ろう。問題になったのは、

 などである。

 つまり、破廉恥罪で警察沙汰が3名。その他、月刊誌「噂の真相」はじめ週刊誌、夕刊紙、スポーツ紙などで騒がれたのが数人いる。

 TBSの社員数は現在1500人を切っている。そのうち3人が痴漢で逮捕は、ごく僅《わずか》かなようにも見えるが、1万5000人で30人、15万人で300人の割合と思えば、やっぱり多い。神奈川県警の不祥事が問題になっているが、それでも全国の警察官が痴漢で月に300〜400人逮捕されたという話は聞かない。自衛隊にもない。

 下半身がどうかした社員が、TBSに世の中一般より多いことは否定できそうもない。

TBSに見る凋落の歴史

 その背後に、かつて「民放の雄」「報道のTBS」「ドラマのTBS」と称された老舗民放の凋落《ちょうらく》の歴史を見ないわけにはいかない。

 TBSにとって今日まで引き続く大きなダメージとなったのは、損失補填事件が象徴する”金儲け路線“だった。当時の社長は経理出身で、ものづくりの現場になじまない徹底した予算管理手法や事業部制などを導入。しかも、一種の恐怖政治を敷き、取り巻きにイエスマンだけを配置した。損失補填で体制が崩壊した後も、こうした経営手法は残った。

 さらにオウムビデオ事件が追い討ちをかけた。このときTBSでは社員の手で検証作業が行われたが、事件とは関係のない伝票の不正処理、特定業者との癒着、不当な利益供与などを疑わせる証拠が、山ほど出てきたといわれている。しかし、こうした膿《うみ》は結局社外には出てこなかった。問題があまりに多岐にわたり、しかも膨大なため、手の打ちようがなかったからだ。

 一方、社員教育はうんざりするほど繰り返され、点数制度や内申制度など社員管理も一層強化された。TBSは昔から東大閥が強く官僚主義的な色の濃い会社だが、その傾向も激化。トラブルを避ける「ことなかれ主義」の上司は部下の点数評価に忙しく、現場の士気もやる気も失われる。その分、社員のストレスは膨張していく。

 一連の事件はそんな中で起こった。後処理も、いかにもTBSらしい硬直的でパターン化されたものだった。まず、通り一遍の幹部の減俸処分を発表し、社外有識者を交えて倫理委員会を設置し、社員面談・アンケート調査をし、報告書をまとめ、検証番組を制作する。

 社員は「また同じことをやってる」と全然本気でなく、TBSを改革しようと自ら声をあげる者もいない。これでは、同じような事件が再発しても不思議ではない。

ほかのテレビも負けていない?

 もっとも、他のテレビ局にも似たような事件がないわけではない。

 TBS以外の事件を拾うと、

 など。

 法的問題ではないが、99年4月にテレ朝「ニュースステーション」コメンテーターが愛人問題発覚で出演辞退、6月にNHKディレクターが社内での不適切な女性関係によって懲戒免職というケースもある。やはりどの局にも、破廉恥というか、下半身問題が多い。

 俄《にわ》かには信じたいのだが、これはある警察関係者が語ったことである。
 「警察はテレビ局員の比較的些細《ささい》な不祥事――酒を飲んでの暴行、痴漢行為、交通違反などについてのリストを持っている。こういうものもあるから、よろしくという言い方で、各局の警視庁キャップはその存在を知っているのでは……」

賞与のほかに特別支給金、激励金が

 よくわからないのは、痴漢で3人の逮捕者を出したTBSをはじめ各テレビ局の給与が、国内全産業を通じて最高水準であることだ。

 TBSの給与支給基準表を見ると、基本給(年齢給)に加算される資格給、住宅手当、調整手当、奨励金、扶養手当、残業代など諸手当が厚いうえに、ボーナス(賞与のほか特別支給金、激励金)が無茶苦茶に高い。痴漢で逮捕された報道制作局長のボーナスだけで、平均的なサラリーマン世帯の年間収入600万円を優に超えるだろう。

 つまり、超豪華ソープランドでもどこでも行き、好き放題遊べるカネをもらっているはず。それなのに、なぜ痴漢などという馬鹿なことをしでかすのか。

 こうした破廉恥事件、実はテレビの人間たちが普通の人間の感覚を失いつつあることを示す証拠の一つなのではないか、とすら思えてくる。

 テレビ局社員の引き起こした事件から、だけではない。彼らの作る番組からも、実際にテレビ制作者たちと付き合った経験からしても、もちろん大部分はまともだが、どことなく世間一般からは遊離していると感じることが少なくない。

 「テレビの連中を見ていると、UFOにでも乗って来たか、まったく知らない場所から来た異邦人という感じを受ける」
 という人すらある。テレビはなぜ、こんな事態に至ってしまったのか。

かくて世間から遊離していく

 テレビが社会の現状から浮き上がってしまった理由は、いくつか思いつく。

 第一に、テレビそのもののメディア特性がある。テレビは、日本全国ほとんどの家庭に行き渡り、映像と音をダイレクトに伝える、身近でわかりやすいメディアだ。

毎日一億人以上が目に止め、それだけ影響力も大きい。地域の共同体が崩れ、核家族化も進む現在、人びとに共通の価値観をもたらすテレビの機能は、ますます大きくなりつつある。

 そのテレビを作るという自負はテレビの人間にあって当然だが、それが過剰になれば、テレビに関わる人間が他の多くの大衆とは異なるエリートと思い込んでも不思議ではない。

 第二に、メディアとしての影響力の巨大さにもかかわらず、テレビ業界は非常に狭く閉鎖的な世界。人数は一説に3万人、多く見積もっても数万人。1社でその程度の従業員を抱える企業はいくつもあるという規模にすぎない。しかも、仕事が特殊だから一般の人との結び付きが薄い。

 たとえばスーパーマーケットは、さまざまな階層の人びとを客として、面と向かって相手をする。が、テレビの人間は不特定多数を相手にする商売であるにもかかわらず、実際に面と向かう相手は、非常に限られた世界の人間だ。

 たとえば、芸能人、文化人、政治家など出演者、プロダクションや出入り業者など制作関係、スポンサーや代理店関係。もちろん取材対象や出演者として普通の人と向き合う機会はあるが、そのときの相手はテレビに面と向かうことで「普通の人」ではなくなっている。

 すると自然、テレビの人間は世の中の事に疎《うと》くなっていく。テレビは縁故採用によって、スポンサーの子息などあまり普通ではない人間を社員にするから、世間知らずの傾向には、ますます拍車がかかる。

 また、狭い世界は狭き門をくぐらないと入れないから、競争を勝ち抜いて入った者にはエリート意識も生まれる。

最後の護送船団テレビ局

 第三に、テレビは華やかな芸能界に近い人気商売である。芸能人というのは自らの芸を切り売りする人々で、だからこそ高い報酬を取り、自分の責任で自由に生きている。スポーツ選手や芸術家も同じだ。

 テレビの人間は、出演者としての彼らと付き合うだけでなく、アナウンサーなどでは芸能人的な役割を務めさせられることもある。着るものも派手になろうし、飲食するにもそれなりの場所へ行く。人びとの注目を集め憧れの対象になる。次第に、世間の常識から外れていくわけだ。

 第四に、テレビ経営の特殊性も大きい。テレビは、国民の共有財産である電波を占有して商売するから免許事業とされ、さまざまな制約を課せられている。逆にいえばその免許によって保護されている。ダイナミックな銀行再編が進む中、残された最大の護送船団はテレビといってもよい。

ダメ番組でも5位入賞――ここに「経営」はなかった

 たとえば東京には、NHK2波(総合と教育)、日テレ、TBS、フジ、テレ朝、テレビ東京、それにMXテレビがあって、地上波ではこれ以上競争者は出てこない。

 すると在京民放は(受信料経営のNHKと後発UHF局のMXは除き)、最低のつまらない番組を作ったとしても第5位。オリンピックなら堂々の入賞という話だ。テレビの広告効果は絶大だから、どんな時間でも東京一円(3000万人以上が住む巨大マーケット)にテレビCMを流したいという企業は、少なくとも5つはある。すると、第5位のつまらない番組で、さほど営業努力をしなくても、スポンサーがついてしまうのだ。

 だからテレビ局には、普通の企業がいう意味の「経営」という感覚はない。日本経済が右肩上がりの間、民放はとくに元気のよい企業が争って出稿するCMによって成り立ってきたから、黙っていてもGNPの伸び率より成長率が高かった。

 当然、高水準の利益が出るし、社員の給与も高い。東京キー局は、どこも社員1500人にも満たない「中小企業」だが、TBSやフジのように都心一等地に超高層ビルの自社ビルを持つ。これは別に、歴代テレビ局社長の経営手腕が優れていたからではない。テレビが限られた数社による寡占状態にあったからという以外に、理由はない。

 しかし、そんな都心のビルに勤め、世間相場からかけ離れた給与を取っていると、自分は普通とは違う選ばれた人間だと思い込む人間も出てきてしまう。

虚業に生きることを恥じよ

 こうして見てくると、テレビ局が普通の企業と、あるいはテレビ局員が普通の人と相当異なった感覚を持ったとしても、さほど不思議ではないことがわかるだろう。それがテレビ不祥事の直接の原因ではなくても、背景の一つであることは間違いない。

 もちろん大多数のテレビマンは、そうした環境にあっても自らの立場をわきまえ、真摯《しんし》に番組づくりに取り組んでいる。ところが、給料の高い人気商売だから自分はエライと思い込んでいるらしいテレビの人間にも、たまには出会うのだ。

 私は、テレビのような「虚業」に生きる者は、朝から晩まで田圃《たんぼ》に出てお天道《てんとう》様の下で働く百姓《ひゃくしょう》や、朝から晩まで話もできない騒音のなか工場で働く作業員のほうが、よほどまともな生業《せいぎょう》についていて、エライのだと考えなければダメだ――と信じる。

 私はテレビ専門誌「GALAC」(旧「放送批評」)の編集長を務めているが、テレビを扱う雑誌なんて「テレビに輪をかけて」ロクでもない――と、いつも思いながら、ものを書いている。

 テレビに携わる人間は、自分が「カメラの威」を借りていないか、社会の常識から大きくズレてはいないか、つねに点検を怠らないでもらいたいと思う。

 ただし、テレビを取り巻く状況はやや変わりつつある。バブル崩壊以降の景気停滞に加えて、テレビはBS・地上波デジタル化の投資を負担しなければならず、資金的な余裕がなくなってきた。

そのうえ、デジタル化で多チャンネル化が実現すれば新規参入が増え、専門チャンネルやデータ放送など既存テレビ局以外の競争相手が多数登場する。

 こうして、既存のテレビ秩序が崩れ、新たな競争相手が出現すれば、現在テレビがもつ特殊性や閉鎖性も変わらざるをえないだろう。

 もちろん、そんな環境変化を待つまでもなく、テレビは自律的な意識改革を一層推進すべきである。