メディアとつきあうツール  更新:2003-07-10
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

視聴者は“バカ”なのか?
規制論者に染みついた
“愚民思想”

≪リード≫
メディアを規制する「青少年社会環境対策基本法」、自民党のテレビ牽制組織「放送活性化検討委員会」など、放送を締めつける動きが広がっている。
その根底に流れるのは、『国民はバカだから正しく導いてやらねばならない』という為政者《いせいしゃ》の思い上がった思想だ。
同じ思想はマスコミにも染みついている。
だが、視聴者大衆は、ホントにそれほどバカなのか?

(「GALAC」2001年05月号 特集「視聴者は“バカ”なのか?」総論)

 昭和20年代「週刊朝日」を100万部売った名編集長の扇谷正造が、晩年ある雑誌に対談を連載したとき、私は原稿をまとめる仕事を請け負い、親しくさせてもらった。

 扇谷正造から聞いた話に、扇谷が東大新聞の編集部員だったころ――たしか大学2年といっていたから、実に昭和8年(1933年)の、こんな話があった。

 当時、東大新聞では学生たちがよくマスコミ関係者を呼んでは話を聞いていた。東京日日新聞(後の毎日新聞)学芸部長だった阿部真之助(後の1960年にNHK会長に就任)を招いたとき、ある学生が「東日は、読者のどの辺のところを腰だめにして、新聞を作っているか」とたずねたそうだ。「腰だめ」というあたり、いかにも昔話である。

注)腰だめ=狩猟などで、銃床を腰にあてて構え、大ざっぱなねらいで発砲すること。転じて、大づかみな見込みで事をすること。(「広辞苑」第4版)

 すると阿部真之助は「義務教育の小学校六年卒プラス人生経験十年の読解力」と答えた。

 ――読売は?
「うん、あすこは小学校四年終了プラス人生経験十年くらいかな」

 ――朝日は?
「ま、中学一年中退プラス人生経験十年」

 この話、気のきいた朝毎読の寸評というだけでない。新聞というものは、本や教室からでなく実人生で得た知識や経験の10年分を背景とする「読解力」を考えなければダメなのだ、と語っているところが興味深い。70年近く前の、新聞の側からの「メディア・リテラシー」論といえないこともない。

 扇谷正造は、週刊朝日の記事づくりや朝日新聞の社説執筆でも、そういう人たちのことを考えた、それはヒューマニズムに通じると、何度か話してくれた。

 それにしても昔の新聞は、読者層をずいぶん低いレベルに想定していたことに驚かされる。

 当時の中学や女学校(現在の高校)への進学率は2割に達しなかった。紙面を作るのは、阿部のような東大出のエリートたち。とすれば、このレベル設定、実態とそれほどかけ離れてはいなかったのだろう。

 端的にいえば戦前の新聞は、読者層を明らかに自分たち作り手よりも水準が低い存在と見なし、読者大衆を指導し代弁することを自らの使命と考えていたわけである。

 「新聞は社会の木鐸《ぼくたく》」という言葉がある。木鐸は、昔、中国で法令などを人民に公布する際にに鳴らした木の舌のある鈴のこと。転じて、世間の人びとを教え導く学者の意味だ。この言葉、「新聞は社会の良心」といったニュアンスで語られることが多いが、実は、大衆は新聞が教え導く必要があるという意識がにじみ出た、とってもクサい言葉なのだ。

テレビ規制論に通底する
「視聴者はバカである」の見方

 なぜ、70年も前の昔話をしたかといえば、最近のテレビの視聴者をめぐる議論は、70年前の新聞の読者に対する見方と、そう変わらないのではないか、と思える部分があるからだ。

 評論家の大宅壮一は、テレビが始まるとさっそく「一億総白痴」なる警句を吐いた。日本テレビがカラー化工作を進めたときは、大宅は正力松太郎に会って「世間はあんたのことを色キチガイっていってるよ」といったそうだから、毒舌を文字通り受け取る必要はない。

 しかし、大宅壮一は活字の世界に生きた人物だから、テレビが増幅していく底の薄い大衆文化への批判や、低俗・露悪《ろあく=自分の悪いところをさらけ出す》趣味への嫌悪があったことは確かだろう。

 近ごろのテレビ視聴者観には、この手の「一億総白痴」的な見方が、無視しがたい巨大な底流としてある。

 たとえば、テレビは週刊誌とともに、参院自民党の議員らが国会提出を準備する「青少年社会環境対策基本法」の主たるターゲットにさせられている。情報化の進展と商業主義の蔓延《まんえん》でテレビが青少年にとって有害な環境になった。だから、テレビを監督し規制しなければならないというのが、法案の趣旨だ。

 裏を返せば、そんな有害環境に影響されてキレたり不良行為に走る青少年(視聴者)はどうしようもない存在だ。そんな有害環境を家庭から排除できない視聴者もどうかしている。さらには中立公正でない偏向したテレビが視聴者を惑わせる。この状況は放置できないから、テレビを規制するという発想である。

 これは、「視聴者はバカである」から「よい方向に教え導いてやらなければならない」といっているのに等しい。読者を「小学校卒+人生経験十年」と見た戦前の新聞と同じ愚民思想である。もちろん、その新聞は「バカ」な国民を一気に戦争へと「指導」「扇動」したことを、忘れるべきでない。

 子どもに見せたくないテレビ番付をせっせと作り、100人に聞けば見せたくないと本気で思う親はまず10人やそこらしかいないのに、そのことは隠して広告主まで圧力をかける日本PTAも、突き詰めてみれば「視聴者はバカ」派の代表選手の一人と思える。

 PTAというのは心配性な親の集まりで、NHK「ひょっこりひょうたん島」の放映が始まったころ、これは子どもに見せたくないといっていた。TBS「8時だョ!全員集合」のころは、これも見せたくないといっていた。どちらを見ていた子どもも、いまは立派な親だ。

 ひょうたん島や全員集合を見てどうにかしてしまうほど、子どもの視聴者はバカではなかった。立派な親になれなかった者には、テレビ以外の理由があると考えるのが常識的だろう。

 テレビを規制せよと論陣を張る評論家や学者たちも、自民党やPTAとあまり大差はない。正面きって「視聴者はバカだ」とはいわず、逆に「テレビはバカだ」と攻撃するが、通底する無意識の中では、とりわけ子どもをはじめ若い視聴者は信用できない危うい存在で(昔はよかった!)、よい方向に教え導いてやらなければと思っている。

 しかし、本当に「視聴者はバカ」なのか?

テレビを制作する側の
「視聴者はバカである」意識

 最近では、テレビを規制せよと声高《こわだか》に主張しないまでも、テレビは軽佻浮薄《けいちょうふはく=軽はずみで浮つき落ち着かない》すぎ、ふざけすぎだというような意見は、当の視聴者大衆からごくふつうに出てくるようになった。PTA的な主張も、こうした声と重なる部分が大きい。

 このような意見を口にする人は、テレビに自分たちを教え導く立派な存在になってくれと思っているわけではあるまい。自分たちをバカにするな、もっとまともなもの、手応えのあるもの見せてくれと要求している。つまり、言外に(テレビが想定するほど)「視聴者はバカではない」といっているのだ。

 テレビの制作側にも、戦前の新聞がそうだったように、視聴者のレベルを低く想定しすぎている側面がたしかにあると思われる。

 テレビの側でよく聞く言い方は、たとえば、
「この時間の視聴者は、どうせ硬いニュースは見ない」
「サッチーミッチーなんてくだらないと思うけど、数字(視聴率)がくるんだから、やらざるをえない」
「お年寄りから子どもまで、どんな人が見ているかわからないテレビは、わかりやすく作らなくては」
「高齢者に新製品のコマーシャルを打っても、あまり意味がない」
 などなど。

 こうした言い方には、「視聴者はバカだ」という制作側の意識が透けて見えないだろうか。

 そりゃないだろう、この時間は主婦しか見ないからって、こんなニュースともグルメ情報ともつかない「ニュース」だけ流してよいのか、バカにするなと思うことは、テレビを見ていて決して少なくないはずである。

 私はテレビの「視聴率」を、スイッチが入っていれば視聴しているとみなす、昼間主婦が家にいる家庭を調査しがち、関東地区の数字と全国の数字は本来別のもの、世帯調査であって個人調査ではない、といった前提条件をきちんと理解して使えばとても有効なデータであると思う。少なくとも、新聞や雑誌の公称部数よりはケタ違いにまともなデータだ。

 現段階で「多くの人が見ている」という指標がほかにないのだから、テレビの制作者が視聴率にこだわるのは当然だと思う。低俗番組を作れば視聴率は上がるとは思わないから、「視聴率至上主義」が低俗番組を増やすという単純な見方にもくみしない。

 にもかかわらず、テレビにおける視聴率の扱いには違和感を覚える。

 テレビは視聴者大衆という存在を、もっぱら視聴率という数字だけに置き換える。言い換えれば、視聴率というフィルターを通してのみ視聴者像をイメージする。

 そのことは視聴者を、通り一遍でのっぺらぼうな存在に単純化してしまう。科学的に単純化するから普遍性が生まれるのは、その通りだ。

 だが、結果としてテレビは、無意識のうちに「視聴者なんてこんなものだ」「視聴者はバカだ」と思い込んでいないか。あるいは、テレビは、自分にとって扱いやすい(たとえばこの広告を好むとスポンサーに説明しやすい)視聴者の虚像を作ってしまっていないか。

 しかし、視聴率だけで単純に 推し量れるほど、「視聴者はバカ」なのか。

こんなリテラシーがある
「視聴者はバカ」か?

 身のまわりで、ふつうの人のテレビ番組に対する感想を聞くと、私は「なるほど、そんな見方をするか」と感心させられることが多い。

 たとえば、子どもむけのある番組について、子ども自身が「あれは、どうせやらせだよね。あんなことがある(人がいる)はずがない」という。記者や批評家が誰一人として何の評価も口にしない段階で、「あの番組はおもしろい」「この人は売れる」という。その番組や人が、1年後や2年後に、テレビに関する賞を取ったりする。

 あるいは、ドラマがはじまったばかりの5分か10分で、犯人は誰で、事件の背景はこう、結末はどうなるといい、2時間もしないうちに本当にその通りになる。

 「視聴者はバカではない」「制作側が想定していないような見方で、ディテールまで見ている」と、しばしば思うのだ。

 一方で、同じ人間について、「なんだ、そんなことも知らないのか」「テレビがそういったからって、そのまま信じるかね」と思う瞬間も日々ある。そんなときは「視聴者はバカかもしれない」と思う。

 正直、判断に迷うことも少なくないのだが、当面いえそうなのは、次のようなことだ。

 第1に、視聴者大衆は、テレビに対する批判者やテレビの制作者が想定しているよりもおそらく「バカ」ではないのではないか。とりわけテレビの世界の約束事とか、裏側とか、制作者の意図といった点では、視聴者のテレビを読み解く力(リテラシー)はとても高いようだ。

 第2に、そうはいっても、視聴者はとても気まぐれで勝手な存在だから、つまらないものは見ないし、興味がないことには極めて無関心である。この点では、視聴者はどうしようもなく「バカ」に見えるときもある。

 第3に、一般の社会も、テレビの作り手も、視聴者のことをあまりよくわかっていないようだ。もっとも「視聴率」にこだわりすぎるテレビだけがわかっていないとは、到底いえない。「支持率」や「投票率」にこだわる政治家が有権者のことをわかっているとは、到底いえないのと同じだ。もっとも、この点はIT革命、テレビの双方向化やブロードバンド化によって、状況が激変する可能性がありそうだ。

 第4に、テレビはさまざまな環境や影響力の中で、さまざまな人が見るものだから、視聴者への影響や視聴者の「バカさかげん」も、ケース・バイ・ケース。時と場合によるのだということを、忘れないほうがいい。日本では当たり前に見られているアニメを見て、外国の子どもたちが2階から飛んでケガするケースが続出したことは、笑い話ではすまない。逆にいえば、「よい番組」や「よい放送」に、絶対的な基準など存在しないのではないか。

 このような問題意識をもちつつ、私たちは、いまどきの視聴者について考えていきたいと思う。改めて問おう。

 視聴者は、本当にバカなのか?