メディアとつきあうツール  更新:2003-10-02
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送評論の地平
――「自閉」から
自立・自省・自己拡大へ

≪リード≫
放送批評や放送評論は、どこから来て、どこへ行くのか。
それはこれまで、どのように広がってきたのか。
あるいは今後、どんな方向に広げていくべきなのか。
民放連の月刊誌「民間放送」の特集「放送評論の地平」から。

≪参考 この特集の目次≫
志賀信夫 放送の公共性を監視するプロとして―デジタル時代に放送評論は必要とされるか
松尾羊一 映像民俗を紡ぐ若き批評家出でよ―私的放送論叢 事物起源控
佐怒賀三夫 「批評」は自己をさらけだす装置―番組の読み取りがアイデンティティー作り
坂本 衛 「自閉」から自立・自省・自己拡大へ―放送批評は「夜明け前」の「発展途上」
藤久ミネ 微細に検証する持続的努力を―複雑で多岐にわたる事件報道
音 好宏 批評空間の成熟が信頼育む―放送の社会的機能の健全性を担保する
江藤文夫 テレヴィジョンの昨日・今日・明日―戦争体験を欠く日本のテレビ50年
中町綾子 語られる普遍の先に見いだすもの―番組批評を通じて何を分かち合うのか

(「月刊民放」2003年04月号 特集「放送評論の地平」)

≪付記 「自閉」という言葉について≫
この文章に「自閉」という言葉を使ったことについて、サイトをご覧の方からメールをいただきました。末尾に私の見解を示してありますので、関心をお持ちの方はお読みください。
付記へのショートカット

放送批評は「夜明け前」の「発展途上」

 「放送批評の自閉」について書いてくれ――「月刊民放」編集部から原稿依頼の電話があったとき、私は「自閉」とはまた、刺激的なタイトルの特集を組むものだと思った。

 携帯か何か通信状態がよくなかったのか。話すうちにテーマは「放送批評の地平」、つまり放送批評はどこへ行くのかといったことを書けという注文とわかり、いささか拍子抜けした。

 私は「GALAC」という放送専門誌の編集長を務めさせていただいている。手前味噌でたいへん恐縮だが、実はこの雑誌が1997年に「放送批評」からリニューアルしたとき、最初の特集が「ぎゃらく新・放送批評宣言」だった。

 これはまさに、放送批評の地平(ホリゾント)を自分たちなりに考えてみようという企画。当時の目次を振り返ると、吉本隆明「放送にとって批評とはなにか」、藤田真文(現在、ギャラクシー賞選奨委員会テレビ部門委員長)「なぜ君は『放送批評』するのか」、日本テレビ五味一男とフジテレビ亀山千宏の対談「いまの批評じゃズレズレだ!」などが並んでいる。

 ところが、この企画はたいへん評判が悪かった。雑誌に直接クレームがあったわけではないが、放送批評家や評論家の先生方はみなさんたいへん不満であり怒っているという話を、何人もから聞かされた。当時「放送批評の自閉」を感じていた私は、今回「月刊民放」からの電話を、やっぱり「自閉」と聞き間違えたのだった。

 前置きが長くなったが、では放送批評はどこから来てどこへ行くのか、その地平をお前はどう考えているのかといえば、私はこの社会の放送批評はまだまだ「夜明け前」であると思っている。

 もちろん優れた「番組批評」や「ドラマ批評」の書き手は何人も知っているし、その評論を日々、雑誌や新聞で読むこともできる。だが、番組批評や作品批評に、放送全体のあり方や放送制度(システム)や放送と視聴者との関係などについての批評や表現を加えた広い意味での「放送批評」は、テレビ50年をへて、まったくもって発展途上にあるといわざるをえない。

 詳しく論じる余裕はないが、たとえば現在の地上テレビ放送は2011年7月24日をもって終了することが「国策」として決まっている。放送局も役所もメーカーもこれにむけて準備を進めており、そのための投資がかさんで番組制作の予算すら削られはじめている。

 もちろん2011年7月に現行アナログ放送を終了することは、絶対にできない。

 BSデジタルはスタート時に普及「1000日1000万台」との触れ込みだったが、現状は「1000日200万台」ペース。目標だか期待値だか皮算用だか知らないが、とにかく最初に掲げられた数字の、現実はたった5分の1だ。しかし、地上デジタルでは「3000日1億台」(多い見積もりで一億数千万台、ビデオを算入しても一億数千万台)を達成しなければならない。BSデジタルの20倍近いスピードで受信機を普及させる必要があるが、視聴者の多くは高画質に興味がなくメーカーも売れない受信機を作らないから、「3000日1億台」は物理的に実現不能である。

 しかし、1クール13本か2Hかしか選べないドラマのスケジュールを再考すべきではないかというドラマ批評はよく見るが、いま流れている全番組を8年後に放送停止にするスケジュールを再考すべきではないかという放送批評はあまり見ない。NHK・民放全局が決めたスケジュールに異議を唱えにくい雰囲気が満ち、テレビに出ることを仕事にしているジャーナリストや評論家も、この問題には触れない。

 そして、ある問題に触れることができないというタブーを抱えている放送批評は、まだまだ夜明け前の発展途上にあるとしか、いいようがない。どこから来て、どこへ行くかはさておき、現状はそうである。

自立・自省・自己拡大を

 冒頭に出した「自閉」とは、自分だけの世界に閉じこもるという意味だ。「自閉症」について書いたものを読むと「内面優位の現実離脱」「現実との生きた接触を喪失」「対人関係における孤立」といった言葉が並ぶ。

 私の診断では、放送を所管する総務省は明らかに「内面優位の現実離脱」症状を呈していると思う。テレビ番組を見たりテレビの作り手たちと話していると、テレビが「現実との生きた接触を喪失」していると思うことも少なくない。

 先日も、ある放送局の放送した災害とテレビ報道に関するドキュメンタリーが、私たちがいまこの社会に生きる感覚とあまりにかけ離れたものだったので、そのような批判を書いた。その局の広報からはさっそく電話が入り「取材したのか? 事実でないことを書いている」という。番組の作り手からの電話ならまだ話す余地があるが、その災害時に私が何度も取材した相手である局の広報が「取材したのか?」では、まったくもって話にならない。テレビもまた役所同様、自分たちだけがつねに正当であって外部からの批判を一切受け付けないという内向き姿勢に終始している実例だ。

 そのような放送局が流す番組や局のあり方について語る放送批評というものは、第一に、局や番組をはじめ自らが対象とするあらゆるものから「自立」していなければならない。

 第二にそれは、批評と銘打つ以上、放送を論じながら自らの立場をも撃つ(相対化する)「自省」に満ちたものでなければならない。人のふり見て我がふり直せというが、人のふりをあれこれ論じる批評が我がふりの批評に結びついていかなければ、それは単なるいい悪いの判断に過ぎない。それは視聴者が毎日、私たちよりもずっと長い時間を費やしてやっていることである。

 私は不思議でならないのだが、番組批評のよくあるパターンに「あらすじ」紹介のあと結論として「好感が持てる」と書くものがある。あれは「好きだ」というのと同じだから、まさか批評ではあるまい。「共感を呼ぶ」も「視聴率が高い」の同義語反復だから批評ではない。そんな感想(「嫌いだ」も含む)は、インターネットを5分も探せば、全局の全番組について見つかる。あらすじに至っては、ケタ違いに多くの視聴者が長時間見て書くのだから、インターネットのほうが専門家より詳しい。というより、この件での専門家は彼らである。

 もちろん私は、広い意味の放送批評というものが放送や番組に関する文章だけで完結するとは、全然思っていない。放送批評の表現として「文」という形式を選ぶならば、それは文章表現としての「芸」を駆使した読みやすい作品に仕上げられるべきだと思うが、批評をつねに文章にまとめなければならない理由などない。

 たとえば、放送と視聴者の新しい関係を考える調査や提案やシンポジウム、あるいはそのようなテーマの番組も、広い意味での放送批評といえるだろう。

 第三にいいたいのは、テレビやラジオは現代社会の一部をなす巨大な存在であって、その巨大さに見合った批評表現(手法も発表のかたちも)の可能性が、もっと追求されてしかるべきだということである。

 放送という対象はとてつもなく大きく、番組の数も個人にとっては事実上無限大に等しい。しかもニュース1本批評するにも、そのニュースが報じる出来事そのものの正確な把握(専門性)が必要だ。だから、批評する側の役割分担や、視聴者を巻き込む仕掛けなど、「自己拡大」(「自大」にあらず)を不断に続けなければならない。それをやらなければ、放送批評もまた自閉の一途をたどることになる。

 「自立」「自省」「自己拡大」――私はこの三つを、放送批評の地平を切り開く鍵として提案したい。

付記 「自閉」という言葉について

 このページを読んだEさんから2003年8月、

「『自閉(症)』を理解しているかどうか期待と疑いをもって読んだが、理解されていないようだ。『自閉症』の社会的認知の悪さで、自閉症児の親たちは苦労している。『自閉症』についての書物に、本当に『内面優位の現実離脱』『現実との生きた接触を喪失』『対人関係における孤立』と書いてあったのか。間違っていたと思われるなら訂正していただけないか」

との趣旨(文言《もんごん》は坂本による要約)のメールがありました。これに対する坂本の見解は次の通りです。

【坂本からEさんへの返信メール】

私の文章をお読みくださり、メールをありがとうございます。
以下に私の見解を申し述べます。

1)私は自閉症児の親の育て方が悪いとも、自閉症児がうつ病と同じとも、まったく考えたことがありません。私の文章のどこをどう読めばそんな話になるのか、理解に苦しみます。

2)私は「自閉」という言葉と「自閉症」という言葉が同じ意味だとは、考えておりません。「自閉」については、わざわざ《冒頭に出した「自閉」とは、自分だけの世界に閉じこもるという意味だ。》と断っています。私が文中で使った「自閉」はすべてこの意味であり、「自閉症」という意味ではありませんので、誤解なさらないようにお願いします。

3)私は「自閉症」という言葉を文中に1か所だけ使って、《「自閉症」について書いたものを読むと「内面優位の現実離脱」「現実との生きた接触を喪失」「対人関係における孤立」といった言葉が並ぶ。》と書きました。

たとえば岩波書店「広辞苑」(第四版)には、次のように書いてあります。
「じへい‐しょう【自閉症】‥シヤウ(1)自分だけの世界に閉じこもる内面優位の現実離脱を呈する病的精神状態。現実との生きた接触を失うもので精神分裂病の重要な症状の一。(2)早期幼児期に発生する精神発達障害。対人関係における孤立、言語発達の異常、特定の状態や物への固着などを示す。早期幼児自閉症。」

平凡社「世界大百科事典」の自閉症の項にも、「精神医学で扱う自閉症には二つの場合が含まれる。すなわち,(1)精神分裂病に多く現れる症状,(2) 幼児・学童にみられる重篤な対人関係障害と特異な行動異常を主徴とする症候群,の二つである。」とあり、
(1)の解説として、「E.ブロイラーは,頭からすっぽりシーツをかぶり,人を避けるように壁に向かって頭を下げ,目をつぶっている重症の分裂病患者をモデルに〈内的生活の比較的あるいは絶対的優位を伴う現実離脱〉を自閉 (症) と名づけた」
「E.ミンコフスキーは自閉についての考えを発展させ,自閉を〈現実との生きた接触の喪失〉と規定し,内的生活の豊富な〈豊かな自閉 autisme riche〉とそれの乏しい〈貧しい自閉 autisme pauvre〉に分けた」とあります。

ようするに「自閉症」という言葉は、必ずしも「子どもの自閉症」とイコールではなく、日本自閉症協会の手引きだけが唯一絶対ではないのです。手引きが説明するのは広辞苑の(2)、世界大百科事典の(2)のほうです。

4)私は文中で「自閉」という言葉を何度も使い、「自閉症」という言葉を1回だけ使いましたが、「子どもの自閉症」に限って何か言及したわけではありません。もちろんこれは、私が自閉症児について、日本自閉症協会の 手引きの内容くらいはずっと以前から知っており、自閉症児の親たちの思いや苦労もある程度は知っているからです。

(たとえば「ちづるのスケッチブック」サイトは4年ほど前から、私のPCのお気に入りに入っています。このサイトで手引きの引用を読んだ覚えがあります。)

5)とくに「子どもの自閉症」について言及していない以上、お申し越しのような間違いなどありえず、訂正のしようもありません。

ただし、あなたが、私の書いた「自閉」や広辞苑の「自閉症」の記述を、「子どもの自閉症」だけと結びつけて理解された以上、ほかにも同じように誤解される方があるかもしれません。それは私の本意ではありませんので、 今回のメールのやり取りを「放送評論の地平」ページに付記として掲載し、誤解を受けないようにしたいと思います。そこに日本自閉症協会へのリンクもつけておきます。

以上

2003年8月7日          坂本 衛

≪子どもの自閉症についての参考リンク≫