メディアとつきあうツール  更新:2003-07-09
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

郵政、
東京U局(現MXTV)へ
露骨な介入

≪リード≫
ここにリードが入る

(「噂の真相」1993年04月号)

※筆者は龍桃介氏ですが、発表の場がないため、本人の許可を得て、このホームページに掲載しています。

※初出誌が見あたらず、見出しが抜けています。

 東京に第六の民放テレビ局(UHF局)ができる。その開設に当たって、郵政省が前代未聞の露骨な介入を続けている。

 わが国放送の将来を、いや、わがマスコミやジャーナリズムの将来を暗澹《あんたん》とさせる事態が、いま、進行中なのだ。

 だが、これに対する批判の声はほとんどあがっていない。郵政省のやりたい放題がまかり通っているという事実さえも、まったくといっていいほど報道されていない。

 新聞、テレビなど巨大マスコミには、たとえ声をあげたくてもあげられない事情があるのだ。その事情を掘り下げ、巨大マスコミがいかに権力――政治や行政に首根っこを押さえられ、これに対して媚《こ》びを売っているかを見ていくと、怒りを通り越して、つくづく情けなくなる。

 東京UHF民放テレビ局をめぐって、どんな事態が起こっているのか。なにが、わが国の放送、ひいてはわがマスコミ全体の将来を絶望させるのか。

 それを端的に示してくれる一通の文書がある。標題を「東京UHF民放テレビ局開設のための基本的考え方について」という。ほかならぬ郵政省放送行政局が、平成4年2月28日付で出した文書だ。まず、この”証拠物件”から郵政省の露骨な介入姿勢を読み取ることにしよう。

 「基本的考え方」は、新設される東京UHF民放テレビ局の第一回免許申請者打ち合わせ会議で明らかにされた。内容は、1 これまでの経緯、2 新局のイメージ、3 新局の申請の中核、4 新局の資本構成及び人的構成、5 今後の取組みの5節に分かれ、別紙1〜3が付いている。

 ここに書かれているのが、前代未聞の驚くべき事柄――先進的な民主主義国において放送を主管する当局が出したとはとても信じられない異常な内容なのだ。

 順番に見ていこう。「1 これまでの経緯」では、平成3年(1991年)1月30日に東京都のみを放送対象地域とする民放テレビ局を新設できるよう周波数割り当てを行い、締切の3月30日までに159件の申請を受理したことを述べたあと、「今後における免許審査の重要な参考資料とするため、同年9月27日、全申請者に質問書を発出し(中略)回答書を受理した」と書く。

 全国どこでも民放テレビを四局は視聴できるようにするとの郵政省の基本方針のもと、各地に次々と民放UHF局が開局されてきたが、郵政からこのような質問書が出されたことは一度もない。これが、まず異常である。もちろん回答書の内容は公表されていない。

 「2 新局のイメージ」では、申請書、右の回答書、各種アンケートなどを踏まえて、別紙1に新局のイメージを取りまとめたとする。別紙1には「既存のキー局と対比して、特に新局に期待されている役割」として、1 千二百万都民の生活に密着したローカル情報と生活情報の提供、2 東京都における産業活動へ貢献する情報の提供、3 国際都市東京に対応した情報の提供を掲げ、それぞれ情報(番組)の中身を書き連ねている。

 たとえば、都からのお知らせ、東京をよく知り、愛することのできるような番組、商売を行う上での多種多様なコンサルティング番組、といった具合である。

 役所が、放送局に対してこのように具体的な番組のイメージを羅列することは大変な問題だ。免許事業とはいえ、設立されるのは純粋に民間の”言論機関”なのだ。その番組に対する「期待」を具体的に列挙するのは、行政機関として許し難い逸脱行為である。そんな権限は、郵政省には(むろん郵政以外の役所にも)ない。

 仮に郵政省がフジテレビ(TBSでも日テレでもいいが)に期待する役割として具体的な番組イメージを羅列したと考えてほしい。

 お節介では済まない、それがどれほど重大な行為かわかるだろう。設立前の放送局に限ってはそれが許されるという論理は、どう転んでも成り立たない。日本の放送史に残る愚劣な行為とさえいえよう。

 郵政省は「これは一般的な期待をまとめてみただけ」と弁解するかもしれない。しかし別紙1の「期待されている役割」のなかに、郵政がでっちあげた「役割」が含まれていないという保証はないのだ。含まれていないことを証明したいなら、先の回答書を(匿名《とくめい》でよいから)すべて公表すべきだろう。

 そうしたところで、回答書は「免許審査の重要な参考資料とする」との脅し文句を受けて申請者が提出したものだから、「一般的な期待」などでありえない。本当の「期待される役割」を知るには、都民に聞かないことには話にならない。だが、それを都民に聞くのは郵政の仕事ではない。それが郵政の仕事なら、たとえばテレビ神奈川に期待する役割を神奈川県民に聞き、テレビ神奈川の番組イメージを公表することも郵政の仕事になってしまう。

 愚劣文書は続く。「3 新局の申請の中核」では、159件の申請に対して「一本化調整を行い、中核となる申請を一つ選ぶ必要がある」とし、「『東京メトロポリタンテレビジョン(株)』(発起人代表大賀典雄ソニー(株)社長)の申請を中核のものとして扱うことが最も適当であると考える」と決めつける。

 新設テレビ局の免許申請には何百(東京の159件は異例の少なさ)という申請が殺到、一本化調整が行われるのが慣例だ。しかし民放40年の歴史のなかで、郵政省が直接一本化に乗り出し、中核となる会社を決めたという例は(田中角栄が郵政大臣のとき自分で一人でやったと回顧しているケースを除き)一度も知られていない。

 一本化調整は、地元の公的な地位にある有力者(知事や商工会議所会頭など)に依頼するのが従来のやり方だった。水面下でどんな動きがあったかは定かではないが、少なくとも表面的には郵政がしゃしゃり出てくることはなかった。ここでも郵政は放送への直接介入という大きな一歩を踏み出している。

 しかも、中核となる一社を勝手に決めている。申請者に有力なものとそうでないものがあるのは当然だ。だが、「申請の内容・発起人の構成等を総合的に勘案して審査した」という以外なんら根拠を示さずに、郵政省が申請者の優劣を判定し、ある申請者だけを特別扱いするやり方が許されるのだろうか。

 これを許せば、郵政省の期待や意向に沿った放送局ばかりが開設され、放送法第一条に定める放送の不偏不党や自律さえもが脅かされるおそれが大きい。

 「4 新局の資本構成及び人的構成」は、別紙2の新局の経営体制(案)を基本とするというのだが、これはもう、呆れて開いた口がふさがらない。あんまり馬鹿馬鹿しいので詳しく紹介しておく。

 資本金は150億円程度。株式配分の大枠は、地元経済界約60%(うちソフト・出版系は約10%)、マスコミ約15%、公共・公益(東京都関連を含む)約15%、その他役員株等約10%(筆者註・ソフトとは番組ソフト会社を意味する)。役員数は常勤8名(専任)に非常勤15名程度で、構成は会長(非常勤)、社長、専務、常務2名、平取締役3名、監査役、残りは非常勤取締役。社員数は150名程度。

 以上が、東京にできる六番目の民放テレビ局の経営体制の郵政省案である。繰り返すが郵政テレビ局ではない、民放テレビ局だ。

 会長はなぜ非常勤なのか。常勤の平取はどうして4名でも2名でもなく3名なのか。このあたりの根拠は一切不明である。

 申請を一本化調整するための中核企業をひとつ決めただけの段階で、なぜ郵政はこんなこまごまとした数字を出してきたのか。考えられる理由はひとつ。郵政省はこの案を基本として――つまり、この案に限りなく近づけるかたちで、自らが一本化調整を進めると宣言したのである。

 「5 今後の取組」にも強引きわまる異常なことが書かれている。地元経済界(ソフト系を除く)の調整を東京商工会議所会頭(石川六郎)に協力を依頼するが、マスコミなどその他の申請者に対しては郵政省が直接調整するというのだ。

「出資比率の配分や役員の割り当てなどについて、郵政省は、有無をいわせず自分の提案をのませるハラです。郵政官僚は小野沢放送行政局長以下、各社から不満が出ても一切認めないと広言していますよ」(事情通)

 別紙3に東京UHF民放テレビ局免許の処理手順(案)なるスケジュールがのっているが、これはまさに強行突破のための日程表。 4月中に一本化調整完了、5月22日に電波監理審議会(予備免許の諮問・答申)、同25日に予備免許付与、その後平成6年(1994年)3月には本免許付与、同年4月から放送開始(開局)としている。

 なかでも乱暴なのは、電波監理審議会に予備免許を諮問、その日のうちに答申を受けるという手順。これは、審議会に対して「調査も審議も不要だから、放送行政局の主張通りの答申を出せ」といっているのと同じだ。

 審議会は、学識経験者や各界代表などを委員に入れた諮問機関で、政策の遂行を官僚に独占させる弊害を排し、行政の民主化を図るのが建て前。もっとも電波監理審議会に限らずおよそ審議会というのは、実際には終始当局のお膳立てに従って動き、官僚のつくった政策にお墨付きを与えるだけの存在に成り下がっている。行政の隠れみの的な存在といわれるゆえんである。

 それでも官僚は、審議会が単なる形式的な手続きと指摘されないように「諮問―答申」のプロセスを尊重し、審議会の自立を確保する(ふりをする)のが普通だ。しかし、郵政のやり方はひどい。隠れみのどころか、役所が諮問すればその日のうちに思い通りの答申が出てくる自動販売機のようなものとみなしている。これでは電波監理審議会は調査や審議をする諮問機関ではなく、ただのハンコがわり、それも三文判だ。

 ここまでナメられては、委員も肩身が狭かろう。民間出身の委員はこの際、辞表を提出したらどうか。

 以上が、郵政の基本姿勢「基本的考え方」の概要である。

 残念ながら、現段階ではこうした郵政省のやりたい放題を阻止する有効な手段は見当たらない。一部に訴訟を起こすことを検討しているグループがあるが、問題提起以上の効果があるかどうか。

 私たちはひとまず、郵政が掲げた強行日程通りにことが進むのか、登場する新しいテレビ局が郵政のいう通りのものかを、注意深く見きわめるしかなさそうだ。

 何から何まで郵政省案通りになったとすれば(なる可能性が強いが)、改めて絶望のなかから立ち上がる方策を考えなくてはならない。事態はあと2か月ではっきりする。

 こうした郵政の前代未聞の放送への直接介入はなぜ起こっているのか。
 いままでは、放送局の一本化調整に介入があったとしても水面下で行われていたはずだが、どうしてここにきて郵政は、露骨で強引な姿勢を打ち出したのだろう。

「根本には放送行政にかかわる法の不備という問題がある。つまり、放送体制や制度を決める多くの重要な事柄が、法令上設定の義務づけがないまま、郵政省の行政方針として決められるという構造がある。だから法律ではなく省令や通達レベルで、恣意的な行政がまかり通ってしまう」
 と指摘するのは、立教大学社会学部の服部孝章教授である。

 この構造に、三流現業官庁からの脱皮を図り「通産省のようになりたい」郵政省の権益拡大が作用すると、いきなり暴走が始まってしまう。

 郵政省が、許認可権を持つ放送という分野で多メディア化・多チャンネル化という大変革が起こっている現在を、自らの縄張りを広げ、新たな権益や利権を囲い込む絶好の機会だと思うのは自然な成り行きだろう。

「それもある。だが、ここにきての郵政の強行方針は、現放送行政局長・小野沢和之という男のキャラクターに負うところが大きい。5月末までに新局に予備免許を与える必要があるのは、6月の人事異動で小野沢の退任が確定的だからで、彼は任期中に天下り先を確保しようとしているのだという穿った見方さえあるのですよ」
 とささやくのはある事情通。

 小野沢放送行政局長という人は「仕事のできる男」との評がある一方で、「ヘンな人」の噂が絶えない。

「他人の視線など一切気にしない自信家で、同僚局長さえもバカよばわり。部下を私用人のようにこき使うので有名。大病で死にかけて以来、怖い物知らずのゴーイング・マイ・ウェイになっちゃった」(郵政省関係者)

「彼が講演するセミナーに出席したら、講演資料がA4版350ページ、厚さ3センチ近くあったのには驚いた。そのなかには『亡くなった母のこと』、長女による『祖父の葬儀での父の挨拶』、『カラオケ持ち歌100曲選』なんて文書が入ってた。45分の講演はほとんど雑談で、みんな資料をめくりながら呆然としてました。聞き手は百何十人かいたようだから数万枚の資料だと思うけど、あれ、郵政内部で作ったとしたら、コピー代と人件費は完全に税金のムダづかいだろうね」(放送評論家)

 局長はなにより、ものごとを書類にまとめることが好きらしく、それをみんなに配るのがまた大好きらしい。郵務局長時代には句集も出している。製本書類の表紙の色にまでこだわるので、作らされる部下は大変。なんでこんな愚劣な文書をワープロで打たなきゃいかんのか、これが国家公務員の仕事かと思っている連中も多い(ただ、誰も批判できないところがやっぱり三流官庁である)。

 免許申請企業に送りつけた質問書や、微に入り細をうがった「基本的考え方」は、この伝なのだろうか。

 だとすれば、名物局長の奇態な趣味のお陰で、郵政省のやりたい放題の 証拠物件 が世に出たわけで、これは不幸中の幸いなのかもしれない。こんなことを陰湿にコソコソやられては、事態はいっそう救い難いものになったことだろう。

 それにしても、今回の東京UHF民放テレビ局をめぐる郵政の嵩にかかった攻勢が、わが国放送やマスコミの将来に大きな禍根を残すことは間違いない。

 万一、郵政の示した「基本的考え方」が通るなら、今後新しく放送局をつくるやり方は全部これになってしまうかもしれないのだ。 放送局新設における郵政の役割は、あくまで交通整理にとどまるべきだ。今度の郵政のやり方は、交通整理の警官が、道を通すルートや幅から橋やトンネルまで、全部ひとり決めしているようなものだ。しかも、道を通そうというのに地元住民の意見を聞かない。

「ようするに1200万都民は、新しい放送局設立のためのダシに使われているだけ。有限希少の電波は、郵政のものではなく、第一に国民のもの。東京都のみを放送対象とするなら、誰よりも都民のものです。都民の意向を聞こうとせず、ゴリ押しを進める郵政のやり方は、ただちに改められなくてはならない」(太田喜晟「放送レポート」編集長)

 東京に民間U局をという話が出たのは、なにもここ数年の話ではない。長年熱心な取り組みを見せてきたのは中日新聞社だが、東京新聞を系列に収めた一九六四年頃からすでに東京での「波獲り」を画策している。中日の東京U局獲得は、東京進出戦略の要の作戦であり、悲願でもあった。

 東京新聞が当局や議員を通じて新局設立を働きかける過程で、中曽根批判を書いていた論説委員の突然の異動(1986年)や、郵政大臣のリクルート疑惑にふれた社説の差し替え(1989年)など、みずから筆を曲げるみっともない事態も表面化した。

 東京新聞が、深谷郵政相が東京UHF局の設置を電波監理委員会に諮問したことを報じた1990年11月17日付記事、今回の郵政の基本方針を報じた92年2月29日付記事などの”はしゃぎぶり”を見れば、中日グループの意気込みがよくわかる。

 これに対して、1974年の中部読売新聞発行以来中日と泥試合を繰り広げている読売グループが、中日―東京新聞の思い通りにはさせないと息巻くシーンもあった。

 一方、東京都がU局の設立を要請したのは85年の秋。都では鈴木都知事が誰よりも熱心な推進者といわれる。なんでも知事は、埼玉県の畑知事と隣り合わせたようなとき、自分にはテレビの取材がない(全国ニュースを追う東京キー局はやってこない)のに、むこうにはいつもテレビ埼玉の取材がつくのが、ひどくうらやましかったらしい。

 中日や読売にせよ都にせよ、もっぱら自らの都合だけを考えているのであって、都民の側から「東京には新しいテレビが必要」との声があがった形跡はほとんどない。

 もちろん、だから東京第六局は不要であるなどというつもりはない。むしろメディアやチャンネル数の増加自体は望ましいことだ。

 だが、都民不在のまま利権獲得競争がエスカレートし、混乱をさばくのは俺しかいないとばかり、郵政が露骨な介入政策を露にしている現状は、嘆かわしいというほかはない。

 郵政省も郵政省だが、黙っている巨大マスコミの責任も重大である。新局への利権を確保したいがために、郵政の直接介入に対する批判はおろか、まともな報道さえも自粛してしまったマスコミのていたらくには、慄然とせざるをえない。

 とりわけ、筆を曲げさえして新局に対する情熱を傾けてきた東京新聞は、郵政による一本化調整のなかでも他マスコミより有利なあつかいを受けると思われる。おそらく、新設される東京UHF民放テレビには「東京新聞ニュース」というような報道番組が登場するだろう。しかし、そのニュースで、まともな国政批判や都政批判ができるのだろうか。郵政に首根っこを押さえられ、媚びさえ売ってきたのだ。

 問題は、東京新聞だけではない。読売、朝日、毎日はいずれも社長を発起人代表として免許申請を出しており、郵政が包丁をふるう一本化調整のまな板に横たわっているから、グーの音もでないのである。

 テレビはどうか。在京民放は、東京第六局は全国四局化という置局政策とは異なり、かえって情報の東京一極集中を加速させる、首都圏で競争が激化するなどの理由から、基本的には反対の立場。だがこれも免許事業の悲しさ、首根っこを押さえられて、なにもいえない。

 民放各系列は、1997年に打ち上げられ本格的なハイビジョン放送が行われる予定の次期放送衛星BS−4に乗らなければ未来がない。しかし、郵政はマスコミ集中排除の原則や新規参入者の優先を掲げ、既存民放が星に乗れるとは限らないと、脅しつけている。ヘタに郵政に立てつくと、星の免許が永久にもらえないかもしれないと恐れているのだ。だから黙っている。

 それに、儲け過ぎ気配濃厚なキー局にとっては、競争激化の影響などあまりない。深刻なのはテレビ埼玉、千葉テレビ、テレビ神奈川の関東圏広域U局、とくに経営基盤の弱いテレビ埼玉くらいだといわれる。

 民放が気がかりなのは、BS−4の免許申請の際に、郵政が今回のような直接介入を強行することである。

「将来そうさせないために、いま抵抗する手もあるかもしれないが、ひとまず様子を見ようということです」(ある東京キー局幹部) 郵政省は昨年、ハイビジョン推進協議会なる団体をでっち上げ、これにハイビジョン試験放送の免許を下ろした。NHK、民放、メーカーは仕方なく自弁参加して、BS−3から現在放送中だが、郵政を除き誰ひとりとして不満をもたないものはない。同協議会はBS−4段階に郵政色の強い放送局に格上げされるのでないかと疑われている。それでもいまはみんな黙っているのと同じ理由だ。

 だが、BS−4段階でも黙っているというテレビ局はなかろう。そのときは地上テレビ存亡の危機なのだから、今回のような郵政の方針がすんなり通るとは思えない。だから、まだ救いが残っているとはいえるのかもしれない。

 最近の郵政のやりたい放題を見ていると、つくづく新聞の存在がわが国の放送を歪めていると思わずにはいられない。わが国では新聞とテレビが一体化しているために、新聞とテレビのどちらか一方に影響力を行使するだけで、両方とも黙らせることができるのだ。「電波を持たない新聞は、翼のない鳥のようなものだ」といったのは、東京新聞を手に入れ、次に東京の電波を狙った中日新聞の与良ヱ《よら・あいち》社長(当時)だった。

 だが、その鳥は翼をもらうために誰かに魂を売り渡し、今後は地を這うことを約束したのではないか――そんな疑念すら感じることがある。これは、本当に悲しい事態である。