メディアとつきあうツール  更新:2003-07-09
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

番組規制がホントの狙い
郵政省の
キケンな企《たくら》み

≪あとからの「まえがき」≫
2002年前半のメディアは、
個人情報保護法案をはじめとするメディア規制法案で揺れに揺れた。
2003年に入ると反対派の勢いも失われ、
与野党の談合によって個人情報保護法はスンナリ成立してしまう。
だが、そのルーツのひとつは、
1996年の郵政省「視聴者懇」にこそあったのだ。
泥縄的に反対を唱えたマスコミや、
メディア御用学者たちの鈍感さを、
よく吟味していただきたい。

(「放送批評」1996年09月号 特集「郵政省”視聴者懇”ってナンダ!?」)

 1996年5月23日、郵政省から「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」の中間報告(標題は「中間取りまとめ―論点の整理―」)が出た。

 テレビも新聞もこれを報じたが、報告の内容や懇談会の意味について、まともに分析した記事は見当たらない。マスコミは、そのような報告書が出たという事実を、何行かの記事で伝えただけだった。

 しかし、この懇談会の中間報告は、テレビ放送にとって、底知れぬ重大な問題をはらんでいる。今後の懇談会の行方や、郵政省の出方によっては、「言論の自由」や「報道の自由」が脅かされる、極めて危険な事態が想定されるのだ。

 いや、放送だけではない。テレビと新聞が資本系列によって結ばれている日本では、事はテレビに限らない。「新聞はテレビを通じて支配できる」と看破して郵政大臣ポストを自派の指定席としたのは田中角栄だったが、新聞メディアも含めた「言論・報道の自由」が、誰もそうと気づかないままに、いまや危機に瀕している。

 冗談をいっているわけでも、煽《あお》っているわけでもない。本当にそうなのだ。

 これだけ新聞やテレビが浸透している(新聞記者と放送記者は何人いるだろう)「先進的」な「民主主義国」で、言論報道機関の明日を脅かす事態が進行しているというのに、誰も報じないとは何たることか。

 絶望的な気分になるが、気を取り直して、懇談会がスタートした経緯から振り返ることにしよう。

テレ朝椿発言がきっかけ

 「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する視聴者懇談会」は、郵政省放送行政局長の私的な諮問機関として、1995年9月に設置された。

 直接のきっかけは、93年10月に産経新聞が報じ、放送界を震撼させた「椿発言事件」である。当時、テレビをこのままで放ってはおけないという気分が、とりわけ政治家の間に蔓延した。逓信委員会などで質問が出るたびに、郵政省は「政治的公平その他について今後研究してまいりたい」と答弁してきた。 ただし、事がテレビのソフト面に関する問題であるから、郵政省がダイレクトに指導力を発揮するわけにはいかない。そこで、広く識者の意見を聞くというかたちをとったのである。

 これに加えて、訂正放送についての放送法改正(1995年)で、番組審議会の強化が問題になった。現行の制度下で訂正放送の義務づけなどしたところで、「泥棒に泥棒を縛らせるようなもの」(内閣法制局筋)だからだ。

 また、テレビが頻繁に引き起こす報道被害もこの懇談会の主要なテーマと考えられた。

 こうして、座長に理化学研究所理事長・有馬朗人、座長代理に成蹊大学法学部教授・塩野宏が就任。テレビ代表としてはNHK会長川口幹夫、民放連会長磯崎洋三(途中で氏家齊一郎と交替)、それに半ばテレビ側の電通会長が入っている。

 視聴者代表の意味合いが強いのは、日本PTA全国協議会会長、主婦連合会常任委員はじめ財団理事長2人、大企業社長2人(電機と保険)、出版社会長1人、任意団体代表1人。

 さらに人権問題に詳しい日弁連の弁護士、放送に詳しい学者、詳しくない学者など専門家を加えた委員18人 (脚注1) で、懇談会が組織された。有馬座長は名誉職的な存在で、実質的に懇談会を仕切るのは座長代理の塩野教授である。

 なお、放送評論家の志賀信夫は、小誌を編集発行する「放送批評懇談会」の「理事長」の肩書きで参加している。この件について関心がある方はコラム (脚注2) を参照してください。

 実は、懇談会が始まる前に一悶着あった。

 というのは、郵政省は95年春ごろから懇談会の準備をはじめ、最初「放送番組のあり方に関する懇談会」というような名前で、各方面に参加を打診した。

 ところが、「放送番組をテーマにし、番組の中身に言及する報告書を出すような懇談会には、代表を送ることはできない」と、NHKと民放連が参加拒否。

 それならと、郵政省放送行政局放送政策課の担当者は「多チャンネル時代」というキーワードをひねり出し、「番組」の文字を削って再度打診。NHKと民放連は、参加拒否のまま出てきた報告書に文句をつけるのもいかがなものかと意見が一致し、手を取り合って参加することにしたのである。

「多チャンネル懇」か「視聴者懇」か?

 余談だが、この種の懇談会には必ずダラダラした名前がつくので、ふつうは略称で呼ばれる。今回、郵政省が採用した略称は「多チャンネル懇」で、中間報告が出たことを報じる新聞も、この表記を使っている。

 しかし、懇談会の呼び名が変わった一件からもわかるように「多チャンネルうんぬん」は、ただの付け足しだ。後で詳しく触れるが報告書の中身を見ても「1 はじめに」に続く「2 多チャンネル化の意義と問題点」というのは、前段部分、あくまで序の部分。

 後段の「3 今後検討すべき論点」こそが郵政省がやりたいと考えていることで、この部分は「放送番組のあり方に関する懇談会」の中間報告だとしても、同じことが書かれていたはずである。

 あくまで後半が本文で、多チャンネル時代がああだこうだと理屈を並べているのは、神様を引っ張り出す「祝詞《のりと》」にすぎない。

 したがって、「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」を「多チャンネル懇」と略すのは、委員会の本質をぼかすことになる。だから、小誌ではタイトルでも本文でも、あくまで「視聴者懇」と書く。郵政省の懇談会の名前に「視聴者」の文字が登場したのは初めてであり、それはそれで意義深いことと思われるからだ。

 もちろん、これを「多チャンネル懇」と略したのは、事務局である郵政省が特定の意図をもってやったことである。これからのテレビ状況は「多チャンネル」に決まっている。だからそういう名前の懇談会が存在しても一向に不思議はない。誰もが何の疑問も抱かずに通り過ぎてしまうための名前なのだ。

 しかし、懇談会を設置した郵政省の狙いはまた別のところにある。それは、椿発言問題で政治家から与えられた宿題を解決するための懇談会であり、最初のネーミング通り「放送番組のあり方」を話し合う懇談会なのだ。

 中間報告が出たとき、これを「多チャンネル懇」と略した新聞やテレビは、本当に深刻に考え直したほうがよい。それは、この懇談会について何ひとつわかっておらず、何ひとつ取材もせず、役所から資料をもらってそのまま報道したことを意味するからだ。それは「言論報道機関」としての許しがたい怠慢である。

”国民共通の価値観”は誰が決める?

 では、視聴者懇が出した中間報告の中身を見ていこう。

 報告は、多チャンネル化の進展状況を概観したあと、多チャンネル化の意義、光の部分として、次の3点をあげる。

「(1)番組の多様性が増大し、視聴者の選択の幅を広げ、従来の放送で満たされなかった需要を満たす。(2)放送の送り手が多様化し、より多くの国民が放送による表現活動を、さらに放送事業の新しい発展を可能とする。(3)多様な情報提供が、国民の政治的あるいは社会的選択をより適切にし、民主主義社会の健全な発展に貢献する。また社会活動をより豊かで広がりあるものにする」(要約)

 ここまでは当たり前のことであるから、流して読めばよい。

 一方、多チャンネル化の問題点、影の部分として、次の4点を指摘する。このあたりから、眉に唾つけて読む必要が出てくるのだ。「(1)質の悪い番組が増加するおそれがある。(2)放送番組の編集責任に対する認識が希薄になり、権利侵害などが増えるおそれがある。(3)判断力、経済力、端末の操作能力などの個人差が、情報格差をもたらすおそれがある。(4)仮に、人々が専門化、細分化した番組に埋没する傾向が過度に強まると、社会において欠かせない共通の情報や国民としての共通の価値観を喪失《そうしつ》するおそれがある」(同)

 後段にうまくつなげたいばかりに、筆がすべって、つい本音が出たようである。

「仮に、人々がこうした専門化、細分化した番組に埋没する傾向が過度に強まると、社会いおいて欠かせない共通の情報や国民としての共通の価値観を喪失するおそれがある」

 これが、視聴者懇が多チャンネル時代のテレビについて下した、ご託宣の一つである。

 この「国民としての共通の価値観」とは、いったい何のことか。日本国民は、テレビを通じて「国民としての共通の価値観」を喪失せずに、大切に、持っていなければならなかったのか。これがその、失ってはならない日本国民としての共通の価値観であるという判定は、いったいどこの誰が下すのか。

 「社会において欠かせない共通の情報」ならば、たとえば地震情報や台風情報もそうだろうから、まだいい。ただ、どんな多チャンネル時代が来ようが、国民は「東京大震災」のテレビに釘付けになるに決まってるから、要らぬ心配だと思うが。

 しかし、「国民としての共通の価値観」は時代錯誤もよいところである。

 私たちは50年以上前の苦い体験から、個人のもつ価値観や、思想や、信条や、良心など――つまり個人の頭の中で考えることは、個人の自由であって、侵したり押しつけたりしてはならない「基本的人権」の一つと決めたのだ。(「日本国憲法」第3章参照)

 国民一人ひとりは、麻原彰晃の教えに最大の価値観を見出そうが、金の延棒に最大の価値観を発見しようが、イワシの頭に価値観を置こうが、そんなこと勝手だ。

 多チャンネル化で「国民としての共通の価値観」が喪失したって、そんなものを持っていることは、もともと誰にも義務づけられていないのだから、どうかしている、時代錯誤である、というほかはない。

 視聴者懇の18人の委員たちが、こもごも立ってこんな文面を入れてくれと提案したとは考えにくい。これは、やはり事務局、つまり郵政官僚の作文で、委員たちは知ってか知らずか了承してしまったわけだろう。

「規制」「規制」のオンパレード

 さて、ここからが本文である。「3 今後検討すべき論点」の章で、報告書は具体的な論点を次の3つに大別する。

「(1)多チャンネル化の影の部分を解消する方策。(2)多チャンネル化の意義を最大に発揮する方策。(3)放送制度の在り方や放送の概念自体を新しい視点で見直すべき」(要約)

 こうした観点から、視聴者懇で今後検討を進める論点を次のように整理してある。

「(1)青少年保護
 (2)権利侵害と被害者救済
 (3)放送事業者と自主性と責任
 (4)放送事業者以外のモノによる評価
 (5)意見の多様性と政治的公平
 (6)多チャンネル時代における放送の積極的活用と環境整備
 (7)番組の多様化、メディアの多様化と放送制度」

 このそれぞれについて論点が、たとえば(1)の青少年保護に関しては、
「○各国で導入されている青少年の視聴する時間帯における番組制限 ○青少年に不適当な番組の事前表示制度 ○米国で導入が決定されたVチップの導入可能性 ○デジタル放送におけるペアレンタルロック機能の積極的活用」
 のように、項目出ししてある。項目をすべて紹介する余裕がない(必要な方は郵政省に問い合わせを)が、全体を通じていえることは、次のような問題である。

 第1に、検討すべき論点として上げられているのは、ほとんどテレビ番組または放送事業者に対する何らかの意味での「規制強化」の話ばかりだ、ということである。

 そして「制度」という言葉が頻繁に登場する。「訂正放送制度」「反論放送制度」「番組編集責任者制度」「放送事業者に課せられた義務の履行を確保するための制度」「オンブズマン制度」「視聴者意見の公表制度」といった具合で、いずれも何らかのかたちでテレビ局あるいは番組内容に対する規制を強化する新しい制度である。

 規制以外に論点がほとんどないのだから、視聴者懇は、テレビに新しい規制をかけることができるかどうかを検討する懇談会と考えられる。

 第2に、海外の例がやたらと出てくることが特徴的だ。「各国で導入されている青少年の視聴する時間帯における番組制限」「米国で導入が決定されたVチップの導入可能性」「英国における苦情処理機関の導入可能性」「仏国等における反論放送制度」「独国やスウェーデンにおける番組編集責任者制度」?「我が国の義務履行確保のための制度と諸外国の義務履行確保のための制度の比較」「米国における反論放送制度」「諸外国における放送体制、放送制度との比較」などなど。

 郵政省は、海外ではこんな具合に規制しているから、日本でも検討してみたらどうかと考えているようである。

 しかし、放送はその国の社会や文化のあり方と密接に関わっており、独自性があって当たり前だ。

 たとえば公共放送と民放が日本のようなかたちで共存している国はない。郵便と保険を担当する中央官庁が放送を所管している国も珍しいはずだ。放送免許を官僚が密室で一人決めしてしまう国もない。郵政大臣が新聞を支配できるという国もない。

 テレビに対する規制に関わる政策決定を、中央官庁の「局長レベル」の「私的」な「懇談会」にゆだねる「先進国」など、金輪際ありえない。

 テレビに対する規制についてだけ外国の例を持ち出し、自分たちの存在そのものが問われる外国事例については黙っているというのは、たいへん不誠実な態度である。

 第3に、論点の中で、ところどころに「積極的」「振興」「促進」といったプラスの言葉が出てくる。たとえば、「デジタル放送におけるペアレンタルロック機能の積極的活用」「外国語放送の積極的導入」「多分野からの放送への参入の促進」といった具合だ。

 よく読むと、郵政省が「積極的」「振興」「促進」といった言葉で応援したいのはCSデジタル放送で、「制限」「制度」「責任」といった言葉で締め上げようとしていているのは地上波、とくに民放であるとわかる。

 ならば、最初からハッキリわかるように書けばよいと思うのだが。

 以上の論点のミソは、あくまで項目出しであって、郵政省はこれをやるともやらないとも断定していないことである。検討してからやるかやらないか決めるのだから、課題として並べることには、文句のつけようがない。 しかし、そのことが実は問題なのだ。こうした検討課題が、やるかやらないか徹底的に議論されるかどうかが、わからないのだ。

郵政の狙いは放送法改正だ!!

! 郵政省放送行政局放送政策課では、
「いまはまだ中間報告をとりまとめた段階。これから最終報告を皆さんにつくっていただき、郵政省としての対応はその後です。たとえば、放送法を改正などについても、まだまったく白紙の段階です」
 という。

 しかし、事情通によれば、郵政省は、放送法の改正に向けての検討、あるいは研究を密かに始めている。ある郵政ウォッチャーの見方によれば、放送法改正への最短距離のスケジュールは、次のようである。

 「この夏をメドに省内調整を終り、秋には内閣法制局との調整、年内に法案作成、1997年1月通常国会に提出」

 視聴者懇の最終報告書のメドは12月だから、話がヘンだと思うかもしれないが、実は郵政省の懇談会では、中間報告が出た後なぜか最終報告が出ないまま、いきなり法律・省令・行政指導の変更によって政策が変わるということが、全然珍しくないのである。もちろん、懇談会の結論が出る前に、官僚の結論が出ることなど「常識」だ。

 では、密かに検討が始まった「放送法の改正」とは何を意味するのか。

 これが剣呑《けんのん》である。

 ある見方によれば、それは戦後日本の放送制度づくりを進めた占領軍の自由主義志向が色濃く反映されている、放送法の第1条に手を入れる。さらに現在「精神的な規定」あるいは「倫理規程」とされている放送法第3条を組み替え、何らかの罰則規定を盛り込むことではないかという。

 しかし、この話は、懇談会の委員のほとんどには伝わっていない。もちろん、郵政記者のほとんども把握していないと思われる。薄々でも感づいていれば、中間報告が出たときに記事にしたはずだろう。

 また別の、ある事情通はいう。
「事務局である郵政省を除いて、この懇談会の先に放送法改正という道があると自覚しているのは、懇談会を仕切っている塩野宏・座長代理だけだと思いますね。塩野さんは、優れた行政法の学者で、もともと規制推進論者ですから」

 そういえば、この懇談会には別に専門部会が置かれ、学者が6人参加して海外調査を担当したが(実際に海外調査報告書をつくったのは電通総研と三菱総研)、そのうち1人が塩野教授で、4人がその弟子、残り1人だけが塩野教授の弟子筋から外れるのだそうだ。

 「そんな懇談会だから、放送法の改正まで一気にいく可能性があるのです」(事情通)

 しかし、「言論・表現の自由」にかかわる放送法改正が、たった18人の、それも設置から中間報告までの8か月で9回しか開かれない「局長レベル」の私的諮問委員会をへて決まっていくとしたら、放送の、いやメディアの将来は限りなく暗い。

 もちろん、郵政省がいくら頑張っても、まさか放送法改正は実現しないだろうという見方もある。だが、視聴者懇がきちんと最終報告を出し、放送法改正までは必要ないという話になっても一件落着にはならない。

 「やらせ」「椿発言」「TBS」など、テレビ局が視聴者や郵政省に謝罪した問題はもちろん、「過剰報道」「権利侵害」「低俗」「暴力」「セックス」といった問題で、テレビはどうしようもないなと感じない人はあるまい。今回の視聴者懇は、そんな世論を強い追い風にしている。だから怖いのだ。

 さまざまな番組規制が「視聴者」の名前を冠した懇談会で検討されたというだけで、その効果は大きいと思う。

 自主規制が横行し、テレビは萎縮する。目に見えないかたちで番組に規制がかかる。そんな時代を招かないために、テレビは自らを律して、立ち上がらなければならない。

多チャンネル時代における
視聴者と放送に関する懇談会 委員名簿
有馬 朗人 理化学研究所理事長
氏家齊一郎 (社)日本民間放送連盟会長
薄田 泰元 (社)日本PTA全国協議会会長
加藤 真代 主婦連合会常任委員
金田 一郎 (財)長寿社会開発センター理事長
金平 輝子 (財)東京都歴史文化財団理事長
川口 幹夫 日本放送協会会長
北岡  隆 三菱電機株式会社社長
清原 慶子 ルーテル学院大学文学部教授
木暮 剛平 株式会社電通会長
櫻井 孝頴 第一生命保険相互会社社長
佐々木 毅 東京大学法学部教授
塩野  宏 成蹊大学法学部教授
志賀 信夫 放送批評懇談会理事長
田中 健五 株式会社文藝春秋会長
羽鳥 光俊 東京大学工学部教授
濱田 純一 東京大学社会情報研究所所長
渡邊 眞次 日本弁護士連合会・人権と報道に関する調査研究委員会委員長
コラム・インタビュー
放送批評懇談会理事長・志賀信夫氏に聞く

――今号の特集では、「多チャンネル時代における視聴者と放送に関する懇談会」の委員の皆さんにアンケートを行いました。その委員の中で志賀さんだけに、別のコラムに登場していただくことは、アンフェアなやり方だと非難されても仕方ないと思います。

志賀 ウム(うなずく)。

――しかし小誌は、放送批評懇談会の会誌としての性格をもっていますから、放送批評懇談会の理事長が、郵政省の懇談会に参加している件に、触れないわけにいきません。放送批評懇談会が志賀さんを代表として送り込んだと見るむきがありますが、いかがですか。

志賀 私は、あくまで1人の「放送評論家」として郵政省の懇談会に加わった。放送番組に対する規制を検討しようという動きがある以上、参加して議論の行方を注視する必要があると考えた。放送批評懇談会の総会や理事会に諮《はか》ったうえで、会の代表として参加したわけではありません。

――しかし、中間報告の最後に掲載されている委員名簿に「放送批評懇談会理事長」の肩書きが記されている以上、世間様は、放送評論家が個人の資格で参加しているとは見なさないでしょう。

志賀 それはそのとおりだ。最終報告では、この肩書きは外してもらうよう当局に話すつもりです。

――今回、特集の冒頭記事は私が書きましたが、これも私が一文筆業者として書いたものであり、放送批評懇談会全体の意見を代表しているわけではないことを、お断りしておきます。あたりまえですけど。

志賀 ウム(うなずく)。 (聞き手 「放送批評」編集長 坂本 衛) ▲もどる