メディアとつきあうツール  更新:2003-07-09
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送事件史
「田中角栄」≪後編≫
――メディア支配構造の完成

≪あとからの「まえがき」≫
田中角栄(1918〜1993)。
貧しい生い立ちから立身出世した非エリートで、地元への利益誘導型政治のプロトタイプをつくり、土建国家の開発政治を主導して、自民党金権派閥支配を確立。
いまの若者は「田中真紀子の父親」としてしか知らないだろうが、角栄はさまざまな意味で「戦後」日本を象徴する政治家だった。
角栄がもう一つ、戦後を象徴するのが、そのマスコミ――新聞・テレビ支配だ。
田中角栄こそは、テレビとは何か、その利権とは何かを、もっとも正確に理解していた最大の政治家といえるだろう。

(「放送批評」1994年05月号)

 田中角栄は、1958年から11か月あまり郵政大臣を務めた後、61年自民党政調会長、62年大蔵大臣、65年自民党幹事長、71年通産大臣と、権力の階段を駆け上っていく。

 東京オリンピックや名神高速・東海道新幹線が象徴する高度成長の本格期に、蔵相として3年近くも日本の金庫番を務めたのは田中だった。

 さらに、およそ4年間、今度は自民党の金庫番である幹事長の要職にあった。幹事長には65年と68年の2度就任しており、途中は黒い霧事件の責任を取って辞任した浪人時代だが、この間、田中は後の「日本列島改造論」の原型となる自民党「都市政策大綱」をまとめている。

 田中角栄が「大蔵大臣アワー」に登場して物議をかもしたことはすでに述べた。やはり大蔵大臣時代の田中にまつわる事件に、NHKの放送センター用地をめぐる疑惑がある。

 いまの代々木放送センター(渋谷区神南)に移る前、NHK本局は長いこと千代田区内幸町にあった。ところが、内幸町の敷地は1万500平方メートル(約3200坪)、建物床面積が6万7390平方メートル(約2万400坪)。敷地面積は現在の(河田町の)フジテレビの半分に満たない狭さだった。

 狭いだけではない。NHKは、1962年にIBMコンピュータを導入して以来、営業・経理・人事管理といったコンピュータ処理システムの構築を目指していたが、これには新しい放送センターが不可欠とされた。

 そして、1964年(昭和39年)秋に予定された東京オリンピック。前回のローマ大会まではラジオ中心だったが、東京大会は初めて本格的にテレビ中継を行うオリンピックとなることが決まっていた。IOC(国際オリンピック委員会)が東京開催を決めた条件のひとつは、衛星による国際映像の欧米へのネットだった。オリンピック放送のためにも新たな用地が必要とされた。

 そこで、NHKが新放送センター用地として目をつけたのが、旧陸軍練兵場で、占領軍に接収され米軍宿舎(ワシントン・ハイツ)となっていた現・代々木公園の一部である。

 もともと、この場所は、返還後に国が東京都に払い下げて森林公園にするはずだった。しかし、NHKの熱心な政治工作によって、一部を「オリンピックの取材、放送実施に必要な各種の条件を満たす放送センターの候補地」としてNHKに払い下げることになる。この国有地払い下げに、大蔵大臣田中角栄が深く関与するのである。

国有地NHK払い下げの暗部

  新しい放送センターの敷地は8万2500平方メートル(約2万5000坪)。そのほとんどが第1期と第2期に分割して払い下げられた。第1期は63年3月で、約1万8000坪が17億円で国から直接NHKへ払い下げられている。

 奇っ怪なのは第2期である。NHKは13億円でわざわざ千葉県稲毛の埋立地を買い、この土地と代々木の国有地を等価交換するかたちで約5900坪を手に入れたのだ。

 しかも、稲毛の埋立地というのがとんでもない素性の代物だった。この土地は、千葉県が「若松築港」なる会社に埋め立てを認可したが、同社は造成のわずか3日後、6億2340円で「朝日土地興業」という会社に売却している。NHKは、同じ土地を半年後に12億9791万円で買わされたのである。

 朝日土地興業とNHKの間を田中の「刎頸《ふんけい》の友」小佐野賢治の国際興業が仲介した、あるいは稲毛の埋立地は初めから実質的に小佐野賢治の所有だったというのが定説だ。この国有地払い下げを担当の大蔵大臣として仕切ったのが田中角栄である。

 あまりにも露骨なこの払い下げは、さすがに当時でも問題となり、NHK関係者が国会で説明している。

 筆者は国有地払い下げ工作を担当したNHK幹部に会ったことがあるが、
「大蔵省が『稲毛の土地は公務員宿舎にしたいので、土地のまま手に入るように等価交換のかたちを取ってほしい。通常の払い下げだと現金が一般会計に入ってしまい、宿舎用地を手当てするのが面倒だ』というので、NHKは頼まれた通りにしただけだ」
 と、話していた。

 もちろんNHKは何も知らなかったのだろう。しかし、NHKのOBの語る大蔵省の理屈は、第2回の払い下げ価格が初めの倍以上という事実の説明にはならない。

 とにかく第1期払い下げの坪単価は約9万4400円、第2期払い下げの坪単価は22万850円なのだ。この差額分は、小佐野賢治のところにプールされたか、小佐野を経由して田中角栄に還流したと考えるのが自然であろう。

 いうまでもないことだが、これは田中角栄の錬金術の典型的なパターンである。

 まず、河川敷や埋立可能な土地、荒れ地など単価の安い土地に目をつける。これを関係する土建屋に造成させる。その後、関係会社(多くはペーパーカンパニー)間で転売を繰り返し、価格をつり上げていく。そして最後に国、自治体、誘致した公的機関などに押しつける。だから、田中や小佐野の関連会社に入る利ザヤ分は、税金からまかなわれることになる。NHKのケースでは、利ザヤを負担したのは受信料を支払う契約者だった。

 こうして手に入れた資金を、田中は権力の階段を駆け上るのに使ったのである。

 にもかかわらず、NHKは新放送センター用地の手当てでは田中に大変世話になったという思いが残る。田中の放送局に対する影響力がその分増大する。そして田中は、全国紙の本社土地払い下げでも同じように「尽力」する。新聞は田中には大変世話になったと感じる。すると、新聞と同じ系列の放送局に対する田中の影響力が、それだけ増大するというわけだ。

 田中角栄の死去に際して、この種の話が語られることはほとんどなかったようだ。死にゆく者は誰でもとんでもない善人にされてしまうこの国の風土と、納得すべきだろうか。 いま、新生党や日本新党でリーダーと目されている政治家たちが自民党田中派に所属していた頃、稲毛の埋立地を代々木の土地とすり換えたのと同じような手法で田中が手にしたカネが、小分けにされ、盆暮れに配られていた可能性は否定できない。

 新聞やテレビは、そのことを、田中角栄の死とともに忘れ去るべきなのだろうか。

自民党あの手この手の言論介入

 田中角栄の自民党幹事長時代に目立ってくるのは、放送に対する政府・自民党の介入の背後でちらつく田中の影である。

 田中角栄が初めて幹事長になった1965年は、北爆開始によって米軍がベトナム戦争に本格介入した年。2度目に幹事長になった68年は大学紛争が盛り上がった年。このころ、ベトナム問題をはじめ米空母・原潜寄港、自衛隊、沖縄、日韓、反戦運動、大学紛争などをめぐって、政府・自民党の放送への介入が繰り返され、放送中止事件も頻発した。

 たとえば65年の秋には、自民党広報委員会のモニター調査「注目される放送事例――最近の重要問題をめぐって――」というマル秘文書がNHK、東京キー5局、ラジオ3社の首脳に配られている。各局の番組についてこれは反米的、これは政府批判が多い、この解説者やキャスターは偏向しているなどと、勝手に決めつけた文書である。これが配られたころ、田中幹事長は記者会見の席上など折りに触れて「マスコミは野党的すぎる」といった発言を繰り返した。

 65年10月にはNETが公開討論会「『日韓新時代』を考える」という番組を企画したが、このときは田中の秘書の早坂茂三から局に電話が入った。名指しこそしなかったものの、日韓条約批准に批判的な自民党の宇都宮徳馬を出席者からはずせとやんわり要求する電話だった。結局、番組は立ち消えとなってしまう。

 67年10月には、TBSが「ハノイ――田英夫の証言」放送したが、放映日の8日後、TBS今道社長ら幹部は自民党本部に呼ばれ番組批判を受けている。自民側の出席者は、田中幹事長、佐藤内閣の官房長官や自民党広報委員長を務めた田中派の大番頭のひとり橋本登美三郎、長谷川峻広報委員長、その他郵政族議員たちだった。

 このとき今道は、なぜ田のような(偏向した)人物を北に送り込んだのかと詰問する橋本に対し、ニュース源に記者を送ってなにが悪いかという意味の反論をしたという。しかし、68年いわゆる「TBS成田事件」(TBS報道部のマイクロバスに、プラカードを持った反対同盟の婦人数名が便乗しており、警察の検問にかかって止められた事件)が起こると、ハノイの時は抵抗した今道も自民党に白旗を掲げて関係者を大処分した。

 こうした言論介入で表に出るのは、もっぱら橋本登美三郎の役目だった。政府予算と財界からの寄付を使ってマスコミに宣伝広告を出し、これを懐柔しようという財団法人「日本広報センター」も、橋本が中心となって財界に協力を要請し、67年6月に発足させたものである。

 だが、橋本の背後につねに自民党電波担当の大元締めとして田中角栄がいたことは、間違いなかった。

系列化完成で、テレビ・新聞を支配

 1972年(昭和47年)7月5日、田中角栄は、自民党臨時党大会で第6代の自民党総裁に選出された。翌日、田中は国会で第64代の内閣総理大臣に指名され、翌々日田中内閣が発足する。

 前回も述べたように、田中が角番記者を軽井沢に集めて、
「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」
 と恫喝《どうかつ》したのは、首相就任の翌月の事件であった。

 首相時代の田中は、いわゆる「腸捻転《ちょうねんてん》」の解消に大きな役割を果たしている。一方的に恫喝するだけではない。放送局があの人には世話になったと感じる骨折りを、他のどんな政治家も及ばない手厚いやり方で尽くすのが田中なのだ。

 腸捻転とは、東京キー局と大阪準キー局のネットワークのうち、「東京放送(TBS)―朝日放送」と「テレビ朝日―毎日放送」という「ねじれ」があったこと。いうまでもなく、前者は毎日新聞資本系列、後者は朝日新聞資本系列とみれば「ねじれ」ているという意味だ。これを、東京放送―毎日放送、テレビ朝日―朝日放送のかたちに直したのが、腸捻転の解消である。

 ネット変更は、これまでA局に流していた番組を今後はB局に流すことにするという変更ではすまず、資本構成の変更をともなう。その資本整理のシナリオを書き、当事者間を仲介し、両者を納得させ、株式の売却や交換に持っていったのが田中首相だった。大阪のネット変更が実際にスタートするのは75年4月からである。

 その前年には、東京キー局の5大紙による資本系列化がほぼ完了している。これを、よくいえば「調整役」として、悪くいえば「フィクサー」として仕切ったのも田中首相であった。

 たとえば、NET(テレビ朝日)の資本のうち日経新聞系の保有株式と、東京12チャンネル(テレビ東京)の資本のうち朝日新聞系の朝日保有財団債が交換される。田中はこれを仲介している。東京放送の株式は朝日、毎日、読売の3大紙と電通が保有していたが、この資本構成を整理するシナリオを作ったのも、田中首相だった。

 こうした調整は、田中が郵政大臣当時に34社に一括して下ろした大量免許の、まさに延長線上にあったといえる。田中は、大量免許によって、全国紙が系列化できるだけの数の放送局(少なくとも4波)を全国に準備した。そして首相になると、用意した放送局の新聞による系列化を完成させた。

 もちろん系列によって、新聞とテレビの関係、結び付きには強弱がある。しかし、在京キー局を中心に、日本テレビ放送網―読売新聞、東京放送―毎日新聞、フジテレビ―産経新聞、テレビ東京―日本経済新聞という系列化が厳として存在することは間違いない。資本構成をみても人事をみても、(経営状態のよくない新聞を除いて)新聞によるテレビ支配が進んでいることは確かである。

 成熟した民主的な社会のメディアのあり方として望ましい「マスコミ集中排除」は、この国では本質的に機能していない。そもそも役所がそんな原則を打ち出すこと自体、成熟していない証拠だ。テレビをやるといわれてもいらないと言い張る新聞や、絶対に新聞系列には入らないと言い張るテレビがあってもいいはずだが、それはない(NHKだけは新聞系列に入っていないが、代わりに「政府系列」に入っている)。

 そうではなく、テレビは最初から新聞資本なくしてスタートできず、新聞は新聞で「電波を持たない新聞は、翼のない鳥のようなもの」(テレビ獲得に情熱を燃やしたかつての中日新聞社長・与良ヱ)と考える。田中角栄はそこにつけ込んだのだともいえる。

 田中角栄が後輩たちに「政治家になるつもりなら、絶対に喧嘩せず、うまく付き合っていけ」とアドバイスした職業は3つあって、「銀行、新聞記者、警察」だそうだ。「新聞記者」であって「放送局」ではない。

 田中は、34社に一括免許を下ろした時から放送局は自分の縄張りだと信じていた。そして、放送局を通じて新聞に影響力を行使できると考えていた。新聞資本によるテレビの系列化は、首相になった田中角栄が手がけた「テレビ―新聞支配」の総仕上げだった。

田中人脈が連なる郵政・逓信族

  郵政大臣というポストを田中角栄ほど重要視した政治家は、かつていなかった。田中は72年7月の組閣のとき、郵政大臣の臨時代理として田中栄作を任命(5日間のみ)、ついで3か月あまり無派閥の三池信を任命した後、「目白に足をむけて眠れない」苦労人の久野忠治、田中軍団の長老格の政策通である原田憲という自派議員を郵政大臣にした。

 金権批判を浴びた田中角栄は、74年12月9日に内閣を総辞職する。しかし、その後も「闇将」として首相時代と変わらぬ権力を保持し続け、郵政大臣に小宮山重四郎、箕輪登、奥田敬和、左藤恵といった田中派人脈を送り込んでいる。

 田中角栄は、建設大臣、自治大臣、郵政大臣の3つを、閣僚のなかでも特別なポストと考えていた。実際、この3つのポストは田中派の占有率がずば抜けて高い。

 田中派が多いのは、郵政(逓信)族議員も同じである。「郵政省人事は目白の承諾がなければ通らない」というのは、田中が病気で倒れる前の常識だった。田中の跡目を継いだのは郵政族の”首領”金丸信である。以来、たとえば郵政事務次官をNHK副会長へ押し込むというのは、金丸の仕事になった。

 田中、金丸のほか主な郵政族には原田、亀岡高夫、小宮山、小淵恵三、箕輪、左藤、羽田孜、佐藤守良、西村尚治、長田裕二、亀井久興、岡野裕といった田中人脈が連なっていた。いま、細川政権下で族議員の力の低下がいわれるが、ついこの間まで、旧田中派の郵政省に対する影響力は絶大だった。

 先日のハイビジョン推進見直しという江川(晃正・郵政省放送行政局長)発言は、族議員の重しが取れた郵政官僚の政策誘導とも取れる。だが、発言の場が新生党社会資本部会というのも気になる。田中角栄が作り、金丸信に手渡された郵政支配構造を、さらに受け継ぐ者がいるのだろうか。

 最後に、田中角栄の電波支配を語るうえで忘れられない事件を書いておこう。

 権力の階段を上り詰めた田中角栄は、1976年7月27日、ロッキード事件の捜査を進めていた東京地検によって外国為替管理法違反容疑で逮捕される。田中が保釈されたのは8月17日。その直後、当時NHK会長だった小野吉郎は田中を見舞い、世間の糾弾を浴びて辞任した。小野は田中の郵政大臣時代の事務次官である。

 NHKの現職のトップが、いてもたってもいられず出所見舞いに駆けつけたほど、田中角栄の放送局に対する影響力は強大だった。

 放送局が、その影響力を清算できるのは、田中角栄の棺を覆って何年後であろうか。