メディアとつきあうツール  更新:2003-07-09
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放送事件史
「田中角栄」≪前編≫
――大量免許でマスコミ支配

≪あとからの「まえがき」≫
田中角栄(1918〜1993)。
貧しい生い立ちから立身出世した非エリートで、地元への利益誘導型政治のプロトタイプをつくり、土建国家の開発政治を主導して、自民党金権派閥支配を確立。
いまの若者は「田中真紀子の父親」としてしか知らないだろうが、角栄はさまざまな意味で「戦後」日本を象徴する政治家だった。
角栄がもう一つ、戦後を象徴するのが、そのマスコミ――新聞・テレビ支配だ。
田中角栄こそは、テレビとは何か、その利権とは何かを、もっとも正確に理解していた最大の政治家といえるだろう。

(「放送批評」1994年04月号)

 1993年12月16日、元首相・田中角栄が死んだ。享年75歳。「カンピュータ付きブルドーザー」となって「列島改造」を推進、日中国交回復を果たし、「ロッキード」と「金権」で失脚後も、「闇将軍」「キングメーカー」として政界に影響力を行使し続けた男の、あっけない最期だった。

 残された言葉は「眠い」というつぶやきだけだったと伝えられる。

 翌17日の各紙朝刊はこれをトップニュースに掲げ、テレビもこぞって特集を組んだ。「朝日」朝刊のテレビ欄を見ると、タイトルに「田中元首相」を掲げた番組は16を数える。さすがは角栄、だろうか。

 25日にはテレビ司会者の逸見政孝が死んだ。翌日は日曜だから「逸見」の文字が出てくるのは3番組、27日朝刊と合わせて16番組。わが放送界では「戦後を体現した象徴的な政治家の死」と「タレントの癌壮絶死」の番組予告数が同じなのだ。実際のウェイトではどうだったろう。NHKは逸見の死を無視したが、民放は特別番組を組んだほどで、逸見の扱いのほうが明らかに大きかった。テレビ全体から受けた印象もそうだ。

 逸見の闘病は現在進行形で劇的に伝えられたが、角栄は脳梗塞に倒れた過去の人。すでにドラマは終わった。それに「戦後の象徴」など簡単には映像化できない。芸能人も出てこないし、視聴率も取れない。――テレビ側の発想は、ざっとそんなところだろう。無邪気なものである。

 しかし、実は「テレビは無邪気」では片づかない深刻な問題が存在する。マスコミが田中角栄を取り上げる際に必ず伏せられ、今回の報道でも伝えられなかった問題が、だ。

 それは「田中角栄とマスコミ」の関係である。テレビだけでなく新聞もこれを一切報じないことが、問題の深刻さを物語っている。

角栄と記者の「軽井沢の約束」

 新聞やテレビは、なぜ「田中角栄とマスコミ」の関係を報じないのか。その理由は、無邪気なため問題の存在を知らないことを除けば、ひとつしかない。マスコミ各社が角栄に世話になりすぎたため、「田中角栄とマスコミ」の関係を掘り起こすことは、自らと「戦後最大の金権政治家」の癒着を検証することにほかならないからである。

 田中角栄のマスコミ支配を象徴する有名な発言がある。首相就任直後の1972年8月に田中が番記者9人に対して語ったもので、「軽井沢発言」として知られている。番記者だけを集めて、田中はこんなことをいった。

「俺はマスコミを知りつくし、全部わかっている。郵政大臣の時から、俺は各社全部の内容を知っている。その気になれば、これ(クビをはねる手つき)だってできるし、弾圧だってできる」

「いま俺が怖いのは角番のキミたちだ。あとは社長も部長も、どうにでもなる」

「つまらんことはやめだ、わかったな。キミたちがつまらんことを追いかけず、危ない橋を渡らなければ、俺も助かるし、キミらも助かる」

 驚くべき発言である。これだけで新聞のトップニュースになる。アメリカで大統領が同じことをいえば、全マスコミがこぞって弾劾《だんがい》しただろう。しかし、日本の新聞は一切報じなかった。

 報じなかったどころではない。巨大新聞や放送局の記者たちは「軽井沢の約束」を守ったのだ。その結果、新聞・テレビは田中の金権政治を何ひとつ撃つことができなかった。それは立花隆が「文芸春秋」でやったのだ。 筆者は、長く自民党の中枢にいて選挙のプロ中のプロとして知られた政治評論家から、「角番記者には、田中に家を建ててもらった者がいる」と聞いたことがある。それは、軽井沢の約束の代価に違いなかった。

 しかし、マスコミは現場記者の家屋敷などとは比較にならない大きな恩恵を、田中角栄から受けたのだ。放送事件史の田中角栄編とは、そんな恩恵にまつわる物語である。

大量免許を実現した「大臣決定」

 田中角栄のテレビに対する最大の贈物は、角栄が郵政大臣になってすぐさま着手した放送局の大量免許交付である。田中は1957年7月10日、岸内閣の改造人事で郵政大臣に就任している。初当選から10年目。39歳での入閣は戦後最年少で、明治の尾崎行雄以来という30代の大臣誕生だった。

 NHKがテレビ放送を開始したのは53年2月。初の民放である日本テレビの開局は同年8月。田中が大臣になったとき運営されていたテレビ局は、NHKが11局、民放が日テレ、ラジオ東京(TBS)、北海道放送、中部日本放送、大阪テレビの5局にすぎなかった。フジやNETには予備免許が下りていたが、まだ放送は始まっていない。

 しかし、テレビの受信契約数は、56年6月20万、11月30万、57年6月50万と着実に増え続けていた。先行局が活況にわくのを見て、全国各地から郵政大臣に放送局の免許申請が殺到する。免許問題は歴代郵政相の懸案事項だった。

 これに対して、郵政省は電波監理局を中心として一括大量免許に慎重な立場を取った。松田郵政相から寺尾郵政相(田中の次)まで電波監理局長を務めた浜田成徳は、田中角栄に「テレビ局が全国にできれば家電・電子工業界に大きなプラスとなる」と吹き込んだ人物だといわれている。しかし当時は「技術的にも経営的にも時期尚早」というのが郵政の立場だった。その郵政を、田中は34社の大量免許へと動かしたのである。

 田中は「歴代郵政大臣回顧録」(逓信研究会)で次のように書いている。

「ある朝、登庁したら大きな大臣用の机の上に部厚い書類がのせられていたので荘電波監理局次長を呼んで『結論はどうなんだ』とただしたら『たくさん理由は書いてありますが結論はノーです』と答えた。

 私は、早速、浅野文書課長を呼んで『事務当局はダメだといってきたが私は許可するつもりだ。手続きについてはどういう手順をとればよいか』とただしたら同君の答えは簡明直截であった。

『大臣の決定は即ちこれ法律と同じです』

 私は浅野文書課長と入れ違いに小野次官を呼んだ。やがて小野次官がやってきたので、『電波の事務当局から一括免許に反対という書類を持ってきたのだが、あんたはどう思うか、自分は日本の将来の電波に重大な歴史をつくるときだと考えている。また全国的混乱には終止符をうつチャンスだと思っているのだが……』

 小野次官は冷静な人だが『それは大臣のご決心次第です』と明快に答えてくれたので部厚い書類の表紙(係官、課長、局長と印鑑の朱で赤くなっている)全面に赤いペンで大きな×印を書いてから、この表紙だけ『本件許可しかるべし』と取り換えて欲しい、と依頼した」

 文書課長の「大臣決定これ法律」というアドバイスがふるっている。今なら、国会も法律も無視した、官僚にあるまじき無茶苦茶な発言と批判されるだろうが、郵政省にあってはその通りという面が強い。

 浅野課長とは後のフジテレビ会長・浅野賢澄、小野次官とは後のNHK会長・小野吉郎である。

角栄流の一本化調整

 大臣の裁量はここまでで、あとは官僚任せというなら、後に番記者に対して「郵政大臣の時から、俺は……」と田中が恫喝することもなかっただろう。だが、田中のやり方は違っていた。再び「回顧録」を引こう。

「土曜と日曜の二日間に開局申請者全部を郵政本省大臣室に呼び出すように指示しておいたので、全国各地からえらい人がいっぱい集まった。全国文化人大会のような観があった。各申請者には一五分か二〇分ずつ折衝に当たった。

『申請者はたくさんおられるが、みなさん一緒になって新会社をつくって欲しい。新会社の代表者は――申請代表の某氏とする。A申請人の持ち株は―%、B申請人は―%、C申請人は―%とする。AとBからは代表権を持つ取締役各一名、CとDは取締役各一名、E代表は監査役一名』という形式で懇談というより郵政大臣案の申し渡しである」

 本人の回顧録だから、信用しにくい点もある。これではたった2日ですべてが済んでしまったようにも受け取れる。実際には、こういう日が何日も、何週間も続いたようだ。

 だが、懇談よりも大臣案申し渡しというのはその通りだった。田中は陳情を受ける際、イエス(実現可)なら赤ペンで、ノー(不可能)なら青ペンでメモしたという。このときも、どの会社とどの会社を合併させ、持ち株比率はいくらずつで、取締役構成はどうと、赤と青の鉛筆を使って自ら書き込み、処理していったのである。

 放送局の免許が以上のような手続きをへて認可に至るというのは、非常におかしい。郵政大臣の恣意的な裁量――勝手な判断によって免許が下されているからだ。これでは、仮に大臣がある企業から特別な献金(別な言葉でいえば賄賂)を受け、その企業に有利なように取り計らっても、誰にも文句がいえないではないか。しかも、「言論報道機関」である放送局の経営の根幹に至る問題にまで、子細に介入している。

 東京第六局(現メトロポリタンテレビ、MXTV)ができるというとき、郵政省放送行政局の局長が暴走し、新局の出資比率や役員構成、番組構成に口を出して批判されたことは記憶に新しい。だが、田中の時代は大臣自らがおおっぴらに、社長はA社から出せ、B社の持ち株は何%だと一本化調整をやっていたのだ。こんな風にしてできあがった放送局が、たとえば放送法にいう「政治的公平」を貫けると思うほうがどうかしている、とすら思う。

 だが、回顧録を読めばわかるように、田中はこれを自分の手柄、自慢話として書いているのである。そして、申請者たちも、そういうものなのだとありがたく納得して、田中の裁量を受け入れた。

 なぜ申請者たちが納得したかといえば、第1に、田中が無理やりにでも一本化しなければ大量免許は下りないからである。第2に、強引な申し渡しに見える田中角栄の調整は、「実は誰もが恩を感じるような配慮がなされている」(立命館大学教授・松田浩)からである。つまり、それは「利害調整」という名の「利益誘導」だった。

 田中角栄は、若いころはもちろん闇将軍となってからも、日に100件、およそ300人の陳情をさばいていたという。陳情について田中はある新聞でこう語っている。

「……必ず返事を出すんだ。結果が相手の希望通りでなくても『聞いてくれたんだ』となる。大切なことだよ」

 角栄は、各社の望みをよく聞き、その実現に努めた。全員の希望通りにならなくても、ここはA社に泣いてもらい、B社にも我慢してもらい……ときて、最後のE社を決して切り捨てることがない。「羊羮《ようかん》をちょんちょんと切って、いちばん小さい子に、いちばんでっかい羊羮をあげる。これが自由主義経済」(田中角栄)だからだ。

 こうしてA社からE社まで、誰もが角栄大臣のお陰で放送局の免許がもらえたと思う。田中の生き方の基本で、ギブ&テイクのギブをまず与えるのである。

 100万円の金策を頼まれたとき、田中は黙って300万円を渡し、「(1)100万で借金を返せ、(2)100万で家族や従業員にうまいものを食わせよ、(3)100万は貯金しておけ、以上返却は一切無用」とのメモを入れたという。こうされれば、誰でも角栄のことを一生忘れまい。300万円を党の金庫から取ろうが、土地転がしで稼ごうが、企業から調達しようが関係ない。

 免許も同じで、それは大臣の所有物でも何でもなく国民の財産なのだが、もらった人は角栄のことを一生忘れないというわけだ。

テレビと新聞に恩を売る

  さて、34社の一括予備免許は57年10月に下りた。就任から免許までの4か月で、角栄は一貫目ほど(4キロ弱)やせてしまった。だが、苦労した甲斐はあった。

 NET、フジなどと並んでこれら大量免許グループが58年13社、59年20社とぞくぞく開局する。受像機の普及も58〜59年ころから加速度的に進み、本格的なテレビ時代が開幕するのである。

 その種をまいた田中の放送界への「功績」は大きい。テレビが世話になった政治家の筆頭は間違いなく田中角栄である。

 大量免許の際、大阪の民放2局に免許が下りたのも田中の「功績」として忘れてはならないだろう。

 京阪神地区には、57年1月に電波監理審議会から出された答申に基づくチャンネルプランで、NHK教育局と民放準教育局の2局の新設が決定済みだった。そこに新大阪テレビ(後の読売テレビ)と新日本放送(後の毎日放送)へ免許を下ろせという自民党からの圧力がかかる。読売新聞社長だった正力松太郎と毎日(東京日日新聞)出身の川島正次郎が強硬に推したといわれる。

 田中郵政大臣は、浜田電波監理局長に頼み込んでチャンネルプランを修正させ、NHK教育局と民放2局に免許を下ろした。当時、「隠しチャンネル事件」として話題になった一件である。これで大阪には、59年3月までに4つの放送局が出そろった。福岡でも同じ時期に3つできた。

 こうして、東京と地方を結ぶ四系列のネットワーク化が準備されていった。四系列が東京キー系列というだけでなく、朝日、毎日、読売、産経の四大新聞系列を意味することはいうまでもない。田中角栄は、テレビに恩を売っただけではない。大量一括免許を下ろしたテレビを通じて、巨大新聞にも恩を売ったのである。この新聞―テレビ系列化は、田中が首相だった74年、いわゆる「腸捻転」の解消という大きな節目を迎えることになる。

 田中は、郵政大臣として免許をさばいた経験から、「郵政大臣は放送局の新設に関して強大な権限をもち、テレビに大きな影響力を行使できる。また、新聞がテレビへの進出と系列化に熱心なため、郵政大臣はテレビ(免許)を通じて新聞にまで大きな影響力を行使できる」と、気づいたのだ。

 田中角栄こそ、電波利権を左右できる郵政大臣というポストの重要性を初めて明確に自覚した政治家のひとりだった。だから田中は郵政大臣を田中派の指定席とした。郵政族に田中派議員が多いのもそのせいである。

 だが、以上の詳細は田中首相時代の事件として次号に回し、本号は大蔵大臣時代の田中角栄の事件に触れて終わりたい。

「大蔵大臣アワー」で番組私物化

  田中角栄は、62年7月から65年まで、第2次池田内閣と第1次佐藤内閣において大蔵大臣を務めた。オリンピックが開かれ、新幹線や名神高速が開通するなど、日本の高度成長が本格化した時代である。

 大蔵大臣だった田中角栄と放送の関係でまず思い出されるのは「大蔵大臣アワー」。65年2月18日から日本テレビで始まった番組(毎週木曜夜11時から30分)で、タイトルがスバリ示しているように、レギュラーは田中角栄その人であった。

 これは政府広報番組ではなく、宇部興産、八幡製鉄、富士製鉄というスポンサーがついた番組で、局のねらいは「政治と台所を結びつける」ことにあったらしい。だが、自民党や角栄にとってみれば、絶好のPR番組。さすがに国会でも問題となり、半年分のスポンサーが決まっていたところを13回で打ち切りとなった。

 なお、同番組は田中角栄の地元、新潟放送から毎週木曜6時と金曜午後の2回にわたって放映されていた。こちらはスポンサーなし。これは地元放送局による、田中角栄の、田中角栄のための番組であった。

 椿発言の28年も前に、「政治とテレビ」の問題は存在していたのである。しかも当時の郵政省は、「法的には問題ない」「政治的公平は編集全体を貫いて考えられるべきだ」(この番組だけを取り上げて公平でないとはいえないとの意味)と、日本テレビや政府側の意向に沿った見解を打ち出している。

 こんなことが平然と行われた優雅な時代であったともいえる。しかし、その主人公が田中角栄だったことは単なる偶然ではない。それは、「田中角栄によるマスコミ支配」を象徴する事件のひとつであった。(次号に続く)