メディアとつきあうツール  更新:2003-07-09
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

放送局のみなさん、
いいかげんにやめません?
21世紀に郵政天下りなど
通用しない!!

≪リード≫
「天下り」は長い歴史に培《つちか》われた日本の伝統行事なのか。放送界でもまた、免許に始まりネットワーク構築、BS参入などをエサに、多くの役人が高禄《こうろく》を食《は》む。トップに郵政官僚OBを戴く局も少なくない。放送の歴史は、天下りによって歪められた歴史であった。しかし、そんなものが生き残ることのできた時代は、いままさに終わろうとしている。覚醒せよ、放送局!! (「GALAC」2000年03月号 特集「郵政天下り」)

付録1 一目でわかる郵政「出世街道」 ←HEAVY!!
付録2 一目でわかる郵政「退職三昧」 ←HEAVY!!
(図版作成協力/小林潤一郎)

千数百年で染みついた
天下りのイメージ

  於其嶋天降坐而見立天之御柱見立八尋殿。

(その島に天降《あまくだ》りまして、天《あめ》の御柱《みはしら》を見立て、八尋殿《やひろどの》を見立てたまひき)

 「古事記」(712年)冒頭の一節である。 この後、伊邪那岐命《イザナキノミコト》が伊邪那美命《イザナミノミコト》に「君の体はどうなってる?」と聞き、「アタシの体、完璧だけど成り合ってないトコ一つあるわ」「オレの体も、完璧だけど成り余ってるトコ一つあるゾ。だから余ってるトコを合ってないトコにふさいで、国を生もうと思う。どう?」「それって最高」となる。

 天降り=天下りという言葉は、そんなにも古いのだ。

 言葉やそれにまつわるイメージは、その言葉をもつ社会の起源や構造、深層心理を反映することが少なくない。

 たとえば「公」《おおやけ》の原義は「大きな家」である。一番デカい家は御殿だから、公は奈良時代には天皇を指し、後に朝廷、政府、国、官の意味になった。しかし、英米語の「public」はラテン語の「populus」(人民)やギリシャ語の「pallo」(ざわめく)と同系統の言葉。つまり、日本の公の起源は天皇、西洋の公の起源は民衆と、まるで逆だったりする。

 古事記は神の天降りを記すが、すでに万葉集に天人《あめびと》を天上界の人でなく「天皇のそばに住む人」(都の人)の意味で使った例がある。平安期には昇殿を許された殿上人《てんじょうびと》を「くものうえびと」ともいった。だから、天皇周辺のエライ人が田舎に下るのを戯《たわむ》れに「天下り」と口にした最初の日本人は、1000年以上前の人に違いない。

 もちろん、いま天下りといえば「公務員が民間会社などの重要な地位に横すべりすること」を意味する。それを拒否できないのは「日本人のお上意識が強いから」などともいう。

 実際、「天下り」なる言葉が醸《かも》し出す「雲の上のエライ人」のイメージは、ざっと千何百年かの間、日本人につきまとってきた。この国が天下りと切っても切れない関係にあるのも無理はない。

官主導だった日本近代化
百年で天下り風土を醸成

  天下りの呪縛《じゅばく》は、近代国家としての日本の歩みを振り返ると一層はっきりする。

 第一の開国――明治維新は「御一新」《ごいっしん》と敬って呼ばれた”上からの改革”で、新政府はまず太政官《だいじょうかん》制、ついで中央集権的な内閣―官僚制度を整え、殖産興業・富国強兵策を推進した。

 政商はいても民間産業はまだ育っていなかったから、政府は旧幕諸藩の造船所や鉱山を接収して官営化し、各地に模範工場をつくった。1880年代以降これを民間に払い下げたのが、三井、三菱、古河、浅野といった財閥の基礎。新日鐵も、もとは1901年にできた官営軍需工場の八幡製鉄所。鉄道も郵便も、明治のおよそ産業らしいものはすべて官営で始まった。

 もともと国のものなのだから、そこに官僚が天下るのは当然の話である。

 しかも、明治から先の敗戦までの官僚は、1887年の官吏服務規律が示すように「天皇陛下及《オヨビ》天皇陛下ノ政府ニ対シ忠順勤勉ヲ主ト」する名実ともに「天皇の官吏」だった。その任用は天皇の官制大権に基づき勅令によって規律され、官僚は文字どおり「お上」の代行者として君臨した。官尊民卑の風潮、官吏の国民に対する傲慢不遜《ごうまんふそん》な態度は、100年の伝統なのだ。

 第二の開国――第二次世界大戦に日本が負けると、神聖にして不可侵の絶対君主・天皇は、日本国および日本国民の象徴なる地位に退き、天皇の官吏も国民全体の奉仕者、つまり公僕とされた(はずであった)。

 もっとも、御一新と同様これまた”上 からの改革”、つまりGHQ(連合軍総司令部)による改革だ。GHQは陸軍省、海軍省、内務省特高警察を廃止させたものの、あとは法律廃止と役人入れ替え(公職追放)を行っただけで、官僚制度そのものは手つけずに残した。占領政策推進のために温存し、利用したのである。

 こうして戦後の復興においても、中央官庁が法整備し、財源を握って補助金をつけ、民間を育てるシステムが機能し続けた。官は膨大な許認可権限をもち、行政指導という名の民間への介入も広く行われた。

 そんな官僚との関係を企業がうまく取り結ぶためには、天下り官僚を受け入れてコネをつくるのが手っとり早い。

 企業は、新しい政策の方向を探る、カネのばらまき先を決める箇所付け情報を入手する、補助金や優遇税制の適用を受ける、許認可や行政指導に有利な取り扱いを求める、大口発注者である官庁から注文を取る、何かトラブルが起こったときのパイプを確保しておくなど、さまざまなメリットを得るために、積極的に天下りを受け入れようとする。

 一方、官僚の側には、天下りを一方的に押しつけなければならない事情がある。

 日本の官僚制度では、公務員試験採用1種(旧・上級甲)合格の高級公務員をキャリアと呼び、幹部要員として行政事務に習熟するよう、極めて速いスピードで要職を転々と異動・昇進させていく。これは役所のトップを選抜する過程でもあり、最後まで残れない者は50歳前後で退職していく「若年定年制」なのだ。すると、辞める人間の再就職が極めて大きな問題となる。

 また、役所は多数の職員を抱え、給与制度が硬直的だから、幹部職員になればなるほど仕事や権能の割に給与が安い。

 これも明治の官吏服務規律に書いてあることだが、家族の商業従事の禁止、浪費や分不相応の負債の禁止など、官僚は厳格な倫理規制を受け、清貧に甘んじて国家のために義務を遂行するという伝統があった。これを「吏道」《りどう》と呼ぶそうで、(清廉に役所勤めをした場合は)辞めるとき、あまり大きな家には住んでいないし、財産も少ない。そこで再就職がてらカネを取り戻そうという発想になる。

 さらに、日本の官僚制に特有な家族主義(大蔵一家のような)、東大偏重の学閥主義、厳格な先輩後輩関係、役所序列の私生活領域への侵入といったものが、中央官庁キャリアの退職組をその官庁が面倒見るという、極めて日本的でタチの悪い天下り慣行を生み出した。

 官僚が主導した近代化は、100年かけて今日の天下り風土を醸成《じょうせい》する道程《どうてい》でもあったのだ。

ネットワーク化を進める局に
放送免許を切り札に天下る

 以上は、およそどの中央官庁にもあてはまる一般論である。これを踏まえて郵政省と放送界の天下り関係を見よう。

 郵政省の放送局――とりわけNHK以外の民間放送局に対する支配力・影響力の源泉は、いわずと知れた放送免許である。

 日本初の民放テレビは1953年に開局した日本テレビで、その後、ラジオ東京(現・TBS)はじめ大都市圏心に新局がいくつか誕生した。この間、大量のテレビ免許申請が殺到。郵政省の免許行政は調整しきれずに停滞する。

 そこに登場したのが弱冠《じゃっかん》39歳で郵政大臣となった田中角栄である。田中は57年秋、全国43局(NHK含む)に大量免許を下ろし、58〜59年以降のVHF一県一置局時代のグランドデザインを描く。

 民放連の「民間放送十年史」(1961年)には各社が史録を寄せている。開局までの経緯は、免許を握る郵政省の動きと、申請者の悲喜こもごもの対応を描いてとても興味深い。

 「この四社競願に対し……郵政大臣から四社統合を条件として……準教育放送の予備免許が下りた。そこで四社は直ちに競願から合体へと態勢をきりかえ……」

 「連日、県民代表として政界、財界、文化人の上京陳情につぐ陳情がつづけられたが、その都度、一喜一憂の日がつづいた」

 「再申請に当たって、郵政当局より免許の前提条件として三社合同を示唆してきた」

 「……三つのチャンネルのうち二つを、教育的効果を目的とする放送に振り向けるという線が、最終的に打ち出されるにいたった。……郵政当局のあっせんを直接のきっかけとして、教育、教養を主とするテレビ局を新たに設立することとなった」

 「これらの申請に対し、郵政省は自主的な協調態勢が生まれることを期待していたが、翌年九月にいたってようやくその機運が醸成せられ、三社が平和裡《り》に合同」

 「電波法制定後はじめての申請拒否に対する異議申し立て書を提出した。その後、新たに任に就いた田中郵政相は近畿エリアへの割り当てを、さらに二波増波することとし…」

 「……両社は、大同団結して一つのテレビ局開設へふみ切ったのであった。もちろん、それまでに郵政当局から、数次にわたって合同の勧誘が行われてきた結果でもある」

 放送局側にいわせるとこんな具合だが、田中角栄は赤鉛筆を手に申請書と首っ引きで、村上・平井郵政相時代に郵政省ができなかった一本化を、ホントに自分でやったのである。

 「ようかんを切って一番弱い奴に一番大きいのをやる」のが田中角栄の民主主義だから、調整で免許を得ただれもが田中に恩義を感じる。これが後に田中が首相まで上り詰めたとき、軽井沢に番記者を集めて語った「君らの上司のことはすべて知っている。怖いのは君らだけだ」という言葉に結びつく。

 その田中郵政相から、電波監理局サイドの大量免許反対について意見を求められ、「大臣の決定は即ちこれ法律です」と名セリフを吐いた大臣官房文書課長が浅野賢澄。「それは大臣のご決心次第です」と答えた事務次官が小野吉郎だった。

 その後、テレビは68年から70年のUHF局の大量免許によるU・F混在期、一県複数置局時代を迎える。熱心なU開放論者の浅野は67〜69年に事務次官を務めた。71年にはフジテレビに天下って副社長、社長、会長を歴任し、フジのU局ネットワーク構築に極めて大きな力を果したのである。

 浅野賢澄は、免許という郵政省の放送局に対する最大の切り札をもって天下り、それを最大限に活用したもっとも典型的、象徴的な官僚ということができる。この天下り官僚を、2期にわたり民放連会長として遇した民放業界の姿勢も忘れるべきではない。

 浅野のような大物は中央に天下ったが、新U局にも郵政官僚が続々天下った。69〜70年にはエフエム東京など最初のFM局数社が誕生し、82年以降もFM開局が相次ぐが、これら新FM局にも天下りがつきものだった。露骨なところでは、曽山克巳という事務次官、成川富彦という放送行政局長が相次いでトップを務めるエフエムジャパンがある。天下りのトップは、総務部長あたりに郵政省時代の部下を引っ張るのが常で、同社もこの例に漏れない。

 80年代に入ると、郵政省は一県三局化、さらに四局化を進め、各系列は排他的なネットワーク化を推進する。フジ以外にもう一つ、免許がらみの露骨な天下りを挙げれば、ネット化に出遅れたテレビ東京が典型的な例だろう。

 このケースでは、テレビ東京(東京12チャンネル時代の74年に電気通信監理官だった浅見喜作を取締役に迎えている)やテレビ大阪など自局だけではなく、中川順社長が民放連会長時代の89年、民放連に天下り官僚・松澤經人を受け入れるという強引な手法が取られた。

 なお、放送法に「あまねく普及」が掲げられるNHKは、テレビが映る場所では必ず映る。つまり、ある地域で免許をNHKに出さず民放に出すということは、ありえない。だからNHKに対する影響力・支配力の源泉は、国会で予算を通す政治家に生じる。免許を握る郵政省にはそのサポート役としての影響力しかない。

 NHKには、59年に田中角栄から事務次官の小野吉郎が送り込まれ(後NHK会長となるも、公用車で田中の保釈見舞いに行き失脚)、88年に金丸信から同じく小山森也(シマゲジの抵抗で副会長止まり)が送り込まれている。田中も金丸も裏金で逮捕された政治家だったことを、この際、思い出すべきだろう。

多メディア・多チャンネル
すなわち「多・天下り」

 1984年、郵政省は電波監理局を廃し、通信政策局、電気通信局、放送行政局の「テレコム三局」体制をつくった。85年には日本電電公社が民営化されNTTが誕生する。そして80年代も半ばをすぎると、それ以前の地上波テレビ新局――放送免許がらみに加えて、新しい天下りのパターンが生まれる。

 そのキーワードは「ニューメディア」または「多メディア・多チャンネル化」だ。

 具体的には、84年に始まったキャプテン、84年設立の日本衛星放送(JSB=現WOWOW)、同じころ世界規格化を目指したMUSE方式(アナログ)ハイビジョン、86年以降に開局が相次いだ都市型CATV、87年にNHKが24時間放送をスタートしたBS、それに続くBS−4段階のチャンネル取りなどである。

 ニューメディアには、レールが敷かれておらず、ルールもない。そこで監督官庁の郵政省がデザインにかかるが、メディアを伸ばすにはどうしたらよいかなどまったく理解できない官僚だから、まず規制でがんじがらめに縛ってしまう。BS、CS、CATV、文字放送など全部そうだ。(「放送批評」1993年1〜2月号「郵政省失政録」参照)

 そこで規制の円滑な運用や、望ましい行政指導を求めて、新会社は郵政天下りを受け入れることになる。とりわけCATV各社への天下りが少なくない。

 東京キー局でも87年にフジが郵務局長だった富田徹郎を、テレビ東京が大臣官房首席監察官だった加藤祐策を迎える。90年にはTBSが郵務局長だった田代功を、91年にはテレビ朝日が大臣官房首席監察官だった小宮和夫を迎え入れる。

 これらは、国際割り当ての8チャンネルを全部使うとされたBS−4に、系列の指定席を確保するための天下り人事だった。

 日本初の民間衛星放送会社JSB(WOWOW)に至っては、郵政省が「うちの会社」と呼んで自ら一本化調整を行い、初代社長に事務次官だった溝呂木繁を、二代目社長に放送行政局長だった徳田修造を送り込んだ。この会社が、無責任な放漫経営で倒産寸前までいったことはよく知られる。

 東京第六局、つまり現在の東京メトロポリタンテレビ(MXTV)も、JSBと似た経緯をたどった。この会社の最初の資本構成は、一本化調整というより郵政省が勝手に決めた一本化命令で、それはお粗末な、机上の論理の押し付けであった。そこには田中角栄の「ようかん民主主義」にあったセンスは片鱗《へんりん》もない。同時に電波管理局長だった鴨光一郎が天下ったが、この会社の無責任な放漫経営もまた、よく知られる。

 以上のように歴史をたどると、テレビができた当初は、局自体が貧弱で旨味がないうえに新聞や地元財界の局員囲い込みがきつく郵政官僚の天下りは少なかった。しかし、複数置局、U局新設、FM局新設などの進展にともない天下り先はどんどん増えていった。さらに地上波以外の多メディア化時代に入ると、いち早くネット化を進めそれほど天下り官僚の必要性を感じなかった、あるいは必要なときは直接政治家の手を借りていたキー局でも、天下りを受け入れるようになったことが、よくわかる。

 郵政省に限らないが、官僚は一度天下り先を確保するとそれを指定席として、自らの人事制度に組み入れ、1人が退任しても次の人物を送り込むように要求してくる。つまり、天下りが放送局の中で固定化してしまう。

 そのことを明白に示したのが、1999年7月から8月にかけて、東京キー局四局が受け入れた天下りである。日本テレビは首席監察官(84年に放送行政局技術課長)だった大井田清、TBSは財務部長だった岡田吉宏(84年に同業務課長)、フジテレビは技術総括審議官(86年に同技術課長)だった岡井元、テレビ朝日は東京郵政局長だった杉山洋之。なお、テレビ東京は郵務局長だった上野寿隆を94年に迎えており、今回の天下りシリーズからは漏れた。

 これら天下り受け入れ交渉はもちろん各社個別に行われたが、要請した郵政省側の出所は一つ。つまりOB就職を画策する大臣官房(事務次官――官房長――秘書課長のライン)だ。郵政省の天下り人事サイクルによってキー局(ついに日テレを含む全系列!)の役員級1人が決まるという愚劣な慣行が、1999年から始まったわけである。そのキーワードが「デジタル化」であることはいうまでもない。

第三の開国は民主導
もう官僚はいらない

 さて、私たちは今なにを語るべきだろう。

 放送局は「言論報道機関」であり、限られた公共の財産である電波を使うから、新聞や雑誌以上に公正さが求められる。そのテレビやラジオが、郵政省なる特定の官庁と、相手の要請による天下り受け入れという特別な関係を結ぶことは許されない、と主張すべきだろうか。

 あるいは、99年にキー局入りした天下り郵政官僚の経歴を見ると、十数年前に放送行政局にあって現場の第一線課長を務めていた人物が多い。とくに相次いで技術課長を務めた2人をキー局が引き取ったことは、「現職の郵政省放送行政局技術課長に、十数年後以降、1年につき数千万円分の賄賂(ワイロ)を提供すると約束した」のとほとんど同じであって、国家公務員と放送局の腐敗・退廃ここに極まれりと、断固糾弾《きゅうだん》すべきだろうか。

 また、国家公務員法は第103条に「職員は、離職後二年間は、営利企業の地位で、その離職前五年間に在職していた人事院規則で定める国の機関と密接な関係にあるものにつくことを承諾しまたはついてはならない」と私企業からの隔離をうたっている。

 だが、離職後2年や離職前5年という期間は郵政省に天下り待機ポスト(顧問とか審議官とか)を設ける、途中に営利企業ではない郵政傘下の財団法人や社団法人をはさむ、辞令の日付を操作するなど、どうにでもごまかせる。つまり、国家公務員法と人事院規則はまったくのザル法で機能していない、というべきだろうか。 実は、筆者は以上のようなことを「放送レポート」(1999年11/12月号)その他に書いたが、どうもいまさらそんなことをいい募っても始まらない気がしている。

 放送局の首脳は、郵政省のご機嫌がいいなら天下り受け入れの人件費数千万円など安いものと思っており、社員の多くも仕方ない、あるいはどうでもいいと思っている。局が上から下までそう思い込んでいれば、状況は何一つ変わらず、いっても詮ないと思うのだ。だから、ちょっといい方を変えたい。

 まずは、小誌20ページからの天下りリスト(あとからの注 放送局に天下った郵政官僚270人分の実名リスト。郵政省での主な役職と、放送局での役職を、12ページにわたってえんえん記載したもの。郵政省については本邦マスコミ初のリストで、GALAC以外の放送関係誌・新聞・テレビでは絶対に不可能な記事である。この号はほとんど在庫切れ寸前)をざっと眺めてほしい。直近10年くらいの荒っぽい表だから漏れも多いが、それでもなかなか大層なものである。そして、これを日本の放送というもの、官僚というもの、あるいは社会そのものの、歴史や業績や特殊性を反映するリストとして素直に認めよう。

 そのうえでなお問うべきは、私たちの社会がいま直面している課題は、これまでの歴史と同じ歩み方で解決できるだろうかということだ。

 現在を第三の開国という人がある。第一、第二の開国と同様に、それは「グローバル化」や「IT革命」と呼ばれる外圧から始まった。過去には官僚が主導して立ち向かったが、同じ手法が今回も通用するのか。

 筆者は、それはもうダメだと思う。今回の外圧は情報を媒介として人や企業をネットワークし、国の垣根を低く、互いの距離を無限に短くする。ピラミッド型社会をネットワーク型社会に変える契機を含む「草の根」外圧だから、ピラミッド社会の住人に頼むことなど何もない。

 インターネットも携帯電話も、電気通信会社に天下り官僚が多いから普及したのではない。あれほど多いにもかかわらず普及したのだ。

 放送の次代を担う若い人びとは、そのことだけは忘れずに、天下り100年の呪縛から抜け出すチャンスを粘り強く窺《うかが》ってもらいたい。