メディアとつきあうツール  更新:2009-02-16
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

あれこれ疑って、My Way
ジャーナリスト 坂本 衛(昭和52年卒業)

 私は1971年(昭和46年)に麻布学園(麻布中学校。麻布高校とくっついているので、中高全体を指すときはこう呼ぶ)に入学しました。

 後から振り返れば、前年までのささやかな生徒たちの闘争が、学園に乗り込んできた校長代行・山内一郎というヤツの恐怖支配によって、表面だけは静まっていたのです。しかし、ついこの間まで小学校6年生の私たちに、そんなのわかるわけない。代行は新入生を懐柔しようと中1の1〜6組の全担任を「代行派」で押さえた。私は遭遇したことがないが、よそのクラスの中1が放課後の掃除中に、代行がキャラメルだか何だかを配ったという噂も聞いた。

 この年、毎年春に行われていた文化祭が秋に移されます。その文化祭で、静かに見えたマグマが爆発し、「麻布紛争」が勃発《ぼっぱつ》しました。文化祭に竹やりが乱入した翌朝の毎日新聞を開いて驚いたのなんのって、社会面(三面)の上半分が全部、自分の学校の話だった!(笑)

 当時、麻布にPTAなんてものがあった記憶は皆無ですが、いまはおっ母さんたちがPTAで大活躍とか。なにしろ息子が小学校時代にPTA会長や副会長だった人が役員や係に就くので、なかなかすごいらしい。そのPTAから、後輩むけに自分の来し方がどうだったかを書けというご依頼があり、寄稿したのが以下の文章です。ご笑覧ください。

(「麻布学園PTA会報」第34号=2007年03月号 特集「先輩たちのMy Way」)

≪注≫
初出時に見出しはありませんが、サイトでは読みにくそうですから、坂本が勝手に小見出しをつけておきました。あしからず

十代後半で何がわかるものか

 麻布PTAのお母さま方からは、「先輩たちのMy Way」というテーマで、在校生の進路選択の参考になりそうなことを、現在の自分の仕事やその道に進んだ経緯に触れながら書け、というご依頼である。

 しかし、最初に断っておくが、高三やそれ以下の年齢で、自分の進路だの社会的な適性だのについて正確にわかろうというのは、そもそも無理があると私は思う。

 一九七一年に麻布に入った我が身を振り返っても、高校のころ、自分は文系で書くこと読むことが得意である(逆に話すことやパフォーマンスするのは得意でない)のはわかっており、まあ格好よくいえば、法や宗教の初源、哲学、社会思想といった分野に興味があった。

 だが、それと自分が生きていくことの関連づけは、まるでできていなかった。まして、近い将来どんな職業につくかというイメージなどほとんど皆無。せいぜいサラリーマンにはならないだろう、書くことに関係した何かをやるのかな、と思っていた程度の話だ。

 これは早稲田大学に進んでも似たようなものだった。二十代前半だってわからないのだから、十代後半で何がわかるものか、という感じがある。お母さま方には叱られるかもしれないが、いまはそんなつまらんことを考えず、本を読み映画を見て旅でもすれば、と思う。

 むろん麻布の諸君は、それなりの理解力と判断力を備えた賢明な若者たちだろうから、まさかこの小文を読んで自分もこんな道を歩こうと思うはずもなかろう。ただ念のため、ここに書くことは若い頃に自分が何になるなんてさっぱりわからなかった者のいうことだから、そのつもりで読んでいただきたい。

自分でも、本業が何だかよくわからない

 そこで、私がいま何を仕事にしているか、である。

 税務署へ提出する書類の職業欄には、私は「文筆業」と書く。雑文書きといってもライターといってもいい。新聞雑誌やテレビに出る肩書きは「ジャーナリスト」が多い。私は「放送批評」「GALAC」(ぎゃらく)という放送専門誌の編集長を八年ほどやり、この分野については専門家の端くれといっても間違いではないので、放送についてコメントしたときは「放送に詳しいジャーナリストと書いてくれ」と頼む。

 もっとも、このジャーナリストとは何かが、実はハッキリしないのだ。一般にジャーナリズムは、ラテン語で日々の刊行物を指す「ディウルナ(diurna)」を語源とし、「日々起こる社会的な事件や問題について、その様相や本質をいち早く公衆に伝える作業」をいうとされる。この作業に携わる表現媒体もジャーナリズムと呼ばれ、世間では、これに属する新聞記者、雑誌記者、放送記者などがジャーナリストと見なされている。

 ところが私は、二十代後半に二年ほど雑誌の仕事を請け負う編集プロダクションに属したことがあるほかは、ずっとフリーランスであり、必ずしも日々の表現作業に従事しているわけではない。「My Way」のきっかけは、大学時代に田原総一朗という人と出会って手伝いを始めたことなのだが、ある日これで食おうとか一生の仕事にしようと決断したわけでもない。なんとなくダラダラと、その道にはまっていった感じなのだ。

 これは私に限らないが、そもそもフリーライターだのルポライターだのという人びとで、必死に勉強したり努力したりしてこの道に入った人を、私は一人も知らない。雑誌の契約記者も同じだ。とりわけ全共闘世代は全員がそうで、みんな「ほかにやることがないから」「勧める人があってなんとなく」「アルバイト」といった理由で取材や原稿書きを始めている。

 その後、田原総一朗とはつかず離れず仕事を続け、現在は田原が責任編集長を務める『オフレコ!』(アスコム刊)という雑誌の副編集長もやっている。これはジャーナリスト的な仕事の部分が大きいが、何割かは編集者のような作業。もちろん、自分で企画した本も書けば、依頼された雑誌の記事も書く。相変わらずフリーだ。自分でも、本業が何だかよくわからない。

「ジャーナリスト」の仕事とは?

 ただし、こと放送分野に限れば、たとえば日本では、二〇一一年七月までに現在の地上アナログ放送(いまみんなが見ているテレビ)が停止され、地上デジタル放送に全面的に移行するとされている。国策によれば、現在一億台以上あるテレビが、あと五年で粗大ゴミになる。だが、この問題を批判的に報じたり論評したりするジャーナリストは、日本にほとんど存在しない。

 一方、私は地上デジタル放送が始まる前から、現行計画は予定通りにいかず、その意味で失敗すると主張している。書いた関連記事もすべて自分のホームページで公開している。私にいわせれば、多くの新聞記者や放送記者は、役所や放送局やメーカーの楽観的な見通しを無責任に垂れ流しているだけだ。すると彼らはジャーナリストと呼べる存在だろうかと思わざるをえない。この分野では、本業が何だかわからない私のほうが、よほどジャーナリズム本来の仕事をしているという自負がある。

 こう書くと、お世辞半分で「なるほど。坂本さんの主張のほうが真実の報道なんですね」などといってくださる方もいるわけだが、これがまた違う。私は、真実なんて全能の神様以外の誰もつかむことはできない、と考えているからだ。

 私は日本大学芸術学部放送学科の講師もしているが、学生たちからよく「真実を伝えるのが報道だ」「客観報道が大事だ」という言葉を聞く。そのたびに「真実って何だ?」「客観報道なんてものが、どこにあるの?」と問い返す。問いつめていけば、結局ジャーナリストにできるのは、真実らしいもののまわりをグルグルと回って「自分にはこう見えるし、自分はこう思う」と伝えることだけだと、大方の者は納得する。ジャーナリストの仕事とは、「もし真実なるものがあるとすれば、たぶんこれがいちばん近いだろうと思われる自分なりの見方を、人びとに伝えること」にすぎない。

つまり、大方の記者より疑り深い

 ところで麻布の諸君は、日々テレビを見たり新聞を読んだりして、世の中にはずいぶんおかしなことが起こっているものだと思っているに違いない。同時に、なぜこのおかしさを新聞やテレビはちゃんと伝えないのだろうと、疑問に感じることが少なくないはずだ。

 たとえば、安倍新政権ができ、教育再生に本腰を入れると報道される。具体的には、教育基本法の改正、学校評価制や教員免許更新制の導入、さらにはバウチャー制度(自治体が教育クーポン券を配り、家庭が通学する学校にそれを出すことで、公立校での競争原理や選択制を進める仕組み)や大学の九月入学化を目指すという。

 だが、こうした制度の導入が学校のかかえる問題、たとえば指導力不足教員の問題、不登校やいじめ、キレる子どもの問題などの解決になぜつながるのか、私には理解しがたい。むしろ全然関係ない話ばかりだと思うが、そのことを新聞やテレビはあまり伝えない。新聞テレビに代表されるマスメディアは、政府や企業の発表を右から左にそのまま流し、突っ込んだ批判をしないことが多い。これを「発表ジャーナリズム」と呼び、閉鎖的な記者クラブ制度と並んで日本のジャーナリズムの大きな弱点と見る人は、私を含めて少なくない。

 私は、記者会見や記者発表があれば、まず、これを疑ってかかる。わざわざ会見を開いて何か発表しようとする人や団体は、自分たちにできるだけ都合のよいように伝えるのが当たり前だからだ。だから、発表はほどほどに聞きおき、意見が対立する人や団体にも話を聞きにいく。そんな作業を通じて、発表の裏にある意図を探り、そのうえで報じる。

 つまり私は、大方の記者より疑り深いのだ。ジャーナリストという仕事にもっとも必要な資質の一つはしつこく疑うことだ、とも考えている。昔「すべてを疑え」といった偉い哲学者があった。そこで私は自分のホームページに「すべてを疑え!! MAMO's Site」というタイトルを付け、なるべく毎日「それは本当か?」「違うんじゃないの?」「こんな見方も必要では」と書いている。

なぜ、そんな疑り深い人間が生まれたか?

 では、なぜ、そんな疑り深い人間が生まれたか。これには生まれつきの資質もあるだろうが、ほかならぬ麻布学園のお陰が小さくないと、私は思っている。

 私が中一のとき、かの麻布紛争が勃発し、秋の文化祭から一月半ほど学校が閉鎖された。工場のストライキの様子は映像で見たことがあったが、学校でも本当に椅子や机を積み上げバリケードを作ってロックアウトするんだと、たいへん勉強になった。

 けれども、もっとも勉強になったのは、実に個性的な麻布の教員たちが、それぞれ自分の信じる道を行き──言い換えれば、革マル、ブント、日共、社会党左派、日和見、保守、心情右翼、体育会=ガードマン系など、なんでもござれのセクトに割れて罵《ののし》り合い、挙げ句の果てに元旅館経営者で議員秘書あがりの校長代行が新校舎建設資金横領で逮捕、投獄されたことである。

 なにしろ中一で入学したとき、学内でいちばんエラいとされていた校長代行(校長はいなかった)が、学園百年史上で最悪最低の詐欺師とわかったのだ。いまでもお付き合いさせていただいている中一の四の私の担任、愛すべき祐康さん(近藤祐康)も代行派だったのである。

 ははあ、校長なんてヤツも牢屋に入るんだ、信頼する恩師も詐欺師に騙されることがあるわけだと、私は思った。紛争を伝える新聞がウソと誇張に溢れていたことも印象に残っている。当時、麻布が教えてくれたことを一言でいえば、やっぱり「すべてを疑え」だと、いわざるをえない。こんな大事なことは、どこの中学高校でも教えてはくれない。麻布の先生方と、この学校に行けと勧めた両親に、私は実に感謝しているのだ。

 「My Way」といっても、結局は自分と誰か、あるいは何かとの出会いである、そして、その多くはたまさかの出来事だ。ふとしたことで麻布の入試に落ちたかもしれないし、田原総一朗なんてオッサンと出会ったのも偶然にすぎないからだ。少なくとも私の場合は、「この道を自ら主体的に選んだ」とは言えそうにない。

 問題は、その偶然と遭遇したときどうするか。そのときのために、自分の中のさまざまな可能性を磨いておくことは極めて重要で、これは自分一人でできる。きっと麻布も手助けしてくれる。その先の道は、自分で選んでいるように見えても、それはたぶん社会や世間様に導かれるのだ、と私は思っている。

オマケ(サイト掲載時に追加)

 みなさんは、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』をお読みになったことがあるでしょうか。

 私は20年以上前、詩人の大岳美帆に岩波書店から出ていた3巻本をもらい(「坂もっちゃん、これ読んでみて」と彼女は言った)、以来、折に触れてページを繰《く》っています。この第1巻『影との戦い』に、高慢な若者で、己《おのれ》の力を過信し取り返しのつかない過ちを犯してしまったハイタカに、呼び出しの長《おさ》が語る言葉が出てきます。

「そなた、子どもの頃は、魔法使いに不可能なことなどないと思っておったろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが、事実はちがう。力を持ち、知識が豊かにひろがっていけばいくほど、その人間のたどるべき道は狭くなり、やがては何ひとつ選べるものはなくなって、ただ、しなければならないことだけをするようになるものなのだ。」

 上記の「魔法使い」は「自分」と読み替えるのが正解です。近ごろ私は、ますます呼び出しの長がいう通りになってきたと感じています。どうか若いうちは、さまざまな夢を描き、さまざまなことに思いっきりチャレンジしてください。本もいっぱい読んでください。ホント、人間50歳にもなると、読みたい本をゆっくりじっくり読んでいる時間がないんだからね。

 なお、本文末尾に「自分で選んでいるように見えても」と書いたとき、一瞬、呼び出しの長の言葉が頭をよぎったが、紙幅に限りがあったし、文末が冗長になりそうなのでやめたのでした。