メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

GALAC+ism(坂本衛執筆のGALAC巻頭言)1999年分

≪このページの目次≫

※目次の数字は執筆年月。「GALAC」は毎月6日に「翌月号」を発行しますので、掲載月号の「2か月前の20日前後」が執筆時点です。

※このページはスキャナによる読み取りでテキスト化しており、誤植が残っているかもしれません。ご容赦を。

西暦2000年――
新しいミレニアムを前にして

 1900年代が終わり、いよいよ人類未踏の2000年代が始まりました。

 正確にいえば新しい千年紀《ミレニアム》は2001年から始まる(でないと、第1のミレニアムが西暦0年=紀元前1年から始まることになり、ヘン)。100年ごとの節目を祝う大聖年は1300年にキリスト教会が始めた宗教祭。そもそもイエスが生まれたと思われた年から数え始めた西暦なる暦自体、イスラム暦や皇紀ニ千何百年とかいう暦と比べて、とくに正統性や信頼性があるわけではない。西洋の世界支配のせいでたまたま世界標準になっただけ。

 そう考えれば、何も私たちが大ハシャギでカウントダウンや、この2000年の総括などしなくてもよさそうな気もします。2000円札発行に至っては語呂合わせの悪乗りもいいところ。そんなことより、この国の二十一世紀初頭のお先真っ暗を決定的にした赤字国債発行の是非でも考えろ、といいたい。

 とはいえ、慣れ親しんだ数字の魔力とでもいうか、やはり世紀末には世も末と思わせる事件が起こる。新年の初詣のお賽銭は、今年はいつもよりちょっと奮発してもいいかって気になるのも確か。この節目に振り返って、放送の世界は.どうでしょうか。

 1999年に世紀末記念在庫一掃セールのごとく国会を通過した重要法案に何の意思表示もせず、初の臨界事故でも寝ていた日本のテレビ報道を、私は世も末の瀕死の状態にあると思います。テレビの娯楽部門は大したものだと感じますが、前号のギャラクシー賞選考記録にあるように、制作力低下は否定のしようもありません。

 BSデジタルどころではない。もっと大事なことを考えるべきだ、と私は思います。(「GALAC」2000年02月号)

バレーボールの100万円クイズは、
とてつもなくアコギなギャンブル!?

 フジテレビ系列が中継したW杯バレーボール女子は、ジャニーズグループ「嵐」効果もあって、子どもたちに大人気。日本戦ではテレゴングを使って賞金100万円の三択クイズをやり、これまた異常に過熱しました。

 テレゴングは、NTTコミュニケーションズが事業化している電話呼数カウントサービスで、1契約最大六つの電話番号にかかってくる電話本数を数えるもの。番号設定側(今回はフジ)が支払う手数料は15分ごとに5万7500円。通話料金はかけた人の負担で1通話10円かかります。

 すると、フジは賞金100万円と電話オペレーター(地域ごとのカットスルーをへてフジにつながる数千〜1万本に1本の電話を受ける)を用意し、NTTに1時間23万円を払う。1時間でかかる電話は約1000万本だから1億円がNTTに入る。10回やればNTTは売上高10億円という話になる。

 手持ちコンピュータを回すだけのNTTは濡れ手で粟ところではない大儲け。NTTからフジが1回につき2000〜3000万円キックバックを受けたとしても不思議ではない。

 一方、電話するのは、もしかしたらと100万円を夢描く無辜《むこ》の大衆、子どもたち。しかし、これはのべ1000万人が参加料10円を払って100万円を競うギャンブルで、実に期待値0.1円!! これに10円を投じるのは、ハズレだけ(10枚に1枚300円が当たるだけ)の宝くじ(期待値30円)を1枚3000円で買うのと同じこと。それほど人を馬鹿にした賭け事なのです。

 女性アナの「電話のかけ過ぎにご注意」の声は、番組途中に流れるサラ金CMの「借り過ぎにご注意」より悪質かもしれません。(「GALAC」2000年01月号)

≪付記≫
学校の先生方は、確率の授業のときに以上の話をして、「絶対に損だから、こんな馬鹿げたものに電話をしてはいけない」と子どもたちに教えるべきだと思います。私は、このバレーボール・クイズより、競馬・競輪・競艇・宝くじなどのほうが、よっぽど健全なギャンブルであると考えます。テレビと青少年の問題を議論したり、サッカーくじ導入の反対運動をするPTAが、なんでこれを放っておくのか。私には理解しがたい話です。

東京キー全局に郵政省から天下り
この腐敗・堕落を許すのか?

 この7〜8月、東京キー4局が、郵政省の要請によって天下り役人を受け入れました。

 日本テレビは、1984〜86年に郵政省放送行政局技術課長を務め、95年に退官後、NTT中央パーソナル通信網副社長だったO氏。

 TBSは、84年から放送行政局業務課長を務め、95年に退官後、(財)郵政弘済会長をへて日本テレコム常務だったまた別のO氏。

 フジテレビは、86年から87年まで郵政省放送行政局技術課長を務め、96年に退官後、放送大学理事だった3人めのO氏。

 テレビ朝日は、電気通信局総務課長などを務め、97年7月15日に退官後、(財)郵政弘済会長だったS氏。この人物だけ日付を書いたのは、入社が7月31日付だからです。

 国家公務員法は第103条で「職員は、離職後二年間は、営利企業の地位で、その離職前五年間に在職していた人事院規則で定める国の機関と密接な関係にあるものにつくことを承諾し又はついてはならない」とし、第109条で違反者を「一年以下の懲役又は三万円以下の罰金に処する」と定めています。

 役員待遇のS氏が、話があってわずか2週間で入社したとは考えにくく、私は国家公務員法違反の可能性が大きいと思います。ただし、人事院によれば「承諾」とは文書など正式なものだそうで、そんなものの日付なんてとうにもごまかせますけど。こうした天下りが、「私企業からの隔離」を定めた法律の精神に反していることだけは確かでしょう。

 これでテレビ東京を含め東京キー全局に、役員クラスの郵政天下りがそろいました。おめでとうとでもいいましょうか。この公務員の腐敗・堕落と局首脳の弱腰に、局員のみなさんはなぜ抗議の声を上げないのですか。(「GALAC」1999年12月号)

「絵になる現場」は自分で探すもの。
そのための調査力、取材力を!!

●テレビは、出来事の音声と映像を、電気信号に変換して伝送し、受像機側で復元するシステム。原理的には、旧来のメディア――新聞、雑誌、映画、ラジオなどのやることは、すべてできてしまいます。早い話、テレビは新聞紙を大映しにして家庭に送れるが、新聞はどう頑張っても映像を送れません。だから報道面でも、テレビはもっと世のため人のために力を発揮できるはず。

●ところがそうなっていないのは、テレビ自らが、テレビとそれ以外を分ける特質、つまり「映像」と「生」にこだわりすぎ、できるはずの多くのことを放棄しているからです。テレビ報道は、一見「絵にならない」面倒なニュースは最初から捨ててしまいます。事が起これば「現場」に飛び生中継さえすれば、それで報道を済ませた気になっています。

●私は「絵にならない」という主張のほとんどは、絵にする工夫や努力を怠った言い訳にすぎないと思います。街の空撮、建物外観やプレート(看板)、役所や学校の玄関など、一見「現場らしき」映像をはさめば絵になる、という思い込みも同じ怠慢です。背景には調査力や取材力不足があります。それなしには「絵」も「現場」も、見出すことはできません。

●たとえば東ティモール問題で「絵になる現場」は、ティモール島だけでしょうか。島はポルトガル、オランダが相次いで入植し、白檀《ビャクダン》の木を取り尽くした。戦争中は日本軍も上陸。日本は世界最大のインドネシア援助国で、政官軍との結び付きが強固。ならば、両国大使館や日本外務省や多くの日本企業も、偕行社や戦友会も、仏像屋扇子屋すらも「絵になる現場」になる可能性がある。それを見つけるのもテレビ報道のうちなのです。(「GALAC」1999年11月号)

「主観的な見方」を伝えるのが報道。
「素朴な疑問」から出発せよ!!

 NHK・民放に限らずテレビ報道を見ていると、「この点はどうなっているんだ」と、素朴な疑問を感じることがよくあります。

 思いつくまま最近の例を挙げると――

●脳死患者から摘出した臓器を運ぶのに、ヘリコブターが飛ぶ。緊急車両の待機代や人件費を含めたコスト計算は誰がやり、誰が支払うのだろう? 摘出した病院も移植する病院も商売、つまり臓器移植で儲けるわけだが、応分のコスト負担はしているのか? その割合は? 治療を受けた患者の負担は?

●ハイジャックされた機長は、客室乗務員が刃物で脅されているのを見て、犯人を操縦室に入れ、数百人が乗るジェット機を操縦させた。これは規則違反では? 機長の判断は、許されないミスではないのか? 犯人の操縦で飛行機は地上200メートルまで降下し、墜落寸前に、副操縦士らがドアをけ破って突入したという。じゃあ、ジャンボの操縦室のドアは、けっとばせば開くのか?

●オウム信者が今の調子で日本全国すべての自治体で転入を拒否されたら、どこに住むのだろう? 彼らはどこにも「住んでない」から、税金を払う必要もないのか? 仕方がないから外国に行こうと彼らが決めたとして、パスポート申請は受け付けるの?――

 私は、報道とは起こった出来事を、そのまま「客観的」に伝える仕事ではないと信じます。もしそうならば、理想的にはニュース番組は一つであるべきだ、という話になってしまう。報道とは、報道する者の「主観的なものの見方」を伝えることです。その見方は、「なぜ?」という素朴な疑問から始まる。記者会見をそのままタレ流すのは、発表者の一方的な見方を伝えているにすぎません。(「GALAC」1999年10月号)

オウム信者に人権はないのか?
人権擁護派はなぜ沈黙するのか?

 つくづく嫌な世の中になってきたと感じます。最近のオウム真理教、あるいはその信者たちに対する世の中の――とりわけ行政担当者のヒステリックな反応を見ての感想です。

 いま日本各地で、オウム真理教の関連施設と地元住民との係争が頻発しています。「オウムは出ていけ」と地元が怒っているケースが20件以上あるわけです。自分の家の近所に何か新しい施設ができるとき、住民がこれに反対する自由はもちろんあります。

 しかし、地元の自治体(の長)が、オウム信者を受け入れない(住民票を受理しない)、オウム信者の子どもを公立学校に受け入れないなどと宣言するのは、まったく許し難い暴挙です。それは宗教による差別であり、居住の自由の侵害であり、教育を受ける権利の侵害であり、ようするに基本的人権の侵害であって、明らかな日本国憲法違反だからです。

 私は、護憲政党、人権擁護団体、反差別運動団体、かつて弾圧を受けた宗教団体、教職員組合、弁護士会、憲法学者などが、なぜこうした自治体に対して抗議の声をあげず沈黙するのか、不思議でなりません。

 鰯《いわし》の頭を信じる人間だろうが、犯罪者の身内だろうが、すべての人間に基本的人権を認めて尊重するというのが、先の戦争に負けた日本が選んだやり方です。オウム信者だけは例外と思うなら、護憲だの人権擁護だの反差別だのと偉そうなことをいうべきではない。

 そんな当たり前の理屈が通らない日本は、本当に腐ってきたと私は思います。

《先月号の本欄記事に対し、TBSから抗議と謝罪要求がありました。TBSの反論と私の見解を79ページに掲載しましたので、8月号をご参照のうえ、ぜひお読みください》(「GALAC」1999年09月号)

TBSの反論と編集長の見解

「坂本論文は事実誤認と誹謗」
――TBS、「ダルマ映像」で抗議

羽生健二 TBS報道局次長ニュース編集センター長

 8月号の巻頭で坂本編集長が「TBSの映像からダルマが消えた。文句が来たら、黙って隠すのか?」とのタイトルで、TBS批判をお書きになりました。この一文は、事実誤認と憶測に基づいてTBSの報道姿勢を誹謗中傷したものです。三流雑誌の床屋談義ならいざ知らず、「GALAC」という高級な言論誌の、それも巻頭論文で誹謗されては、見逃すわけにはいきません。ここできちんと反論して、坂本氏に謝罪を求めます。

 坂本論文は、選挙で恒例の「ダルマの目入れ」映像について、TBSの現場に、理由も示さずに「ダルマは映すな」という「口頭のお達し」があったと指摘、「表現者としてもっともよくないのは、文句が来たから黙って映さないようにしておこうという卑屈な態度だ」と批判しています。

 ダルマの目入れ映像の扱いについてTBS報道局は以前から、身体障害者に不快な感情を呼び起こすとの抗議が一部にあることに配慮し、「ひき」の映像を使うなど、できるだけ不快感のない出し方に努力すべきだと考えています。先の都知事選のあと、改めて議論をし直して、文書にまとめて、5月28日付で現場とJNN各局に配りました。

 ですから、「ダルマは映すな」という指示は出ていません。あいまいな「口頭のお達し」はありません。坂本氏が論拠とした「事実」はすべて間違いです。百歩譲って、坂本氏が取材した「現場」の人間が誤解していたとしましょう。情報源が良質でなかったのは坂本氏の不運ですが、それ以上に、「事実を確認して書く」 のがジャーナリストの鉄則でしょう。TBSの「卑屈な態度」を批判する前に、自ら「表現者」としての基本姿勢を問い直していただきたい。

 多様な考え方があるなかで、できるだけ公正な報道の在り方をさぐるのは、日々の試練です。ダルマの目入れに不快感を持つ人たちに配慮するのが「卑屈な態度」であるとは思いません。それも、真剣に論議して明確に実行している我々に対して、「黙って隠す」云々の誹謗は、まったく心外です。

編集長の見解

「GALAC」編集長 坂本 衛

(1)私の情報源は、TBSの映像を実際に作る複数の現場の人間たちです。私は「上の人間が理由を明示せず、ダルマは映すなと指示を出した」という彼らの証言を信じ、これを事実であると認識しています。この事実と「報道局が文書を配った」という事実が矛盾するとは、私はまったく考えません。

(2)「ダルマに目を入れるシーンを放送せず」「ダルマが映り込まないアングルを選んだ」と書いたのは私の事実誤認でした。「放送したが」「大きく映り込まない」と訂正して、お詫び申し上げます。

(3)私にTBSやTBS報道局を誹謗中傷する意図はありません。私は、メディアにたずさわる表現者が、抗議が来たからといって「問題とされる映像」を視聴者に黙ってなるべく映さないように隠す(当然小さく映す、再放送しないなども含む)、上層部や別会社の出す方針に機械的に従う(表現する現場の思考停止)などを、表現者にあるまじき態度と確信しているだけです。その意図が十分伝わらなかったのは私の筆力不足によりますから、この点お詫び申し上げます。(「GALAC」1999年09月号)

TBSの映像からダルマが消えた。
文句が来たら、黙って隠すのか?

 TBSの現場に「ダルマは映すな」という指示が出ました。文書ではなく口頭でのお達しで、理由の説明はとくになされなかったようです。ですから、TBSでは東京都知事選挙で石原慎太郎がダルマに目を入れるシーンを放送せずしたが、カメラはダルマが映り込まない大きく映り込まないアングルを選んだといいます。

 指示を出した理由は、(1)大願成就したとき「目なしダルマ」に目を描く風習は、目があればよく、ないのはダメという意味に通じ、目の不自由な人への差別を助長する。(2)手足のない姿を倒して起き上がらせる「起き上がり玩具」のダルマは、手足のない人を侮辱し差別を助長する――のいずれかでしょう。

 私は、ともにひどいヘリクツで、話にならん言いがかりだと思います。「馬鹿ね、アンタ」というときの「馬鹿」の意味が、「お人好し」であったり「低能」であったりするように、表現されたうわべの「形」と、表現する者の「意識」は必ずしも一致しません。

 同じように、ダルマという人形に、差別者の差別的な意識が付着して、流通しているわけではないのです。

 「でも、ダルマを見た障害者が不愉快ならば仕方ないのでは?」という反論には、誰が何を見てどう思うかは人の勝手。手足のない人は、ダルマ、こけし、起き上がりこぽし、テルテル坊主、射的の泥人形、ニワトリ、ヘビ、枝の落ちた枯れ木などを見て不愉快に思うかもしれないが、それらすべてを映さないことは不可能だし無意味だ、と答えます。

 メディアにたずさわる表現者としてもっともよくないのは、文句が来たから黙って映さないようにしておこうという卑屈な態度だ、と払は思います。乙武くん、どう思う?(「GALAC」1999年08月号)

腰が引けてる脳死臓器移植報道
記者会見だけを「取材」と思うな!!

 慶応病院で、法律に基づく国内2番目の脳死患者からの臓器移植が行われました。

 5月号のこの欄で私は、「脳死状態」と珍断された患者の家族が「もう延命治療はやめてほしい」と頼んだら、病院側に「当病院では、脳死状態を死とは認めない。心臓死をもって死とするので、それまでは必要な治療を行う」と拒絶された話を書きました。この病院というのが、実は慶応病院なのです。

 身内が亡くなったとき(患者は妊娠中の母親で、帝王切開で出した赤ん坊とも助かりませんでした)「当病院に脳死はない」といわれた患者の家族は、何週間か後に同じ病院が脳死患者からの移植手術を始めたと知って、驚愕のあまり腰を抜かしました。

 慶応病院のある医師は、こんな意見です。

「脳死についてコンセンサスが得られ、移植に踏み切ろうと慶応が決めたのはつい先日。それでも、医師全員が死について同じ見解をもっていることなどありえない。米国では、意識があれば患者自身が、なければ(患者の明確な意思に基づき)親族が”スイッチを切る”。日本ではそこは曖昧。親族のいう通りにして、後で訴えられることすらありうる。死はケース・パイ・ケースでしか語れない」

 なるほど、この説明はわかる。でも「慶応はいつから死の定義を変えたんだ?」と不信に思う家族の気持ちもわかる。脳死問題はまだまだ過渡期にあり、整理がつかない問題が山積していることは確かです。

 しかしマスコミ報道は、整理のついていない問題に突っ込みを入れない。前回愚劣なプライバシ一侵害を引き起こした逆効果で、今回は完全に腰が引けている。「記者会見ではない、本当の取材を!!」と願っています。(「GALAC」1999年07月号)

テレビが話題の都知事選は決着。
じゃぐじゃいわず打ち破れるか?

 番組内での出馬宣言、候補者出演番組のショー化、世論調査の公表禁止圧力など、テレビが話題になることが多かった東京都知事選は、石原慎太郎が有効投票数の3割にあたる165万票を集めて決着しました。

 なるほど都民はまともな選択をしたと思える結果です。有力候補はそれぞれ、自然、福祉、教育、財政などアピールする分野があった。しかし、それだけでは弱い。一方の石原は、横田基地返還や債券市場創設など夢のような構想をいうわりに具体的な政策はいま一つハッキリしないが、とにかく強い。

 都民は「この閉塞状況だ。多少のことは許す。ぐじゃぐじゃいわんで打ち破ってくれ」と思っている。だから、この結果が出たのだと思います。都は軍隊を持っているわけではないから、タカ派批判も無効でした。

 当確後の会見を見ましたが、この人は実にテレビむきだと感じます。居丈高《いたけだか》で傲慢《ごうまん》と見るむきもあるでしょうが、私は、思っていることを飾らずストレートに出すことは、いま政治家にもっとも求められている資質の一つだと思います。都議会を相手に、新知事がどこまでやれるかが見物です。

 笑ったのは会見中、フジのスタジオにいたテリー伊藤に「どうしようもないテレビ局、MXテレビとうしたらいい? 知恵貸してよ」と話しかけたこと。テレビでMX問題を口にした政治家を初めて見ました。

 そのMXは選挙特番を組み、各系列の当確が出そろった頃に、当確を打ちました。司会者が「独自調査と独自判断による」とやけに強調したのが、印象的。続いてて出した新知事の課題も、都庁役人の作文のよう。このテレビ局も、そろそろ変わり時です。(「GALAC」1999年06月号)

脳死移植、何が問題なのか?
取材し理解してから駆け出せ!!

 知人の身内が脳死状態になり、1週間ほどで亡くなりました。患者の瞳孔《どうこう》が開き、脳波も平坦になり、自発呼吸も停止し、ただ人工呼吸によって心臓が動いている状態になったとき。家族は、これが何日後かに必ず心臓死に至るのならば、もういい、スイッチを切って楽にしてやりたい、と思ったそうです。

 ところが、病院――東京でもっとも有名な私立の大学病院は「当病院では心停止が死である」といい、家族の希望を受け入れませんでした。私が「しかるべき方法(人脈とお礼)をとれば、希望を入れたはずだ」というと「それは後からわかった」といいます。

 いうまでもなく、この最後の1週間に臓器を摘出すると、移植成績がよいのです。それを日本で初めて法律に基づいて実施したのが今回の高知のケースでした。私は、これは合理的で、世のため人のためになるよいことだと思います。唯一最大の問題は、移植の前提となる脳死が、絶対確実に心停止をもたらす後戻りできないものであるかどうか、です。

 この点、今回の医療側の対応は、あまりにもお粗末でした。脳死判定テストを基準通りにやらなかった。臨床的な脳死判定の後に脳波が出た理由をぽかしている。何度も判定を繰り返したが、法的な脳死の最終判定時刻を公表していない(99年3月16日現在)

 メディアはこれを聞きに、何度でも高知赤十字病院に押しかけるべきだと思います。

 脳死とは何か、臨床的な脳死判定の後で医者や家族が何をどうしているかを知りたければ、東京の病院を取材すればいい。そんな準備も理解もなしに駆け出すから、患者の自宅に行くなんて、まったく的はずれの馬鹿げたプライバシー侵害を起こすのです。(「GALAC」1999年05月号)

電気仕掛けのパンドラの箱
箱の底に残るものは?

 テレビはときに人を殺す。一地域の農作物を売れなくするなど朝飯前だ――テレビ朝日「ニュースステーション」を見て、払は思います。それがテレビの「影響力」です。

 ある意味ではナイフより、ダイオキシンよりも危険な電気仕掛けのバンドラの箱。それが白昼堂々作られ、売られ、茶の間や子ども部屋に置かれている。さて、どうするか。

 第1に、テレビはその影響力を認めて、正しく自覚することが必要です。テレビ(が出した図表や出演者の発言)を見て、視聴者が「××の野菜は全国平均より段違いに汚染されている」と思い、そう思った人が10人中5人を超えれば、それは(厳密にはそう表現していなくても)そう報道したのと同じ。実はこうですなんて言い訳は、一切通らない一発勝負。それがテレビです。

 問題は、10人中1人しかそう思わなくても、1000万人が見ていれば100万人がそう思うということ。これ、大事。テレビに関わる1人ひとりが、肝に銘じてください。フリップや字幕スーパーを書く人も、です。

 第2に、しかしながら、本も、ときに人を殺す。新聞も人を殺す。ラジオだって殺す。テレビの影響力は、本質的にはそれらの影力と異なることはなく、しかも、人が人から受ける影響力に比べればその力は小さいと、テレビは断乎として主張すべきです。

 第3に、もっと報道を、徹底的な報道を、といいたい。ニュースからある風評が立ったとき、これを打ち消す最大のものは、関係者や役所への謝罪でもなければ、他局や他メディアヘの攻撃でもない。それは次の、より深く穿《うが》つ「報道」です。バンドラの箱の底に最後に残るのはそれだと思います。(「GALAC」1999年04月号)

テレビというものは、
数字が好きです。

 サン=テグジユペリは『星の王子さま』で「おとなというものは、数字がすきです」と書きます。大人たちに「桃色のレンガでできていて、窓にジェラニュウムの鉢がおいてあって、屋根の上にハトがいる、きれいな家を見たよ」といってもピンとこない。「10万フランの家を見た」といわなくてはダメだと。

 ところが近ごろの日本では、子どもまでもが、数字を大好きらしい。うちに遊びに来る子に、これおもしろいだろうとシャレた文具やグッズを見せる。すると必ず「おじちゃん、これいくらしたの?」と聞く子がいます。

 これは、その子の親がいつもそういう会話をしているからだろうと思ってきました。でも最近では、どうもこれはテレビがあまりに数字好きなせいではないか、と思います。

 テレビが数字を大好きであるのは、番組の結果としての視聴率に異常にこだわっていることで明らかでしょう。しかし、ここでいいたいのは視聴率主義ではなく、アナウンサーやタレントがしゃべったり、画面に字幕で現われたりする数字の多さ。テレビは、なんでもかんでも数字に換算して表現しようとする傾向に、毒されすぎています。

 たとえば、政治は人数。行政は予算。企業は売上高。スポーツは記録と年俸。店や料理は値段。離婚は慰謝料。それらに言及すればそのことをわかりやすく伝えたことになるという思い込みが強く、結局「ものそのもの」「ことそのこと」については、ロクなことを伝えていないのではありませんか。

 「さて、気になるお値段です」のフレーズは、通販番組だけで結構。ニュースや情報番組やスポーツ番組では、もっと大切なことを伝えてほしいと思うのです。(「GALAC」1999年03月号)