メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

GALAC+ism(坂本衛執筆のGALAC巻頭言)1998年分

≪このページの目次≫

※目次の数字は執筆年月。「GALAC」は毎月6日に「翌月号」を発行しますので、掲載月号の「2か月前の20日前後」が執筆時点です。

※このページはスキャナによる読み取りでテキスト化しており、誤植が残っているかもしれません。ご容赦を。

テレビのみなさん、
こういうの99年はやめません?

 昨年、テレビでやめてほしいと思ったのはこんなことです(兼 局名当てクイズ)。

●ニュース内番組宣伝(W杯、大リーグ、年末歌番)
●同独自テレビ技術宣伝(とくに自局前会長の受賞場面放映)
●地方歌番への自治体関係者の出演
●容疑者の顔をぼかさずミキハウスにモザイクをかける倒錯
●CM入り直前にCM明けネタを予告し、実際は違うネタをはさむ詐欺行為
●スポンサーCMより長い番組内宣伝
●同タレント本宣伝
●ドラマ主人公とCMキャラクターの同番組同時出演
●CM明けのデジャ・ヴュ映像
●局営業の都合による突然の番組中断
●CM抜きといいつつ定時に始めず、実は開始前にCMを入れた某事件自己検証特別番組
●キャスターやスポーツアナ(女)がメインキャスター(男)をヨイショし、メインがニヤける時代錯誤
●スタッフのニガ笑い以外笑う者がないキャスターの寒いダジャレ
●スポーツ選手に対するアナウンサーのタメ口
●報道関係者の取材拒否なる自己矛盾
●新聞雑誌の記事紹介でニュースを流したつもりの勘違い早朝番組
●芸能レポーターの政治経済社会批判
●専門家の肩書きで登場、専門外のことを素人以下の水準で語るコメンテーター
●伊ペルージャまで行き「ヒデ」が出るといって「オカマのヒデ」を出すお笑い詐欺
●井戸端会議的企画により、選挙民の「予想外」の投票行動になすすべなかった開票速報
●100万の3乗分の1くらいの確率で出現する偶然によって事件を解決する2H推理ドラマ
●思い入れを込め「あなた」「おとうさん」と呼ばせれば万感の思いが伝わると誤解するドラマ脚本。(順不同)

 というわけで、いよいよ世紀末の前の年、1999年もよろしくお願いします。(「GALAC」1999年02月号)

好きで好きでたまらない……
そんな映画の見方を教えた。

 淀川長治さんが亡くなりました。

 生まれたときからテレビがある世代(私もそうですが)にとって、子どものころ見た映画というのは、劇場版よりもテレビ吹き替え版である場合のほうが多い。高校くらいになり、「ぴあ」を手にして名画座やフィルムセンターを徘徊《はいかい》し始めるまでは、映画はもっぱらテレビで見るものでした。

 だから、教育テレビでたまにやっていた名画を除けば、外国映画の多くを淀川さんとワンセットで見たように思います。「鉄道員」のラストで死に顔を見せないのは監督の愛だとか、「激突!」を撮った若者はただ者ではないという言葉を、いまでも覚えています。映画の見所や勘所は、いつもこの人に教わっていたように思うのです。

 「好きこそものの上手なれ」とは淀川さんのような人をいうのでしょう。このオジサンは映画がもう好きで好きでたまらないのだ、それはとてもよいことだというのが、子どもにもわかりました。

 いまでは私は、「好きなもの(やつ)を論じた評論には傑作と駄作がある。だが、嫌いなもの(やつ)を論じた評論には駄作しかない」ことを、ほとんど真理に近いと思っています。淀川長治さんは、そのことを教えてくれた数少ない評論家のひとりです。

 淀川さんは、日本を代表する「映画人」でしたが、その映画への思いはまさにテレビによって大衆に伝わりました。「さよなら、さよなら、さよなら」のアドリブも極めてテレビ的。淀川長治さんは日本を代表する「テレビ人」であったと思います。こんな人が二度と出てこないとすれば、それは映画のせいでしょうか、テレビのせいでしょうか。(「GALAC」1999年01月号)

突然のドラマ中断
不信感を増す以外、意味がある?

 テレビ朝日の秋の新ドラマを見ていて、のけぞりました。家人が好きなので、柴田恭兵主演の刑事もの第1回に付き合ったのです。

 夜9時スタートで55分ほどたった頃、ドラマが突然ブチッと切れ、局アナが登場。「西武ライオンズの優勝が決まりました。中断してお伝え……」などといい、球場からの中継へ。優勝決定後の弛緩《しかん》した映像に乗せ、解説者とアナの無意味な談話を4分ほど流したあと、「では、ドラマをどうぞ」。

 まったく驚き呆れます。すわどんな大事件かと見入れば、たかが西武の優勝。38年ぶりの横浜よりはるかに地味ネタ。日テレが番組中断して巨人優勝を伝えるなら同じ資本系列との理由があるが、それもない。しかもCM入り直前など切りのよい箇所で切らず、シーン途中でぶった切るセンスの悪さ。

 12月に今年の重大ニュースBEST10を選び、テレ朝はそのうちどれを番組中断して伝えたか、なんて検討するまでもない。このテレビ局は「番組を中断してまでも、緊急に伝えるべきニュースとは何か」がわかっていない。つまり「ニュースの価値判断」ができないのだ、としかいいようがありません。

 この中断は、連ドラ第1回にチャンネルを合わせた視聴者への裏切り行為ともいえる。「優勝の瞬間をやるかもしれないからドラマを見る」って客を呼びたいなら、最初から野球中継すればいい。「ドラマの気分」を害された家人は、怒りまくって局に電話。でも、十数回リダイヤルしても1度もつながらず、「通じない電話は、ないのと一緒。つまり視聴者なんかどうでもいいのよ」と断言。

 局はあの番組中断をどう評価するか。どんな得があったのか、知りたいものです。(「GALAC」1998年12月号)

CSデジタルはモザイクモードに
台風はやっぱりNHKか

 台風が今年初めて本土上陸した日、明け方までテレビに付き合いました。CSデジタルがどんな具合か気になったのです。

 以下はパーフェクTVに限った話です。案の定、受信状態はパッとしません。プロモーション・チャンネルは「ただいま集中豪雨のため一部のチャンネルで受信状態が悪くなっておりますのでご了承下さい」のテロップ。

 ひどくなってくると、キッキッという大きな雑音が入り、映像がモザイク状に乱れはじめる。画面をジグソーパズルのように何百もの四角いピースに切り分けて、何度か揺さぶった感じ。サイケでシュールで妙にきれい。さらに悪化するともう画面は出ず、「現在このチャンネルは受信障害のため受信できません」とか「現在このサービスは放送されていません」と表示されてしまいます。

 最悪のときは、受信可能な数十チャンネルのほとんどすべてが、そうなりました。気象chもニュースchも真価を発揮できず、この多チャンネルが災害に弱いことは間違いなさそう。CSは、あくまでプラスアルファ、遊びのメディアだと痛感しました。

 一方地上波では、民放はのどかなもの。NHKだけが台風情報を24時間体制(といっても30分ごとに十数分流し、あとは静止した天気図ですが)で流していました。各地から中継を入れ、交通情報も伝え、さらに「防災メモ」までつけ加える。

 メモは、斜面の沸き水や地鳴りは土砂崩れの前兆などと教えます。屋根がわらやテレビアンテナをしっかり固定というのは、2〜3日前にやってくれと思いましたが、やはり公共放送だけのことはある。緊急時に頼れそうなのはこれだけかと思う、寂しい秋です。(「GALAC」1998年11月号)

犯人にも危機管理する側にも
想像力」がない!!

 和歌山のヒ素・青酸入りカレー、新潟のアジ化ナトリウム入りポットと、陰惨な事件が相つぎます。なんの罪もない不特定多数の人びとを犠牲にする、悪質な、いやらしい事件です。動機も判然としない、つくづく無意味な事件だと思います。

 ただ、犯人には、およそ人の死に関してリアルな想像力が欠如しているらしいとは、いえそうです。そして世紀末ニッポンに、この種のわからない事件が頻発《ひんぱつ》する理由だけは、わかる気がします。

 同じような事件は今後も起こるでしょう。人が信じられない嫌な世の中ですが、社会はそのための備えをすべきだと痛感します。

 そこで改めて感じるのが、それぞれの場所で、それぞれの人が、きちんと仕事をしていないようだ、ということ。

 和歌山の事件では、保健所の担当者が別の鍋のカレーを同じ器具で採取。これは小学校の理科の実験より低レベル! 食べた瞬間に吐いているのに、医者たちは食中毒と信じ込む。アメリカの専門家から毒物中毒センターのような組織に「ヒ素など複合中毒の可能性あり」とメールが入っても、誰も読まない。

 誰かが、法に触れるような重大ミスを犯したわけではありません。しかし、漫然と日常のルーチンをこなしているだけだから、いざというとき肝心な使命が果たせない。平時ならミスは表面化しないが、非常時には致命的なボロが出てしまう。

 犯人に想像力がないと書きましたが、危機管理する側にもっとも重要なことは、やはり想像力――起こりうる最悪の可能性を網羅《もうら》しつくす想像力だと思います。そんな力、政府もメディアも、身につけていますか。
(「GALAC」1998年10月号)

各局が燃えた参議院選挙速報
でも、「速報性」ってなに?

 7月12日の参院選。各局こぞって夜8時前後から始めた開票速報に見入りました。

 出口調査をもとに、いち早く自民獲得議席40と予測したのはテレビ朝日。予測精度は90%と学者はいいます。ついで日本テレビが野球のかたわら46の数字。その後、あれよあれよという間に自民大敗が決定。TBSに登場した首相は、伏せた目も潤み、一国の運命を託すにはあまりになさけない顔でした。

 考えてみれば開票速報って不思議です。アナが「序盤は○○候補が有利な戦い」とか候補者が「まだこれから頑張ります」とかいうのは、本当はヘン。候補者はただ待ってる以外、戦いようも頑張りようもないわけで。

 でもテレビは、投票箱から票を出し勘定する過程を仮想の(バーチャルな)戦いとして、克明に戦況レポートする。政治家も識者も、そして誰よりも視聴者が、その仮想現実に身を委ね、一喜一憂したり、あれこれ評したりする。これこそテレビのイメージをつくる力、そして速報性という力でしょう。

 しかし、と思います。私は1992年頃、破綻へと暴走する東京臨海副都心開発の取材を3か月ほど続けたことがある。当時会った金融・不動産・建設関係者は「銀行の不良債権は100兆円。今に大変なことになる」と口をそろえました。政府や国民がこれを本当に確かな情報として受け止めたのは、ようやく昨年のことではなかったかと思うのです。

 テレビを含めマスコミが、金融機関の不良債権100兆円を伝えるのに5年かかった。その100兆円の処理を誤って戦後最悪不況を招いた与党の大敗を90%の精度で伝えるのに、開票終了後10分もかからない。そんなテレビの「速報性」ってなんでしょう。(「GALAC」1998年09月号)

各局勢ぞろいで痛感
キャスターは生き残れるのか?

 芝増上寺でのシンポ「THE・TVキャスターズ・LIVE 多チャンネル時代キャスターは生き残れるのか!」に行きました。日テレ真山勇一、TBS筑紫哲也、田丸美寿々、フジ笹粟実根、テレ朝・田原総一朗、鳥越俊太郎と、各局キャスター勢ぞろいは史上初とか。

 司会進行も含めて個性的な人物が多く(最大8人が同時に舞台上に)、やや話が拡散気味でしたが、局員とフリー、新聞とテレビなど、出自《しゅつじ》によってキャスター論や報道論が異なるのを、興味深く聴きました。

 ただ、これはなんとも……と、呆れたことが二つあります。一つは、ある若いキャスターが、ナイフ問題に関して「私は絶対に学校で所持品検査をするべきだと思った」と語ったとき。番組でそう発言すべきと思い原稿を書いたが、デスクからダメを出された。それでも、絶対正しいと信じていたから、テレビで自分の意見をいっちゃったそう。

 そりゃ止めたデスクが正しい。ナイフ検査は、(1)実効性がない(検査しつくせない)、(2)生徒と教師の溝を深める、(3)ナイフなしでも殺傷事件は起こるなどの理由から、やるべきでないし、多くの学校がやらないのです。この理屈がわからずに、学校問題を報じたキャスターがいたとは、驚きました。

 もう一つは、会場の学生が報道被害問題に関して「日本にはオンブズマン制度のようなものがないが、どう思うか」と聞いたとき。

 2人が退席後でしたが、残り4人のキャスターは、なんと、日本にBRCができたことを知らなかった! 自局の検証番組タイトルをいえない局員キャスターもいた!! 聞いた学生も学生ですが、これ、無茶苦茶ヤバイ話です。各局報道局長さん、なんとかして。(「GALAC」1998年08月号)

いのちが安いニッポン人……
報道にも一考の余地あり

 伊丹十三監督の自殺。新井将敬代議士の自殺。ホテルに経営者が3人集まって自殺。日銀官僚の自殺。大蔵官僚の自殺。拘置所での容疑者自殺。「XJAPAN」ギタリストhideの自殺。後を追った若者たちの自殺。

 今年に入ってとくに、でしょうか。自殺のニュースをよく見聞きするように思います。これも、閉塞《へいそく》感に覆《おお》われた時代の病なのか。

 先月号で特集したように、ふつうの人はテレビドラマにナイフが出てきたからなとという理由からは、人殺しをしたりしません。

 同じように、作家活動の行き話まり、疑惑をかけられ政治生命を絶たれて、借金で首が回らなくなったから、心労や責任を感じて、ミュージシャンの後を追って……などと報じられる自殺にも、他人にはうかがい知れない本当の理由があるのかもしれません。

 しかし、それにしても「命が安い日本人」という感想をもちます。「生物として生きる力の弱さ」といったものも強く感じます。

 何事にも自殺によって幕引きを図る社会をいやだなと思い、事件渦中にあった者の自殺が事件の真相究明の幕引きとなることを許す情緒的な社会も、なってないなと感じます。

 こうも大人たちがつぎつぎ首を吊っては、いじめを受けた子どもが自殺するのも無理はないでしょう。hideの後追いをするなと呼びかける前に、つまらんことで首を吊るなと、大人たちにいわなければならない。

 テレビ報道にも一考の余地があります。自殺者を正当化するコメントは流さない。無理心中した者は「自殺した殺人容疑者」としてあつかう。首吊りの仕方を事細かに報じることはやめる。報道は、ただ報じればよいというものではないはすです。(「GALAC」1998年07月号)

地上デジタルへ国費2000億
これが「運命の分かれ道」

 日本国首相・橋本龍太郎によると、景気は「大戦後初めてというくらい、あらゆる悪条件が重なり、きわめてきぴしい状況」です。

 その通り。ただし、こう付け加えるべきです。最大の悪条件は、バブル経済をあおり、バブル崩壊後は不良債権を隠し、バブル後始末を今日まで引き延ばした日本政府だ、と。

 この「戦後最大最悪」景気から脱出するために、いまや「何でもあり」状況。自民党の総合経済対策に5兆、8兆、いや16兆円だと、お前、そりゃいったい誰のカネなんだ。

 昔「3万円、5万円、7万円、運命の分かれ道!!」とやっていた買い物ゲーム番組を思い出します。皆ほしかった冷蔵庫なんかを買った後は枠ギリギリに収める商品選びをし、最後に値段の知れたカレー10箱を積み増したりする。情報化・生活関連、新社会資本――どんな言葉で取り繕《つくろ》っても、いらないものを買う数字合わせには、納得できません。

 情報通信に1兆数千億。中身はたとえば全公立校にパソコン網、中高生は2人に1台って、馬鹿馬鹿しさにのけぞります。単学級化が進む都心の学校は、軒並み40人学級ですよ。教師ふやすのが先でしょう。ナイフもってくる連中が2人仲良くパソコンの前に座る? マシンでどうやって「心の教育」するの?

 郵政省が、突如方向転換して打ち出した地上波デジタルヘの国費負担2000億円にものけぞります。テレビ局と鉄塔屋さんはいいが、国民はどうするんだ国民は。デジタル化が本格化すればテレビは強制的に買い替え、しなければ2000億円ゴミ箱行き。どっちも国民負担でしょう。こんな重要なことを、郵政官僚の何人かが勝手に決めてしまうこの国の歪《いびつ》なシステム、もう変えませんか。(「GALAC」1998年06月号)

少年凶悪犯罪はテレビのせい?
教育界こそキレている

 テレビドラマを見てバタフライ・ナイフをほしいと思った少年が、中学校で教師を刺し殺しました。その後、ナイフや包丁を使った少年犯罪が相次ぎ、学枚をはじめ教育界は、大恐慌に陥っています。

 文部大臣は、中学生代表と話し合い、殺された教師の遺族に銀杯を授与し、緊急アピールで「ナイフを持たないで」と訴えました。

 文相の諮問《しもん》機関である中央教育審議会は、「幼児期からの心の教育」の中間報告案で、必要に応じて警察官が学校内を巡視することを認め、子どもに有害なテレビ番組を自動的にカットするVチップ導入を求める一項を盛り込むまでに、エスカレートしてきました。

 なんだこれは、と驚き呆れます。キレてるのは、文部省や中教審ではないですか。

 制服を着た優等生と会談というパフォーマンスが、いささかでも問題の解決に役立つと思った時点で、文部大臣に教育行政責任者の資格はありません。教師は肉弾三勇士であるまいに、銀杯とはまた、なんたる時代錯誤の勘違いでしょう。緊急アピールも、警察庁長官が「泥棒しないで」と訴えるのと同じくらい、馬鹿げた繰り言《くりごと》です。

 警察官の学内巡視を「ためらうべきではない」と書く「心の教育」は、「心の教育」の放棄です。Vチップで自動的にテレビを切れば、子どもはキレないと思うのは、とてつもなく飛躍した、愚劣な考えです。

 少年が教師を刺し殺した――ならば、その責任を問われるべきは、少年であり(むろん少年法の規定によります)、親であり、学校です。それをテレビのせいにするまでに思考を停止し、荒廃しきった教育界を、問題にしないマスコミの思考停止にも呆れます。(「GALAC」1998年05月号)

肝心なことは何一つ伝えない
テレビ・メディアの脆弱さ

 テレビ関係者必読というべき文献を、「文芸春秋」98年3月号が掲載しています。神戸児童殺傷事件を引き起こした少年の供述調書です。

 子を持つ親は、どうしたら猫や人の首を平気で切り落とす中学生が育つのか、切実に知りたいはず。その思いに一切応えようとしないメディアへの、これは痛烈な批判です。

 テレビに引き寄せて一言だけ感想を書けば、これまでの「テレビ報道」と供述内容との乖離《かいり》に、改めて驚かされました。目撃証言の曖昧さ、警察発表のいい加減さ、少年の手紙を読解した識者のデタラメさ……。テレビは、それをそのままタレ流したのです。報道に関わった者は、深刻に反省すべきだと思います。

 あの時、テレビは中学校の校門に殺到しました。しかし、事件の本当の「現場」はどこだったのか。少年Aの心の中も、その家庭も、凄惨《せいさん》な「現場」なのです。それらについて何一つ伝えられないテレビは、なんという脆弱《ぜいじゃく》なメディアでしょうか。
(「GALAC」1998年04月号)

創刊号(1997年06月号)編集後記

▼たいへん長らくお待たせ致しました。GALAC(ぎゃらく)創刊号をお届けします。第1回の特集は「ぎゃらく新・放送批評宣言」です。

▼この半月ほど、創刊の準備に家族の事情が重なって、ほとんどテレビを見ることができませんでした。テレビの前に15分と座る間もなかったのです。それでも世の中の動きははっきりわかりました。制作者のみなさんには、なにをいうかと怒られるでしょうが、テレビがなくても、生活はいつもと変わらずに流れていきます。

▼テレビがなくたって、まあ生きていける。じゃあ、そのテレビにぶら下がってる「放送批評」ってなんなんだ。どれほどのもんじゃい。おまけのおまけじゃないか。とは、放送批評懇談会に参加した当時から思っていました。

▼そこで私たちなりに、テレビについて語ることの意味、放送を批評することの意味を考えたかったのです。私たちは、ここから新たに出発します。ご支援ご指導よろしくお願いします。(「GALAC」1997年06月号)