メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

マルチメディア時代に
向かって進む
規制緩和の現状と問題点

≪リード≫
電通エレクトロニック・ライブラリー事業局が主催した'95EL特別シンポジウム「マルチメディア時代の放送ビジネス」(1995年2月23日、電通大ホール)の講演録から(筆者のほか、青木貞伸氏、正木鞆彦氏が講師)。郵政省が「デジタル化」にむけて大きく舵を切ったころのレポートですが、波の手当てがつかない、ハード至上主義、役所の立てたスケジュール通りに準備すると間違えるなど、状況は7年後の今日も変わっていません。見出しをいくつか追加したほか、冗長な部分をつまんであります。

≪要約≫
規制緩和等々で揺れ動く郵政省は今後、放送をどういう方向に持っていこうとしているのか。郵政省が目指すものは3つ。第1は「何でもあり」で、無線のBS、CS、有線のCATVとなんでもあり。つまりマルチメディアだが、ただしデジタル化を考慮せよという。第2は「これからは自己責任でやれ」、つまり放送局の倒産もありうる。第3は行政のあり方を根本的に変え、放送界のあり方、マルチメディアの内容や方向については、「マーケットにまかせる」。放送界はこれに備えて態勢を整えていく必要がある。

マルチメディアとは、いったい何ものか?

 私に与えられたテーマは、「郵政省を中心とする行政の動向」です。今日の話は、こんな比喩《ひゆ》から始めます。

 「妖怪が、極東の小島を徘徊《はいかい》している。『マルチメディア』という妖怪が!」――どうも最近の情勢は、そういう状況なんだと思います。

 ある人はこの妖怪、つまりマルチメディアを、「世紀末ニッポンに降臨した(または来世紀初頭に降臨するはずの)救世主」と崇《あが》め奉《たてまつ》る。またある人は、どうもおっかなそうだ、「私の会社を脅かす悪魔」の存在ではないかと恐れおののいている。どうも極端な二分論になっている。

 救世主の到来と見ているのは、財界や産業界です。バブル崩壊後、売るもの――振る旗がなくなった業界は、軒並みマルチメディアへ触手を伸ばしている。もう1つ、マルチメディアに触手を伸ばしている一大勢力がある。これは官界、行政だと思います。

 ついこの間のニュースでビックリしたことがある。阪神大震災から1か月たったかたたないか、いまだに避難民20万人以上という状況で、関西財界や兵庫県、神戸市は、2000年をメドに「復興博覧会」を開くといい出した。その主なテーマは防災とともにマルチメディアだという。「5年後のパビリオンより、明日の仮設住宅を」と思うが、財界や行政の考えることは私たちの常識とはちょっと違っているようです。

 マルチメディアを怖いと思っているのは、主としてオールドメディアの側。今日お集まりの放送界のみなさんも、どちらかといえばそちらの側ではないか。しかし、この「妖怪」――マルチメディアの正体が、まだはっきりとはわからない。大方の見方は、マルチメディアとは、「通信」と「放送」と「コンピュータ」の3つをかけ合わせ、ないしは融合させて生まれる新種(のようなもの)というイメージではないでしょうか。

 あるいは、ただ「通信と放送の融合」という人もある。パソコン通信なんかを見ると通信とコンピュータが合体している。すると、三者交配も二者交配も同じこと。マルチメディアは放送と通信の融合といってもいいわけです。

 ただ、この「通信と放送の融合」は、一般家庭のテレビでは、まだ見ることができない。「通信と放送の融合」はどこへいったら見つかるか。探したら、あった。郵政省という役所に、という話をしたいと思います。

役所では「通信」が「放送」を呑み込んだ

 郵政省の事業は、郵政と電気通信の大きく2つに分けられる。郵政は「郵政三事業」、つまり郵務、貯金、簡易保険の3局。電気通信行政は、通信政策、電気通信、放送行政の3局。

 後者は「テレコム3局」ともいい、いま脚光を浴びている部署。通信や放送はこの所管。このうち通信政策局が筆頭の局で、電気通信の規律に関する基本的かつ総合的な政策を中心に扱う。電気通信局は、もっと現場よりで、法の施行、事業の企画や立案、周波数割り当て基本計画などを扱う。放送行政局は当然、放送を扱う。テレコム三局を色分けすると、前の2つが通信で、放送行政局だけが放送を扱うということになる。

 通信と放送の関係はどうなっているのかといえば、通信のほうが上。「通信とは情報をその場にいない者に伝えること」と定義すれば、放送は通信に含まれるから、郵政省のこうした位置づけは当然。

 実際の管掌《かんしょう》をみても、たとえば電気通信業・放送業の発達・改善のための資金融通に関する取りまとめの担当は通信政策局であり、放送行政局ではない。周波数割り当て基本計画の担当は電気通信局であり、放送行政局は放送用周波数の計画しか担当しない。

 また、「通信・放送機構」というものがあるが、これも通信政策局の担当であり、放送行政局ではない。おカネのこととか、大枠の話は通信政策局で決め、そこから下りてきたものの中から、放送に関するものを放送行政局が決めることになる。

 現在の(五十嵐三津雄)通信政策局長さんは、次の郵政省の事務次官になることが確実。通信政策局長から事務次官になる人はいても、放送行政局長からなる人はいない。放送行政局長は「上がり」のポストで、先は天下りくらいしかない。

 対NTT戦略の司令塔となるのが電気通信局の電気通信事業部長というポスト。いまやこれを通過すれば末は官房長か事務次官確実と思われるくらいのポストだが、これに相当する重要なポストは放送行政局にはない。郵政省においては、基本的に通信のほうが放送より上で、もちろん人数もはるかに多い。つまり、もともと郵政省の中では通信のほうが主流で、放送は通信の中の一部です。要するに放送は勢いがないのです。

 キャプテンや文字放送などニューメディアの停滞、国策会社JSB(日本衛星放送)も契約数160万を超えたとはいえ不振、BS調達の失敗、ハイビジョンの破綻、CATVやCSの伸び悩み、相次いだ放送事件(たとえば、いわゆる「やらせ」問題や椿発言)への対応のまずさなどもあって、放送の地盤沈下がこの数年ずーっと続いていた。

 ここ数年、通信官僚たちが「放送は何をやっとるんだ」と眉《まゆ》をひそめていたのは事実。そのことを匿名《とくめい》でもいいから発言してくださいと取材すると、電話では答えてくれるが、直接には会わないとか、身内の恥を晒《さら》したくないとか。それよりも、隠れた形で放送行政局を是正していこうというケースが多かった。

 そこにマルチメディア――「通信と放送の融合」が登場してきた。郵政省内部でも「通信と放送の融合」が進むのは当然で、それは「通信」が「放送」を乗っ取る、あるいは「放送」が「通信」に呑み込まれるかたちになった。これまで郵政の中で、「放送」はいいところがなかったので、よしあしは別として、私は無理もない、しょうがないかなと思います。

 郵政省における「通信と放送の融合」は、94年6月の人事で決定的になったといえると思います。この人事を主導したのは松野春樹事務次官―五十嵐三津雄通信政策局長のラインといわれている。この段階で放送行政局の課長さんたちは総入れ替えとなり、通信畑の官僚たちが放送の主要ポストを占めた。ちょっと前から入ってきていたが、前からいる人は横滑りで、新しい人は通信から、となっている。

 基本的にテレコム3局の課長さんたちは、みんな通信政策局長、それに郵政省の「ミスター・マルチメディア」といわれている(高田)通信政策局次長さんを見ている。課長クラスは、五十嵐―高田ランしか見ておらず、放送行政局でも、局長の江川晃正さんを素通りして通信政策局長や次長のところへいく。テレコム三局はこのラインに沿って動いている。

 昔、2.26事件のとき部隊を動かしたのは大尉や中尉クラスだった。それと同じで、日本の官僚機構でも、何かを動かす前線指揮官というのは全部、課長クラス。彼らが誰をリーダーと見なしているか、彼らがどんなことを考えているかは、郵政省の今後の動きを予測するのに大変参考になる。

「何でもあり」のマルチメディア時代

 郵政省の放送行政は、基本的に通信系の動き方になっている。新しい前線指揮官たちは、通信の主流を歩いてきたというだけでなく、日米交渉や海外経験のある国際通が多い。彼らが口癖のようにいっていることが3つあります。

(1)何でもありの世の中にしたい。
(2)放送にも自己責任が必要になる。
(3)過去の放送行政は誤りだった!
もっとも、3番目は、いう人といわない人がある。

 どういうことかというと、第1の「何でもありの世の中にしたい」とは、BSあり、CSあり、CATVあり、あるいは無線あり、有線あり、時代遅れかもしれないがハイビジョンもあり。そういう世の中にしたいということ。つまり、一言でいえばマルチメディアにしたいと。

 これに付け加えて郵政省が異様と思えるほどに強調するのは、「デジタル化」。NHKやメーカーには「そんなにハイビジョンがやりたければおやりなさい。ただし、それにデジタルを追加してほしい」――どうも、そんな言い方をしています。

 第2の「放送にも自己責任が必要になる」は、これまでの放送業界はだいたい免許があればつぶれないんだという話になっていたが、そんなことはないぞと言い始めている。何でもありの世の中では、放送がいままでのように「免許をもっていれば絶対つぶれない」業界ではありえないという意味。

 もちろん過去につぶれそうになった放送局はたくさんあるが、それはとんでもない放漫経営など特殊なケース。今後は、たとえば画質がよかったベータ方式でVHS方式に破れたソニーのように、まともに経営していても競争に敗れて退くことがある。その場合は自己責任の原則で処理すべきで、行政は面倒なんか見ないぞ、というわけです。

 第3の「過去の放送行政は誤りだったこれまでの誤り」とは、CATVだのBSだのがどうだったという個々の放送行政の不始末を指すというより、もっと根本的な行政のあり方についての話と解すべきだと思います。

 これまでの放送行政は、たとえば「文字多重はこの方式」と(かたちはみんなで決めたことになっていても最終的には)行政が決めて免許を募る。行政が「これに乗れ」と行政バスを仕立て用意する。そして、定員割れなら行政が強制的に乗る人を決める。定員オーバーなら行政が調整して乗る人を絞り、出発させる。

 このバスには放送行政局長が天下って運転手になったりして出発することになる。しかし、ちゃんとした道路マップがないものだから、ぬかるみにはまって立ち往生したり、山道でエンストしたりする。これがニューメディアの悲惨な状況だったと思います。

 ところが、郵政は「今後は、バスを仕立てるのをやめる」といいたいようです。行きたい連中は、勝手にバスを仕立てて行けばいい。途中の状態など当局は関知しない。バスが目的地にたどり着くかどうかは、市場――マーケットが決めることだ。

 ただし、近いうちに「光ファイバー高速道路」が各地に通じることになるだろうから、それに対応する「ラジアル」ならぬ「デジタル」タイヤだけはつけて走り出せよということなんだと思います。

最近の通信・放送行政の動向

 では、郵政省は実際にどんな動きをしているのか。最近の通信・放送行政を追ってみたい。

 まず94年5月、郵政大臣の諮問機関である電気通信審議会から「21世紀の知的社会への改革に向けて」答申が出ました。

 骨子は「2010年までに光ファイバー全国網を張り巡らす。通信・放送・コンピュータが融合した多様な双方向サービスが可能となる。市場規模は123兆円、雇用創出は243万人に達する」というものです。

 よく引き合いに出されるのが、アメリカのNII(全米情報基盤)構想。いわゆる情報スーパーハイウェイで、「2015年まで」と期限を切ったクリントン政権の「公約」になっている。郵政の光ファイバー全国網は、これに対抗した「日本版情報ハイウェイ構想」。なんで、2010年なのか。答申ではこれは唐突に出てくる。アメリカが2015年なので、日本は5年早めて2010年という、ただそれだけのことのようです。

 基本的な骨格はNTTの光ファイバー構想の丸写しなので、「民間業者の数字を並べただけでは、予算はつけられない」と、大蔵官僚が陰で苦笑したと伝えられています。郵政省は、この巨大なインフラ整備を公団など第三セクター方式で行なうことを盛り込もうとしたが、行政改革の折から否定され、NTTか、これから新しい業者も加わってやるのかわからないが、民間主導が明記された。94年6月には、答申の中身がそのまま、郵政省の情報通信基盤の整備目標となりました。

 なお、95年1月の郵政大臣会見をみると、情報通信基盤の整備方針に軌道修正がされています。先の構想は光ファイバーばかり強調していた。つまり全部有線、ケーブルなんだといっていたが、衛星や無線も重視していくと修正された。話を聞いてみると、アメリカの構想がはっきりするにつれて、あちらでは衛星や無線も取り込んで、かなり多様な形になるんだということが次第に明らかになってきたから。それでマネをして改めた。

 余談だが、94年5月の電通審答申でいわれていることは、その程度のレベルの話が多く、市場123兆円なんて数字に深い意味はない。1、2、3で覚えやすいけれど(官僚の出す予測数値の根拠の1つは「ゴロ合わせ」や「覚えやすさ」。これは本当)、下1ケタまでわかるはずがない。ああいうものは、150兆円かもしれずひょっとして80兆円かもしれない、わからないぞというもの。

 2010年も手前にずれることはないと思うが、10年ずれるか、15年ずれるかわからない。官僚も学者もそう思っているはず。だが、なんでああもビシッと「2010年」「123兆円」なんていってるかというと、「わかんない」では予算も格好もつかないから。あくまで「たとえば」という試算だと思っておく必要があります。

放送行政の動向

 いまの情報インフラの話が、郵政省では一番大きな動きだった。放送行政局レベルでは、94年4月に、「放送のデジタル化に関する研究会」報告書が出ました。これは、地上放送、衛星放送、CATVに共通な放送方式の基本構造としてISDB(統合デジタル放送)でいくんだといっている。それを採用し、放送の高機能化、多チャンネル化、双方向化などを実現すべきだとしている。郵政省が「デジタル」「デジタル」といっているのは、基本的にこの話を続けている。

 94年5月には、放送行政局長の私的研究会「マルチメディア時代における放送の在り方に関する懇談会」も始まりました。2月に放送行政局長が「世界の趨勢に遅れたアナログのハイビジョンは見直す」と発言し、NHKやメーカーが猛反発した一件に、決着をつける研究会。この3月29日に最終の会合が開かれ、報告書を取りまとめる予定。

 懇談会は、顔見せ興行後の7月に郵政省が放送デジタル化のスケジュールを突然ポーンと出してきて、メーカーも放送界もみんな「何をやっているのか」と反対し大紛糾したようです。

 最終報告書がまとめられつつあるが、現在の争点は、第1にBS−4の後半(BS−4b)をどうするのか(デジタル放送とするのか)、第2に地上波のデジタル化をどうするか、ということ。

 郵政省の本音は、BS−4aは今やっているものの次だから、放送の継続性から必要ということ。ただ、後ろ半分のBS−4bはなくてもかまわない、とも思っているらしい。実際、民放各局を回ってCS(JSAT3)に乗ってほしいと頼んでいる。

 ただし、いまBSの後ろ半分をなくすといえば、1000万以上(うちNHKの契約件数は660万)のBS受信者はショックだろうし、1000万人を当て込んで公式見解では系列ぐるみBSに乗ろうとしている民放(必ずしも一枚岩ではないが)も、単純になくなっていいといえるか問題。ハードを売りたいメーカーも、そうはいえそうにない。

 すると郵政省は、BS−4bからデジタル放送導入というあたりを落とし所にするのではないかと思う。するとMUSE方式はBS−5段階では存在しないことになる。これは、ハイビジョンに固執するNHKが黙っていないでしょう。民放は、ハイビジョンに本腰を入れていないので、デジタルでも、どっちでもいいのかなということなのでしょう。

 地上波のデジタル化は、聞くところによると郵政省は2005年あたりから導入を始めようとしているようですが、まだよくわからない。デジタル波といまの地上波を同時並行的に2つ流さなければならない。波の手当てをきちんと説明していないようなので、ここが問題となるでしょう。

情報ハイウェイ構想に規制緩和

 さらに、94年7月には「21世紀に向けた通信・放送の融合に関する懇談会」が始まった。これは2年越しで通信・放送の融合にともなうさまざまな課題を検討していく。放送界やメーカーのトップが参加している郵政省あげての懇談会。2年間という長丁場はやや異例で、これについては次のような説がある。

 郵政省は、日本版情報ハイウェイ構想を華々しく打ち出し、マルチメディア推進の旗印を鮮明にしたわけが、自分たちのいっていることがどこまで実現可能かまだ見定めきれていない。むしろ、これから下手をすればボロが出てくるかもしれないと危惧《きぐ》している。1994年は「マルチメディア元年」といわれたが、私は95年がその馬脚が現れると元年ではないかと思っている。

 この懇談会は、そうしたことを見定めながら、1年で結論を出すと見誤ることがあるかもしれないので、2年後に結論をまとめようとしたのではないか、というちょっと穿《うが》った説がある。懇談会が2年越しなのはそのためではないか、という見方です。だとすれば、郵政省が「放送かくあるべし」といっていることの中には、打ち上げ花火に近いものがあるのではないか。このあたりは、もうすこし郵政省の動きを見極めなければ、わからない。

 以上のような動きのほか、郵政は規制緩和も進めている。95年に入って新聞などに紹介されたものだけでも、民放への出資比率を10%以下から20%未満へ拡大し「マスメディア集中排除原則」を緩和する、地方局の役員を地元在住者に限定する「地元密着要件」を緩和する、衛星放送(CS)での1社最大8チャンネル程度の保有を認める、というようにいろいろやっている。

 とはいえ、今までもそうだが、郵政省はたいていのことを法律とは関係ない省令など恣意的な裁量レベルで右だ左だとやってきたから、法改正が必要な規制緩和は当面は出てこないよう。

 私たちが見るところ、いちばん必要な規制緩和は、免許制度の抜本的な改革(郵政を免許の元締めにするのではなく、第三者機関が審査する透明で公正な免許制度とする)。そんなことを郵政省がいい出すわけがないでしょう。

郵政の方向・大筋は間違っていない

 さて、こうした「通信と放送の融合」を推進する郵政の動きは、どこまで本気なのか。

 官僚というのは、つねに打ち上げ花火を上げ、何か旗を振らなければならない。そうしないと予算はつかないし、ルーチンワークだけでは存在意義が認められず「何をやっているのか」といわれてしまう。

 とくに、テレコム分野は、許認可行政で動かせる予算が少ないので、大袈裟《おおげさ》に旗を振る必要がある。だからマルチメディアでこれ幸いと大きく旗を振っているのだという見方もある。いま振っている『マルチメディア』や『通信と放送の融合』という旗が、本当にただの旗印なのか、もうちょと実の入ったものなのか、わからないというのです。

 私もハッキリと見定めはつかない。ただし、旗振りの側面もあると思うが、先ほど私が指摘した3つのこと、郵政官僚が最近いい始めたことの方向や大筋は間違っていないと思う。放送界は、その部分は素直に受け止めるべき。

 「なんでもありの世の中」は、技術の進歩と大衆のニーズは、黙っていてもそっちへ行くことは間違いない。たとえばキューブリックの映画「2001年宇宙の旅」で、月へいく途中にテレビ電話で地球の子ども話すシーンがあったが、きっといつかそういう世界がくるのだろう。

 「放送にも自己責任」というのも、当たり前といえばそれまでの話。今までそういうふうにやってこなかったほうが、むしろおかしい。かつてのJSBを郵政省が「うちの会社」と呼び、放送行政局長OBを社長に送り込むようなやり方は、明らかに誤りだった。そこには放送の自己責任などかけらも存在しなかったが、それは間違っていた。

 だから放送局は、郵政省のいっていることが話半分としても、「なんでもあり」で「放送にも自己責任」が必要な時代に備えなければならないと思います。

 問題は、どのように備えるか。郵政省の立てたスケジュールとか、2010年にこんなすばらしい世の中が来るんだという話は、旗印の面が強い。だから、彼らのいう通りに準備すると、大きく間違えることもあるかもしれません。これについては、後半のディスカッションで触れることにして、これで報告を終りたいと思います。ありがとうございました。

ハード至上主義でニーズ調査はゼロ

(以下は質疑応答)
 いま、郵政省のいっていることを話半分としても備えるべきだといったが、どういうふうに備えるべきかということを補足しておきたいと思う。

 そもそもマルチメディア論全体がそうなのかもしれないが、郵政省がいっていることは、だいたいがハードドウエア、あるいは技術の発想。

 たとえば答申は出たが、実際に光ファイバー網の端末が入る家庭で、「こんなサービスが必要でしょう」とか「こういうサービスは料金がいくらくらいなら必要と思われます」とか調べた形跡は一切ない。「こんなことが双方向で実現する」と、遠隔医療、教育、電子図書館、在宅勤務、行政情報など、メニューは並んでいる。しかし、家庭におけるニーズみたいなものを調査した形跡もなければ、それについて触れてもいない。

 だから、「基本的にはできる」という話だが、「技術的にはできる」と受け取ったほうがいいようです。新しく始まるという双方向のサービスも、それほど目新しいものはない。ハード先行でソフトがどうもお粗末というか、何もないんです。

 ハードの話だけだから、マルチメディアの中の1つになる放送も、やはりソフトでなくハードでしか捉えていない。

 たとえば、こんな言い方がありまして、「テレビや放送はケーブルに行ってくれ」「光ファイバーに乗ってくれ」といっている。なぜかというと、携帯電話の電波が足りないからだというんですね。テレビがケーブルに行ってくれれば、空いた帯域を使って1人1台の携帯電話の世界が来るかもしれないといっている。

 電話も放送も全部、同じ電波に乗るものなんだというとらえ方しかしていないから、そんなことをいうのです。

 通信と放送を融合される」郵政の最大の欠陥、問題点は、そのようにすべてがハード先行の発想しかなく、ソフトについては一切無視していることです。放送局が郵政省のいっていることに異議申し立てをするなら、そこを突くべきだと思います。

マルチメディア時代こそ、放送の特殊性を生かせ

 放送というのもソフトウエアの1つであって、1対1、あるいは多対多というマルチメディア時代になっても、放送は残るでしょう。

 たとえば阪神・淡路大震災の混乱を見ても、CATVもダメになってしまったとき、テレビとラジオだけは生きていた。新聞がまったく配れないとき、放送は災害時にもっとも有効なメディアの1つだったのです。

 はっきりしているのは、放送が持っている特殊性を生かしていかないと、マルチメディア時代には埋没していくしかないということだと思う。受け手ととしては、画面に何か流れているとき、「これは放送なのか、通信なのか」「有線か無線か」なんてことは、一切考慮しない。おもしろそうなもの、自分に役立ちそうだというものを選ぶ。そのとき放送がつまらないものを流していたら、チャンネルを切るだけ。

 切られず注目されるためには、放送とは何なんだともう1回問いつめる必要がある。ジャーナリズムとか言論報道機関とか、この情報をこの人たちに与えるんだということを、もう1回練り直して提示することです。放送は、マルチメディアとして示されているほかのメニューにはない、こんなソフトなんだと徹底する必要があると思います。

 それをやらないと、マルチメディアの中で放送局というのはなくなってしまう。電話をやってそっちのほうが儲かって電話会社になってしまうのか、あるいはどこかの企業系列に入るのか、倒産するかというくらいしか、選択肢がないのではないでしょうか。

光ファイバー時代は本当に来るのか?

 インフラ(社会基盤)面で、「ファイバー・トゥ・ザ・ホーム」(FTTH)ということがいわれているが、幹線となる光ファイバーの建設については、NTTが全面に出てくるのではないかと思います。

 郵政官僚がいっているNTTの話というのは、NTTの分割と絡《から》みます。つねにNTTに対してブラフをかけたりして、あそこをどうしようと考えていますから、これは額面通りに受け取ると間違える恐れもある。

 通信に参入した電力会社という話もあるが、円高差益還元の問題がある。光ファイバーをどんどん進めると、「どうしてそんなことができるのか。電力料金が高すぎるんじゃないの?」という話が消費者から出てきたりする。そう電力会社は思っているだろうから、光ファイバーを積極的に進めることは限界があると思う。そうすると光ファイバー建設をできる人というのはどのくらいいるのかなと考えてしまう。やはり、NTTが中心になるしかないでしょう。

 いろいろなやり方がいわれていますが、家庭まできちんと光ファイバーを敷くと、答申でいっているコストの何倍かになってしまうのではないか。阪神・淡路大震災で、電線が電信柱からブラ下がっては困ることがわかった。これをちゃんと地中化していくと、莫大なコストになるわけです。もちろんこれは、街づくりで最初から共同溝を通しておけばいくぶん安くなるでしょうが、今後の課題ですね。

 少なくとも、光ファイバーを全国すみずみまで張り巡らすことは、郵政省やNTTがいうほど簡単ではないと思います。

≪オマケ:95年のノートから≫

●マルチメディアへの放送局の第1の反応は、「いつかのニューメディア・ブームと同じ。そのうち潰れるに決まってる」という楽観論。第2の反応は「放送局は炭焼き小屋になってしまう」という悲観論。両極端ばかりで、どうも中間がない。真理は中間にあると思う。それというのも、マルチメディアの正体が不明だからだ。「マルチメディア=UFO説」もある。みんな知っているのに、だれも正体を見たことがない、それがUFOとマルチメディアだそうだ。

●誤解している人が多いようだが、郵政省のいうデジタル放送は、画質が現行NTSC方式とほぼ同じと思われ、たぶんハイビジョン並みのデジタル高精細度放送のことを意味しない。ISDBでHDTVの伝送は可能とはいうものの、郵政省は、ハイビジョンのような高精細度放送のニーズはほとんどない、と判断しているようだ。郵政省はNHKに強い圧力をかけ、この1月に出たNHKの中長期ビジョンに「デジタル放送」を盛り込ませた。NHKの本音はハイビジョンだが、普及約3万台では初志貫徹は厳しい。

●通信と放送が融合して始まるとされる新しい双方向サービスは、極めて陳腐で貧弱だ。たとえば、寝たきり老人が多くなるから遠隔医療といった短絡的な話ばかりだが、寝たきり老人を抱えている家族にマルチメディア端末がほしいかと聞いてみればいい。「そんなものはいらないから、風呂に入れる人手がほしい」というに決まっている。いわれている「マルチメディア」とか「通信と放送の融合」は、あくまで産業界や官界の――主催者側の発表で、それも技術論に終始している。

●ハードの話だけだから、放送というソフトウエアが持つ特殊性――文化的あるいは社会的意義、ジャーナリズムや言論報道機関としての役割などは、当然無視される。そこで「携帯電話の周波数がないから放送は光ファイバーに行け」という話が出てくる。電話と放送を「どのくらい周波数帯域を必要とするか」という技術的な観点からしかとらえていないわけだ。これは、郵政の「通信と放送の融合」論の最大の欠陥といってよい。

●「一対多」の一方的な通信である放送は、「一対一」や「多対多」のマルチメディア時代に消滅するというのは迷信で、双方向サービスなど導入しなくても存在意義があるに決まっている。それを郵政にぶつけて「放送はこうあるべきだ」と交渉しなければならない。はっきりしていることは、放送というソフトが持つ特殊性――文化的あるいは社会的意義、言論報道機関やジャーナリズムとしての役割などを、放送局が情報の受け手に提示できなければ、放送はマルチメディアの中で埋没していくだけだろう、ということである。

●放送からは、もっと「べき論」が出てきていい。「郵政がこうしようとしている、世の中の大勢がこうなろうとしている、だから放送も対応しなければ」ではなく、「放送はこうあるべきだと、自分たちは考えている。そこのところは郵政も、世の中も、忘れないでくれ」といってもよいのではないか。それが一切出てこないのは、第1に「放送かくあるべし」という信念が放送局にないから。第2に信念はあるとしても、「言論機関」として振る舞ったことがないので出せない。これは真剣に考えたほうがいい問題。

●どこまでいっても、肝心なのはソフトだ。ソフトさえしっかりしていれば、伝送路が有線だろうが無線だろうが関係ない、とすらいえるかもしれない。「闇の王子ディズニー」という本を読んだ。ウォルト・ディズニーはFBIの連絡員だった、ハリウッドの赤狩りに大いに協力した、父親が実の父親かどうか深刻に悩んでいたなど、いろいろ書いてある。しかし、この本を読んでいちばん印象的だったのは、ディズニーの病的なまでの作品へのこだわり。カネと時間を忘れて「これだ」という作品を目指す姿勢だ。徹底的にソフトにこだわっている。その日その日の作業に追いまくられるテレビとは違うというかもしれないが、マルチメディア時代に「ディズニー・チャンネル」ができれば、絶対に勝てないなと思う。地域へのこだわり、福祉へのこだわり、老人へのこだわり、なんでもいい。ソフトに徹底的にこだわらなければ。

●放送とは何かを考えたこともなく、オリジナルのソフトを持とうとしない放送局は危ない。「地方の弱小ローカルには、いかにキー局の番組を流し、いかにキー局からカネを引き出すかしか眼中にない局がある。これはどうしようもない」と、ある民放キー局首脳は、それは見捨てるしかないのだといいたげだった。そんな放送局は本格的なマルチメディア時代――郵政のいう「なんでもあり」で「放送に自己責任」の時代が来れば、倒産するか、他局の傘下に入るか、放送局でなくなるか、という道しか残されていないと思う。そして、もちろん放送局でなくなってもいい。ただし、その覚悟があればだが。

●ある民放の首脳の声
「BS−4の後半分はないだの、デジタル化だの、民放はCSに行けだの、いろんなことがいわれているが、民放は系列ごとにBSに乗るという基本路線を変えていない。NHKという巨大メディアに対抗するには、それしか選択肢はない。普及1000万のBSを捨てて、十数万人のCSに移らなければならない必然性が、どこにあるのか」(8)

●別の民放首脳の声
「うちはCSに乗るのもひとつの手だと考えている。ハイビジョンもやめるならやめるでいい。ただし、デジタル化については、掛け声ばかりなので疑問に思っている。第1に、現行方式からの移行波の手当てをどうするのか。第2に、デジタルならば何でも光ファイバーに乗るという単純な図式が大いに疑問だね」(4)

●ジャーナリズムで肝心なことは、まず疑え。すべてを疑え! 東京臨海副都心の取材で、あるテレビ局の女の子が東京都の担当セクションを訪れて、「どこを撮影したらいいか教えてくれ」といった。担当者は、そりゃないだろうと追い返したそう。僕らのやり方は違う。東京都に聞いても自分たちに都合のよいことしかいわないと、最初から確信している。だから、日曜日にカメラマンと2人で現場にいく。工事は休みだから、立ち入り禁止の場所に入り込んで撮影する。都がオープンにしたがる話は、初めから取材の対象にはならない。広報ではないのだから。もちろん都でも、国でも、政党でも、企業でも同じこと。そんな視点が、現在のテレビにはなさすぎる。

●「市民の立場」というのも、時に問題となる。市民団体にも、怪しげなタブーがいっぱいあるからだ。現実の団体のいっていることが市民の声と信じ込むと間違う。むしろ、自分の周囲の人の声とか、内なる自分の中にある大衆の声とかを、信じたほうがいい。