メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
すべてを疑え!! MAMO's Site(テレビ放送や地上デジタル・BSデジタル・CSデジタルなど)/サイトのタイトル
<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

テレビ放送デジタル化は
失敗する

≪特集のリード≫
特集 「自由化」が日本を滅ぼす
 「規制緩和」「自由化」という錦の御旗がさまざまな場面でうち振られている。たしかに権益が煮詰まった膠《にかわ》のようにからみついた旧来の組織を解体して、誰もが平等に参加できる風穴を空けることの意義は大きいだろう。
 だが、どうにもその実態が理解しにくいのである。通信、電力、放送など、より利用者のためにたるなどと言われているものの、よくよく調べてみると、用はすべてが自己責任という誰も責任をとらない/とれない世界へとなだれ込みつつあるゆだ。中心と構造を喪《うしな》った混沌《こんとん》の世界。現在の自由化の波が行き着く先がそうでないと言い切れるのだろうか。
(「草思」2002年11月号)

※「草思」は草思社のPR&オピニオン雑誌で、岩波書店「図書」、新潮社「波」などと似た存在。今回バックナンバーに目を通し、時宜を得た特集を組んでいるのに改めて感心しました。定価100円ですが、書店のレジのところに「お持ちください」と置いてあるはず。目を通して損はない雑誌で、オススメです。なお、今回の特集は次の3つの論文を収めています。

「自由化・規制緩和」運動の正体 東谷 暁
通信自由化に蠢《うごめ》く怪しい「人脈」 藤井耕一郎
テレビ放送デジタル化は失敗する 坂本 衛

放送デジタル化のメリット

 いま、日本の放送――テレビに、大きな変革が訪れようとしている。結論を先にいってしまえば、現在の進め方のままでは、「失敗」は火を見るより明らかなのだが……。

 この変革は「デジタル化」と呼ばれる。現在の地上テレビ放送はアナログの電波で送られているが、これをデジタルの電波で送るようにするのがデジタル化だ。

 「アナログ」は連続する変化量の意味。時計でいえば、長針と短針がジワーッと連続して動くのがアナログである。一方「デジタル」は断続的な変化量の意味。毎秒や毎分の瞬間瞬間で数字がパッパッと変わっていくのがデジタルである。電波の場合は、コンピュータ内部ですべての情報が0か1かの信号に置き換わっているように、音も映像もすべて0と1からなる信号に変換して伝送するのがデジタル方式だ、と考えればいい。

 放送の伝送方式をアナログからデジタルに変えると、さまざまなメリットが生じる。第1に、0と1からなる信号ならば「帯域圧縮」という技術で信号を間引くことが容易になり、同じ帯域(電波の幅)を使ってより多くの情報を送ることができるようになる。つまり放送の「多チャンネル化」や「高画質化」ができる。同時に、放送以外の電波利用の余地も広がる。

 第2に、0と1からなる信号ならば、受信機側でもとの情報に復元できるようにしておけば「何を送ってもよい」ので、帯域を目一杯使って高精細度の放送を1チャンネル、3つに分けて並の画質の放送を3チャンネル、もっと細かく分けてラジオをたくさん、またはそれらに加えてデータ放送も、というように多様な編成ができる。

 このデジタル放送のアナログ放送に対する優位性には、疑問の余地はない。しかし、すでに日本ではアナログ方式の地上放送が広く普及していたから、デジタル放送は受信機ゼロの新しい衛星放送を舞台に、まず導入されることとなった。

 日本で最初のデジタル放送は、1996年に始まったデジタルCS放送(CSは通信衛星)で、商社連合のパーフェクTVが「多チャンネル化」を目指した。外資系のディレクTVの参入と撤退、フジテレビ・ソニー系のJスカイBの参入をへて、現在スカイパーフェクTVが300チャンネル規模の有料放送を流している。

 2つめのデジタル放送は、2000年12月に始まったデジタルBS放送(BSは放送衛星)である。こちらはアナログBS放送の継承という面があり、NHK、地上民放各系列、WOWOW、スターチャンネル(東北新社)などが、主として「高画質化」を目指した。2ケタ程度の多チャンネル化と標準画質放送やデータ放送が混在する多様な編成も、ある程度は実現したわけだ。

国策としてのデジタル化、3つの言い分

 放送のデジタル化は、多チャンネル化によって放送ビジネスへの新規参入者を生み、高画質放送(専用受信機が100万台しか普及せず、惨めな失敗に終わったアナログ方式と同じ名前の「ハイビジョン」と呼ばれている)やデータ放送など、新しい放送をもたらした。この意味では確かに、放送の「規制緩和」「自由化」が進んだといえる。

 しかし、実情を検討すると、これがはたして本当に放送の自由化を意味するのか、放送に新しく自由な何かが付け加えられ、放送文化はひとまわり大きく広がったのだろうかと、疑問に思われる点も少なくない。まず、郵政省(現在は総務省)が放送のデジタル化を盛んに言い出した1990年代半ばを振り返ることにしよう。

 日本では1994年が「マルチメディア元年」と呼ばれる。この年の4月、郵政省放送行政局は「放送のデジタル化に関する研究会」報告書を出し、地上放送、衛星放送、CATVに共通な放送方式としてISDB(統合デジタル放送)を採用し、放送の高機能化、多チャンネル化、双方向化などを実現すべきとした。

 5月には、郵政大臣の諮問機関の電気通信審議会が「21世紀の知的社会への改革に向けて」という答申を出し、2010年までに光ファイバー全国網を張り巡らせて、通信・放送・コンピュータを融合させた多様な双方向サービスを可能とするとした。これは93年に誕生した米クリントン政権の「情報スーパーハイウェイ」構想への対抗策。その下敷きはNTTが90年に発表した光ファイバー全国網のVI&P構想だから、郵政省は犬猿の仲のNTTのアイデアを、クリントン・ゴア経由でパクッたのだった。

 同じころ放送行政局長の私的研究会「マルチメディア時代における放送の在り方に関する懇談会」も始まり、7月には放送デジタル化のスケジュールが提示された。これが「21世紀に向けた通信・放送の融合に関する懇談会」でさらに詰められていく。

 当時、郵政官僚が盛んに口にしたていたのは、(1)BSあり、CSあり、CATVあり、何でもありのマルチメディアの世の中にしたい、(2)護送船団方式に代わって今後は市場原理を導入するから、放送にも自己責任が必要、(3)過去の放送行政は誤りだった、の3つの主張だ。

 これは放送行政局から出てきた話ではなく、対NTT戦略を立案する通信官僚の主張だった。94年6月の郵政人事で、放送行政局の主だった官僚はあらかた通信系で締められることになり、役所がいち早く「通信と放送の融合」を実現したわけだ。

当初は「規制緩和」の理念に合致していた

 80年代から90年代前半まで郵政省が主導してきたニューメディア政策は、キャプテン、文字放送、CATV、アナログCSなど軒並み伸び悩んでおり、国策会社JSB(現WOWOW)も破綻《はたん》寸前、さらにBS調達の失敗、アナログハイビジョンの不振と、まるでよいところがなかった。

 その原因の1つは、これから伸びるという弱いメディアをがんじがらめの規制で縛ったからだ。たとえば、文字放送は実質的に放送局が流すのに局から独立した組織でなければダメとか、CATVのエリアは区や市の行政区域で決められ、通り1本むこうの域外にケーブルを引くのもダメという具合。こうした規制を緩和し市場原理を導入するという郵政省の政策転換は、大筋では間違っていなかった。

 実際、郵政省の転換後、最初のデジタル放送としてスタートしたデジタルCSは、受信機のコストも比較的安価で、既存の地上波では考えられなかったさまざまな専門チャンネルが200以上も登場。月3000円前後を支払い、好きなチャンネルだけを選んで契約する、という新しいテレビの見方が生まれた。

 もちろん、放送が始まったものの赤字続きで結局撤退し視聴者に迷惑をかけたディレクTVのように受信機そのものがムダになるケースがあった、専門チャンネルといっても深夜はほとんどエロチャンネルではないかなど、問題がないわけではない。だが、これはいってみれば放送が雑誌のような世界になったまでのこと。毎月楽しみに買っていた雑誌が突然休刊したのと同じと思えば、どうということはない。筆者もデジタルCS放送に加入し、映画チャンネルを中心に楽しんでいる。

局と官僚の癒着が理念を骨抜きに

 問題は、ここから先のデジタル化である。具体的にはデジタルBS放送だが、これは規制緩和や自由化政策とは基本的になんの関係もない。

 デジタルBS放送を流しているのは、アナログBSを流していたNHK、WOWOWのほか、民放各系列のBS新会社、スターチャンネルなど「既存のテレビ局」が中心。残りはデータ放送やデジタルラジオ局が細々放送しているだけだ。これではテレビが多様化したとは、お世辞にもいえない。デジタルCSのように、地上波になかった世界が広がったという印象は皆無だ。

 しかも、デジタル・ハイビジョンは16対9の横長画面が売りの高画質放送だが、チューナー(テレビなしの受信機)は5万円前後、テレビは28インチ以上しか売られておらず30万円前後と、相変わらずバカ高い(さらにパラボラアンテナが必要)。この価格のテレビをポンと買えるのは、年収1000万以上といった高所得者か、高額の退職金・年金を受け取り家賃・教育費負担も終わった高齢者くらいなものだろう。デジタルBSには、そのような一部の国民にとっての「プラスアルファのテレビ」という以上の意味はない。

 なぜ、それでもNHKや民放各系列が参入したかといえば、NHKは自らが世界に先駆けて開発した(アナログ)ハイビジョンを是が非でも存続させたかったから。民放は、ほかの新規参入者――たとえば7-11チャンネルやクロネコチャンネルなど――が入ってこないようにしたかったからである。

 実は1970年代のすえ、国際的な取り決めによって、日本には東経110度の軌道位置に8チャンネルの衛星周波数が割り当てられた。座席は8つと決まっているのだから、NHKと民放が席を押さえてしまえば新規参入者は入ってこれない。NHKが地上放送でこれでもかというほどデジタルBSをPRするのに、民放があまり乗り気ではないように見えるのは、参入理由がきわめて”後ろむき”だからだ。

 さらにいえば、NHKがデジタルBSに力を注ぐことができるのは、地上・アナログBS放送の受信料が高めに設定してあるからだ。広告収入で運営する民放は、地上波とBSを両方持ったところで、広告収入は分散されるだけでたいして増えないから、寝たフリを続けている。

 現在のデジタルBS放送は、既存の電波利権を握っていた局がその利権を存続するために衛星に乗ったにすぎないから、市場原理とも自由競争とも関係ない。その主張を通すために、放送局が陰に日なたに監督官庁(旧郵政省と総務省)に気を使いまくってきたことは衆知の事実で、天下りの受け入れはその典型例である。

現行のテレビはゴミになる

 既存放送局がデジタルBSを囲い込んでも、それが金持ちだけが見るテレビの話にとどまるのであれば、あまり問題はない(庶民から広く集めた受信料の一部で、彼らが見ることができない放送を熱心に推進するのはおかしいのでは、という声はあると思うが)。

 今後、本当に巨大な問題はデジタルBSの先、地上放送のデジタル化である(実はデジタルBSとデジタル地上放送の間に、2002年春に始まった110度デジタルCS放送というのがあるのだが、これは受信契約が数千という問題外の水準なので割愛する)。

 読者も含めて多くの国民が、まだきちんと理解していないのではないかと思うが、現行のアナログ地上テレビ放送は遅くとも2011年7月24日までに終了することが、すでに「国策」として決まっている。決まったのは2001年7月の電波法改正でだが、驚くべきことに日本のテレビ、新聞、雑誌は、この問題をまったく報じなかった。法案に反対したのは共産党だけだから、ほとんどの国会議員は電波法改正が現行放送の10年後終了を意味するとは理解していなかったものと思われる。

 では、あと8年10か月後に現在の放送に全面的に取って代わるとされるデジタル地上放送は、規制緩和や自由化とどう関係があるかといえば、やっぱりない。デジタル化すれば並のテレビならチャンネル数がざっと3倍に増えるはずだが、現行の計画では高精細度放送が中心だから、多チャンネル化はしない。デジタル化はNHKや民放各系列の番組が横長で画質も音質もよくなり、オマケにデータ放送がつく以上のことは何もない。

 その地上波デジタル化を何のためにやるのかといえば、まず役所はとにかく新しいことをやって利権を拡大したい。メーカーは受像機や放送機器が売れるからやりたい。NHKは相変わらず高精細度放送をやりたい。民放はたいして旨《うま》みがあるとも思えないが、税金でインフラを整備してくれるなら反対する理由はない。こうしてひとり一般国民だけがつんぼ桟敷《さじき》におかれたまま、計画が進んでいる。

 その結果、起こりそうなことは、民放系列局の稼ぎ時であるゴールデン(夜7〜10時)やプライムタイム(同〜11時)は、いまと同じ内容が16対9できれいに映るということ。番組の数が増えるわけでも作り手が交代するわけでもなく、何1つ自由は広がらない。視聴者が少ない昼間や深夜は、並の画質の3チャンネルで、1つは民放キー、もう1つは地元ローカル、3つめは通販番組その他といった編成になる。この3つめの全然儲かりそうもないところ(だから局は手放す)に限って、新規参入者が認められるわけだ。

 そして、以上に切り替えるために、現在30万円(チューナーだけでも5万円)で売られているテレビを、全国民が買わなければならない!! しかも、いま1万円もしない14インチテレビや車載(小さな液晶)テレビに代わるテレビがいくらで売り出されるのかも、現時点ではわからない!! そのときは1億数千万台以上ある現在のテレビはすべてゴミ。1億台近い現在のビデオは、テープ再生専用機と化す。粗大ゴミの処理代だけで数千億円以上だから、気の利いた企業なら放送ではなくゴミ処理に参入するだろう。

 こんな阿呆《あほう》な計画が成り立つはずがないことは、そこらの子どもでもわかる。ゴールデンの番組はほかならぬ彼らが見ているのであり、彼らは番組の中身以外、見てくれの画質や画面比などには何の興味も抱かない。もちろん筆者は、2011年に現行のテレビ放送を止めるという国策はどうころんでも実現不可能であり、日本のデジタル放送政策は抜本的な見直しが必至であると考えている。

最後には一般視聴者に拒否される

 小泉首相の北朝鮮訪問で、拉致された日本人のうち8人の死亡という情報がもたらされた。ある程度予想されていた結末とはいえ、北朝鮮自らが「テロ国家」「ならず者国家」としての所業の一端を認めた衝撃は大きい。

 同時に、北朝鮮国内ではどのメディアも拉致問題にまったく触れておらず、北朝鮮国民は事件の存在すら知らないことが報じられ、これには暗澹《あんたん》たる思いをさせられた。自由に事件を報じ、自由にものが言えるマスコミの存在は、明らかにその国の自由全体のバロメーターなのだと、改めて痛感する。

 そして筆者は、これは全然他人事ではないと思う。翻《ひるがえ》って日本の放送の現状を見るとき、この国の政府やマスコミは、わずか8年10か月後にテレビ全体を停止するという大事件をほとんど誰も正確に伝えていないからだ。まして、放送デジタル化という大きな潮流が、最初は規制緩和や自由化をともなってテレビの世界を広げたのに、最近では放送局の顔ぶれは同じまま、ただ高画質の横長大画面テレビを国民に買わせる「箱モノ行政」の押しつけに変質しているとは、ほとんど誰も解説しない。

 しかし、現在のデジタル化の進め方は、おもしろいテレビや役に立つテレビを懐《ふところ》具合と相談しながら見るというごくふつうの人びとから、必ずや否定されるだろう。