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2001年11月15日、東京で開かれた民間放送五十周年記念全国大会の挨拶に立った天皇は、次のように述べた。
「今日、情報通信の世界は、技術の進歩とあいまって著しい発展を続けています。放送の世界もより多くの情報提供が可能になるデジタル化という大きな技術変革に取り組んでいると聞いております。今回のこの技術革新がその恩恵にあずかり得ぬ人びとをつくることなく、わが国のすべての人びとの上に幸せをもたらすものとなることを願っております」
さすがに天皇である。とくに誰が頼んだわけでもない(少なくとも私は頼んだ覚えがない)のに、千数百年以上もの間、日本全土の五穀豊穣を毎年祈願し続ける家の長(おさ)である。実にまっとうな、核心を突いた発言である。
この言葉で私は、仁徳天皇が国を見渡していったとされる「民の竈(かまど)は賑わいにけり」を思い出した。もちろん、倭の五王のうち讃に比定されるものの半ば伝説中の人物で、しかも文字通り「大王」であった仁徳天皇と、日本史上二人目の「象徴天皇」である平成天皇は、大きく立場が異なる。ただ明らかに共通するのは、二人とも「民の幸せ」 を心配していることである。
いま語られる放送デジタル化論議に決定的に欠けているものこそ、この「民の幸せ」という視点であると、私は思う。
デジタル化を推進するNHK・民放の経営者や放送局員、逓信族など政治家、総務省(旧郵政省)官僚、家電・情報関連機器メーカー関係者、電通をはじめとする広告会社社員、政府審議会や諮問委員会に名を連ねるメディア学者といった人びとが考え口にするのは、デジタル化でどのくらい儲かりそうか、どのくらい仕事が広がりそうかという、自分たちの都合だけだ。
電波もテレビもほかでもない国民のものなのに、デジタル化が国民にどれほど負担をかけ、またどれほど幸せをもたらすかについて、彼らがまともに検討した形跡はなく、正確に情報公開したこともない。
にもかかわらず、2001年7月には国会で、現在のアナログ方式のテレビ放送を2011年7月までに止めてデジタル方式に転換するという馬鹿げた決定(電波法の改正)がなされた。
高速道路1万何キロかを計画通りつくるかどうか、サラリーマンの医療費自己負担は2割か3割かについて、あれだけ大騒ぎする政治家たちは、わずか9年後までにこの国に存在する全国民全世帯のテレビをすべて――居間にある大型テレビだけでなく、台所、寝室、子ども部屋などにある複数のテレビ、車載用やパソコン用テレビ、さらにすべてのビデオデッキ)を国民の負担でバカ高い機器に買い換えさせるという前代未聞の巨大な問題について、なぜ議論しようとしないのか。私はまったく理解に苦しむ。国会議員の過半数は、こと放送のデジタル化に関してまったく無知無能と断言できる。
だが、放送業界の事情など何一つ知らなくても、根元的な問題を口にすることはできるのだ。「デジタル化はその恩恵にあずかれない人をつくらないか。本当に国民全体を幸せにできるのか」と。天皇の穏やかな願いの言葉から、この疑問に思い至らない人は、よっぽど鈍感な人である。残念ながらここ10〜20年の間、天皇の願いがまったくかなえられないことは、もはや確実な情勢だからである。
放送のデジタル化の行く手には、その推進者がどう頑張ってもくつがえすことのできない放送やテレビに関係する原理原則が、厳然と立ちはだかっている。
それを以下に「デジタルの掟」として整理しよう。もう総務省の進め方はよろしくないなどと、どうでもいい低次元な話を書いている段階は過ぎた。放送局や総務省やメーカーが、それぞれの仕事をこなしたとして、なお問題となる根本的な事柄だけを書こうと思う。
この「掟」を吟味し、「国民に幸せをもたらすデジタル化」とは何かを真剣に考えてもらいたいというのが、筆者の願いである。
いうも愚かで、テレビのまともなつくり手なら無意識のうちに理解していること、だが、一部の放送関係者や役人やメーカーやアナリストなどがまったくわかっていない(またはわからないふりをしている)ことが、これだ。
デジタル化は伝送路の方式変更に過ぎないから、原理的にテレビのつくり方や見方の変更をもたらさない。HDTV(普及に失敗したアナログ・ハイビジョンと紛らわしいので、本稿では高精細度放送をこう呼ぶ)は俳優の化粧や小道具が映りすぎ制作の仕方が全然違うなどという人があるが、アナログ方式のままでもカメラや撮り方次第で映りすぎることはあり、視聴環境によってはその逆もある。きれいに映るとか鮮明に映るといったことは(もちろんきれいで鮮明なほうがよいのは当然だが)、映っているモノやコトそのものと比較すれば、取るに足らないどうでもいいことである。
逆にいえば、デジタル方式でもアナログ方式でも変わることのない何かこそが、「放送」の本質であり「テレビ」の本質である。映りが悪くても、画面の縦横比が異なっても、走査線数が違っても、なお視聴者に伝わること――それがもっとも大切なことであり、それ以外は放送にとって枝葉末節である。
これは、音楽にとって本質的なことが音楽そのものであり、伝送路がデジタルかアナログかと関係がないのと同じだ。というより、音(空気の振動)は連続する変化量、つまりアナログ量であって、伝送路の方式が何であれ、私たちは最終的にアナログ方式のスピーカーから出るアナログ量を鼓膜でとらえている。演奏会で聞くならバイオリンから耳まで一貫してアナログだからデジタルの出る幕などない。
音を電気信号に変換して複製したり遠くに送ったりするとき、デジタル信号に変換したほうがより原音に忠実なアナログ音声に復元できるから、わざわざデジタル化するにすぎない。
そのデジタル化が、音楽に関係する決定的な何か(それは演奏会場では絶対に聞くことができない!)を内包しているわけがない。誰がなんといおうと、原理的にそうなのだ。
心を打つ音楽は、生、レコード、テープ、CD、MD、何で聴いても心を打つ。アナログ方式もデジタル方式も大勢に影響はない。雑音の多少やダイナミック・レンジの幅なども些細な問題。ベートーベンの本質もビートルズの本質も、伝送路の方式に関係あろうはずがない。
テレビでも、すぐれた報道、すぐれたドラマ、すぐれたバラエティは、伝送路の方式となんの関係もない。伝送路がデジタルである場合に限って優れた番組などは存在しない。アナログではヒットを飛ばすがデジタルでは鳴かず飛ばずのドラマ作家などもいない。ただ、優れた番組と平凡な番組があり、優れた作家と凡庸な作家がいるだけだ。これは、デジタル時代にすべての放送関係者が押さえておくべき「基本中の基本」である。
デジタル化投資がかさみ番組制作費が削られたとか、デジタル化推進部門に人が集まって制作部門は人不足などという話をよく聞くが、まったく放送の本質がわかっていない、本末転倒のナンセンスな話。それは、バイオリニストが、「バイオリンの練習をやめてCDの行商に精を出せば世に出られる」と考えるのと同じように馬鹿げている。
デジタル化の第一の効果が多チャンネル化であることは、1996年に本放送を開始した最初のデジタル放送――デジタルCS放送が、200チャンネル規模の多チャンネル化を実現していることから明らかだ。
第二に、受信機側で復元できるようにさえしておけば、0と1からなる信号に変換して何を送ってもいいことも、デジタル化の常識である。
ただし、高画質のHDTVだけを流すときは必要な帯域が広いから、多チャンネル化はできない。逆に多チャンネル化を実現すれば、それぞれのチャンネルの高画質は望めない。勉強量が同じなら、試験科目をたくさん取れば取るほど平均点は下がるようなものだ。
だから、多チャンネルのデジタルCSは画質がたいしてよくない。
一方、2001年12月に始まったデジタルBSはHDTV中心だから多チャンネル化していない。全体で10チャンネルほど増えたという意味で多少、多チャンネル化したといえないこともないが、地上放送局が系列ごとにBSに乗っただけでNHKと民放キーの寡占状態は維持されており、チャンネルの多様化はしていない。とりわけNHKのデジタルBSは、受信料で運営する建前上そこでしか見られない番組を流しにくく、アナログBSの高画質・横長バージョン以上の意味はない。
これから始まるデジタル地上波は、多チャンネル化を目指せばチャンネル数は今の3倍に増え、たとえば(標準画質で)キー局チャンネル、系列局の共同チャンネル、ラジオやデータ放送チャンネルなどを流してもいいはずだが、総務省も放送局もそれはしない方針だ。
キー局は、地上波を多チャンネル化すると必ず広告料収入が減るから、とりわけゴールデンやプライムタイムは、キー局のHDTV一チャンネルだけで囲い込む。標準画質3チャンネルが流されるかもしれないのは、平日の午前中や深夜くらいのものだろう。
つまり、現在進められている放送のデジタル化は、CSを除けばほとんど高画質化しか意味しないのである。
電話は、糸電話はもちろん、黒電話もプッシュホンもISDNを導入しない限りアナログ方式であるが、間違いなく双方向メディアだ。双方向か一方向かと、デジタルかアナログかは、本質的にまったく関係ない別々の問題である。
ただ、デジタル放送では受信機を電話回線とつなぐ仕様にしたから、これまではなかった視聴者から放送局へのルートが確保されるにすぎない。アナログ受信機を電話回線とつなぐ仕様にすれば、もちろん同じことができる。道路を比喩に用いて「細い一方通行の道をデジタル化によって広げれば、反対車線を確保でき、双方向が実現される」という解説を読んだことがあるが、まったくのデタラメである。
別に受信機を電話線とつなげなくても、手元にある携帯電話から電話すれば話は早いが、残念なことに放送局の電話はほとんどいつもつながらない。視聴者との双方向がそんなに大切ならば、デジタル化の前に放送局の電話をいつもつながるようにすべきだと、私は思う。
双方向メディアの端末としては、電話線とつなぐデジタルテレビより、携帯電話やパソコンのほうが圧倒的に優れている。それは、キーボードつきとか処理能力が高いといった理由によるのではない。双方向メディアは、個別に情報を発信できるからこそ意味があるのであり、端末は本質的にパーソナルなものでなくてはならないからである。
携帯電話もパソコンも、ポケットに入れたり書斎の机上に置くパーソナル機器である。だから双方向メディアの端末になる。昔の黒電話も使うときは(田舎の親戚と家族が代わる代わる話すような場合を除き)個人で使った。だからどの家でも玄関に電話が置かれ、用のある者だけが居間から出て一人で使ったのである。
双方向メディアが存在しない時代は、たとえばハガキがその代役を務めた。かつて深夜放送にハガキを出した人は、必ず自分一人で文章を書いたはず。親と相談づくでカメ にハガキを出した人がいたら、会って顔を見てみたい。
居間に置かれるデジタルテレビは、パーソナルではなくファミリーで使うものだから、双方向メディアの端末にはまったく適さない。インターネット・テレビが売れなかったのも当然である。
蛇足だが、同じ理由によってBSデジタルラジオの深夜放送を聞く人はほとんどいないと断言できる。大型のデジタルテレビを買うような家は居間と寝室が別なのがふつうで、居間と寝室が同じ一間暮らしの人(たとえば下宿の学生や一人暮らし老人) は大型のデジタルテレビを買わないのがふつうだからだ。
視聴者の多くは、制作者と同じように放送やテレビの本質を無意識にわかっており、テレビ番組を「おもしろいかどうか」「感動を与えてくれるかどうか」「役に立つかどうか」「好きか嫌いか」といったごく単純な基準で、感覚的に選んでいる。
「画質が美しい」という基準で番組を選ぶのは、映画、スポーツや舞台中継、アート番組などをマニアックに見る場合か、地上波ではゴーストが出るがBSでは出ないような場合――つまり例外的な場合だけである。当然、そのような視聴者は少数派にとどまる。
多くの視聴者が高画質に興味がないことは、高画質ビデオ(S-VHSなど)を購入する人がビデオ購入者の一割程度に収まること、3倍モードで録画する人が多いこと(ビデオテープのパッケージには必ず「3倍でもキレイ」と書いてある)、高画質が売り物だったアナログ方式のハイビジョンがわずか100万台しか普及しなかったこと、デジタルBSの受信機のうちチューナー内蔵型ハイビジョン(HDTV)テレビとプラズマテレビが2001年に46万台しか出荷されなかったこと(普及台数はその7割以下)などから明らかである。
S-VHSビデオとVHSビデオの価格差はせいぜい2〜3万円なのに9割の人が買わないのだから、標準画質テレビとの価格差が数〜10倍以上の高画質テレビは、全世帯のせいぜい1〜2割、大甘に見ても3割程度の普及しか望めない。
正しくサンプリングしたアンケート調査であれば、大半の人がテレビの希望購入価格を数万円以下と答える。
また、年金の月額が数万円というようなお年寄りは、金輪際絶対に二十数万円の高画質テレビなど買わない。いや、買えない。国民年金の老齢年金受給者数は1500万人で、その平均の月額はわずか5万円である(厚生年金の老齢年金は800万人で平均18万円弱)。もちろんこの中には息子がテレビ局員という人もいるが、身よりのない人も大勢いるのである。
高画質の恩恵にあずかろうと思わない人、高画質は自分に幸せをもたらすと思わない人が、現在の日本では間違いなく多数派なのだ。
デジタル方式のテレビの一つのメリットは、画面が横長(16:9)であることとされる。だが、安いもので1台3〜4万円程度で売られている画面比4:3のテレビでも、上下に黒みを出せば(いわゆるレターボックス方式で)横長コンテンツを映すことができる。BSやCSで映画を流すときによくやっている。
ところで、29型(インチ)の4:3テレビで見る16:9の画像は、26.6型(ほとんど27型)の16:9テレビで見る大きさと同じだ。ということは、画面のサイズだけ考えれば、26インチ以下の横長テレビは存在する意味がない。
電器屋で「26インチの横長テレビをくれ」といっても、「4:3の29インチのほうが大きく見えて、値段は5分の1以下ですよ」といわれてしまうからだ。実際メーカーは、寝室用など特殊な液晶テレビを除けば、28型より小さい横長テレビをつくっていない。売れる見込みがゼロだからだ。
そこで問題は、標準・横長にかかわらず「テレビは小さくてよい」と考えている人が、国民の過半数を占めることである。2001年のテレビの国内出荷台数(液晶を除く)は963台だったが、このうち6割弱の562万台が21型以下なのだ。21型と29型の価格差は3〜4万円を超えないから、これは価格差を負担できない人が多いのではなく、小さいテレビの需要が大きいと解釈すべきである。
しかし、現在の放送デジタル化は、これら小さいテレビの需要をまったく無視して28インチ以上の横長テレビに買い換えよと国民を誘導しているに等しい。だが、国民の大多数はそんな誘導に従うはずがない。
実際、台所の棚、寝室や病室のベッドの脇、子ども部屋などに置くテレビや車載用のテレビが、大きさ28型以上・価格二十数万円以上の横長でなければならない必然性は、なんら認められない。高価なうえに邪魔なだけだ。こうした2台目、3台目(お年寄り、若者、単身赴任者など一人暮らしなら1台目)の小型テレビはどうなるのか――小型の横長テレビを低価格で売り出すことができるのか、デジタル化の推進者は納得できる説明をしなければならない。
なお、横長テレビテレビやハイビジョンの通俗的な紹介で、「眼が左右に二つ並んでいて横方向に長い視野を、標準画面よりも自然に映す」とよくいわれるが、これは非科学的でインチキな話である。
ヒトの視野(眼玉を動かさずに見える範囲)は片目の場合、上に60度、下に70度、左右が内側に70度弱、外側に100度といわれる。(下向きの視野が広いことは、テレビをやや見下ろしたほうがラクな理由の一つ)
つまり片目の視野は縦横比ほぼ3:4である。メガネのレンズは実用上十分な視野を覆っているはずだが、別に横長ではない。
次に両目の視野はどうかといえば、代わる代わる片目を閉じてみればわかるように、左右の視野の大部分は重なっている。縦横比4:3の視野を重ねるのだから、よく見えている重なり部分はほとんど円に近い楕円である。横長テレビの形などしていない。
そして、人間は丸いものも三角のものも正方形も長方形も、このよく見える楕円部分に入れて見ている。二メートル離れれば数十インチ以下のテレビは、画面の縦横比にかかわらずこのよく見える楕円部分に収まるから、テレビの外側に広がっている視野との相似など論じても何の意味もない。
片目でしか見えずピントも色も正確でない部分も含めて、すべての視野(これは横長)をテレビが映しているかどうかは、部屋の壁全部がテレビであるというような場合しか問題にならない。それは映画館のワイドスクリーンの話で、テレビの話ではない。
受信地域の天気がよくても、衛星とパラボラアンテナの間に厚い雲があれば、デジタル放送の信号は急激に減衰する。台風なみの強い雨では、CSデジタルもBSデジタルも映らなくなる。アナログのテレビ放送はふつうに映り、アナログBSはなんとか映っていても、デジタルは画面の大部分がモザイク状に乱れるか、まったく映らなくなってしまう。
だから、直接受信のデジタルBS・CSは、台風が近づいているとき台風情報を得るという用途には使えない。また、パラボラは衛星の方向にミリ単位で合わせなければならず、直下型地震で家が何ミリか動けば受信できない。阪神・淡路大震災のような大地震のとき、被災地域で地震情報を得るという用途には使えない。
したがって、直接受信のBS・CSは、あくまで人の生き死にに関係ない、見たいのに映らなくても許せるコンテンツ(趣味や娯楽など)の流通経路にしかなりえない。双方向データ放送で株式売買する人は、嵐のときは思うように取引できず大損する覚悟(!!)が必要である。
また、東京、大阪、名古屋などに住むと(ということは東名阪のキー・準キー局員、霞ヶ関の役人、主要家電メーカー本社社員なども)想像しにくいことだが、日本は実に国土の51.4%が「豪雪地帯」 である。この地域に全人口の16.0%にあたる2000万人、750万世帯前後が住む。
この地域――国土の半分以上の広大な地域では、アナログ放送が10年でなくなろうが、受信セットをタダで配ろうが、直接受信のデジタルBS・CSの普及は絶望的である。夏場だけ野球を見ることができればよいという人はいるだろうが、そんな人が何百万人いても、放送の普及とはいわない。
つまり、デジタルBS・CS放送は、国土の半分以上の広い地域でCATVを利用しなければ、全国に普及しない。なお、日本のCATV(自主放送をするもの)の加入世帯は1000万世帯以上といわれるが、このうちアナログBSの視聴世帯は、放送開始から十数年をへて300万に達しない。豪雪地帯に住む750万世帯にデジタルBS・CSを普及させる難しさがおわかりだろう。
地上波のデジタル化以前にアナログ方式のまま周波数を変更するいわゆる「アナアナ変換」は、これまで850億円かかり電波利用料(通信事業者が納める税金)で数年にわたってまかなうとされていた。しかし、そのコストは3倍近い2000億円以上(高い見積もりでは2700億円以上)かかることが確実になった。
これを、これまでと同じ電波利用料でまかなえば、アナアナ変換には十数年以上かかり、地上波のデジタル化が完了するのはその先(2020年前後)の話になる。そうなるかどうかはともかく、850億円でアナアナ変換を解決する前提で立てられた「2011年までにアナログ地上波を停止する」という国策は無惨にも崩壊した。
今後の打開策もスケジュールも不透明だが、アナアナ変換をクリアしなければ、地上波デジタルは失敗することは明らかである。
時期は遅らせても、地上波のデジタル化を全面的に実施するのであれば、膨らんだコストをすべて国民に押しつけてしまうのが手っ取り早い。
だが、それは容易なことではなく、ドンブリ勘定の無責任な国費投入の実態を知れば、国民の大多数はデジタル化からそっぽを向くだろう。
これまでの計画どおりデジタル化が進めば、NHK職員、民放局員、メーカー社員、総務省官僚の給与は別に減らず、可処分所得も減らない。どのセクターでも人件費を除いた残りから、デジタル化のコストを支払うからだ。
喧伝されているとおりバラ色に普及が進めば、放送局もメーカーも大儲けできる。官僚も胸を張って天下りができる。
しかし、デジタル化が進めば、国民は新しく高価なテレビを買い、さらに携帯電話にかかる電波利用料その他税金のかたちでデジタル化コストを負担しなければならない。このコストは経費として計上できないから、その分、国民の可処分所得は減る。
つまり、身銭を切ってデジタル化のコストを負担するのは、国民だけだ。
そして、コストを負担する者が、「このコストはもたらされる利益に合わないから負担しない」と判断すれば、デジタル化のコストはどこからも出ない。
国民が受け入れなければデジタル化は絶対にできない。
もちろん、国民は放送のデジタル化が自分にどんな負担を強い、どんな幸せをもたらすか知らされておらず、自分たちの問題とは思っていない。だから、ムシロ旗を立てて反デジタル化運動を(もちろんデジタル化推進運動も)展開したりはしない。
ただ、「つまらない」「役に立たない」と思う番組は見ないし、「高すぎる」「不要である」と思う機器は買わないだけである。そのような国民の判断だけが、デジタル化の帰趨を決する。
国民には自ら損をしてまで放送のデジタル化に手を貸す義理はない。自分たちの上に幸せがもたらされるかどうかという一点だけで、デジタル化を支持するか、見放すかするのだ。
その判断は、ここまで述べてきた「掟」を逸脱することはありえないというのが、私の見解である。
最後に、デジタル化をめぐる事態が、ここまで書いた「掟」を越えないで推移したら、デジタル放送はどうなるか、見通しを記しておこう。メディアごとに分ければ、結論はおおよそ次の3点である。
第一に、BSデジタル放送は、このままゆるやかに受信者 が増えるが、結局は日本の太平洋側の半分に住む金持ちやマニアが見るプラス・アルファの放送に落ち着くだろう。普及数はアナログBSハイビジョン(100万)の何倍かに達するだろうが、それでも「アナログ・ハイビジョンの二の舞」に終わる。
NHKの契約者数1100万、それ以外に視聴世帯が数百万と見積もられるBSアナログ放送の受信者をBSデジタル放送の受信者が上回ることは、アナログ放送衛星の寿命が尽きる2007年はもちろん、2010年代に入っても難しい。受信者保護のために衛星打ち上げが何度か必要だ。
第二に、地上デジタル放送は、2003年の大都市圏でのスタートは絶望的である。むりやり格好をつけて始めたければ勝手にすればよいが、最初の数年〜10年間以上は実験以上のものにはならず、受信機は遅々として普及しない。現行のアナログ放送を止める時期は、2011年からどうころんでも数年〜10年以上後ろにずれ込む。計画通りHDTV中心でいくのであれば、地上波デジタルは大都市圏にしか普及しないというような失敗に終わり、首都移転と同様の構想倒れになる可能性が極めて高い。
第三に、デジタルCSは、デジタルBSを始めなければもっと伸びる可能性があったと思うが、デジタルBSやデジタル地上波によってややダメージを受ける。ただし、すでに二百数十万の顧客 を押さえており、受信機が安く、地上波と異なる専門チャンネルであることから、ゆるやかに伸びるだろう。いわゆるCS110度のデータ放送は、携帯電話やインターネットには勝てず、現行CSの顧客は無料サービスでもしない限りアンテナの向きを変えることはないだろうから、視聴者を増やすことはできない。
ただ、有料放送のCSは、もともとプラスアルファの放送を目指しているから、放送の大勢に影響はない。儲かりそうもなければ撤退すればよいだけの話で、CSでは雑誌が創刊や休刊を繰り返すような世界が展開されることだろう。
どうもパッとしない将来像であるが、以上は現在のデジタル化計画をそのまま突き進めたとき、確実に起こりそうな話である。
そうなればデジタル化は、間違いなくその恩恵にあずかれない多くの人びとを生みだし、幸せはすべての国民の上にはもたらされない。日本の放送デジタル化政策は抜本的な見直しが必要である。
≪脚注≫
(注1)豪雪地帯 累年平均積雪積算値が5000センチ日以上の地域。豪雪地帯の指定基準に関する政令による。
(注2)デジタルBSの普及世帯数 デジタルBSの普及世帯数について200万以上という根拠不明の数字が流されているが、これは事実ではない。2001年末までの受信機の出荷台数は100万に届かず、普及台数(実売数)はその7割以下である。さらに、アナログ方式のCATVに流れている分はデジタル放送の普及とはいわない。デジタル方式のCATVに流れているBSデジタル放送を視聴している数は、一説には数万世帯以下。すると、2001年末までの1年間で、普及世帯数の累計はせいぜい70万世帯程度と見られる。3年1000日続けても、伸び率は低下する可能性すらある(最初の数十万が、ハードが高かろうがソフトが貧弱だろうがとにかく買うという新しもの好きだった場合は、そうなる)。デジタルBSは3年で200万も普及すれば御の字。おそらく全世帯の1割、450万世帯程度まで普及すれば、あとは頭打ちとなるだろう。(この項目のみ、初出後に加筆してあります)
(注3)デジタルCSの普及世帯数 1996年10月に本放送を始めたスカイパーフェクTV(当初はパーフェクTV)の加入件数は、5年余りたった2002年1月現在、総契約数(法人契約、CATV契約、販売代理店店頭展示品契約を含む)が279万9000、うち個人契約数が254万9000。年間50万契約は大健闘といってよい。
(あとからの注)カメ (以下は斎藤晃生からのメールを勝手に掲載。ありがとう) カメってなんですか、カメって(笑)。(状況はわかるけど)マニアックすぎ。ていうか特定の世代ですよね。66年生まれのぼくは自信なかったので、一応調べました。亀淵昭信 ニッポン放送社長。69年から73年までオールナイトニッポンのパーソナリティ(洋楽好きの人に支持されてたみたいですね)。その後、武田鉄矢主演の映画「刑事物語」に出演。「そろばんずく」では制作。んでヒット曲が「水虫の歌」……いやぁ、た、多才なひとですねぇ(^ ^;;