メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

日本放送行政の歩みと問題点
(CS BS 地デジ 地上デジタル放送)

≪リード≫
メディア総合研究所が主催した
シンポジウム「放送行政はどこへ行く」
(1995年5月20日、東京・自動車会館)
の記録から。
最初の問題提起部分だけを抜粋します。

≪シンポジウムの内容≫
「日本放送行政の歩みと問題点」坂本衛(ジャーナリスト)
「放送現場からみた放送行政」磯崎弘幸(民放労連書記長)
「放送法改正のめざすもの」服部孝章(立教大学教授)
「日本の放送制度、それは外国とどこが違うか」小林宏一(東京大学教授)

総合司会 青木貞伸(メディア総研所長)

「マルチメディア時代における放送の在り方
に関する懇談会」報告書をサカナに

 私に与えられたテーマは「日本の放送行政の歩みと問題点」。とてつもなく大きなテーマで、話のタイトルとしては大風呂敷すぎるようですが、とくに最近の放送行政の転換、「規制管理型」から「競争促進型」へ転換し始めたようにみえる郵政省の動向について、話せとのご指示です。25分ほどお付き合いをお願いします。

 今日の話は、皆さんご存じと思いますが、郵政省が最近(1995年3月末)に出した報告書、いわゆる「マルチメディア時代における放送の在り方に関する懇談会」報告書をサカナに進めたいと思います。

 サカナにするといっても、あまりうまそうではなく、ろくなツマミにならない感じもありますが、郵政という料理人の包丁さばきぐらいはわかる。いかにその包丁がさびついているかがよくわかります。調理場の深刻な混乱状況も伝わってきます。

 報告書の抜粋は資料に載せてあります。あとでゆっくりご覧いただくとして、この報告書をサカナに、話を前後2つに分けたいと思います。報告書を参照しながら、前段で郵政省はどんなことを考えているのかをお話します。後段で、その郵政省の考えていることの問題点をお話したいと思います。

江川「アナログ見直し」発言に決着をつける報告書
郵政は、競争だ、自己責任だといい始めた

 まず初めに、報告書の出た経緯を説明しておきます。

 94年2月に、郵政省放送行政局長の江川さんが「世界の趨勢に遅れたアナログのハイビジョンは見直す」と発言し、NHKやメーカーが猛反発して大騒ぎになりました。あの一件に、決着をつけるための会合として、1年前の94年5月に、放送行政局長の私的な研究会「マルチメディア時代における放送の在り方に関する懇談会」が始まりました。何回か会合を重ねて、この3月29日に最終報告が出ています。

 報告書には、郵政省放送行政局がいま考えている「マルチメディア時代における放送の役割と展望」とはどういうものか、が書かれている。厳密にいえば、郵政省の考えていることを、NHK、民放、NTT、メーカー、学者などの専門家に諮《はか》り、みんながまあこんなところだろうと認めた範囲のことが、書かれているわけです。

 たとえば、報告書の第4章に、マルチメディア時代にむけた政策的課題として、

  「国民の多様なニーズへの対応」
  「多様な選択の機会の確保」
  「競争の促進と経営の自己責任原則の確立」

という言葉が出てきます。こうした言葉が、郵政省あるいは郵政官僚が考えている放送の進むべき道を、端的に示しているといえます。いずれも数年前までにはなかった考え方で、ここ1〜2年、強まってきた郵政の意向であります。

 ここでいわれている「多様なニーズに応える」とか「選択の機会を多様化する」というのは、地方に民放を4つつくるといった話とはまったく別のもの。具体的には、デジタル放送で何十チャンネルもやろうよという話です。

 「競争促進」とか「経営に自己責任」という考え方も、これまでの郵政省にはありませんでした。郵政省はかつてJSB(WOWOW)を「うちの会社」と呼び、OBを社長に送り込み、絵に描いたような放漫経営を展開しました。経団連会長が会長を務める国策会社だったことと、バブル時代の泡銭が集まったという2つの理由でつぶれなかっただけで、「経営に自己責任」など、かけらもありませんでした。それがいまは、競争だ、自己責任だといい始めています。

 どうしていっていることが変わったかというと、まず、いってる人が変わりました。

1994年6月の郵政人事で
通信系の官僚が放送の主要ポストを占める

 ちょっと郵政省内部の話をすると、昨年、94年6月の人事で、放送行政局の現場の責任者、課長さんたちは総入れ替えとなり、通信系の官僚が放送の主要ポストを占めるようになりました。

 郵政省の電気通信行政が通信政策、電気通信、放送行政の3局に分かれることはご存じと思います。通信や放送は、いわゆるテレコム3局の所管です。テレコム3局を色分けすると、通信は通信政策局と電気通信局で、放送は放送行政局で扱っています。

 郵政内部での「通信と放送」の関係は、これまで必ずしもうまくいってはおらず、バランスがあまり取れていませんでした。というのは、もちろん通信のほうが格が上なわけです。「通信とは情報をその場にいない者に伝えること」と定義すれば放送は通信に含まれる、という常識から考えても当然でしょう。

 通信政策局長から事務次官になる人はある(現局長五十嵐さんは次の次官確実)が、放送行政局長からなる例はまずない(上がりのポスト)。郵政の対NTT戦略の司令塔となる電気通信局電気通信事業部長は、いまやこれを通過すれば末は官房長か事務次官確実と思われるポストだが、放送行政局にそんな重要ポストはない。だから、郵政省においては、もともと通信のほうが主流で、放送は通信の中の一部です。

 そして、キャプテンや文字放送などニューメディアの停滞、国策会社JSBの不振、BS調達の失敗、ハイビジョンの破綻、CATVやCSの伸び悩み、相次いだ放送事件(たとえば、いわゆる「やらせ」問題や、椿発言)への対応のまずさなど、最近の放送行政の「失政」は、ますます通信のウエイトを高める結果となりました。ここ数年、通信官僚たちが「放送は何をやっとるんだ」と眉をひそめていた。

 そこにマルチメディアの波が押し寄せてきた。「通信と放送の融合」が必要というわけです。郵政省内部でも「通信と放送の融合」が進むのは必然でした。もちろんそれは「通信」が「放送」を呑み込むかたちになった。放送行政局の前線指揮官たちは、通信系の人で占められてしまった。これが昨年の6月の人事でした。

 この人事を主導したのは松野春樹事務次官――五十嵐三津雄通信政策局長のラインです。いまやテレコム3局では、前線指揮官の課長クラスは、このラインしかみていない。放送行政局でも、局長の江川晃正さんを素通りして、通信政策局長や次長のところへいく。通信政策局の次長さんは高田さんといって、ミスター・マルチメディアといわれています。テレコム三局はこのライン(五十嵐―高田)に沿って動いています。

「何でもありの世の中に」「放送にも自己責任」
「過去の放送行政は誤り」が口癖

 新しい前線指揮官たちは、通信の主流を歩いてきたというだけでなく、日米交渉や海外経験のある国際通が多いようです。彼らが口癖のようにいっていることが3つあります。

  (1)「何でもありの世の中にしたい」
  (2)「放送にも自己責任が必要になる」
  (3)「過去の放送行政は誤りだった」!

 (1)の「何でもありの世の中にしたい」とは、BSあり、CSあり、CATVあり、あるいは無線あり、有線あり、そんな世の中にしたいということ。つまり、マルチメディアの推進です。この「何でもあり」は、放送をデジタルにしなければ実現できないと考えられています。

 (2)の「放送にも自己責任が必要になる」は、何でもありの世の中では、放送がいままでのように「免許をもっていれば絶対つぶれない」業界ではありえないという意味です。もちろん過去に倒産まで至った放送局がいくつもある。だが、それはケタはずれの放漫経営など特殊な要因によった。今後は、たとえばベータ方式でVHS方式に破れたソニーのように、まともに経営していても負けて退くことがある。その場合は自己責任の原則で処理すべきで、行政は面倒みないというわけです。

 (3)の「過去の放送行政は誤りだった」その誤りとは、たとえばMUSE方式のハイビジョンを国策として推進したことです。規制規制でがんじがらめにして伸び悩んでいるニューメディアもこの誤りの例でしょう。

 これまでの放送行政は、たとえば「文字多重はこの方式」と行政が決めて免許を募る。行政が「これに乗れ」とバスを用意する。そして、定員割れなら行政が強制的に乗る人を決める。定員オーバーなら行政が調整して乗る人を絞り、出発させる。この行政バスは、運転手が郵政OBの天下りだったりする。そして乗る人に、持ち物はこれとか、こんな服装でとか、窓を開けるなとか、細かいことを大変うるさく強制する。お前の席は前から5番目の右の窓側で、席を移ってはいけないとか、全部決まっている。しかし、肝心かなめの地図がない。険しい山道や深いぬかるみで立ち往生する。あるいは何台かのバスが狭い道でぶつかり、先に進めない。これがニューメディアの悲惨な状況だと思います。

 しかし、「今後は郵政バスを仕立てるのをやめる」といい始めた。バスが目的地にたどり着くかどうかは、市場が決めることだ。ただし、近いうちに「光ファイバー高速道路」が各地に通じるはずだから、それにすぐ移れるように「デジタル」タイヤだけはつけてくれ。郵政省は、そんな風にいいたいわけです。

 報告書には、多様化ということばで(1)「何でもありの世の中にしたい」が出てくる。(2)の競争促進や自己責任も出てくる。(3)番目は、身内の恥をさらすわけで、よほどのとき以外はいわないから、報告書には出てきません。しかし、在り方懇談会の委員を、郵政はこう考えているから何とかお願いしますと説得するような場合には、放送行政局長や課長さんクラスは「過去はの放送行政は間違っていた」とハッキリ口にしています。

郵政の結論は、「導入時期はメディアによって異なるが、
将来はデジタル放送」

 報告書に出てきた郵政省の考え方を紹介しましたが、報告書の結論は何かというと、「地上波もCATVもCSもデジタルだ。導入時期はメディアによって異なるが、将来はデジタル放送ですよ」ということです。

 ところが、BSのデジタルについては、みんなの意見がまとまらず、(A)論と(B)論の両論併記になった。Aを支持したのは委員の誰、Bを支持したのは誰とまで書いてある。意見が割れたのは、BS−3で94年11月から実用化試験放送を開始しているハイビジョンを、BS−4段階でどうするかという話。懇談会のきっかけが、ハイビジョンは時代遅れだという放送行政責任者の発言で、そのことを話し合った結果が両論併記というのは、早い話なにも決まらなかったわけです。

 (A)は、BS−4bから、予定通りハイビジョンを本格普及すべきという考え方。NHK、メーカー、民放はこちらです。(B)は、BS−4bからデジタル化を導入すべきという考え方。基本的に、MUSEハイビジョンの命運は尽きたから、おしまいにするか、少なくとも積極的には推進しないという考え方。郵政省やNTT、学者さんたちはこちらです。郵政省は、MUSEハイビジョンをすでに見捨てているのです。

 にもかかわらず、報告書には、たとえば第7章で、「ハイビジョンによる高画質ソフトの制作を通じた技術・ノウハウおよび映像資産の蓄積に大きな意義」とか「ハイビジョンテレビやワイドテレビの普及はマルチメディア時代にも有効な高度な表示装置の先行的な普及につながる」などと書いてある。一応もちあげてある。

 しかし、続けて「ハイビジョンもデジタル化が時代の流れ」で、「ハイビジョンの映像資産や関連技術は、デジタル放送にも活用でき、投資の多くはマルチメディア時代にむけて結実する」と書く。MUSEハイビジョンへの投資は、MUSEハイビジョンでは回収できず、デジタルにしてから長い目で見て回収せよ」といっているわけです。いかにも、ただちに現行ハイビジョンはダメとはかけないから、ああだこうだと苦労して作文してあります。

 第8章でも、ハイビジョンの普及方策という項目があって、MUSEハイビジョンの普及推進策をいろいろ書いてあります。これはNHKやメーカーのために、いかにもとってつけたように書いてある。このあたりも、郵政の本音とは正反対の、作文の部分です。

 郵政省は、ハイビジョンのような高画質放送のニーズはほとんどないと考えているのです。仮にニーズがあるとしても、それは遠い将来のことで、時期がくればデジタルHDTVとして考えればよいというわけです。放送行政を司る郵政官僚たちの現在の関心事は、準備が進んでいるCSのデジタル放送。1995年8月に上がるJCSAT3で、30〜50チャンネルの多チャンネル化が始まる一件です。

 CSに参入する準備を進めているある人に聞いた話では、放送行政局のお役人からは、あの話はどうなった、アメリカに行くといっていたが成果はどうだったと、しきりに電話がかかって来るそうです。郵政は、CSのデジタル放送に大変期待し、熱心に応援しています。民放各局を回ってCSに乗ってほしいと頼んだりもしています。

 一方、ハイビジョン推進派のNHK、メーカーは、現行ハイビジョンを推進するという国策を掲げたのは郵政省ではないか、いまさら時代遅れとは何事か、どうおとしまえをつけてくれるのかと、懇談会の席上でも郵政省に食ってかかる。当たり前です。すると郵政省は「過去の放送行政は間違っていた。ごめんなさい」と頭を下げるわけです。

 しかし、ハイビジョンに巨額の投資をしたNHKやメーカーは頭を下げられても困る。投下資本が回収できないわけですから。ハイビジョンに本腰を入れていない民放は、BS−4bに乗れさえすれば、デジタルでも何でもかまわないのかも知れませんが。

 ハイビジョンの普及台数は、現在役6万台程度といわれています。NHKの技術研究所では東京オリンピックの直後から、ワイドで高精細なテレビ、つまり現在のハイビジョンにつながる新しいテレビの研究を始めています。研究開始から30年で6万台。これは大変厳しい数字で、絶望的なようにも思います。

 しかし、実用化試験放送のスタート以後、ややハイビジョン受像機が動きだしたという見方もあります。BS−4bの事業者は、93年5月の電波監理委員会答申で当時から「3年後」に決めるという既定路線がありますので、猶予はあと1年ありません。メーカーは活発に売り始めていますが、冬のボーナス商戦までにハイビジョン受像機が思うように売れなければ、現行ハイビジョンの命運は尽きるのかも知れません。

 いま報告書の争点についてお話しましたが、報告書がAB両論併記ということは、郵政省の放送政策のうちもっとも急を要する重要項目のひとつが、まだ(A)にも(B)にも決まらず、どっちつかずということです。郵政省は(B)で行きたいが、まだそれを政策にはできない。放送局とメーカーは、行政に大きな不信感を抱いている。このことは、日本の放送行政の現在をまさに象徴していると思います。

 その意味では、1995年3月29日に出た報告書は、大変興味深いドキュメントになっています。意味も内容もまったくない「作文」のように思われる部分でも、それが書いてあることには背景や裏の意味があったりするわけです。

「視聴者不在」「ソフト不在」「コスト不在」
この「3つの不在」が、根本的な問題だ!!

 さて、放送の在り方懇談会の報告書に出てくる郵政省の考え方を紹介しましたが、それについての問題点をいくつか指摘しておきたいと思います。

 郵政省が最近いい出したことには、方向は概ねその通りという部分が含まれているのも事実です。たとえば「なんでもありの世の中」で「放送にも自己責任」というのは、その通り。技術の進歩と大衆のニーズは、黙っていてもある程度「なんでもあり」の世の中をもたらすだろう。いつかそういう世の中になることは間違いない。放送界は、その部分は素直に受け止めるべきだと思います。

 にもかかわらず、根本的な問題点があります。3つだけ指摘しておきたいと思います。それは「3つの不在」、つまりなくてはならないものが3つ欠けているということです。

 第1に「視聴者不在」です。ハイビジョンがどうとか、地上波や衛星をデジタル化するというとき、肝心の視聴者はどうなのかという視点が、日本の放送行政には決定的に欠如しています。

 そもそも懇談会が、放送局とメーカーと情報関連企業と学者でつくられ、視聴者は初めから蚊帳の外。郵政省は、「すべては市場が決める」と言い出したようなのですが、ならば市場に、つまり国民や市民や視聴者にものを聞くべきです。ところがデジタル化はどうかなど大衆に聞いてもしょうがないと思っているから、一切聞かない。世界の事情に通じている自分たち官僚が、放送現場と業界と学者と相談しながら道筋をつける。無知な大衆はついてこいという発想です。

 つまり視聴者不在の裏返しの、官僚至上主義、縄張り主義、業界至上主義、密室主義。これが、第1の問題です。

 第2に「ソフト不在」です。このソフトは、映像ソフトも、放送も、マルチメディアのメニューも、情報や放送の流し方や使い方も、すべて含んだ広い意味。郵政省の発想には、広い意味のソフトという考え方が欠如しています。

 ソフト不在の裏返しは、ハード至上主義、あるいは技術至上主義。すべては、受像機とかコンピュータとか光ファイバーとか衛星といったハードから見られています。郵政省は「通信と放送の融合」を盛んにいっていますが、ハードからの発想ではそれでよい。しかし、光ファイバーに流れる電気信号では区別できなくても、NHKが私に送ってくる放送と、友だちが私に送ってくる電話では、中身が絶対に違うのです。マルチメディアの時代には、その中身の違いがますます重要になってくる。同じデジタル信号で伝送路も区別できないからこそ、ソフトの違いが重要なのです。

 郵政省の1階にハイビジョンが置いてあるが、何年か前取材に行くと、高校野球に人だかりがしていました。担当者は「どうです、ハイビジョンはすごい人気でしょう」とうれしそうでした。しかし、今思えば、あれはハイビジョンというハードに人だかりがしていたのではなく、高校野球というソフトに人だかりがしていたのです。この区別ができないハード至上主義は、光ファイバーであれデジタル放送であれ、必ず失敗すると思います。

 第3に「コスト不在」です。官僚というのは、自分のカネで仕事をせず、役所の予算で仕事します。予算では足りない場合は、業界やメーカーや最終ユーザーに負担を求めるわけです。

 しかし、これは郵政省に限った話ではありませんが、官僚はコスト計算ということが一切できません。予算という概念はあっても、コストという概念がないのです。すると、コストは人が計算したデータを流用するか、いい加減な机上計算で弾くしかなく、アイデアや企画だけが一人歩きを始めます。コストは最初の見積もりより必ずオーバーし、しかも前任者が決めたことを違う人が担当しますから、責任はあいまいになります。

 今回の報告書でも、デジタル化に関わるコストの話は一切でてきません。コスト不在の裏返しの無責任主義が、第3の問題です。

 以上で、私の問題提起を終ります。