メディアとつきあうツール  更新:2003-07-03
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<ジャーナリスト坂本 衛のサイト>

マルチメディアで政策も激変
郵政省デジタル化のゴリ押し
(CS BS 地デジ 地上デジタル放送)

≪リード≫
ここにリードが入る

(「放送批評」1995年04月号)

省内で完了した”通信の放送乗っ取り”

 妖怪が極東の小島を徘徊している。「マルチメディア」という妖怪が。ある者はこれを「世紀末ニッポンに降臨した(または来世紀初頭には降臨するであろう)救世主」と崇め拝み、ある者は「わが業界(または会社)を脅かす悪魔」と恐れおののく。

 この言葉が新聞に載らない日はなく、ELNETで検索記事を送ってもらったら、三日でFAX紙が紙袋いっぱいになった。たまらず見出しだけにしてほしいと頼んだが、今日一九九五年二月四日はB4五枚で四十一件も出た。

 マルチメディアとは何かといえば、怪しくもサイケでイカレたその出自と異なり、この国では「通信と放送とコンピュータ」の三つをかけ合わせ、ないしは融合させて生まれる新種(のようなもの)であると考えられている。

 あるいは、ただ「通信と放送の融合」という人もある。通信とコンピュータはパソコン通信のように融合し始めているとすれば、三者交配も二者交配も同じことをいっているわけだ。

 この「通信と放送の融合」は、一般家庭のテレビではまだ見ることができない。画面は「放送」と呼ばれるものだけを流している。「通信と放送の融合」は、どこへいったら見つかるのか。そう思って探したら、あった。郵政省というところにである。

 郵政省という役所は、郵政三事業(郵務、貯金、簡易保険の三局)と電気通信行政(通信政策、電気通信、放送行政の三局)を担当している。通信や放送は後者――いわゆるテレコム三局の所管だ。

 通信政策局は、電気通信の規律に関する基本的かつ総合的な政策を中心に扱う。電気通信局はもっと現場よりで、法の施行、事業の企画や立案、周波数割り当て基本計画などを扱う。放送行政局は放送を扱う。だから、テレコム三局を色分けすると「通信政策・電気通信」が通信で、「放送行政」が放送となる。

 両者の関係は、もちろん通信のほうが上に位置する。「通信とは何か(情報)をその場にいない者に伝えること」と定義すれば放送は通信に含まれる、という常識から考えても当然だろう。

 実際の管掌をみても、たとえば電気通信業・放送業の発達・改善のための資金融通に関する取りまとめの担当は通信政策局であり、放送行政局ではない。周波数割り当て基本計画の担当は電気通信局であり、放送行政局は放送用周波数の計画しか担当しない。

 また、通信政策局長から事務次官になる人はあるが、放送行政局長からなる例はまずない。対NTT戦略の司令塔となる電気通信局電気通信事業部長は、いまやこれを通過すれば末は官房長か事務次官と思われる重要ポストだが、放送行政局にそんなポストはない。 だから、郵政省においては、もともと通信のほうが主流で、放送は通信の中の一部なのだ。

 そして、キャプテンや文字放送などニューメディアの停滞(ナウメディア化ならぬノーメディア化)、国策会社JSBの不振、BS調達の不手際、ハイビジョンの失敗、CATVやCSの伸び悩み、相次いだ放送事件(たとえば、いわゆる「やらせ」や椿発言)への対応のまずさなど、最近の放送行政の失敗は、ますます通信のウエイトを高める結果となった。ここ数年、通信官僚たちは「放送は何をやっとるんだ」と眉をひそめていた。その声が外部に聞こえなかったのは、郵政官僚が、放送行政の是正よりも身内の恥をさらさないことのほうが大事だと考えたからである。

 そこにマルチメディア――「通信と放送の融合」だ。郵政省内部でも「通信と放送の融合」が進むのは必然だった。もちろんそれは「通信」が「放送」を呑み込むかたちになった。ある人にいわせると、「郵政で起こっていることは、通信と放送の融合ではなく、通信による放送乗っ取り」だそうだ。

 これまで「放送」にいいところがなかったのだから、よしあしは別として、無理もないことだと思われる。

「過去の放送行政は誤りだった」

 郵政省における「通信と放送の融合」は、九四年六月の人事で決定的になった。この段階で放送行政局の課長は総入れ替えとなり、通信官僚が放送の主要ポストを占めた。

「この人事を主導したのは松野春樹事務次官―五十嵐三津雄通信政策局長のライン。いまや放送行政を含むどのテレコム三局でも、前線指揮官である課長クラスは、このラインしかみていない。実際テレコム三局は、このラインに沿って動いている」(事情通)

 新しい前線指揮官たちは、通信の主流を歩いてきたというだけでなく、日米交渉や海外経験のある国際通が多い。彼らの口癖は、

「何でもありの世の中にしたい」
「放送にも自己責任が必要になる」

 ということである。「過去の放送行政は誤りだった」と断言する人すらいる。

 どういうことかというと、まず「何でもあり」とは、BSあり、CSあり、CATVあり、(ことによると時代遅れの)ハイビジョンもあり、あるいは無線あり、有線あり。そんな世の中にしたいというのだ。

 これに付け加えて郵政省が強調するのは、「デジタル化」である。そんなにハイビジョンがやりたければおやりください、ただし、それにデジタルを追加してほしい、と。

 「自己責任」とは、何でもありの世の中では、放送がいままでのように「免許をもっていれば絶対つぶれない」業界ではありえないことを意味する。もちろん過去に倒産(寸前)まで至った放送局がいくつもあるが、それはケタはずれの放漫経営など特殊要因によった。今後は、たとえばベータ方式でVHS方式に破れたソニーのように、普通に経営していても負けて退くことがある。その場合は自己責任の原則で処理してほしい、行政は面倒みないというのだ。

 「これまでが誤り」とは、個々の不始末を指す場合もあろうが、もっと根本的な行政のあり方についての話と解すべきだ。

 たとえば「文字多重はこの方式」「BSはあの方式」と行政が決めて、免許を受け付ける。行政が「これに乗れ」とバスを用意するわけだ。そして、定員割れなら行政が強制的に乗る人を決め、定員オーバーなら行政が調整して乗る人を絞り、出発させる。この行政バスは、まともな地図をもっていないから、険しい山道や深いぬかるみで立ち往生する。それがこれまでの放送行政の通例だった。

 ところが、郵政は「今後は、バスを仕立てるのをやめる」といい始めたようなのだ。

 行きたい連中は、勝手にバスを仕立てて行け。途中の状態など当局は関知しない。バスが目的地にたどり着くかどうかは、市場が決めることだ。ただし、近いうちに「光ファイバー高速道路」が各地に通じるはずだから、それにすぐ移れるように「デジタル」タイヤだけはつけてくれ。

 どうも、そんな風にいいたいらしい。

最大の政策課題は”デジタル化”

 ここで、この一年の郵政省の動きを概観しておこう。

 まず九四年五月に、郵政大臣の諮問機関である電気通信審議会から「21世紀の知的社会への改革に向けて」答申が出た。骨子は「二〇一〇年までに光ファイバー全国網を張り巡らすと、通信・放送・コンピュータが融合した多様な双方向サービスが可能となり、市場規模は百二十三兆円、雇用創出は二百四十三万人に達する」というものだ。

 アメリカのNII(全米情報基盤)構想と比較されることが多いが、あちらは「二〇一五年まで」と期限を切ったクリントン政権の「公約」、こちらは「二〇一〇年」(見栄で五年早い)を前提にした省レベルの審議会の「提言」である。基本的な骨格はNTTの光ファイバー構想の丸写しだ。郵政省は、この巨大なインフラ整備を公団など第三セクター方式で行なうことを盛り込もうとしたが、行政改革の折から否定され、民間主導が明記された。六月には、答申の中身が郵政省の情報通信基盤の整備目標となった。

 なお、九五年一月の郵政大臣会見をみると、情報通信基盤の整備方針に軌道修正がなされた。先の構想は光ファイバー(有線)ばかり強調しすぎたが、衛星や無線も重視していくというのだ。アメリカの構想がはっきりするにつれて、あちらでは衛星や無線も活用することがわかり、マネをして改めた。

 余談だが、九四年五月の電通審答申でいわれていることは、その程度のレベルの話が多く、市場百二十三兆円なんて数字にたいした根拠はない。八十兆円かもしれないし、ひょっとして百五十兆円かもしれない。二〇一〇年も十年ずれるか、十五年ずれるかわからない。官僚も学者もそう思っているはずだが、わからないでは予算も格好もつかないから、「たとえば」と試算してみたにすぎない。

 放送行政局レベルでは、九四年四月に「放送のデジタル化に関する研究会」報告書が出た。これは、地上放送、衛星放送、CATVに共通な放送方式の基本構造としてISDB(統合デジタル放送)を採用し、放送の高機能化、多チャンネル化、双方向化などを実現すべきだとする。

 五月には、放送行政局長の私的研究会「マルチメディア時代における放送の在り方に関する懇談会」も始まった。二月に江川晃正放送行政局長が「世界の趨勢に遅れたアナログのハイビジョンは、見直す」と発言し、NHKやメーカーが猛反発した一件に、ここで決着をつける。九五年三月二十九日に最終の会合が開かれ、何らかの報告を取りまとめる見込みだ。

 懇談会は、顔見せ興行後の七月に郵政省が放送デジタル化のスケジュールを突然提出しようとし、メーカーや放送界の反対で紛糾。最終報告を前にした現在の争点は、(1)BS−4の後半(BS−4b)をどうするのか(デジタル放送とするのか)、(2)地上波のデジタル化はどうするのか、あたりに絞られてきたようだ。

 郵政省の本音は、BS−4aは放送の継続性から必要だが、BS−4bはなくても構わない、ということらしい。実際、民放各局を回ってCS(JSAT−3)に乗ってほしいと頼んでいる。

 ただし、いまBSの後ろ半分をなくすといえば、波風が立ちすぎる。一千万以上(うちNHKの契約件数は六百六十万)のBS受信者、それを当て込んで系列ぐるみBSに乗ろうとしている民放(必ずしも一枚岩ではないが)、ハードを売りたいメーカーなどが反発するからだ。

 すると郵政省は、BS−4bからデジタル放送で、というあたりを狙うかもしれない。これは、MUSE方式はBS−5段階で存在しないという宣告に等しい。しかし、ハイビジョンに固執するNHKや投下資本を回収できないメーカーは、猛反発するだろう。ハイビジョンに本腰を入れていない民放には、どうでもいいことかもしれないが。

 地上のデジタル化も容易ではない。「二〇××年までにデジタル化」といった目安が盛り込まれるかどうか。というのは、現行放送とデジタル放送を同時に流す移行期間が必要だが、その波の手当てができるかどうか不明だからだ。

 ところで、ここまで触れてきた郵政省がいうデジタル放送は、画質が現行NTSCとほぼ同じと思われ、ハイビジョンに代わるデジタル高精細度放送のことを意味しない。ISDBでHDTVの伝送は可能とはいうが、どうも郵政省は、ハイビジョンのような高精細度放送のニーズはほとんどないのでは、と判断しているようだ。郵政省はNHKに強い圧力をかけ、九五年一月に出たNHK中長期ビジョンに「デジタル放送」を盛り込ませた。NHKの本音はハイビジョン貫徹だが、普及約三万では先行きは危うい。

 七月には「21世紀に向けた通信・放送の融合に関する懇談会」がスタートした。これは二年越しで通信・放送の融合にともなうさまざまな課題を検討していく。

 以上のような動きと並んで、郵政は規制緩和も進めている。ここ一か月で新聞などに紹介されたものだけでも、民放への出資比率を一〇%以下から二〇%未満へ拡大し「マスメディア集中排除原則」を緩和、地方局の役員を地元在住者に限定する「地元密着要件」を緩和、衛星放送(CS)での一社最大八チャンネル程度の保有を認める、などがある。

 もっとも郵政省は、たいていのことを省令など恣意的な裁量レベルで決めているから、法改正が必要な規制緩和は当面は出てこないと思われる。もっとも必要な規制緩和は、免許制度の抜本的な改革(郵政を免許の元締めにするのではなく、第三者機関が審査する透明で公正な免許制度とする)であるが、それを郵政に期待できるはずがない。

”ハードの発想”に巻かれるな

 さて、以上のような「通信と放送の融合」を推進する郵政の動きを、放送界はどのように受け止めたらよいのか。

 第一に、郵政省が最近いい出したことには、方向は概ねその通りという部分が含まれているから、これは素直に受け止めるべきだ。「なんでもありの世の中」で「放送にも自己責任」というのは、その通りである。そのための準備は、いくらやってもやりすぎにはならない。光ファイバーが張り巡らされることについても、NTTが通常の設備投資をちょっと割増せばできるというなら、文句をつける筋合いはない。実際は、ケーブル地中化を徹底しなければどうしようもなく、そううまくはいかないと思うが。

 第二に、郵政省のいい出したことは、すべてがハード(技術といってもいい)からの発想であることを忘れるべきではない。たとえば、光ファイバー網の端末が入る家庭でのニーズを「このサービスは必要か」「料金がいくらくらいなら利用したいと思うか」などと調べた形跡は一切ない。つまり主催者側の発表に終始している。

 ハードの話だけだから、放送というソフトが持つ特殊性――文化的あるいは社会的意義、ジャーナリズムや言論報道機関としての役割などは当然無視される。だから「携帯電話の周波数がないから放送はケーブルに行け」という話が出てくるので、電話も放送も「どのくらい周波数を必要とするか」という技術的な観点からしか、とらえていないわけだ。

 放送局は、そこを突かなければダメだ。「一対多」の一方的な通信である放送は、「一対一」や「多対多」のマルチメディア時代に消滅するというのは迷信で、双方向サービスなど導入しなくても存在意義があるに決まっている。それを郵政にぶつけて「放送はこうあるべきだ」と交渉しなければ。

 もっとも重要なのは、放送というソフトが持つ特殊性――文化的あるいは社会的意義、言論報道機関やジャーナリズムとしての役割などを、放送局が情報の受け手に提示できなければ、放送はマルチメディアの中で埋没していくだけだろう、ということである。

 どこまでいっても、肝心なのはソフトだ。ソフトさえしっかりしていれば、伝送路が有線だろうが無線だろうが関係ない。しかし、放送とは何かを考えたこともなく、オリジナルのソフトを持とうとしない放送局は、本格的なマルチメディア時代が来れば、倒産するか、他局の傘下に入るか、放送局でなくなるか、という道しか残されていないと思う。