事語継志録(松平信綱言行録)


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事語継志録

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「事語継志録」 萩野由之監修 堀田璋左右・川上多助共編 国史研究会 1917年 ★
解説及び伝記
 本書は松平伊豆守信綱の言行録なり、信綱の後は信復に至り、寛延二年三州吉田(今の豊橋)に封ぜらる。同藩士奥村保之、公子信礼の傅となり、輔導の一助となさむと欲して、本書を編せるなり、
 松平信綱は大河内金兵衛入道休心の孫にして、金兵衛久綱が嫡男なり、されど故ありて伯父松平正綱の家を継ぎて松平と称し、慶長八年始めて将軍秀忠に謁す、翌年家光誕生ありしかば、信綱九歳にして近侍に選ばれ、夙夜の功を積みて職禄漸く進み、元和九年小性組番頭となり八百石を食む、同年家光の将軍となるに及び、信綱は爵を賜はりて伊豆守と称し、寛永四年万石に列し、同十年老中に陞り、三万石にせられ武蔵国忍の城主となる、同十四年島原の乱起るや、板倉重昌九州の諸軍を率いて之を攻め克つ能はず、幕府乃ち信綱に命じて之を討たしめ、翌十五年二月原城を陥れ、賊将天草四郎時貞を斬り、乱始めて平ぐ、同十六年武蔵河越城に移り六万石になり、正保四年更に一万五千石を加ふ、慶安四年家光薨じ、子家綱職を継ぎて年猶幼なり、信綱、保科正之等と共に政を輔けて幕府の基礎を鞏くす、寛文二年三月、病を以て江戸に卒す、享年六十七、信綱死に臨み、将軍より給はれる書状を悉く焼き、遺言して其の灰を棺に納め、共に埋めしむ、其の意蓋し死後猶主恩を拝せんとするのみならず、之に依りて子孫の矜持せんことを虞れしによってなり、
大正六年八月            編者識
事語継志録序
事語継志録(自序)
事語継志録上
〔信綱幼時の剛強〕
一、信綱公は慶長元丙申年十月晦日(或云廿九日、)に誕生し給ふ、大河内金兵衛久綱公の御嫡子にて、御母公は深井藤右衛門好秀(或云空資正、)が女なり、其幼名始めは亀千代君とぞ申しける、後には長四郎君と名を更め給ひし、其御生長勇健にましまして、殊に御幼少の時は、千万人に勝れさせ給ふ気さきにてぞましましける、在郷(ざいがう)にて生長し給ふ故、野辺へ出で給ひて、鳥などを追廻させ給ふ勢にて、垣などの竹の中を走らせ給ひ、振袖(ふりそで)の袂へ竹の先の入りたるをも御覚えなく走らせ給ふ故、御宿へ帰らせ給ひても、御袖のなきといふことを知召さゞりき、下部の者野辺へ出でて是を見るに、二間計りの竹の先に御袖の懸りあるを拾いて帰りぬ、
〔生母の厳重なる教育〕
斯様の事もあれば必ず過もあるべしとて、母君の仕置として亀千代君を捕へ押伏せ給ひて、小灸にてはきくまじとて、灸を大きくし給ひ、しやうもんに数々すゑさせ給ふ、其時の御齢纔に五六歳にならせ給ひけれども、よく覚えましまして、御歳長けさせ給ひし頃、此事を母君へ宣ひ、きつき戒をなされたりと、戯れられ仰せければ、母君も困らせ給ふとぞ、女性なれども其母君は百人に勝れ勇を好ませられ、御子達へも手痛きあひしらひをなし給ひし、小田原落(おち)の時に、母君、了清、其次庭松院、是は横浜十郎右衛門祖母なり、其次長寿院、是は伊奈右衛門が母なり、此三人一腹なりしが、未だ若年なれば、其母公は、三人の女の子の袂へ帯を引通し、其端を母公の腰へ結付けられ、汝等よくよく聴け、武士の子は女人とても男子に劣るべきにあらず、敵の手へ渡しては無念なり、敵の近づかば汝等を先へ突殺して、其後に自害をせんには如かじと、切歯をして退(のが)れけるとかや、了清にも其御心ある御女性にてありし、又御四歳計の頃にもありしにや?を好み飼はせられ、卵を生みたるにより、小者を番に付け給ふ所に、卵の減りたる故不審に思ひ給ひつゝ、御心を付けさせ給ふ所に、番の小者の取りて食ひたるにより、番人に付けたる者の盗み喰ひしは一入不届なり、重ねての見せしめに、彼が喰ひたる事なれば咽(のど)を痛め然るべし、首を括れとて、索(なは)にて結ばせられつるが、余り強く締めければ、夫(それ)にては息(いき)絶ゆべし、卵を喰ひたる科にて人の命を取るべきに非ず、死なざる程に括るべし、然れども解(ほど)く事あるべしとて、封印を付けさせ給ひ、一日置かれつゝ、重ねて斯様なる心持すべからずと戒め給ひて、索を解かせられたるとぞ、
〔信綱叔父正綱の養子たらんと欲す〕
又松平右衛門大夫正綱公は、御祖父秀綱公の御次男なりしが、御当家の御先祖松平信光公の末子備中守の後胤、松平甚左衛門正次の御養子となり給ふ、是れ三河十八松平の内の長沢なり、此正綱公は御叔父なれば常に多くは彼館にましましけり、御幼少ながら知慮の啓かるべき端にやましましぬらん、正綱公独座の処へ行かせ給ひ、私こそ願ひ申上度き事あれと長四郎君宣ひければ、夫はいかなる事にやと問はせ給ひしに、別儀にも非ず、某は御代官の外様(とざま)者の子にて口惜しくこそあれ、恐れながら御苗字を下され、御養子にならせたき旨を宣ひける、正綱公打笑ひ給ひて、流石幼き了簡にて、何とて本名を捨て我養子をば望むやらん、最不審(いといぶか)しく尋ね給ひければ、重ねて願ひ給ひけるは、本名にしては上の御近習叶ひ難し、御養子に成申す程ならば、若しや御座近く御奉公も成るべきやと、斯は存ずると、最(いと)おとなしく宣ひけるを聞き給ひて、正綱公不便がらせ給ひ、さあらば養子とすべし、但し父母の方へも達して後にこそ、苗字をば弥?許さめと、挨拶ましましけるに、長四郎君まづ此段を我身より両親へ今宵早速申遣はすとて、今日よりして松平を名乗り申せば、爰元にこそ宿らめとて、其夜より直に正綱の宅に止宿し給ひける、正綱公は両親も如何思ひ給はん、勧めてこそと思はるべけれと宣ひければ、早速申遣はしたり、今日よりして松平長四郎ぞと悦び給いひける、これ信綱公の八歳になあらせたまいし時の事なり、
〔信綱竹千代君の小性となる〕
かゝることゝ台聴に及びて、流石右衛門大夫が左様不便に存ずる者ならば、召仕はせ給はんとて、其翌年大猷院様御誕生にて、竹千代君と聞えさせ給ふ御方へ、御小性の列にぞ入仕し給ひける所に、台徳院様上意に、竹千代様の御重宝に成るべきものと御目利(めきき)あれば、まづ御遣ひこませ給ひ進(まゐ)らせるべしとありて、則ち御遣ひなされしとなり、凡御小性の列座に仕うまつるに、御用にて召さるゝには何事にてもすべて座次の順に応ずる御作法なれば、各其定めをば守りながら、皆若輩の集りなれば、我儘を振舞ひて、御次へ出て休みがちなれば、長四郎君常に其闕を補ひて詰所を退く事なく、毎度詰越し御用を承り給ひけるにより、上機根者よと、御目に止りけるとぞ、
〔信綱将軍秀忠の感に入る〕
又或時御大奥へ御釼を御持たせ御夜詰過ぎて丑の刻時分、長御廊下の幽暗(くら)き所に御釼を持ちて伺候し給ひける処に、表へ出御の時分に、長四郎君仮寝(ゐねぶり)居給ひける所を、御釼を引取らせ給ひて御持帰りあれば、長四郎君は誰とも覚えず知らず、ふと目を覚(さま)し給ひつゝ、やるまじきとて追懸かり、台徳院様へ取付かせ給ふによつて、公にてましますなり、奇特(きとく)なる小児かなと御感斜ならず、此心一生放すなと、殊(こと)の外の御褒美ありし、又或時台徳院様秘蔵の屏風御次の間にありつる処にて、長四郎君より年ましの衆中と戯(くる)ひ給ひ、夫を打破り給ひしに、出御の節之を御覧あり、何者のわざぞ、御次の間に於て斯様の事何とて仕りたるやと御意なれば、戯ひたる衆は詞もなくて居けるに、長四郎君十歳計りの事なれども、私かくかくの事と、小声になつて御側なる衆迄申上げさせ給ふを御聴ありて、能くぞ正直に言上仕りたる者かなと、却つて御褒美にて、さり乍ら重ねて嗜み申せと上意ありしとなり、
〔少年時代の精勤〕
又長四郎君幼少(おさな)く在しける時、御城に寝宿(ねととり)し給ふ時、葵と申す女附いて参りたり、大方時々の飯をすきと喰ひきり給ふことなく、汁をかけられても皆迄喰はず、御召なりて御前へ出でさせ給ひ、御用仕舞ひ帰らせ給へば、冬抔は飯已に氷りて、外には飯もなければ、湯に漬けさせ喰ること度々なりき、夏は蚊帳をつらせ給ふことなく、夜更迄も御奉公なされて、行倒にも寝いらせ給ふを、朝倉筑後守殿見出され、扨々笑止かな、蚊にくはれ給はんとて、蚊帳を引懸けられたりし、後まで其様なることを覚えさせ給ふにや、朝倉党の衆へは御心を添へさせ給ひけるとなり、或時御台所にて飯を喰ひ給ふ、是十歳前後の時にもありけるが、其時の御老中酒井雅楽頭殿・土井大炊頭殿・青山伯耆守殿、其外歴々あられける所にて、召させらるゝと聞召し、箸をも投捨て膳の上をはね越え、走りて御前へ出で給ふ体を正綱公見給ひて、宿所へ帰らせ給ひ、長四郎君を呼ばせられ、今日御台所にての為体(ていたらく)を見給ふに、扨々尾籠なる形勢かな、思うても見られよ、雅楽頭始め御老中歴々坐し給ふ中にて、前後弁へざる振舞、詞に絶えたり、不礼千万なるとて悲しみ、泪を流し給ひての教訓なりき、長四郎君謹みて宣ひけるは、御意至極に奉存候、外より不礼とも見え申すべく候へども、今日に限らずいつとても召させらるゝ時分は、他(わき)ひらも見られず、誰の側に居給ふも思ひも出されず、少しも早(はや)く罷出度く存じ奉るの心計りにて、御前の儀を一心に大切に存じ奉るの外他念なく急ぎ給ふ旨を宣へば、正綱公大きに悦び給ひて、夫程に君の御事を大切に存じ奉り候哉、御影闇(かげくら)くなき其心にては、必定立身仕り、御用に立つべしとて、感涙を流させ給ひけるとかや、
〔幼時の機知〕
又江戸葭原古は夥しく繁りて、葭切といふ鳥多くあれば、稲葉古丹後守殿と御伴あり、十歳計にならせ給ふ時に、人数多伴れられ、かの鳥を捕らせ給ひ、夕陽西へ傾く時分になり、老功の者共上らんとするに斗を失ひ、日暮れて御城へ入らせられ難ければ、如何あらんと皆々呆れけるに、長四郎君の宣ふは、日の入るは西なり、御城西の方角なれば、日の入るを目当にして出でられよとありつれば、各一同に感じて、其下知に随ひ、難なく出で給ひ、御城へ入らせ給ひけるとなり、
〔雀の巣取り一件〕
又十歳計りにならせ給ふ頃にもありしにや、御殿の屋上(やね)の瓦葺の間に雀の巣をくひ、子を生みたるを欲しく思召しけれども、昼は人目もある故、上り給ふを遠慮し給ひて、昼の内に瓦を数え、幾つめに雀の巣ありと考へ置き給ひて、夜に入り屋脊へ上らせ給ひ、瓦を数へ、其所へ御下(さが)りあれば、案の如く所違はで雀の子を捕らせ給ひ、嬉しく思召し、急ぎ下り給はんとし給ふ所に辷らせ給ひ、箱樋の中へ落入り給ふにより、釣金物きれて、樋は庭上へ落ちけり、其響夥しく聞えけり、御仕合よくて樋の中に入らせ給へば、過はし給はざりき、御殿どよめき渡り、是たゞごとに非ず、誰ぞ出て見よと詮議まちまちなる故、難儀し給ひ、まづ御縁の下へ忍び給ひ、内の様子を聞かせらるゝ所に、女中衆恐れて出づべしと申す者なかりける所に、御中居の内に器量者ありて、いつにてもあれ、斯様なる時分は我こそあらめとはつて、提灯を持出でて是を見るに、御殿の樋落ちたり、別の事なしと云うて、早々内へ入りたる故、嬉しく思召して、内の鳴音(なりおと)を密に聞かせ給ふ、何の沙汰もなき故、そと戸を開け内へ入らせ給ふ、
〔竹千代君の身代り〕
其後大御台様御意には、御殿の樋、釣金物にて釣りたるに落つべき様なきにたゞ事に非ずとて、高僧・貴僧に仰付けられ御祈祷ありしによつて、思召すは、我故なるに、上々様御気遣に思召さるゝを、我何様の死罪に仰付けらると云ふとも、君の御悩みある事に、是を争で隠し置かんやと思召し、女中衆を頼ませ給ひ、春日殿迄申させ給ひける処に、早々御台様御耳へ達せらるゝ所に、さあらば何のけちにもなきと御安堵なさるゝなり、幼少なる身にては一入申上ぐまじき所に、君の為を大切に存じ奉る真実あり、汝が身上の儀を思はず、万人に勝れたる者になるべし、竹千代様御為御重宝なる御人に成り申すべし、然らば一入後の為を思召しければ、懲しめに袋へ入れよと御意にて、傷はしくも袋へ入れられ、殊に符印を付けさせ置かれける故、女中衆寄合ひ、傷はしの長四郎殿かな、咽(のど))は渇(かわ))き給はずや、飢(ひだる))くはなきか、大小便の用もあるべし、如何ぞやと云ひて、涙を流し泣かるゝ衆中もありと聞えける。其時袋の内より、各夫程思召し劬(いたは))り給ふかや、然らば此方より申すにあらば、苦しからずんば、袋の縫目を解いて御出しあれて用を叶へさせ、又入れ給ひて縫はせられ置き給へかしと宣へば、扨々年老いても及ばぬことを申し給ふ者かなとて、頓(やが))て解き食物抔を与へつゝ、又入れて元の如く綻を縫ひ置かれける、よくよく懲しめ給ひ、御大法たてなされて免(ゆる))し給ふとなり、
〔殿中の悪戯〕 又御殿の隅柱・鴨居の上へ御上りありて、縄を下(さ))げて女中衆の通られけるを、夜中引倒し笑ひ給ふ様なるわるさをもし給ふとなり、又御台所前の石垣の鼻へ出で給ひ、何程跟(かかと))かゝりたるやと、同じ年頃の御小性衆と吟味合抔し給ふとなり、
事語継志録下

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 松平信綱(まつだいら のぶつな)
1596〜1662(慶長1〜寛文2)江戸前期の大名。
(系)大河内久綱の子、叔父松平正綱の養嗣子。
(名)亀千代、のち長四郎、伊豆守、俗称知恵伊豆
 1604(慶長9)徳川家光の誕生とともに家人となり、以後、その政治に携わる。1633(寛永10)老中となり、1635武蔵国忍に2万6千石を与えらる。1639島原の乱鎮定の功などにより武蔵国川越藩主となり、6万石(のち7万5千石)を与えらる。3代家光・4代家綱に仕えて慶安事件をはじめ、1657(明暦3)江戸大火、1660(万治3)大老堀田正信弾劾事件などを処理し、幕府創業の基礎をかためた。
(参)北島正元編「江戸幕府―その実力者たち」上、1964。

 大河内松平氏の研究


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作成:川越原人  更新:2019/7/13