事語継志録(松平信綱言行録)


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事語継志録

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「事語継志録」 萩野由之監修 堀田璋左右・川上多助共編 国史研究会 1917年 ★
解説及び伝記
 本書は松平伊豆守信綱の言行録なり、信綱の後は信復に至り、寛延二年三州吉田(今の豊橋)に封ぜらる。同藩士奥村保之、公子信礼の傅となり、輔導の一助となさむと欲して、本書を編せるなり、
 松平信綱は大河内金兵衛入道休心の孫にして、金兵衛久綱が嫡男なり、されど故ありて伯父松平正綱の家を継ぎて松平と称し、慶長八年始めて将軍秀忠に謁す、翌年家光誕生ありしかば、信綱九歳にして近侍に選ばれ、夙夜の功を積みて職禄漸く進み、元和九年小性組番頭となり八百石を食む、同年家光の将軍となるに及び、信綱は爵を賜はりて伊豆守と称し、寛永四年万石に列し、同十年老中に陞り、三万石にせられ武蔵国忍の城主となる、同十四年島原の乱起るや、板倉重昌九州の諸軍を率いて之を攻め克つ能はず、幕府乃ち信綱に命じて之を討たしめ、翌十五年二月原城を陥れ、賊将天草四郎時貞を斬り、乱始めて平ぐ、同十六年武蔵河越城に移り六万石になり、正保四年更に一万五千石を加ふ、慶安四年家光薨じ、子家綱職を継ぎて年猶幼なり、信綱、保科正之等と共に政を輔けて幕府の基礎を鞏くす、寛文二年三月、病を以て江戸に卒す、享年六十七、信綱死に臨み、将軍より給はれる書状を悉く焼き、遺言して其の灰を棺に納め、共に埋めしむ、其の意蓋し死後猶主恩を拝せんとするのみならず、之に依りて子孫の矜持せんことを虞れしによってなり、
大正六年八月            編者識
事語継志録序
事語継志録(自序)
事語継志録上
〔信綱幼時の剛強〕
一、信綱公は慶長元丙申年十月晦日(或云廿九日、)に誕生し給ふ、大河内金兵衛久綱公の御嫡子にて、御母公は深井藤右衛門好秀(或云空資正、)が女なり、其幼名始めは亀千代君とぞ申しける、後には長四郎君と名を更め給ひし、其御生長勇健にましまして、殊に御幼少の時は、千万人に勝れさせ給ふ気さきにてぞましましける、在郷(ざいがう)にて生長し給ふ故、野辺へ出で給ひて、鳥などを追廻させ給ふ勢にて、垣などの竹の中を走らせ給ひ、振袖(ふりそで)の袂へ竹の先の入りたるをも御覚えなく走らせ給ふ故、御宿へ帰らせ給ひても、御袖のなきといふことを知召さゞりき、下部の者野辺へ出でて是を見るに、二間計りの竹の先に御袖の懸りあるを拾いて帰りぬ、
〔生母の厳重なる教育〕
斯様の事もあれば必ず過もあるべしとて、母君の仕置として亀千代君を捕へ押伏せ給ひて、小灸にてはきくまじとて、灸を大きくし給ひ、しやうもんに数々すゑさせ給ふ、其時の御齢纔に五六歳にならせ給ひけれども、よく覚えましまして、御歳長けさせ給ひし頃、此事を母君へ宣ひ、きつき戒をなされたりと、戯れられ仰せければ、母君も困らせ給ふとぞ、女性なれども其母君は百人に勝れ勇を好ませられ、御子達へも手痛きあひしらひをなし給ひし、小田原落(おち)の時に、母君、了清、其次庭松院、是は横浜十郎右衛門祖母なり、其次長寿院、是は伊奈右衛門が母なり、此三人一腹なりしが、未だ若年なれば、其母公は、三人の女の子の袂へ帯を引通し、其端を母公の腰へ結付けられ、汝等よくよく聴け、武士の子は女人とても男子に劣るべきにあらず、敵の手へ渡しては無念なり、敵の近づかば汝等を先へ突殺して、其後に自害をせんには如かじと、切歯をして退(のが)れけるとかや、了清にも其御心ある御女性にてありし、又御四歳計の頃にもありしにや?を好み飼はせられ、卵を生みたるにより、小者を番に付け給ふ所に、卵の減りたる故不審に思ひ給ひつゝ、御心を付けさせ給ふ所に、番の小者の取りて食ひたるにより、番人に付けたる者の盗み喰ひしは一入不届なり、重ねての見せしめに、彼が喰ひたる事なれば咽(のど)を痛め然るべし、首を括れとて、索(なは)にて結ばせられつるが、余り強く締めければ、夫(それ)にては息(いき)絶ゆべし、卵を喰ひたる科にて人の命を取るべきに非ず、死なざる程に括るべし、然れども解(ほど)く事あるべしとて、封印を付けさせ給ひ、一日置かれつゝ、重ねて斯様なる心持すべからずと戒め給ひて、索を解かせられたるとぞ、
〔信綱叔父正綱の養子たらんと欲す〕
又松平右衛門大夫正綱公は、御祖父秀綱公の御次男なりしが、御当家の御先祖松平信光公の末子備中守の後胤、松平甚左衛門正次の御養子となり給ふ、是れ三河十八松平の内の長沢なり、此正綱公は御叔父なれば常に多くは彼館にましましけり、御幼少ながら知慮の啓かるべき端にやましましぬらん、正綱公独座の処へ行かせ給ひ、私こそ願ひ申上度き事あれと長四郎君宣ひければ、夫はいかなる事にやと問はせ給ひしに、別儀にも非ず、某は御代官の外様(とざま)者の子にて口惜しくこそあれ、恐れながら御苗字を下され、御養子にならせたき旨を宣ひける、正綱公打笑ひ給ひて、流石幼き了簡にて、何とて本名を捨て我養子をば望むやらん、最不審(いといぶか)しく尋ね給ひければ、重ねて願ひ給ひけるは、本名にしては上の御近習叶ひ難し、御養子に成申す程ならば、若しや御座近く御奉公も成るべきやと、斯は存ずると、最(いと)おとなしく宣ひけるを聞き給ひて、正綱公不便がらせ給ひ、さあらば養子とすべし、但し父母の方へも達して後にこそ、苗字をば弥?許さめと、挨拶ましましけるに、長四郎君まづ此段を我身より両親へ今宵早速申遣はすとて、今日よりして松平を名乗り申せば、爰元にこそ宿らめとて、其夜より直に正綱の宅に止宿し給ひける、正綱公は両親も如何思ひ給はん、勧めてこそと思はるべけれと宣ひければ、早速申遣はしたり、今日よりして松平長四郎ぞと悦び給いひける、これ信綱公の八歳になあらせたまいし時の事なり、
〔信綱竹千代君の小性となる〕
かゝることゝ台聴に及びて、流石右衛門大夫が左様不便に存ずる者ならば、召仕はせ給はんとて、其翌年大猷院様御誕生にて、竹千代君と聞えさせ給ふ御方へ、御小性の列にぞ入仕し給ひける所に、台徳院様上意に、竹千代様の御重宝に成るべきものと御目利(めきき)あれば、まづ御遣ひこませ給ひ進(まゐ)らせるべしとありて、則ち御遣ひなされしとなり、凡御小性の列座に仕うまつるに、御用にて召さるゝには何事にてもすべて座次の順に応ずる御作法なれば、各其定めをば守りながら、皆若輩の集りなれば、我儘を振舞ひて、御次へ出て休みがちなれば、長四郎君常に其闕を補ひて詰所を退く事なく、毎度詰越し御用を承り給ひけるにより、上機根者よと、御目に止りけるとぞ、
〔信綱将軍秀忠の感に入る〕
又或時御大奥へ御釼を御持たせ御夜詰過ぎて丑の刻時分、長御廊下の幽暗(くら)き所に御釼を持ちて伺候し給ひける処に、表へ出御の時分に、長四郎君仮寝(ゐねぶり)居給ひける所を、御釼を引取らせ給ひて御持帰りあれば、長四郎君は誰とも覚えず知らず、ふと目を覚(さま)し給ひつゝ、やるまじきとて追懸かり、台徳院様へ取付かせ給ふによつて、公にてましますなり、奇特(きとく)なる小児かなと御感斜ならず、此心一生放すなと、殊(こと)の外の御褒美ありし、又或時台徳院様秘蔵の屏風御次の間にありつる処にて、長四郎君より年ましの衆中と戯(くる)ひ給ひ、夫を打破り給ひしに、出御の節之を御覧あり、何者のわざぞ、御次の間に於て斯様の事何とて仕りたるやと御意なれば、戯ひたる衆は詞もなくて居けるに、長四郎君十歳計りの事なれども、私かくかくの事と、小声になつて御側なる衆迄申上げさせ給ふを御聴ありて、能くぞ正直に言上仕りたる者かなと、却つて御褒美にて、さり乍ら重ねて嗜み申せと上意ありしとなり、
〔少年時代の精勤〕
又長四郎君幼少(おさな)く在しける時、御城に寝宿(ねととり)し給ふ時、葵と申す女附いて参りたり、大方時々の飯をすきと喰ひきり給ふことなく、汁をかけられても皆迄喰はず、御召なりて御前へ出でさせ給ひ、御用仕舞ひ帰らせ給へば、冬抔は飯已に氷りて、外には飯もなければ、湯に漬けさせ喰ること度々なりき、夏は蚊帳をつらせ給ふことなく、夜更迄も御奉公なされて、行倒にも寝いらせ給ふを、朝倉筑後守殿見出され、扨々笑止かな、蚊にくはれ給はんとて、蚊帳を引懸けられたりし、後まで其様なることを覚えさせ給ふにや、朝倉党の衆へは御心を添へさせ給ひけるとなり、或時御台所にて飯を喰ひ給ふ、是十歳前後の時にもありけるが、其時の御老中酒井雅楽頭殿・土井大炊頭殿・青山伯耆守殿、其外歴々あられける所にて、召させらるゝと聞召し、箸をも投捨て膳の上をはね越え、走りて御前へ出で給ふ体を正綱公見給ひて、宿所へ帰らせ給ひ、長四郎君を呼ばせられ、今日御台所にての為体(ていたらく)を見給ふに、扨々尾籠なる形勢かな、思うても見られよ、雅楽頭始め御老中歴々坐し給ふ中にて、前後弁へざる振舞、詞に絶えたり、不礼千万なるとて悲しみ、泪を流し給ひての教訓なりき、長四郎君謹みて宣ひけるは、御意至極に奉存候、外より不礼とも見え申すべく候へども、今日に限らずいつとても召させらるゝ時分は、他(わき)ひらも見られず、誰の側に居給ふも思ひも出されず、少しも早(はや)く罷出度く存じ奉るの心計りにて、御前の儀を一心に大切に存じ奉るの外他念なく急ぎ給ふ旨を宣へば、正綱公大きに悦び給ひて、夫程に君の御事を大切に存じ奉り候哉、御影闇(かげくら)くなき其心にては、必定立身仕り、御用に立つべしとて、感涙を流させ給ひけるとかや、
〔幼時の機知〕
又江戸葭原古は夥しく繁りて、葭切といふ鳥多くあれば、稲葉古丹後守殿と御伴あり、十歳計にならせ給ふ時に、人数多伴れられ、かの鳥を捕らせ給ひ、夕陽西へ傾く時分になり、老功の者共上らんとするに斗を失ひ、日暮れて御城へ入らせられ難ければ、如何あらんと皆々呆れけるに、長四郎君の宣ふは、日の入るは西なり、御城西の方角なれば、日の入るを目当にして出でられよとありつれば、各一同に感じて、其下知に随ひ、難なく出で給ひ、御城へ入らせ給ひけるとなり、
〔雀の巣取り一件〕
又十歳計りにならせ給ふ頃にもありしにや、御殿の屋上(やね)の瓦葺の間に雀の巣をくひ、子を生みたるを欲しく思召しけれども、昼は人目もある故、上り給ふを遠慮し給ひて、昼の内に瓦を数え、幾つめに雀の巣ありと考へ置き給ひて、夜に入り屋脊へ上らせ給ひ、瓦を数へ、其所へ御下(さが)りあれば、案の如く所違はで雀の子を捕らせ給ひ、嬉しく思召し、急ぎ下り給はんとし給ふ所に辷らせ給ひ、箱樋の中へ落入り給ふにより、釣金物きれて、樋は庭上へ落ちけり、其響夥しく聞えけり、御仕合よくて樋の中に入らせ給へば、過はし給はざりき、御殿どよめき渡り、是たゞごとに非ず、誰ぞ出て見よと詮議まちまちなる故、難儀し給ひ、まづ御縁の下へ忍び給ひ、内の様子を聞かせらるゝ所に、女中衆恐れて出づべしと申す者なかりける所に、御中居の内に器量者ありて、いつにてもあれ、斯様なる時分は我こそあらめとはつて、提灯を持出でて是を見るに、御殿の樋落ちたり、別の事なしと云うて、早々内へ入りたる故、嬉しく思召して、内の鳴音(なりおと)を密に聞かせ給ふ、何の沙汰もなき故、そと戸を開け内へ入らせ給ふ、
〔竹千代君の身代り〕
其後大御台様御意には、御殿の樋、釣金物にて釣りたるに落つべき様なきにたゞ事に非ずとて、高僧・貴僧に仰付けられ御祈祷ありしによつて、思召すは、我故なるに、上々様御気遣に思召さるゝを、我何様の死罪に仰付けらると云ふとも、君の御悩みある事に、是を争で隠し置かんやと思召し、女中衆を頼ませ給ひ、春日殿迄申させ給ひける処に、早々御台様御耳へ達せらるゝ所に、さあらば何のけちにもなきと御安堵なさるゝなり、幼少なる身にては一入申上ぐまじき所に、君の為を大切に存じ奉る真実あり、汝が身上の儀を思はず、万人に勝れたる者になるべし、竹千代様御為御重宝なる御人に成り申すべし、然らば一入後の為を思召しければ、懲しめに袋へ入れよと御意にて、傷はしくも袋へ入れられ、殊に符印を付けさせ置かれける故、女中衆寄合ひ、傷はしの長四郎殿かな、咽(のど))は渇(かわ))き給はずや、飢(ひだる))くはなきか、大小便の用もあるべし、如何ぞやと云ひて、涙を流し泣かるゝ衆中もありと聞えける。其時袋の内より、各夫程思召し劬(いたは))り給ふかや、然らば此方より申すにあらば、苦しからずんば、袋の縫目を解いて御出しあれて用を叶へさせ、又入れ給ひて縫はせられ置き給へかしと宣へば、扨々年老いても及ばぬことを申し給ふ者かなとて、頓(やが))て解き食物抔を与へつゝ、又入れて元の如く綻を縫ひ置かれける、よくよく懲しめ給ひ、御大法たてなされて免(ゆる))し給ふとなり、
〔殿中の悪戯〕
又御殿の隅柱・鴨居の上へ御上りありて、縄を下(さ))げて女中衆の通られけるを、夜中引倒し笑ひ給ふ様なるわるさをもし給ふとなり、又御台所前の石垣の鼻へ出で給ひ、何程跟(かかと))かゝりたるやと、同じ年頃の御小性衆と吟味合抔し給ふとなり、
〔祖父休心の教訓〕
又御祖父休心翁と七(なゝ)の間の座敷に御寝起なし給ふ、十一二歳の頃とかや、休心翁の御孫なれば、冥加に叶ひ、わざもよかれかしと、嘸(さぞ))や思召しつらん、殊に実儀の勇力あるを見給ひて、いか計りか大切にこそ仕給ひつれ、其休心翁の御挙動(ふるまひ))たゞ人に非ず、其頃時めく出頭の老臣達を七人迄目相(めきゝ)し給ひ、長四郎君へ是をよく合点せられよ、長生あらば一人も外(はづ)るまじきぞ、見よと宣ひし所に、休心翁御存生の内三人か身代潰れたるを、あれをよく見て知れと仰せける、残る四人も皆宣ひしに差(たが)はざるなり、七人の内一人は咄し給はず、所謂其人は本多上野殿、大久保石見殿・古田織部殿・伊奈備前殿・福島大夫殿・大久保相模殿抔にてありし、此衆の内、或人は人の生立(そだつ))を押れし、身体潰(つぶ)るべけれども、いかにしても又御奉公を昼夜大切に勤められける故、此天理争でかなくなり申すべきや、跡幽になりて残るべきと宣ひし、案の如く十分一の身代になり申され、今に続(つゞき)これありし、或は道理あれども、一人を斬戮して百人へ響き、助くる事もあるに、我儘したりとて時をかへず、百所にて百人殺し給ひたる類ひあり、或は奢の重畳して身体の破滅もあり、或は茶湯の和尚として人夫を悩ませ、袖摺の松は八王寺より来らずしては成り難き様にいひ、人足に骨を折らせ取寄せ、焼鳥には足の長きがよしとて、鳬になくてはといひ、是を求め、掛物・茶入・茶碗の具、大和の物にても成るまじきにあらざるを、夫を持たざる者は客を請くる事も恥かしきと思ふ様に、心に満つるは誰の所為(しわざ)ぞや、皆以て和尚の口より出て人を悩ます報(むくい)の、彼和尚へ帰せずばあるべからず、然る時は身代潰(つぶ)るべし、茶の湯と云ふこと拵らへて、吸茶をして心を楽しみ、親しみを設くる為なるに、奢を求め、人にも羨しがらするは何の謂ぞや、何も斯様の類ひなればよくよく心得して忠功をもよくし、孝行を仕りて、慈非を面にして、よき家来を持つべし、善悪心より生ずるなれば、油断すべからざる旨、返す返す御咄あれば、斯様なる談義の節は、挨拶なくしては無念に思ひ給ひ、三角なる枕を拵へ、深く寝入り給はざる様の工夫して、真実に染み祖父の談義を聞き給ふ、
〔祖父に孝養を尽す〕
寒夜には夜長き時分、祖父の小用に出で給へば、幼稚なれども、つと起きて戸をあけたてして、祖父寝給へば裾へ衣類をかけ、足冷えざる様にし給ふ、十歳計りの人の教へられず斯くあるは、其御志の類なきことを推して知るべし、爰を思ふに、休心翁の名、人として幼少の孫へのあしらひより起れるものなり、
〔信綱の資性〕
又長四郎君幼くましましける時に、或人の相して言ひけるは、行末善人にならせられば、日本に隠れもなき稀程のよき人にならせ給はん、さなくば隠れもなき程の悪人になり給はんと申しけるとなり、 一、長四郎君十五六歳の比久々煩はせ給ふ故、御拝領の御切米を差上げ、養生仕り、御奉公申上度き旨言上ましましける所に、緩々と養生仕るべし、御合力米も其儘拝領致すべき旨仰あれば、則ち在郷へ御引込みましまして、鷹を遣せられ、野山にて気を散じ給ひける、其前御息災の内食事よく喰(まゐ)りける故、皆人長四郎殿の食餌(しょくじ)は雪霜抔の消ゆる如くに進み申すと云ふに付、夫に乗らせ給ひ覚えず脾胃を損せさせ給ふと仰せられし、是により鷹の肉あてがひのやうに、病鷹には糊餌(のりゑ)を飼ひ、快くなれば骨を叩きまぜ、そゞろにあげさするなり、
〔母への孝養〕
其の如く程よく覚え給ふ時に、秤(はかり)にて飯を積らせ給ひ、十粒二十粒宛増し給ふ様になされ、快気し給はん其時分に、却つて御本復あるべき体にもなく、鳥鳴き抔悪しければ、祟事やと母君気遣はせ給ふによつて、鳥の群る方へ人を遣し見せ給へば、死馬に鳥の付いたるを見て来りけるを、母君へ告げさせられ、安堵の思をなさしめ給ひける、孝行も他に殊なる人にてましましける、
〔家光の危難を未然に防ぐ〕
御本復ありて、御奉公出でさせ給はんと思召しける夜の御夢想に、大猷院様御上段にましましたる所へ出でさせ給へば、上意には久々相煩ひ遠のき申すとても、御心に変らせらるゝ事之なければ、少しも気遣なく、前方の通りに実を仕るべき旨仰出され、御手自ら御召し遊ばしたる御服を頂戴ましましけると見給ひけるが、御出仕の当日、其夢に少しも違ひなかりし、幸と冥加に叶はせ給ふ御人なりとぞ、又大猷院様御鉄炮稽古場、只今曽根源左衛門が後の土手の辺にてありし、其時分は今の様になく、近藤勘右衛門が屋敷の後抔を通らせ給ふ由、足軽共の居屋敷の境の垣も麁相なる体と見えし、御供の衆も大勢通り、勘右衛門所のよき?を貰はせ給ふ、扨御鉄炮場へ出御にて、鉄炮を放させ給ひたるが、折節別の事ましまして失念遊ばしけるや、ふと筒口の方へ御身向はせ給ふ、其時長四郎君は病後故、御前遠く控へさせ給ひつるが、走り懸り御筒を足にて蹴退け給ひしに、其後火移り丸(たま)抜けたるなり、各奇特なる事と肝(きも)に銘じ感じける、是によりて青山伯耆守殿傅老臣たる故、取敢へず長四郎君を傍へ招きて、只今の挙動(ふるまひ)詞に絶えたる忠節なり、御家人数万人ありと雖も及び難かるべし、弥々以て身を全うして長く忠功お尽し給へ、類ひなき人なりと泪を浮べ褒美し給ひしとぞ、又御寝所の御次の間に御用心の為に臥し給ひたるに、後指(しりざし)の心に出入の戸を足に踏まへ臥させ給ふとなり、
〔日光神橋の普請〕
一、何頃にてか有りけん、大猷院様眩暈を煩はせ給ひし、其折節日光御社参御造営ありける故、上様の御機嫌を見合せて、其造営の事を度々奉行衆御前へ出でて伺はれけれども、御神前の反(そり)橋なれば、渡りよき様にては見分あしく、又渡り悪き程に積れば往来成り難きなり、此事を申上げられし、されども埒明き兼ね、余程御退屈に見えさせ給ふ故、長四郎君其頃は伊豆守信綱公と申しけるが、聞きかねて仰せ上げられけるは、さし給ふ扇子を開き、是は三ッ合せて丸く御座候、此反加減(そり)に仕るべきや、是程に致すべやと、扇子を一間宛畳み開き伺はせ給へば、其位よしと上意にて、即時に橋の勾配相極り、御機嫌残る所なし、是頓作故、よき譬を申上げ給ひ、上にも御機嫌よく、奉行衆も悦びたると、御次にて聞く人感じけるとなり、或は是れ二の丸廊下橋の勾配とも云ひ、或は西の丸へ成らせらる時、其御道筋の堀の橋作り直されんとし給ふ時とも云ふ、
〔出世の初〕
孰れ真偽は知れねども、是ぞ上意に叶はせ給ふにや、其日則ち五百石の新恩に浴し給ふと聞えしは、是や御出身の初にて、段々御加恩を得給ひつゝ、七万石迄になり、侍従を経させ給ひ、天下の老臣第一の選びにて、御養父の名揚げ給ふのみか、御実父母人悦をなさしめ給ふぞ、即ち天命をよく尽した人といふべし、此大河内の松平の根源は、源三位頼政卿の末葉にて、紋所は浮線綾(三つ蝶の舞ひて八重菊を吸ふ、)を用ひ給ひける、信綱公を以て此松平の総領家に仰付けられし故、実子方は次男に成りける、三つ蝶の形は開きたる扇子に似たる故、一つは扇子を開きて身を立て給へば、旁又(かたがた)三つ扇子を用ふるともいふ、長沢松平の紋は笹龍膽なりとかや、
〔藁ミゴの話〕
又大猷院様御病気の時分、俄に御灸をなさるべしと仰せ出され、藁ミゴをあげよと御意あれば、御小性衆畏り奉る由にて、藁ミゴを相尋ねらるれども、御城中の事なれば俄に之無くして、御舂屋御賄の方へ申遣はしける、其内に遅きとて御急きなさる、御機嫌少し損(そこ)ねたる由を信綱公聞かせ給ひ、夫は何故と御小性中へ尋ねさせ給へば、しかじかの様子を述べらるゝ、夫を聞き給ひて宣ふは、御畳の新しきがいか程も之有り、それを切裂き見られよと仰せけらば、実にもとて則ち新しき御畳を切裂き、即時に藁ミゴを取出し、御用を相達せらるゝとなり、
〔御朱印の捺法〕
又同御代俄に御朱印を押さるゝ事ありし時、総じて御朱印を押すには、紙の下に木綿わたを敷き押さねば印肉付きにくし、然れども急には木綿わたなき故、既に町へ申遣はすべき所に、信綱公聞かせ給ひ、それは御納戸に、長崎より来る御道具詰めたる木綿わたあるべし、是を取出し申されよと宣へば、則ち尋ね沢山に持ち参り、是を敷いて御朱印を押しければ、残る所なし、誠に人の心つかざる所に此の如しとなり、又御守殿にて蚊多くして、かやの木を早くたかせよと上意あれども、急には有り兼ね、何も何と仕るべしやとバウマヒの所へ、信綱公参りあはせ給ひ、上意を聞いて、早く御納戸より碁盤を取出し、割りて焼かれよと宣ふ、其の如くにし早速間にあひ、御感ありしとなり、
〔糸の長さを重量にて算出す〕
一、大猷院様或時御夜詰の頃、鷹の置縄の様なる夥しく長き糸を巻きたる物を、此長さいか程有るべしや、急に積りて参れと仰出され、則ち御小性衆御細工部屋へ持参致され、色々積り見られけれども、限りなき長き糸を巻きたるものなれば、中々即時には知れ難し、御前よりは急がせ給ひ、迷惑仕りたる所へ、信綱公参り給ひ、其積りにては即時には成り難し、易き事ありとて其糸を十尋(ひろ)拾ひて、此糸目をかけ、其重さを以て、かの大巻の目を貫目にかけ、算盤にて積り、其長さを申上げければ、即時に埒明き、御機嫌残る所なし、
〔書類の速写〕
又日光御成の時分、酒井讃岐守殿へ道中御用の御書物・御番割等の巻物渡し給ひ、此通り只今総やうへ数巻相調へ触(ふ)るべしと上意に付、讃岐殿御表へ持出でられ、御右筆衆大勢ありと雖も、一巻を写し申す事なれば、急には調ひ難く、何と仕るべしやと、御右筆衆へ御申しあれども、御右筆衆も智慧に及ばず、兎角の御挨拶もなし、讃岐殿焦(あせ)り給ひ、御前の御用も頻にて、何とかと御思案ありし所へ、信綱公通らせ給ふを見懸けられ、何卒豆州へ頼みたし、御用にて御前へも早く出で申したし、何卒何卒とありければ、信綱公何卒仕様もあるべし、まづ御前へ早々御用を達し給へ、書き物の儀は心得給ふと宣へば、頼み申す過分とて奥へ入られける、其時御右筆衆を数多呼び給ひて、巻物一枚宛はなし、相印をして一人にて二三枚程宛書かせて続合はすべし、手の違ひたる分は苦しからずと仰あれば、其の如くにして即時に右数巻を書きでかし、校合迄済みて渡し給へば、酒井氏殊の外感じ、浅からず悦喜ありしとぞ、
〔白土塀の急造〕
一、御本丸か西の丸にてかの事なりし、御能を仰付けられし時、俄に塀を掛けさせ申すべし、植込(うえこみ)の彼方(あなた)見え透きあしき故、急に白土塀に致せと上意にて、奥へ入らせられ、一時余りの間にて出御ありしに、最早白土の塀かけさせ給ふ、是は方々の御矢倉多門の土戸を外させ立て並べ、裏に鎹(かすがひ)にて締めさせ給ふとなり、
〔大石を取除く〕
又二の丸御庭の中に大石ありし、或時大猷院様御鷹野へ成らせらるゝ日に、還御前に此石を塀外へ出させ、砂を敷き置き申すべし、御竹刀打の場になさるべき間、早く今日中出来し置く様に、阿部対馬守殿へ仰付けらる、夫故早速破損方の奉行衆を呼んで相談あるは、表へ出しなさるべきや、御人足はいか程も成るべき事なれども、御橋も損じ、或は御塀を取らせ、御石垣を崩し、仮橋を架けんや、然らば御塀急には架け直しにくゝあるべし、是等をば如何あるべきやと、取々の了簡にて一決せざりし所に、信綱公退出し給ふとて、平川口より出で給ふ故、幸と対馬殿申されけるは、斯様の上意にあれども、何とも分別に及び難き故、破損奉行衆へも談合致したれども及び難く、何と致し方もあるべきや、態と申度く存ずる所に、幸に通り給ふ故申すなり、其侭差置いては、手前の不調法はともあれ、御機嫌の程迷惑仕る、何卒御了簡頼入るなりとあれば、信綱公取敢へず、何卒夫(それ)は仕方あるべしと答へ給へば、さあらば御申付け給はれと対馬殿宣へば、又答へ給ふには、此方へ仰付けられし事を差出て申付くる儀、如何あるべしやと宣へば、其段は私ならざる故、頼みたると申上ぐれば、別の事あるまじきや、孰れの道にも御機嫌よき様にとこそ存じ奉れ、一向に頼み申す、人足・縄・車しゆら抔は何程も出させ申すべし、呼寄せ近所に置くなり、砂も急に取寄せ置くべしと、最前申付けたり、其段は御手をつかせまじきと宣へば、さあらばとて大石の際(きは)を深々と掘り申せと宣へば、手々に石の際を掘る故に、一時の内に数百の石皆々埋込み、砂をも敷きて掃除まで相済むとなり、対馬殿大方ならず悦びて礼ありし、既に還御、夜中平川口より入御にて、御挑灯にて御覚りなされ、其所に対馬守罷在れば、扨々早く掃除まで仕り、御快く思召さるなり、是伊豆守に頼みたる物にてやと上意あれば、其通りたる旨御請けあれば、左様にあるべしと御笑ありとなり、其石今に御庭の土中にある由、此格言末々承り伝へて、箱根樫木(かしのき)坂の巨(おほ)石、往来の為に難儀なる分をは、或は埋め或は摺切らせ抔しけるも、是を模したる事とかや、
〔大坂城の石を切卸す〕
又一年大坂の御天守へ雷落ち煙硝はねける、時に二十人計りして持つ程の大石を御天守の二重目へ跳上げたり、是を下すに夥しく造作懸かりける故、奉行衆色々積りけれども落著せず、其頃信綱公上使として上りければ、此由申されて伺ひあれば、答へ仰ありしは、其石は石裁(きり))を上げて砕々(くだくだ)に切つて卸させよと宣へば、則ち其通りに致し、手間も入らず、暫時の間に石を砕き下しけるとなり、又朝朝鮮国より来朝の馬芸上覧あるべき旨、俄事にて八重洲岸に相定めて、後先の境に違土居を築立つる様にと、御普請奉行へ仰付けらるゝ所に、明日の程とありて、少しも日数なければ、遠所より土を持運びて築立る事叶ひ難く、龍口端にて掘つて土をとらば、其跡の目に懸かり宜かるまじき、殊に晴場なれば見苦しかるべし、如何あらんとありしを、信綱公宣ふは、和田倉の内に御材木積み置く間、是を以て組立て、其上に木舞(こまい)をかき、壁の如く塗りて、其上へ芝を付けさすべし、是にて二三日の内には、芝もあしくは成るまじきと指図し給ふ故、早速其通り致し間に合ひて人々感じ入りけるとなり、或は町中の籠作りに仰付けられて、長さ一丈計り高さは馬場土手の積りを以て、数百千籠と拵へさせ段々に並べて、其籠の上に芝を伏せけるともいふ、孰れ夫を手本にして、後々の曲馬ありしにも、馬場できたるとなり、
〔禁中の普請〕
一、禁中御普請ありし時、御座間の天井縁を、白木と塗木とは、御入目過半に違ひたるに付いて塗らすべしと、信綱公宣へば、奉行人申さるゝは、天子の御頭の上は漆(うるし)をあげざるものと承りけると挨拶あれば、さらば御冠は如何と宣ふに付いて、皆人尤とありて、塗縁(ぬりふち)になりけるとなり、
〔天守の改築〕 又大猷院様の御代、御天守建直しの時分、信綱公仰付けらる、夫につき色々御作事の手立を奉行中へ御吟味ある、其時信綱公の宅にての事にれ有りける、奉行中呼ばせ給ひて、相談ましましける、鈴木修理・木原内匠等申しけるは、御天守の白壁度々雨風に落ち、修復致し難し、然る故いか程土落ちても見えざる様に、下塗より白土にて塗り置いては、右の破損繕はずして見るべからず、然るに是を塗りて、寒暑に逢ひても損せざる練土の艶是ありやと尋ね給へども、聢と致したる証拠なき練土の法計りなり、其時に信綱公宣ふは、火事これなしとも、御天守の御破損、大方当年時分に当るべきやと存じ、二十年前より此心ありて、練土の法を吟味せしめ、五品拵へ、其頃より今日迄、寝間の前に晒し置けども、此練土の法は損せずよしとて、張枕木と練土の形を五つ、奉行衆の前に出し給ふ、則ち此法を以て御天守を塗れば、其後御天守の破損なしとかや、
〔練土の吟味〕
一説には、御天守の白壁、毎度風に叩き落して、修復の足代以下取認むる事見苦しきを、信綱公見給ひて下知し給ふには、荒うちの下壁より白土を用ひよ、仮令少々落ちても崩れても見苦しからじと申付けさせ給ひける。
〔紅葉山廟所の塗土〕
又紅葉山御仏殿煮土塗に仰付けられけれども、昆と雨露の度に艶色はげぬ、是もチャンぬり然るべしとありて、少き木をチャンぬりに致させ給ひて、居間の前の木にかけ置きて試み給ひ、其内に格別禿げざるあるを以て塗らせ給ふ、よつて紅葉山御修復後、今に損せざるなり、少しの事ながら其御志忠義類ひなしと、諸人申し合り、
〔忍返し鉄釘の暴騰を怒る〕
又御城中所々の忍び返しの鉄釘一本の代金弐分宛と、御鍛冶西市元申しかけにける、信綱公は聞かせ給ひて、いかに御城なればとて、法料□き事かな、奈良物とて下々の差す所の脇指、是は焼刃もあり、少しは錬(きた)へたる物にて釘より御用心向きにも宜しく、一腰の真剣百匹又は十匁、是を釘の代に用ひられよと怒られて、鉄物の代以下本当に極りけるとぞ、
〔西の丸の普請〕
又西の丸御普請に付、地形一間も二間も所により三間も、其一も引かせらるゝ事あり、尤も大木数々あれば、夫を枯れざる様に大事にし、根を包廻す事むづかしく、手間入る事なり、其時分御手伝上杉弾正殿へ仰付けられ、米沢より人数大勢来りつれども、捗行くべき様なかりける故、信綱公おどけて宣ふは、遠国より御人足呼ばるる事急には成難し、然らば御奉公ながら御太儀に存ずるなり、領分河越程近くあれば、御用にあらば四五千も其上も人足雇は貸し申すべきやと、其家老共へ宣へば、扨々忝き御事存じ奉るなり、御急ぎの御普請にあれば、滞りては不調法千万の儀なり、日傭を雇ひ申す事は成れども、御城中の儀なれば顧慮少からず、御辞退すべきにもあらずと申しければ、さあらば今日にも人足遣し申すべきかと宣へば、成るまじきと存ずるや、家老共打笑ひて、早速御人数御自由に呼ばせ給ふ事よと申すに付、常々申付け置く手の下よりも成申すやうに之ありと御笑ひ、さあらば各所望につき、一言にて人数を数多進ずべしと宣へば、何れも頭を下げ御挨拶申したる、上杉の家老末々の奉行に至る迄、御普請場の事なれば、大勢頭を上げ、信綱公の御顔を守り罷在り、
〔信綱之一言数千の人足に勝る〕
其時仰せらるゝは、迚も地形を引かせらるゝ事なれば、御樹木には手付け申されず、傍の土を引き申すべし、さあらば木の根は自然と顕はれ申すべし、夫を包み倒し申して、何方へなりとも指図を請け植うるには如かじと宣へば、家老始め歴々の奉行人一同に感じ奉り、異口同音にして悦びあへり、御差図の通りに仕つれば、是れ幾万人かの人足を助(たすけ)になり、殊の外捗も参りたるとなり、又御殿の井戸、御屋形の間にて入らざる故、埋めよとある相談にて、破損方の衆コガを取り、石垣を取らん抔とありける故、重ねて御用に有るべきも計難し、其上土にて埋めば堅(かたま)りかね申すべし、所にも寄るべき事なり、栗石にて埋めさせよと信綱公宣ふ、其通りに仕る処に、果して其後年隔てゝ、其井戸御用の時分、誰れも覚えざりつるが、此所に井戸大方あるべきや、掘らせて見よとありつれば、案の如く前方の井戸ありて、再び御用に立つとなり、何事も今日の事計りにあらず、遠き慮りをなし給ふと、皆人感じ奉るとなり、
事語継志録下

「コンサイス日本人名事典改訂版 三省堂編修所 三省堂 1990年
 松平信綱(まつだいら のぶつな)
1596〜1662(慶長1〜寛文2)江戸前期の大名。
(系)大河内久綱の子、叔父松平正綱の養嗣子。
(名)亀千代、のち長四郎、伊豆守、俗称知恵伊豆
 1604(慶長9)徳川家光の誕生とともに家人となり、以後、その政治に携わる。1633(寛永10)老中となり、1635武蔵国忍に2万6千石を与えらる。1639島原の乱鎮定の功などにより武蔵国川越藩主となり、6万石(のち7万5千石)を与えらる。3代家光・4代家綱に仕えて慶安事件をはじめ、1657(明暦3)江戸大火、1660(万治3)大老堀田正信弾劾事件などを処理し、幕府創業の基礎をかためた。
(参)北島正元編「江戸幕府―その実力者たち」上、1964。

 大河内松平氏の研究


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作成:川越原人  更新:2021/07/12