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第1号事件

条件をいろいろと付けると、どんな事件も「第1号事件」になってしまう、、、。ここで取り上げる事件は国内で起きた事件で、参考文献に「第1号」や「初めての」といった表現などで記載されている事件に限定します(その方が間違いないと思うので)。事件関係者の年齢は、戦前の事件=数え歳、戦後の事件=満年齢で記載。今後、新たに「第1号事件」を見つけ次第、追加する予定。

いちもつチョン切り(1874)
陪審裁判(1928)
銀行強盗(1932)
青酸による殺人(1935)
筆跡鑑定(1948)
モンタージュ写真実用化(1948)
血痕鑑定(1949)
凶悪犯全国公開捜査(1955)
心臓移植(1968)
声紋鑑定(1969)
ハイジャック(1970)
国際指名手配(1973)
近隣騒音殺人(1974)
女性銀行強盗(1979)
犯罪被害者等給付金制度適用(1981)
セクハラ訴訟(1989)
DNA鑑定で有罪判決(1993)
臓器移植法成立後の脳死移植(1999)
ハイジャック致死罪適用(1999)
狂牛病発生(2001)
法廷外での傍聴(2003)
犯罪被害者参加制度適用(2009)

裁判員制度適用(2009)


参考文献・・・
『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』(東京法経学院出版/事件・犯罪研究会編/2002)
『20世紀にっぽん殺人事典』(社会思想社/福田洋/2001)
『図解雑学 科学捜査』(ナツメ社/長谷川聖治/日本法科学鑑定センター[監]/2005)

『日本航空事故処理担当』(講談社+α新書/山本善明/2001)
『毎日新聞』(2001年9月10日付/2003年8月28日付/2003年9月26日付/2004年9月14日付/2009年1月8日付/2009年1月23日付/2009年1月28日付/2009年2月16日付/2009年2月20日付/2009年4月20日付/2009年5月19日付/2009年5月27日付/2009年6月1日付/2009年6月23日付/2009年8月3日付/2009年8月4日付/2009年8月5日付/2009年8月6日付/2009年8月13日付/2009年12月1日付/2009年12月17日付/2009年12月24日付/2010年3月26日付/2010年6月1日付)
『朝日新聞』(2007年1月21日付)
『産経新聞』(2009年6月4日付)
『時事通信』(2015年2月26日付)
『新潮45』(2007年1月号)

参考・関連サイト・・・
足利事件




いちもつチョン切り

いちもつチョン切り

1874年(明治7年)10月21日、広島県加茂郡仁方村の農業・白井喜次郎が同じ村の中島光太郎によって短刀でペニスの頭を切断された。白井はゆたという女性と情愛関係にあったが、同年1月、中島と結婚した。5月初旬、白井は病気治療のため近くの石風呂に出かけると、ゆたも入浴にきていたことから2人の情交が復活。そのことを知った夫の中島が激怒。10月21日、白井がゆたと密会する約束のこの日を狙って制裁を加えたのだった。事件後、白井の母親・たくと兄の米太郎が広島県庁に中島の暴挙を訴えた。白井喜次郎と中島ゆたが姦通の罪でそれぞれ懲役1年、中島光太郎が懲役80日、中島光太郎とゆたの父親は婚姻届けを出さなかった罪でそれぞれ罰金75銭。判決文に付された医師の診断書には<陰茎の亀頭ハ欠損アルモ平愈ノ後交接支障ナシ>とある。白井は懲役1年とした判決を不服として大審院(現・最高裁)に上告。1876年(明治9年)2月25日、大審院は白井喜次郎とゆたに無罪判決を言い渡した。その理由は白井とゆたの情交は中島光太郎とゆたが婚姻届けを提出する前の行為である以上、姦通とはみなせないとするものであった。

「いちもつチョン切り事件」は上記の事件以前にもあったと勝手に思ったりしますが、正確には「裁判記録に残っている(裁判で明らかになった)、いちもつチョン切り第1号事件」ということなんだと思います、たぶん。

姦通罪・・・1947年(昭和22年)に施行された憲法の14条で男女平等が定められたが、刑法183条の姦通罪は憲法14条に違反するとされ、11月15日施行の改正刑法により削除されている。姦通罪は、夫のある妻と、その姦通の相手方である男性の双方に成立し、夫を告訴権者とする親告罪とされた。また、告訴権者である夫が姦通を容認していた場合には、告訴は無効とされ、罰せられないものとされた。

憲法14条・・・すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

現在削除されている刑法183条(姦通罪)・・・有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ (→夫のある夫人が姦通したときは2年以下の懲役に処す。その夫人と相姦した者も同じ刑に処す)

同じく現在、削除されている第2項・・・前項ノ罪ハ本夫ノ告訴ヲ待テ之ヲ論ス但本夫姦通ヲ縱容シタルトキハ告訴ノ效ナシ (→前項の罪はその夫人の夫の告訴をもって訴えることとする。ただし夫が姦通を容認したときは告訴の効力なし)

姦通罪は現在でもイスラム圏の多くの国で定められている。韓国では、2015年(平成27年)2月26日、韓国憲法裁判所で刑法の姦通罪に違憲決定を下し、62年ぶりに即時廃止されている。

大審院(たいしんいん、だいしんいん)・・・1875年(明治8年)、司法省裁判所に代わって東京に設置され、司法行政を行う司法省と司法権を行使する大審院とが明確に区分された。1890年(明治23年)、裁判所構成法が制定され、大審院を頂点に以下、控訴院・地方裁判所・区裁判所が設置された。1947年(昭和22年)、裁判所構成法の廃止に伴い、廃止された。

陪審裁判

陪審裁判

1928年(昭和3年)12月17日、東京地裁で陪審法(現在は「停止」状態)施行(同年10月1日)後、最初の裁判が行われた。被告人は主婦の山藤寒子(当時21歳)で、放火事件の被疑者として逮捕されたが、寒子は丸顔の美しい顔立ちをしていたことから「美人放火事件」として報道され、世間の注目を集めた。裁縫学校出の寒子は事件の3年前に菓子商の息子と結婚し、翌年には子どもが生まれ、商売も順調で幸せだった。ところが、1928年(昭和3年)3月15日深夜、東京市馬込(現・東京都大田区馬込)の自宅が火事になった。寒子夫婦は火をすぐに消し止めたので大事には至らなかった。捜査にあたった大森警察の刑事が火事を放火と断定し、寒子が被疑者として逮捕され、保険金目当てとみなされた。初め、寒子は犯行を自白したが、のちに否認。予審判事は寒子を免訴とした。しかし、検事が抗告して裁判となった。寒子の主任弁護人の塚崎直義は大杉栄殺しの甘粕(あまかす)事件を手掛けるなど敏腕弁護士だった。公判中、塚崎弁護人は警察側の強引な見込み捜査の誤りを指摘し、また、被告人の自白が巧妙な誘導尋問によるものであることを明らかにした。12月21日、陪審員12人に評決を命じた。陪審員一同は評議の結果、被告人の無罪を答申、裁判長は寒子に無罪を言い渡した。

日本の陪審法・・・日本にも陪審制度があり、大正6年に制定された陪審法が昭和17年までは実際に機能していた。この陪審法、いまは休止しているだけで、廃止されたわけではない。つまり、陪審法ノ停止ニ関スル法律を廃止すれば、日本にも陪審を復活させることができる。日本の陪審法では陪審にするか普通の裁判にするかを被告人が選べることになっているが、陪審を希望する被告人がほとんどいなくなったので休止することになったらしい。当時、陪審では10%近くが無罪になっており、普通の裁判より、被告人に有利な判決が期待できた。にもかかわらず希望者が減ったのは素人ではなく法律のプロに裁いてもらいたいという気持ちが強かったためとか。今後、導入される裁判員制度がうまく機能するのか心配。

陪審法ノ停止ニ関スル法律・・・「陪審法ハ其ノ施行ヲ停止ス」という日本一短い条文の法律で、わずか12文字。

東京・・・1868年(明治元年=慶応4年)、江戸を「東京」と改称。1878年(明治11年)、東京府15区6郡成立。1889年(明治22年)、東京府15区に市制、東京市とする。1893年(明治26年)三多摩(北、南、西多摩)郡を神奈川県より移管。1932年(昭和7年)、府下5郡82町村を東京市に編入、20区を新設し、合わせて35区となる。この時点で、現在の東京23区とほぼ同じ範囲となる。1943年(昭和18年)、東京府は東京都となり、同時に東京市を廃して区を東京都の直下に置くこととなった。1947年(昭和22年)、22区に統合。その後、板橋区から練馬区を分離し、23区となる。

甘粕事件・・・1923年(大正12年)9月1日の関東大震災直後の9月16日、アナーキストの大杉栄(38歳)、伊藤野枝(28歳)、甥の橘宗一(6歳)の3人が甘粕正彦憲兵大尉や森慶次郎曹長ら5人によって殺害された事件(大杉事件ともいう)。事件が発覚し、甘粕らは軍法会議にかけられ、7回の公判ののち、12月8日、甘粕に懲役10年、森に懲役3年、他の3人に無罪の判決が下った。事件の最大のナゾは甘粕の単独計画か否かであったが、深く追及されず分かっていない。甘粕は千葉刑務所で服役していたが、1926年(大正15年)10月9日、判決から2年10ヶ月で極秘に出所し、宮城県の川渡温泉に隠れ、その後、妻とともにパリで2年間遊んだ。1929年(昭和4年)7月、大川周明の世話で満州に渡り、満州国建国に「活躍」。1939年(昭和14年)11月、満州国映画協会理事長のポストに就き、1945年(昭和20年)8月20日、2度の自殺予告をしたあと青酸カリを服毒して自殺した。54歳だった。

銀行強盗

銀行強盗

[ 大森銀行赤色ギャング事件 ] 1932年(昭和7年)10月6日午後3時過ぎ、東京市大森(現・東京都大田区大森)にある川崎第百銀行大森支店の裏口からバーバリのレインコート姿の3人の男、中村経一、西代義治、立岡正秋がつけヒゲに眼鏡をかけ、ピストルを握って中に入り、行員にピストルをつきつけ、出納係の机の上にある札束をボストンバッグに詰め込み、銀行を飛び出した。そこで駆けつけた巡査と鉢合わせしたが、ピストルを振り回すと向かってこなかった。こうしてわが国最初の銀行強盗は成功した。当時のマスコミは未曾有の犯罪に騒然となり、その日のうちに号外が出た。だが、わずか3、4日後、襲撃のために使ったピストルが密輸団から購入していたことが分かり、そこから足がつき、襲撃の責任者と実行犯たちがあっけなく逮捕されたが、当時、非合法だった共産党による仕業だったことに世間は驚いた。以後、この事件は「大森銀行赤色ギャング事件」と呼ばれた。当時、共産党の中には、こうした犯罪に手を染めることに抵抗がなかった。ブルジョアジーがプロレタリアートから収奪したものを取り返すことは恥ずべきことではないという考えがあり、ロシア革命の際にボリシェビキも党の資金を得るために強盗を働いていたからである。当時の共産党は特高(特別高等警察)によって草創期の党員が一網打尽に逮捕されたあとも残った党員によって党再建が繰り返されていた。前年の1931年(昭和6年)8月に共産党中央委員会を結成、委員長に風間丈吉、中央委員に松村昇、岩田義道、紺野与次郎ら7人がなった。だが、このときの実力者は松村だった。松村はこの「非常時」共産党内の資金やアジトを確保する家屋資金局を一手に握るなどの立場にいた。翌1932年(昭和7年)夏、松村は家屋資金局の会合の席上、幹部たちに全国代表者会議を開くことや東京市電争議や地下印刷所の建設のためにもかなりの資金が必要であることを説明し、幹部の今泉善一に銀行強盗ギャング計画をもちかけた。その結果、この計画は家屋資金局のメンバーで実行に移されることになった。10月1日午前1時半ころ、実行部隊が不動貯蓄銀行白山支店の前に集結したが、そば屋の屋台が出ていて銀行員らしい2、3人がそばを食べていたのでやむなく襲撃を諦め、未遂に終わった。そこで次の標的になったのが川崎第百銀行大森支店である。そして強盗は成功するが、この事件を扇動した松村昇は実は特高のれっきとしたスパイだったのである。松村はモスクワに留学していたが、事件から4年前に帰国したその年の7月に検挙され、以後、当局のスパイとなった。だから、このときの共産党の動静は特高に筒抜けだった。ただし、この赤色ギャング事件は特高の命令ではなく、松村の独断でやらせた犯行だった。ギャング事件の直後、熱海で開かれた全国代表者会議に集まった同志たちを特高に売り渡し、「非常時」共産党を壊滅させた後、松村は忽然と姿を消した。1965年(昭和40年)、スパイ松村昇[本名・飯塚盈延(みつのぶ)]が死亡したが、生前、「共産党ほどくだらないものはない」と言っていたという。

特高・・・特別高等警察の略。大逆事件(幸徳事件)を契機として、1911年(明治44年)、警視庁に特別高等警察課が設置されたのが始まりで、その後、大阪、京都などにも増設され、1928年(昭和3年)には全国に配置された。これは1925年(大正14年)5月に施行される治安維持法に備えての設置で、共産主義や反体制の言論、思想、社会運動を弾圧した秘密警察。1945年(昭和20年)10月、敗戦直後、民主化を求める世論の中で、特高は治安維持法とともに廃止になった。

大逆(たいぎゃく)事件・・・1910(明治43年)5月、信州の社会主義者宮下太吉ら4人が「爆発物取締罰則違反」で逮捕された(明科事件)が、その逮捕者が社会主義者の幸徳秋水とつながりを持っている者であったことを利用して、政府が天皇暗殺の一大陰謀事件を捏造し、幸徳をはじめとする全国の社会主義者を一網打尽に抹殺しようと計画を立て実行。これで26人が逮捕され、24人に死刑判決が下された。翌日には死刑判決が下された24人のうち、12人が無期懲役に減刑され、残りの12人が処刑された事件。

刑法73条から76条までは皇室に対する罪を規定しており、73条が大逆罪、74条が不敬罪、75条と76条が天皇の家族の保護に関する規定であった。だが、憲法14条の「法の下の平等」に反することから、1947年(昭和22年)11月15日の改正刑法の施行により、73条から76条まで削除され、皇室に対する罪も一般の罪として処罰されるようになったのである。

刑法・皇室ニ対スル罪

73条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
74条 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ
不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役に処ス
(2)神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦(また)同シ
75条 皇族ニ対シ危害を加ヘタル者ハ死刑ニ処シ
危害ヲ加ヘントシタル者ハ無期懲役ニ処ス
76条 皇族ニ対シ不敬ノ行為アリタル者ハ
二月以上四年以下ノ懲役ニ処ス

皇后=天皇の正妻、皇太后=先代の天皇の皇后、太皇太后=先々代の天皇の皇后、皇太子=次代の天皇になるべき皇子(通常、天皇の長男)、皇太孫=皇位継承権をもつ天皇の孫

青酸による殺人

青酸による殺人

1935年(昭和10年)11月21日、東京市浅草区(現・東京都台東区/浅草区と下谷区が統合して台東区となる)で、初の青酸による殺人事件である小学校校長殺人事件が発生。この日、学校職員の給料日だったが、浅草柳北小学校校長の増子菊善(46歳)は、浅草区役所で職員49人分の給料3353円33銭を受け取り、風呂敷包みに包んで内ポケットにしまった。区役所にいるとき、足袋屋の若主人の鵜野洲武義(うのすたけよし/当時27歳)という男から電話で呼び出され、雷門向かい東角の明治製菓喫茶部へと向かった。その中で、鵜野洲と会った増子校長は紅茶を一口飲んで具合が悪くなった。紅茶の中に青酸カリが混入されていた。鵜野洲は、増子校長を介抱するふりをし、店員が医者を呼びに行っているすきに、給料入りの袋を奪って逃走した。使用した青酸カリ2グラムは、町工場から10銭で譲り受けていた。犯行から12時間後、鵜野洲は千束町の待合で遊興中に逮捕され、死刑の判決となった。

青酸カリ・・・シアン化カリウムのことで、これは無色の結晶からできており、高濃度の場合はアルカリ性に保っておかないと、シアン化水素を発生する。この水溶液を俗に青酸と呼ぶ。金属精錬やメッキ、殺虫剤などに使われる。毒殺に用いられてきたものは、このシアン化カリウム塩あるいは、ナトリウム塩であり、どちらも水溶性で飲料にもよく溶ける。シアン化水素の溶液を吸うだけで、皮膚がただれたり、癌になることがある。また、シアン化水素の蒸気を吸うと、ほぼ瞬間的に麻痺が起き、けいれんが始まり、呼吸が止まり死亡する。致死量は0.15〜0.3グラム。

筆跡鑑定

筆跡鑑定

[ 帝銀事件 ] 日本で本格的な筆跡鑑定が行われたのは帝銀事件からであった。1948年(昭和23年)1月26日午後3時過ぎ、東京都豊島区池袋の帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫課厚生省技官を名乗る男が現れ、近くで集団赤痢が発生したので「予防薬」を飲むように要請し、それに従った行員やその家族16人が次々と倒れ、うち12人が死亡。「予防薬」は青酸化合物とされているが、ハッキリしていない。このとき、現金約16万4000円と額面約1万7000円の小切手が奪われた。捜査当局は、約7ヶ月後の8月21日、画家の平沢貞通(当時56歳)が逮捕された。犯行翌日に銀行から盗まれた小切手が犯人と見られる人物によって換金されているが、この際に小切手の裏に書かれた住所などの筆跡と平沢の筆跡とが鑑定によって同一と判断された。その後、平沢は拷問に近い取り調べに犯行を「自白」するが、起訴後は一貫して無罪を主張していた。警察の捜査にも疑わしい点が多くあったが、1955年(昭和30年)5月7日、最高裁で死刑判決が下った。その後、再審請求がされ、それは18回にも及んだが、いずれも棄却された。1987年(昭和62年)5月10日、平沢は八王子医療刑務所で肺炎を悪化させ死亡した。95歳だった。1989年(平成元年)5月10日、第19次再審請求を起こす。平沢の死後に新たに小切手の裏書の筆跡と平沢の筆跡の鑑定を行っているが、「筆跡は同一ではない」と判断し、新鑑定書を東京高裁に提出した。

モンタージュ写真実用化

モンタージュ写真実用化

[ 帝銀事件 ] モンタージュ写真が日本で初めて実用化されたのは帝銀事件からであったが、部分的に犯人に似ている3人の写真を同じ大きさに引き伸ばし、それを目、鼻、口に分けて横に切り、ノリで貼り合わせ、複写、修正するという大変手間のかかる方法で仕上げることとなった。事件が発生してから決定版が作られるまで10回の修正が施された。1948年(昭和23年)1月26日午後3時過ぎ、東京都豊島区池袋の帝国銀行(後の三井銀行、現・三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫課厚生省技官を名乗る男が現れ、近くで集団赤痢が発生したので「予防薬」を飲むように要請し、それに従った行員やその家族16人が次々と倒れ、うち12人が死亡。「予防薬」は青酸化合物とされているが、ハッキリしていない。このとき、現金約16万4000円と額面約1万7000円の小切手が奪われた。捜査当局は、約7ヶ月後の8月21日、画家の平沢貞通(当時56歳)が逮捕された。平沢は拷問に近い取り調べに犯行を「自白」するが、起訴後は一貫して無罪を主張していた。警察の捜査にも疑わしい点が多くあったが、1955年(昭和30年)5月7日、最高裁で死刑判決が下った。その後、再審請求がされ、それは18回にも及んだが、いずれも棄却された。1987年(昭和62年)5月10日、平沢は八王子医療刑務所で肺炎を悪化させ死亡した。95歳だった。1989年(平成元年)5月10日、第19次再審請求を起こす。

血痕鑑定

血痕鑑定

[ 下山事件 ] 1949年(昭和24年)7月6日、常磐線の綾瀬駅付近で国鉄総裁の下山定則(49歳)が轢死体で発見された。下山は国鉄(現・JR)の3万人を超える職員の人員整理の責任者だったことから自殺説、他殺説が取りざたされた。他殺であればどこかで殺害され、その殺害方法にもよるが、死体を運んだ際に血痕がある可能性があるとして、常磐線沿線に大量のルミノールを散布した。これが日本で最初の血痕鑑定だった。ルミノールは血痕照明用の発光性試薬のことで、第2次大戦直前に日本海軍がこれを輸入、武田薬品に作らせたものが東大法医にサンプルとして保管されていた。微量の血液に対しても確かな反応を示し、例えば、わずか1CCの血液を30万倍の300リットルの水に薄めたものにも反応を見せる鋭敏なもの。

凶悪犯全国公開捜査

凶悪犯全国公開捜査

1955年(昭和30年)6月1日、山口県下関市で、大西克己(当時27歳)が養父母の福松(66歳)夫婦を青酸入りジュースで毒殺して九州に逃亡。別府に住み、偽名で食料品の販売などをしていたが、ケンカをして警察の取調べを受け、別府地区検察に送検された。大西はこのままでは養父母殺しがバレると東京へ高飛びし、追われる身から逃れるため、他人になりすます計画を立てる。カモを探し、知り合った函館生まれの三浦和夫(26歳)を騙して戸籍妙本、転出証明書を取り寄せさせ、1956年(昭和31年)2月、岡山県倉敷市まで連れ出して、青酸カリを飲ませて殺害し、死体はガソリンをかけて焼き、身元の確認もできないように偽装した。こうして、他人になりすまして結婚し真面目に運転手として働いていた。1957年(昭和32年)12月、大西は酒に酔って住居侵入で現行犯逮捕された。警察で写真、指紋を取られ即日釈放された。バレるのをおそれた大西は第3の殺人を計画する。ひとまず北海道に行くと言って妻をあざむき蒸発、その足で山谷へ行き、なりすます相手を物色、佐藤忠(30歳)に目をつけ、再び同じ手口で戸籍謄本、転出証明書を取り寄せさせ、1958年(昭和33年)1月、水戸市の千波(せんば)湖畔に誘い出して手ぬぐいで絞殺した。身元の分かりそうな手がかりを一切消すため、全裸にしてナイフで鼻頭、左指、ペニスを切断、顔面、両手指に線状のキズを多数つけ、死体をバラバラにした。さらに、念を入れて、翌日、濃硫酸(500グラム)を持って現れ、死体の頭部、顔面にふりかけて判別を不能にした。警察庁は千波湖畔事件を凶悪犯全国公開捜査第1号に指定。同年7月15日、大西が逮捕される。1959年(昭和34年)12月、水戸地裁で死刑判決。その後、控訴審、上告ともに棄却され、1961年(36年)3月、死刑が確定した。2審担当の国選弁護人は「あまりに残酷な犯行なので死刑になるのは当然」として弁護を拒否したが、これについては1963年(昭和38年)11月、東京地裁民事部は弁護を拒否した弁護士に対し、「弁護放棄は義務を怠った不法行為として、3万円の賠償を命じる判決を下した。1965年(昭和40年)、大西の死刑執行。

心臓移植

心臓移植

1968年(昭和43年)8月8日午後2時半、札幌医大附属病院第2外科の和田寿郎(じゅろう)教授(当時46歳)が、日本初(世界では30例目)の心臓移植手術に成功したと発表した。手術を受けたのは僧帽弁閉鎖不全症に罹っていた患者の宮崎信夫(当時18歳)で、前日の7日、海水浴中に溺死した大学生の山口善政(21歳)の心臓を移植した。「日本初」の快挙に翌日から連日、マスコミはいっせいに<画期的手術><日本医学の黎明>などと騒ぎ立てた。宮崎は病院の屋上を散歩できるまで回復したが、手術83日後に死亡すると状況は一転した。このことについて和田は「不運が重なった」と、手術ミスを否定した。1ヶ月後、大阪の漢方医ら6人が和田教授を「殺人容疑」で刑事告発した。和田教授にかけられた疑惑は、(1)ドナーが「生きていた」にもかかわらず、積極的治療をせず、見殺しにした。(2)山口の心臓はひとつの「弁」を人口のそれと交換する通常の手術で回復の見込みがあったのを知りながら、情報を伝えず、あくまで移植患者として温存した。(3)高度な世界レベルの移植経験もないのに無謀な手術を試み、その結果、宮崎の死を早めた。(4)取り出した宮崎の心臓がなくなっているが、それを検証されると困るからではないか。(5)会見で虚偽の説明を繰り返し、自らの功名心を認めない。・・・これに対し、和田教授も徹底的に反論した。だが、医学における「局面判断の相違」や明確な意図の有無についての立証が困難で、殺人罪の刑事告発を受けた札幌地検は嫌疑不十分で起訴を見送った。国内ではその後30年以上、臓器移植の「空白期間」が流れた。

関連書籍・・・『凍れる心臓』(共同通信社/共同通信社社会部移植取材班[編]/1998)

和田寿郎の著書・・・『神から与えられたメス 心臓外科医56年の足跡』(メディカルトリビューン/2001) / 『「脳死」と「心臓移植」 あれから25年』(かんき出版/1992) / 『ゆるぎなき生命の塔を 信夫君の勇気の遺産を継ぐ』(青河書房/1968)

この和田が行った移植手術の事実関係を克明に追ったドキュメント風の小説に『白い宴(うたげ)』(角川文庫/渡辺淳一)がある。著者の渡辺淳一が医師から作家への転身の契機になった作品。

声紋鑑定

声紋鑑定

1969年(昭和44年)5月29日、東京都渋谷区のスナック「マリブ」がボヤ火事になったが、警察は周囲の状況から放火と断定し、6月19日、バーテンのA(当時22歳)と板前見習いのB(当時28歳)を逮捕した。119番への最初の通報が「マリブ」から離れた場所からだったことやAとBが「マリブ」に借金があったことなどからAとBが放火した可能性があるとして、警察がAに電話して肉声をテープに録音し、これを119番通報の録音テープと照会、鑑定した結果、音声の周波数、音量が一致した。Aに鑑定結果を突きつけたところ、Aは放火を自供し逮捕に至った。

ハイジャック

ハイジャック

[ 「よど号」ハイジャック事件 ] 1970年(昭和45年)3月31日、国内で初めてのハイジャック事件が発生。赤軍派の田宮高麿(当時27歳)や小西隆裕(当時25歳)ら9人によって羽田発福岡行き日航機「よど号」がハイジャックされ、福岡の板付(いたつけ)空港、韓国の金浦空港を経て4月3日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の平壌の美林(ミリム)空港へ強制着陸させられた。この事件の後、ハイジャック防止法が制定された。

ハイジャック防止法・・・航空機の強取等の処罰に関する法律が正式名称。1970年(昭和45年)6月7日に施行された。暴行や脅迫によって人を抵抗不能にし、航行中の航空機を乗っ取った者は無期または7年以上の懲役、人を死亡させた場合は死刑または無期懲役が科せられる。国外での犯行も同様に処罰される。

ちなみに、飛行機の乗っ取りをハイジャック(hijack)というのは、アメリカの西部劇時代に、駅馬車強盗が、Hands up high,Jack !(きさま、手をあげろ)と脅したことからきている。

国際指名手配

国際指名手配

1972年(昭和47年)から翌年にかけて東海、北陸地方を中心に被害総額2億3500万円におよぶ古美術や刀剣類の窃盗事件が続発していたが、この事件に衣料品店経営の人見安雄(当時33歳ころ)が関わっていた。そのときの仲間が愛知県で発生した警察官暴行事件の容疑で逮捕され、1973年(昭和48年)10月6日早朝、別の仲間からの電話で人見がそのことを知ったが、すぐに、人見の自宅に刑事が訪れ、家宅捜査を受けた。隠しておいた刀剣類は見つからずに済んだが、人見はもはや逃げ場がないと観念し、妻に全てを打ち明けると、すぐに新婚旅行で行ったことのある香港に高飛びした。貯金をおろしてかき集めた有り金は約500万円。まもなく、妻も衣料品店の商品を売却処分したあとに合流した。だが、日本の警察から香港の警察に捜査願が出ていたため、地元の警察に連行されてしまった。これで日本に強制送還されることになったが、取調室で怪しげな警察官に「10万円出したら逃してやる」と言われ、言われるままにお金を渡した後、送還のため台湾経由で大阪に向かう飛行機に乗って台湾で降りて逃げることができた。その後、再び妻と合流したあと、タイへ渡った。地元の新聞を手に取ると日本の警察が国際刑事警察機構(ICPO)に捜査の協力要請をしたという記事が載っていた。日本の国際手配第1号として人見がリストアップされた。その後、タイ政府の要人に賄賂で偽名のパスポートを作成させ、妻を連れて大胆にもICPOの本部のあるパリへ向かった。その後、スペインのマドリードに移り住んだ人見は元々、絵を描くのが好きだったこともあって売れない画家アントニースに出会い、弟子入りして本気で画家を志すようになった。ここでは人見の手配写真をもって、警察官が突然訪ねてきたこともあったが、隠れることができた。その後、アントニースの従兄が税関職員だったこともあり、出国に成功。ギリシャへの入国審査で「お前はブラックリストに載っている」と言われたが、500ドルを握らせて買収した。アテネの「治外法権」の米軍施設で画廊をもち、描いた絵を売ったところ飛ぶように売れ出し、「青山友紀」と名乗って活動を本格化。年収は1億円にも達した。だが、密かに連絡を取り合っていた母から父の死を知らされ、望郷の念も募った。1986年(昭和61年)夏、自首することを決め、13年ぶりに帰国した人見に下された判決は懲役3年6ヶ月。服役中は『逃亡者の掟』と題した手記も出版し、話題となった。その後、岐阜県に住み、「逃亡画家」と自称して創作に励み、賞をもらうまでになった。1999年(平成11年)、肝臓ガンで死亡。59歳だった。

『逃亡者の掟 国際指名手配第一号犯の4600日』(文藝春秋/人見安雄/1988) / 『許される日はいつ ギリシャに潜んで13年』(朝日新聞社/人見江利子/1986)

近隣騒音殺人

近隣騒音殺人

[ ピアノ騒音殺人事件 ] この事件は「近隣騒音」が原因の初めての殺人事件ということで世間の注目を集めた。1974年(昭和49年)8月28日朝、神奈川県平塚市の団地の3階の奥村宅からいつものようにピアノの音が聞こえ始めた。午前9時20分ころ、主人(当時36歳)が出勤し、妻の八重子(33歳)がゴミ袋を持って玄関から出た。それを見ていた奥村宅の真上の4階に住む大浜松三(当時46歳)が刺身包丁を手に取ると、奥村宅に走り込んだ。そこでピアノを弾いていた長女のまゆみちゃん(8歳)の胸をひと突きして死亡させ、続いて傍らにいた次女の洋子ちゃん(4歳)を刺して死亡させたあと、マジックで襖に乱暴になぐり書きしていた。そのとき、八重子が子ども部屋の隣りの居間に戻ってきた。大浜は居間に飛び込むと、ためらわずに八重子の胸を狙って刺身包丁を突き刺し死亡させた。犯行後、大浜は海で死ぬことを考え、さまよったが、死にきれず、3日後の8月31日に自首した。1975年(昭和50年)10月20日、横浜地裁小田原支部で大浜に死刑の判決が下った。大浜にとっては望み通りの判決で控訴はしないと言ったが、弁護人は控訴手続きを取った。大浜は不満の意を表したが、弁護人は説得して控訴趣意書を書かせた。この大浜自筆の控訴趣意は原稿用紙80枚に及ぶ妄想の集大成であった。騒音に悩む人々の同情が集まり、助命嘆願活動も行われた。1976年(昭和51年)5月の精神鑑定の結果、「大浜は犯行当時、パラノイアに罹患しており、責任能力なしの状態にあった」という判断だったが、10月5日、大浜は弁護人との相談なしに控訴を取り下げた。12月16日、東京高裁で控訴の取り下げを有効と認める決定を下した。1977年(昭和52年)4月11日、東京高裁は決定を支持し、死刑が確定した。

女性銀行強盗

女性銀行強盗

1979年(昭和54年)4月19日午後2時45分ころ、栃木県小山市の茨城相互銀行小山支店に小山市内に住む無職の女性(当時20歳)が果物ナイフを持って押し入り、客の若い女性を人質にとって、銀行側に「100万円を出せ!」と要求。しかし、人質にスキを見て逃げられると、逆上した女はカウンター内に入って大暴れした。だが、これに柔道3段の銀行員が応戦。かなわないとみた女は店外に逃げ出し、止めておいた車に乗り込んだが、追いかけてきたその銀行員にその場で取り押さえられた。女は「同居中の男が交通事故を起こして賠償金や入院費に困って銀行強盗を思いついた」と自供した。

犯罪被害者等給付金制度適用

犯罪被害者等給付金制度適用

犯罪被害者等給付金制度は1980年(昭和55年)5月に公布し、1981年(昭和56年)にスタートした。これは、人の生命または身体を害する犯罪行為により、不慮の死を遂げた者の遺族や、重い障害を受けた者に対し、国が一時金を支給する制度。通り魔や爆弾魔のように犯人が分からなかったり、犯人は逮捕されても資力がなく、被害者やその遺族へ補償できない場合を考慮したもので、この請求は都道府県の公安委員会あてに行う。この制度が初めて適用された事件が1981年(昭和56年)1月に起きた佐賀保険金替え玉殺人事件で、被害者の遺族に国から390万円支給されている。

[ 佐賀保険金替え玉殺人事件 ] 1981年(昭和56年)1月22日、事業不振に陥っていた福岡県北九州市の水産会社社長の酒井隆(42歳)が妻(当時41歳)と愛人(当時43歳)と共謀して、競艇場でたまたま知り合った大工の森下隆基(46歳)をバットで殴り車ごと佐賀県肥前町の海に落として殺害。この「事故」で酒井は自分が死んだように偽装し、保険金2億7000万円を騙し取ろうとした。だが、発覚した直後の28日に酒井は遺書を残して下関駅で電車に身を投げ自殺した。

セクハラ訴訟

セクハラ訴訟

福岡市の出版社に勤務していた晴野まゆみが編集長から性的いやがらせを受け始めたのは28歳のときだった。人手不足の編集部で仕事が滞りがちな編集長に対し、そのことで苦情を言うと、編集長から陰湿な性的中傷が始まった。「男関係がだらしない女」「誰それと不倫している」など根も葉もない噂を周りの人に流し始めた。晴野が卵巣腫瘍で入院・手術したときは、「男遊びが激しくて婦人病にかかったんだ」と晴野の前で誹謗中傷の言葉を浴びせた。さらに、あるクライアントの男性との恋愛関係で悩んでいると、「広告出稿が止まったのは君たちが別れたからだ。みんなに知られる前に会社を辞めたほうがいい」とプライベートな生活まで踏み込んだ嫌がらせを口にした。こうした性的嫌がらせは2年半に渡って続いたが、耐え切れず、会社の専務や上司に相談した。だが、相手にされず、逆に「会社の和を乱しているから明日からくるな」と一方的に言われ、即日解雇された。当時、セクハラの裁判例がアメリカであることを知った晴野は訴訟を決意した。裁判では7人の女性弁護士とフェミニズム団体を中心に組織された女性たちが、「職場での性的嫌がらせと闘う裁判を支援する会」を結成、晴野は「原告A子」という匿名で日本初のセクハラ裁判を闘うことになった。1989年(平成元年)11月のことで、公判では原告A子の日常生活が暴かれたが、晴野を苦しめたのは皮肉にも味方であるはずの弁護団と支援する会だった。自分のための裁判が次第に弁護士と支援する会主体で進められるようになったからだった。第15回公判の後、晴野は嘘の証言をした被告人証人に対し感情を抑え切れず、法廷の廊下で証人を平手打ちしてしまったが、このとき、弁護団からあなた一人の裁判ではないと非難された。1992年(平成4年)4月16日、福岡地裁は「原告の異性関係を中心とした私生活非難などが退職につながった」として、被告の編集長と会社側に165万円を支払うように命じた。この裁判の後、全国でセクハラ裁判が次々と起きた。1999年(平成11年)4月に施行された男女雇用機会均等法(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律)の改正ではセクハラを防止するための事業主に対する配慮義務が規定された。裁判から4年後、晴野は実名を公表し、9年後には裁判の経緯を『さらば、原告A子』と題した本にまとめて出版した。その後、晴野は結婚し、フリーライターとして雑誌の編集や執筆活動を行っている。

『さらば、原告A子 福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記』(海鳥社/2001)

DNA鑑定で有罪判決

DNA鑑定で有罪判決

[ 足利事件 ] 1990年(平成2年)5月12日、栃木県足利市で松田真実ちゃん(4歳)が行方不明になり、翌13日、渡良瀬川の河川敷で真実ちゃんの遺体とごく微量の精液が付着した真実ちゃんの半袖下着が川の中から泥だらけの状態で発見される。10月、科学警察研究所(科警研)がDNA鑑定を実用化。11月末、聞き込み捜査により幼稚園バス運転手の菅家(すがや)利和がマークされ、巡査部長が菅家の借家を訪問&令状なしの室内調査&勤務先への聞き込み。以降、逮捕されるまでの1年間尾行され続ける。1991年(平成3年)3月、勤務先への聞き込みが原因で菅家が解雇される。5月22日、警察庁がDNA鑑定導入を決定。6月23日、尾行中の刑事が菅家の捨てたゴミ袋を無断で押収。8月21日、科警研に真実ちゃんの半袖下着と押収したゴミ袋に入っていた使用済みのティッシュのDNA鑑定を依頼。11月25日、DNA鑑定で一致したという結果を報告。12月1日、菅家が逮捕状なしで足利警察署に連行され、夜中まで取り調べ。翌2日、真実ちゃん殺害などの容疑で菅家利和(当時45歳)が逮捕される。だが、当時のDNA鑑定の技法が未確立だったため、その鑑定結果には様々な疑問がもたれている。また、DNA鑑定以外に物証がなく、「自白」内容も変遷を繰り返し、殺害方法などの重要部分で客観的事実と矛盾している。公判途中から菅家は否認に転じるが、1993年(平成5年)7月7日、宇都宮地裁で菅家に無期懲役の判決。1996年(平成8年)5月9日、東京高裁で控訴棄却。2000年(平成12年)7月17日、最高裁で上告棄却で無期懲役が確定。2002年(平成14年)12月25日、宇都宮地裁に再審請求。2008年(平成20年)2月13日、宇都宮地裁が再審請求を棄却。2月18日、弁護団が東京高裁に即時抗告を行う。その即時抗告審で、12月19日、東京高裁の田中康郎裁判長がDNAの再鑑定を行うことを決定した。再審請求中の事件でDNAの再鑑定を行うことが決定された事件としても初のケースとなった。2009年(平成21年)4月20日、東京高裁の嘱託鑑定で真実ちゃんの着衣に付着した体液と菅家のDNA型が一致しないという結果を得る。5月19日、弁護団が東京高検に無期懲役刑の執行停止と釈放を要請。5月25日、東京高裁の即時抗告審に鑑定書を提出していた本田克也・筑波大教授が鑑定書の改訂版を提出。6月1日、弁護団が刑の執行停止をしない検察を不当だとして宇都宮地裁に異議申し立て。6月4日、菅家が逮捕から17年半ぶりに釈放される。これにより再審開始が決定的となる。6月23日、東京高裁は再審請求即時抗告審で請求を棄却した宇都宮地裁決定を取り消し再審開始を認める決定をした。女児の着衣に付着した体液と菅家のDNA型が一致しなかった再鑑定結果を「無罪を言い渡すべき新証拠」と判断した。2010年(平成22年)3月26日、宇都宮地裁(佐藤正信裁判長)は菅家利和に対し無罪判決を言い渡した。

関連書籍・・・
『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』(草思社/小林篤/2001)
『冤罪 ある日、私は犯人にされた』(朝日新聞出版/菅家利和/2009)
『冤罪足利事件 「らせんの真実」を追った四〇〇日』(下野新聞社/下野新聞社編集局[編]/2010)
『孤高の法医学者が暴いた足利事件の真実』(金曜日/梶山天/2018)

臓器移植法成立後の脳死移植

臓器移植法成立後の脳死移植

1999年(平成11年)2月22日、高知市にある高知赤十字病院が全国の注目を集めることとなった。女性(44歳)がくも膜下出血で倒れ、午後11時過ぎに高知赤十字病院に緊急入院した。危篤状態になった女性が臓器提供の意思を示した「ドナーカード」を所持していたため、臓器移植法(臓器の移植に関する法律)が成立して初めての脳死移植に向かって動き出した。翌日には臓器移植を進めるため家族を説得する移植コーディネーターが呼ばれ、家族との接触がはかられた。本来、病院が最初に行うべきことは患者の救済であるはずなのにそれよりも家族の説得を優先した。臓器移植法が成立した際に脳死判定に関しては脳低体温療法をはじめとして、あらゆる救命努力をしたあとに行うよう付帯決議が採択された。ところが、脳低体温療法は行われなかった。25日に行われた最初の脳死判定で脳波があることが分かり、臓器摘出が延期された。さらに、27日には、マスコミの加熱報道を嫌った家族の要請で報道規制が敷かれ、情報が伝わらなくなってしまった。公開を原則とする了解事項も守られなかった。最終的には、28日未明に脳死と判定され、午後3時7分から臓器の摘出手術が行われ、心臓は大阪大学、肝臓は信州大学、腎臓は複数の病院に、巨額の費用をかけてチャーターしたヘリコプターや航空機で運ばれ、臓器移植手術が行われた。

2006年(平成18年)11月に行われた「臓器移植に関する世論調査」(3000人の成人のうち1727人が回答)で「脳死判定後に臓器提供したいと思っている人」は41.6%、逆に「提供したくない人」は27.5%だった。臓器提供の意思表示カードやシールを持っている人は7.9%、持っていない理由としては「入手方法が分からない」が26.5%だった。

ハイジャック致死罪適用

ハイジャック致死罪適用

[ 全日空機ハイジャック事件 ] 1999年(平成11年)7月23日、無職の西沢裕司(当時28歳)が全日空機061便(乗員乗客517人)に搭乗、機内に持ち込んだ包丁で脅して、コックピット内に入り込み、長島直之機長(51歳)を刺殺。その後、約5分間に渡って、自ら飛行機を操縦するというハイジャック事件が発生した。初の「ハイジャック致死罪」が適用され、2005年(平成17年)3月23日、東京地裁で無期懲役の判決。被告側、検察側ともに控訴せず刑が確定した。

狂牛病発生

狂牛病発生

2001年(平成13年)9月10日、「日本で最初の狂牛病発生」と報道された。千葉県白井市で飼育されていた5歳の雄のホルシュタイン種の乳牛が、BSE(狂牛病、牛海綿状脳症)に感染している疑いがあると農水省が発表した。BSE独特の起立不能の症状を示したため、すでに8月6日に屠畜されていた。英国獣医研究所に牛の組織と検査結果を送付し確認後、9月22日に正式に狂牛病と発表された。

法廷外での傍聴

法廷外での傍聴

犯罪被害者保護法(犯罪被害者等の権利利益の保護を図るための刑事手続に付随する措置に関する法律)が、2000年(平成12年)11月1日に施行されたが、これによって、犯罪の被害者やその遺族は裁判の傍聴席を優先的に確保され、判決が確定する前であっても裁判の記録を見たり、コピーできるようになった。刑事訴訟法(証人尋問)も改正されたが、改正点は被害者の精神的負担を和らげるのが主な目的で、被告人(加害者)のいる法廷で不安や緊張を感じるおそれがあるときに、それを和らげるために付添い人を付けることやビデオカメラを使って別室で証言すること(ビデオ・リンク方式)を認めた(刑事訴訟法157条の4)。「刑事訴訟法157条の4」には「傍聴」について規定されていないが、2003年(平成15年)8月28日、大阪地裁での大阪池田小児童殺傷事件(被告人=宅間守/現姓・吉岡)の判決公判では、一部の遺族の要望を受け、別室に設けたモニターカメラで傍聴できるようにした。大阪地裁が法廷外での傍聴を全国で初めて認めた例となった。

[ 大阪池田小児童殺傷事件 ] 2001年(平成13年)6月8日午前10時15分ころ、大阪府池田市の大阪教育大付属小学校に元伊丹市職員の宅間守(当時37歳)が刃物を持って乱入し、教室などで1、2年の児童などを次々と刺し、1年の男児1人、2年の女児7人の計8人が胸や腹を刺されて死亡、児童13人と教師2人が重軽傷を負った。2003年(平成15年)8月28日、大阪地裁で死刑判決。9月10日、弁護士側は判決を不服として控訴。9月26日、宅間自身が控訴を取り下げ、死刑が確定。2004年(平成16年)9月14日、大阪拘置所で死刑が執行された。死刑確定からわずか1年という異例の執行となった。40歳だった。

犯罪被害者参加制度適用

犯罪被害者参加制度適用

犯罪被害者参加制度は犯罪の被害者などが公判期日に出席し、被告人に対する質問を行うなど刑事裁判に直接参加することができる制度で、2008年(平成20年)12月1日にスタートした。参加できる犯罪は殺人、傷害などの故意の犯罪行為により人を死傷させた罪、強制わいせつや強姦などの罪、自動車運転過失致死傷などの罪、逮捕および監禁の罪、略取、誘拐、人身売買の罪などで、参加できるのは犯罪被害者本人や法定代理人(未成年者の両親など)、犯罪被害者本人が亡くなった場合や心身に重大な故障がある場合の犯罪被害者の配偶者、直系親族、兄弟姉妹。被害者参加人になると検察官の権限行使に関し、意見を述べ、説明を受けることや証人に尋問をすること、被告人に質問をすること、事実関係や法律の適用について意見を陳述することができる。

2008年(平成20年)4月、北海道釧路市内で女性が男性会社員(当時43歳)の軽乗用車にはねられ負傷。12月10日、釧路地検に自動車運転過失傷害罪に問われた男性会社員の初公判(2009年1月19日)への参加を被害女性は申し出て認められていたが、2009年(平成21年)1月8日、女性が参加を辞退し、「第1号」にならなかった。

2009年(平成21年)1月23日、被害者参加制度が適用された事件の初公判が2件開かれた。

[ その1 ] 2008年(平成20年)8月1日に飲食店従業員のバイクの男性(34歳)をトラックではねて死なせたとして、自動車運転過失致死罪に問われた運転手の男(当時66歳)の裁判。2009年(平成21年)1月23日の東京地裁での初公判で、被害男性の妻(当時34歳)と兄(当時35歳)が参加した。被告人は起訴内容を認め、情状面の評価が焦点となった。被害男性の兄は被告人に「あなたの考える誠意とは何か」と尋ねると、被告人は「線香を上げさせていただき謝るしかない」と答えた。検察側が禁固1年6ヶ月を求刑後、被害男性の妻が「人生で最も大切な人を失い、心から笑うことはもうない。実刑を強く望む」と涙ながらに意見を述べた。弁護側は執行猶予を求めて即日結審した。2月20日、東京地裁で判決公判が開かれ、被告人に禁錮1年6ヶ月・執行猶予5年(求刑・禁錮1年6ヶ月)を言い渡した。遺族は「実刑を強く望む」と意見を述べていたが、裁判長は「心情は十分に理解できるが、実刑は重過ぎる」と判断。遺族に向かい「落胆されていると思うが、被告なりに反省している」と異例の説明をした。

[ その2 ] 2008年(平成20年)10月2日の夜、東京都新宿区の路上で「肩がぶつかった」と因縁をつけて男性(当時52歳)に暴行し、肋骨を折るけがをさせるなどして傷害罪などに問われた飲食店従業員の2人の男性(ともに当時21歳)の裁判。2009年(平成21年)1月23日の東京地裁での初公判で被害者の男性が被告人質問を行い、被告人に対し罪の意識について尋ねるなどした。さらに、1月28日の第2回公判では被害男性は「報復目的で(被害者参加を)申し立てたわけではないが、本当の意味で社会復帰するために、3年の実刑に服することを希望します」と述べた。2月16日、東京地裁で判決公判が開かれ、被告人2人に対し「被害者が受けた肉体的・精神的苦痛は小さくなく、厳しい刑を望むのも当然」と述べ、いずれも懲役2年(求刑・懲役3年)の実刑を言い渡した。

裁判員制度適用

裁判員制度適用

2009年(平成21年)5月21日に裁判員制度がスタートしたが、実際に裁判員が参加した裁判の初公判が同年8月3日午後1時半から、東京地裁(秋葉康弘裁判長、馬渡香津子裁判官、蜷川省吾裁判官)1階の104号法廷であった。東京地裁は公判日程を決めた6月の公判前整理手続きで、適用事件の裁判員候補者を100人と決定。辞退を認めた27人を除く73人に呼び出し状を送った。さらに、質問票の回答を踏まえ、8月3日までに18人の呼び出しを取り消した。6人には呼び出し状が届かなかった。8月3日午前9時10分に始まった選任手続きでは、東京地裁職員が事件の概要を説明し、候補者が事件との関係などを尋ねる当日用質問票に記入した。その後、秋葉裁判長が辞退希望などについて質問した。当日に辞退希望を申し出たのは2人でいずれも認められた。こうして参加義務のある裁判員候補者49人のうち47人が手続きに臨み、「参加率」は約96%に上った。午前10時38分に抽選で、男性1人、女性5人の裁判員6人と、病気などで参加できない場合に交代する補充裁判員3人(いずれも男性)が決定した。事件は同年5月1日に起きており、東京都足立区で隣家の韓国籍の整体師の小島千枝(本名・文春子/66歳)をサバイバルナイフで刺殺したとして殺人罪に問われた無職の藤井勝吉(当時72歳)で「間違いございません」と起訴内容を認めている。2日目の8月4日、目撃者2人に対する証人尋問や被害者遺族への尋問、被告への質問が行われた。法壇には裁判官3人をはさんで計6人の裁判員が初日と同じ場所に着席。被害者遺族への尋問では裁判員の1人が初めて発言した。3日目の8月5日、東京地裁は6人の裁判員のうち女性1人を体調不良を理由に解任し、新たに補充裁判員2人のうち男性1人を裁判員に選任した。その後、1人が1回だけ質問した前日までの審理から一転し、新たな裁判員を含む裁判員6人全員が被告の藤井に質問した。検察側は懲役16年を求刑した。8月6日、東京地裁は藤井勝吉に対し懲役15年を言い渡した。裁判員6人が判決言い渡しに立ち会った。8月12日、弁護側が判決を不服として控訴した。12月1日、東京高裁で控訴審第1回公判が開かれ、弁護側が「(1審とは)独立した判断を」と減刑などを求め、即日結審した。12月17日、東京高裁で控訴審判決が行われ、弁護側の控訴を棄却した。12月24日、弁護側が上告。2010年(平成22年)6月1日までに最高裁第2小法廷は上告を棄却する決定をした。これで、懲役15年とした1、2審判決が確定する。

東京地裁での裁判に関して裁判員候補者を100人に決定−辞退を認められた者27人−呼び出しを取り消された者18人−呼び出し状が届かなかった者6人−当日に辞退希望を申し出て認められた者2人=残り47人が最終候補者となる→抽選により、裁判員6人+補充裁判員3人の計9人が決定したことになる。

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