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全日空機ハイジャック事件

【 事件発生 】

1999年(平成11年)7月23日午前11時21分ころ、羽田発新千歳行き全日空061便、ボーイング747−400D型機が定刻より26分遅れて離陸した。長島直之機長(51歳)と古賀和幸副操縦士(当時34歳)の2人の運航乗務員、12人の客室乗務員、492人の乗客、それに11人のデッドヘッド・クルー(便乗乗務員)の計517人を乗せていた。

その乗客の中に縁なしメガネをかけグレーの縦じまの背広に身を包み白い手袋をはめた西沢裕司(当時28歳)の姿があった。

午前11時23分ころ、房総半島上空で、西沢はシートベルトをはずして立ち上がると、手提げバッグから刃渡り19センチの包丁の箱を取り出し、2階客席の中央付近に並んで着席している2人の客席乗務員に近づいた。

「離陸中ですから席に戻ってください」

客室乗務員が制止したが、西沢は空き箱を投げつけ、包丁を2人に向けて、外国人のようなたどたどしい口調で言った。

「こういうことだから、殺されたくなかったらコックピットに連れていけ」

通路側に座っていた客室乗務員が立ち上げると、西沢は彼女の背中に包丁を突きつけて歩かせ、コックピットに向かった。もう1人の客室乗務員は1階にいるチーフパーサーにインターフォンで状況を報告。チーフパーサーはすぐにハイジャックが発生したことを機長に連絡した。

午前11時25分、機長が羽田管制に対し通報。

「あー、緊急事態。ハイジャック、ハイジャック。ANA61」

西沢が客室乗務員とともにコックピットの前までくると、ドアをノックさせた。その音を聴いた機長は自動操縦で上昇中の操縦を副操縦士に任せて立ち上がり、ドアのところに近づき、のぞき穴から客室の様子を確認し、事態を把握して、ドアの施錠を解除した。客室乗務員がドアを開け、西沢はコックピットに入った。そこでは機長席後方のオブザーブシートに座り、長島機長と古賀副操縦士に包丁を突きつけながら横須賀に行くように命じた。長島機長はこの要求に従い、管制官に対して「針路045度を要求します。横須賀への飛行を要求します」と要請した。

このとき、061便の高度は1万3000フィート(約3950メートル)で、まだ上昇中の状態にあったが、Nは昇降計などの計器類の位置や自動操縦装置の解除方法などを長島機長から聞き出し、高度を3000フィート(約900メートル)まで下げるように命じた。長島機長は管制官の許可を得て降下を開始。さらにNの指示に従って横須賀通過後の針路を伊豆大島へ。

午前11時36分、管制官から「このあとのそちらの意向を教えてください」と呼びかけがあった。

長島機長が西沢に訊くと、西沢は「えー、113.8(横田基地の軍事用航法援助装置の周波数)・・・・・・」と言葉を返したが、その直後、「古賀、邪魔だよ」「どいてくれ」などと大声を発し、古賀副操縦士を席から立たせようとしたとき、長島機長は「じゃー、古賀、座席、もうしようがない。代わっていいから」と指示。西沢は古賀副操縦士をコックピットから追い出した。

このとき、長島機長は管制官との正式な交信以外にも西沢に気づかれないように操縦桿にあるマイクのスイッチを押して、コックピット内の状況を伝えていたが、次のように通報している。

「コックピットから今、出るように言っています。えーと、包丁をひとつ持っています。えーと、単独犯のようです。この周波数をキープしてください。今、無線はモニターされていません。今、コーパイ(副操縦士)が外に押し出されました。これからコックピットをロックするようです。今、ロックしました。えーと、包丁を持って、今、うろうろコックピットの中をしています。ガムテープも持ってます」

西沢が副操縦士席に座ると、長島機長は西沢を落ち着かせようとして、窓から三浦半島や江ノ島が見えるとか、伊豆大島に向けて自動操縦で旋回したとか、今の風速は20ノット(秒速10メートル)であるとか、話しかけた。

午前11時40分、長島機長が西沢に「管制のほうが大島のあと、どうするのか訊いているんですけど」と訊くと、西沢は「113.8に行け」と命じた。

これに対し、長島機長が113.8のTACAN(距離方位測定装置)は搭乗してる飛行機が民間機だから入らないことを説明したが、西沢は「だめだ、行け」と繰り返した。長島機長は逆らわず、「113.8でなくても要は横田基地に向かえばいいということですね」と確認した。

その後も長島機長は西沢を何とかなだめようと、座席の調整方法や計器類の見方などを説明した。また、午後になって雲が次々と出てきて、他の飛行機との衝突の危険があるのでもっと高度をとった方がいいとしきりに説得を続けた。

午前11時46分、長島機長は管制官に対し、「右旋回もしくは左旋回で横田VOR(超短波全方向式無線標識)への飛行を要求します」と要請。管制官から「了解しました。右旋回、磁針路360度で横田に誘導します」との指示を受け、061便は伊豆大島上空でUターンをするように相模湾から内陸へと向かった。

西沢はここで、準備していた粘着テープで長島機長を縛りつけ、自動操縦装置を解除して長島機長の助言や管制官の指導に従いながら自分で操縦して横田基地に入るつもりだった。そうすれば、操縦には高度な技術は必要とせず、パイロットの給料が高いことや自分が航空機と空港の事情に精通していることをアピールできると考えていた。

だが、コックピット内が予想以上に狭いため、長島機長の手足を縛りつける作業が困難であることが分かり、これではハイジャックのみで終わってしまう、、、。西沢は焦った。

午前11時53分、西沢は長島機長に席を替わるように命じたが、長島機長はすぐに応じようとせず、次のようなことを言い続けながら操縦を続けた。

「右と左(副操縦士席と機長席の意味)? じゃあ、ちょっと待ってて。あのー、うんと、それじゃあいいですよ。代わりますけども」「うん、ちょっとねー、オートパイロット(自動操縦)がねー。うん、当るちゅーと危ないから。ハイ、何か欲しいものがあるんだったら、こっちから渡しますから」「ここ外見といってね。見といてね。というのは、厚木とかあるから、他の飛行機もいっぱい飛んでるから。うん、ちょっと危ないから。あと、丹沢の山も、あそこ、見えてきたでしょ」「もうちょっと、本当はもう1000フィート(約300メートル)ぐらい高度を上げたいんですよねー。あそこに山、見えます?薄く雲の中。衝突しちゃったら大変だから」

西沢は目的を達成させるためには機長を殺害し、自ら操縦桿を握るしかないと決意した。

午前11時54分、西沢は副操縦士席から急に腰を浮かし、中腰の姿勢になり、包丁で操縦中の長島機長の右上胸部、右頸部、右耳介部などを3回突き刺した。「あー」という機長の悲鳴が上がって交信は途絶えた。

その後、西沢は副操縦士席に座り、自動操縦装置を解除し、操縦桿を操作したが、機体の反応が感じられなかったことから自動操縦装置が解除されていないものと思った。だが、どうすればいいか分からず、考え込んでいたが、この間に約3180フィート(約970メートル)あった高度を約1940フィート(約590メートル)まで降下させ、機首を水平から最大11度低下させるまで機体を揺らせるなどした。

一方、閉じられたコックピットの前では、追い出された古賀副操縦士や次の乗務地に向かうために1階客席に便乗していた山内純二機長と高木博成副操縦士が、中の様子をうかがっていた。

古賀副操縦士はチーフパーサーに指示して羽田空港の全日空オペレーション・センターにハイジャック発生があったことを電話連絡させた。また、2階前方の乗客を1階に移動させた。

そのとき、突然、機体が右に急旋回し、地表から700フィート(約210メートル)ぐらいの高さまで急降下した。客室内で悲鳴が上がる。コックピットの中から人工音声で「テレイン(地表接近)、テレイン」という地上接近警報装置が鳴り始めた。

地上接近警報装置・・・GPWS(Ground Proximity Warning System) 地上接近警報はパイロットに地表衝突の危険とその原因を知らせるもので、「シンク・レート(降下率)」「テレイン(地表)」「ドント・シンク(降下するな)」等のアラート音声から成り、さらに墜落の可能性が大きくなった場合は、「WHOOP、WHOOP(フゥープ、フゥープ)」という警報音に「プル・アップ(引き起こせ)」という人工音声が続く。

午後0時(正午)、山内機長が全力で右肩からコックピットのドアに体当たりして押し開け、コックピット内に入ると、古賀副操縦士と高木副操縦士が副操縦士席で操縦桿を握っている西沢を引きずり下ろし、羽交い絞めにしてコックピットの外に連れ出した。西沢が通路に倒れ込むと、2階席に残っていた乗客4人が駆け寄ってその上に折り重なり、手足などを乗客のネクタイなどで拘束した。

その間、山内機長は機長席から長島機長を後方の床に移動させ、機長席に座って、操縦桿を操作した。機体を急上昇させて充分な高度を保ち、機体の体勢を立て直した。

機内アナウンスで乗客の中の医師に協力を要請。それに応じた医師が長島機長を診察したが、すでに死亡していた。出血ショック死だった。

午後0時14分ころ、061便が羽田空港に着陸。西沢が東京空港警察署の警察官により逮捕される。

【 犯行に至るまでの過程 】

西沢裕司は人とのコミュニケーションが下手で、協調性に欠けて孤立しやすかったこともあって小学3、4年の頃からいじめにあっていた。それでも理解ある両親の支えで勉学に励み、都内の進学校の私立武蔵中学・高校に進学。1浪して一橋大学商学部に入学した。小さい頃から鉄道マニアだったが、大学在学中に興味は飛行機へと移っていき、飛行機旅行をしたり、航空関係の書籍を読み漁ったりしていた。2年生の11月には1ヶ月も大学をサボり、羽田空港で託送荷物を積み込むアルバイトをしたこともあった。卒業論文は「日本の基幹空港整備の必要性」であった。

西沢はパイロットになりたかったため、在学中に日本航空、全日本空輸、日本エアシステムを受験したが、いずれも不合格になり、第2希望だったJR東日本、JR西日本も叶わなかった。最終的に日本貨物鉄道株式会社(JR貨物)に就職した。だが、本社採用の幹部候補生ではなかったことが西沢にとって「不本意」であったらしい。さらに、内向的な性格から職場での人間関係がうまくいかず、仕事上の失敗も重なって、2年半後に会社を無断欠勤し、そのまま失踪した。

その後、西沢は家族に何の連絡もせず、各地を放浪して歩いた。その間、3回に渡って服薬自殺を図ったが、いずれも失敗した。

やがて西沢は東京都江戸川区の自宅に戻るが、西沢の両親はその後の半年の間に4ヶ所の精神科を受診させた。診断の結果は「緊張型精神分裂病」であったり「うつ病」であったりした。

「精神分裂病」という名称は “schizophrenia”(シゾフレニア)を訳したものだが、2002年(平成14年)の夏から「統合失調症」という名称に変更されている。

1998年(平成10年)5月下旬から、Nは精神科医によってSSRIを処方されていた。「プロザック」(日本で未認可)を13週間、「パキシル」を15週間、「エフェクトール」(セロトニンとノルアドレナリンに作用するSNRI)を9週間、「ルボックス」を2週間、「ランドセン」(抗てんかん薬)を10週間。

SSRI(Selective Serotonin Reuptake Inhibitors )・・・抗うつ薬のことで、「プロザック」「パキシル」「ルボックス」などの商品名がある。うつ病は脳内のセロトニン不足が原因であるという仮説にもとづき、脳内に存在するセロトニンという伝達物質(神経伝達物質)を効果的に使うための薬。『新潮45』(2005年12月号)に掲載された記事「あなたが知らない抗うつ薬の恐怖」(生田哲[作家、薬学博士]が執筆)には、<SSRIを服用しても、うつは改善しない。そればかりか、逆に、うつを悪化させ、自殺や他殺を引き起こすなど重大な副作用がごく希にではなく、かなり頻繁に発生している>と書かれており、その事件の実例として、米国コロラド州のコロンバイン高校で発生した銃乱射事件(↓)と、この全日空061便ハイジャック事件を取り上げている。

コロンバイン高校銃乱射事件・・・1999年4月20日、米国コロラド州デンバー郊外のリトルトン市にあるコロンバイン高校のカフェテリアで同校2年生のエリック・ハリス(18歳)とディラン・クレボールド(17歳)の2人が、突然、ライフルを乱射。これにより、生徒12人と教師1人の計13人が死亡、23人が重傷を負った。犯行後、2人は銃で自殺した。主犯のエリックは事件の1年前の1998年4月から翌1999年3月までの1年に渡って合計10回、医師からSSRIの「ルボックス」を処方されていた。しかもその服用量は事件の3ヶ月前から増加していた。解剖によってエリックの体内から大量の「ルボックス」が見つかっている。このことから「ルボックス」の副作用が事件を発生させた要因と指摘された。もうひとりの犯人のディランについては医学的な記録は公開されていないが、ディランはエリックと一緒にキレやすい少年を対象とした「怒りのマネージメント・クラス」の受講生のひとりであり、受講生はほぼ全員が抗うつ薬を服用させられるのが現状といったことからディランもSSRIを服用していた可能性が極めて高い。この事件で重傷の被害を受けたマーク・テイラーはエリックを凶暴な犯行に駆り立てたのはソルベイ社の製造販売した「ルボックス」というSSRIであるとしてソルベイ社を告訴した。2002年、この告訴でソルベイ社はアメリカでのみ「ルボックス」の販売を止めた。だが、日本ではアステラス製薬から「ルボックス」が販売されており、同じ有効成分の「デプロメール」が明治製薬から販売されている。

関連書籍&DVD・・『コロンバイン銃乱射事件の真実』(河出書房新社/デイヴ・カリン/2010) / 『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(太田出版/ブルックリン・ブラウン&オブ・メリット/2004) / 『その日、学校は戦場だった コロンバイン高校銃撃事件』(インターメディア出版/ミスティ・バーナル/2002) / 『ディスカバリーチャンネル ZERO HOUR コロンバイン高校銃乱射事件』(DVD/2006) / 『ボウリング・フォー・コロンバイン』(DVD/監督・マイケル・ムーア/2003) / 『コロンバインの空に コロンバイン高校事件を乗り越えて』(DVD/監督・アーリス・ハワード/出演・デブラ・ウィンガー&ラリー・オースティンほか/2006) / 『エレファント デラックス版』(DVD/監督・ガス・ヴァン・サント/出演・ジョンロビンソン&アレックス・フロスト他/2004) 『エレファント』はカンヌ国際映画祭でパルムドールと監督賞を受賞した。

9月、西沢は自殺騒ぎを起こしたため、警察署によって精神病院へ措置入院の手続きがとられている。入院の際の診断では「精神分裂病」だった。

西沢は精神科クリニックに通院しながら専門学校に通って簿記2級を取得し、新聞を見ては履歴書を送って採用試験を受け続けたが、結果は不採用だった。

精神科クリニックを退院してからも、航空関係の本や飛行機の模型でいっぱいの自分の部屋でパソコンのフライト・シミュレーション・ゲームをして鬱々とした日々を過ごしていた。

1999年(平成11年)6月上旬ころ、西沢は羽田空港のターミナルビルの図面を見ていて、ハイジャック防止に関わる警備上の致命的な欠陥があることを発見した。

6月13日、西沢は実際の警備状況を確認するために羽田空港に行き、羽田発熊本行きの航空券を購入して、ターミナルビルの出発ロビーと到着ロビーに入り、警備の欠陥を確認した。

その後、西沢はパソコンを使って警告文を作り、すぐに羽田空港を統括する運輸省(現・国土交通省/以下同)東京航空局東京空港事務所(以下「空港事務所」)、日本空港ビルデング株式会社(以下「空港ビル」)、航空会社、警視庁東京空港警察署(以下「空港署」)、新聞社に宛てて実名で手紙や電子メールを送った。その際、空港ビルと空港署に「調査費」として、航空券の払い戻し手数料や交通費など5780円を請求している。

2001年(平成13年)1月6日、中央省庁再編の実施に伴い、運輸省は建設省・国土庁・北海道開発庁を統合して、国土交通省を設置した。

6月14日付けの空港事務所宛ての手紙には次のようなハイジャックするまでの手順が書かれていた。(< >内)

<1階の到着手荷物受取場と2階の出発ロビーを結ぶ階段に警備員が配置されておらず、自由に行き来できることが分かりました。このことはハイジャック犯罪を容易に成立させることとなります。

1、羽田経由で別の地方空港へ向かうチケットを購入し、チェックインの際、乗り継ぎとせず、羽田までの手続きをとる。

2、鋭利な凶器の入った荷物をコンテナ積みの手荷物として託送する。

3、羽田到着の際、手荷物を受け取ることなく、到着ロビーを出て、すぐに次の出発便のチェックイン手続きを行う。

4、出発ロビーに入り、ただちに到着ロビーの手荷物を受取場に戻り、先の便に託した手荷物を受け取る。

5、階段を上って出発ロビーに戻り、近くのトイレに入って軽く変装をする。

6、次の便に搭乗し、手荷物に入れておいた凶器を用いて乗っ取りを行う>

手紙には空港案内図も同封されていて、それには、ここに警備員を配置すれば盲点を解消できることを示す幾つかの赤い印がつけられていた。到着ロビーの「トイレ付近にも警備員を配置」としているのは他人の預託手荷物を盗み、トイレ内でタグをはずせば、到着ロビーの外に持ち出すことも可能であることを指摘するためだった。

羽田空港のターミナルビルに警備上の欠陥があることは、航空関係者の間では周知の事実であった。航空各社の乗員組合などでつくる「航空安全推進連絡会議」は「到着旅客と出発旅客を接触させない施設がハイジャック防止の有効手段」であるとして、1991年(平成3年)から施設の改善を運輸省に要請していたが、運輸省はこれについて何の改善措置もとらなかった。さらに、羽田空港の沖合い展開に伴い、1993年(平成5年)に、問題の旧ターミナルビルを取り壊して現在のターミナルビル(ビッグバード)を建設したが、建て替えという機会があったにもかかわらず、指摘された欠陥は設計上も運用上もまったく改善されなかった。

ターミナルビルの設計上の欠陥は羽田空港特有のものではなく、定期航空会社が就航している全国の66の国内線空港のターミナルビルのうち、52の空港が同様の欠陥をかかえている。

6月17日、警告文を発送してから4日経ったこの日、西沢は自宅で空港ビルの担当者から自分の指摘に対するお礼の電話を受けた。その際、西沢は警備員を増員する場合はその職に就きたいという希望を伝えたが、担当者から他に対策があるから警備員を増員するつもりはないと言われた。

空港署に届いた手紙については差出人が本人の実名であることを確認した上で、西沢の経歴について調査したが、精神科への入院と通院歴があるものの犯罪歴はないため、調査結果を空港事務所に伝えるだけにとどめている。

6月29日、航空局、空港事務所、航空会社5社、空港ビルとで対策会議を開いたが、欠陥を確認しただけで、対策については結論を出せなかった。

7月6日、西沢は空港事務所総務課長から警告文発送に対するお礼の電話を受け、このときも警備員に雇ってほしいと伝えたが、断られている。

7月12日、航空局を除いた空港事務所、航空会社5社、空港ビルとで再び対策会議を開いた。空港ビルは「警備員を配置するだけでも年間1億円を超す費用がかかる」という数字を示し、その費用の負担を航空会社に求めた。これに対し、航空会社が難色を示したため、結局、この会議では、不審な人物を見たら積極的に声をかけるとか、<この先通り抜けできません>といった表示板を設置するという対策を決めただけだった。

7月19日、西沢はその後、連絡がなかったことから、警備員の増員の件で一度断られた空港ビルと空港事務所に電話した。だが、このときも同じように増員の予定はないということで断られている。

西沢は自分の提案を無視され、職に就く可能性もなくなったことに憤り、この際、自ら羽田空港の警備上の欠陥を突いてハイジャックを成功させることによって自分の指摘が正しいことを証明し、容易にハイジャックが実行できることを認識させ、空港ビルデングと空港事務所の担当者の責任を追及させようと考えた。

西沢はハイジャックする飛行機として客席が500席以上ある最新鋭のジャンボジェット機、ボーイング747−400D型機を選んだ。この機は操縦を大幅にコンピューター化した第4世代機で、機長と副操縦士の2人編成で操縦する。西沢はパソコンのフライト・シミュレーション・ゲームで、機長、副操縦士、航空機関士の3人編成で操縦する第3世代機のジャンボジェット機で操縦していたこともあり、そのゲームではレインボーブリッジくぐりをしており、実際のハイジャックでも実行し、最後に横田基地に着陸し、そのとき使った包丁で胸に突き刺して自殺する予定にしていた。

西沢は気象情報を確認して降水確率の低い7月22日に決行する予定で航空券4枚と出刃包丁、予備のペティナイフを購入した。

購入した航空券4枚は、日本航空101便(午前6時45分、羽田発伊丹行き)、日本航空102便(午前8時50分、伊丹発羽田行き)、全日空061便(午前10時55分、羽田発新千歳行き)、全日空851便(羽田発函館行き)だった。

西沢は母親には北海道旅行に出かけると伝えたが、精神状態が不安定な息子の言動を監視していた母親と決行前日に受診した精神科クリニックの医師に反対されたため、こっそり出発することにしたが、出刃包丁、ペティナイフ、粘着テープ、手袋などが入った手提げバッグ入りのショルダーバッグを母親に発見されてしまった。母親は息子が自殺するために用意したのではないかと思い、ショルダーバッグを隠したのだが、これに気づいた西沢は「バッグを出せ」と怒鳴り、母親の顔面を殴りつけた。母親は仕方なく、ショルダーバッグを出すと、西沢はそれをひったくるようにして自宅を出て、JR浜松駅近くのカプセルホテルに偽名でチェックインした。

翌日の7月22日午前3時すぎ、ホテルをチェックアウトしたが、ショルダーバッグの中に出刃包丁がないことに気づき、タクシーで羽田空港に向かう途中のコンビニで安物の果物ナイフを買ったが、これではハイジャックを実行できないと思い、その日の決行は断念した。

西沢は羽田空港に到着したあと、購入してある航空券のうち1枚で搭乗手続きを行い、ターミナルビルに入場して出発ロビーと到着ロビーの警備状況に変化がないことを確認した。また、航空券3枚を23日の同じ便に予約変更し、その際、当初の第一候補だった全日空083便が23日の便では空席があることが分かり、この航空券も購入した。決行を翌23日に決め、JR蒲田駅の金物屋で刃渡り19センチの包丁と刃渡り11.8センチのペティナイフを購入。午後5時ころ、蒲田駅付近のカプセルホテルに偽名でチェックインした。

翌23日午前5時20分ころ、カプセルホテルをチェックアウト。タクシーで羽田空港に向かった。空港に到着すると、包丁とペティナイフの入った手提げバッグをショルダーバッグから取り出し、ショルダーバッグは空港内のゴミ箱に捨てた。

午前6時ころ、日本航空のカウンターで101便の搭乗手続きを行い、包丁などが入っている手提げバッグを預託手荷物として預けた。その後、全日空のカウンターで061便と083便の搭乗手続きを済ませた。以前は搭乗手続きは出発予定時刻の1〜2時間前にならなければ受け付けなかったが、現在は完全にコンピュータ化され、当日便については出発の何時間前であってもできるようになっている。

西沢は午前6時45分発の日本航空101便に乗り込み、大阪伊丹空港に向かった。伊丹空港に到着すると、手荷物受取場で手提げバッグを受け取り、到着口から外に出た。そしてまた、手提げバッグを預託手荷物にして、午前8時50分発の日本航空102便に乗り、羽田空港に向かった。

羽田への帰途で、西沢は飛行中のコックピットを機長の了解のもとで見学した。この帰途の飛行機はハイジャックを予定していた飛行機と同じボーイング747−400D型機で、このときNは自分の知らない計器類の位置などをチェックした。

午前10時7分、日本航空102便は定刻より遅れて羽田空港に到着。羽田空港は搭乗口のある2階と手荷物受取場がある1階ロビーが4つの階段で結ばれている。西沢は飛行機から降りると、階段で到着ロビーへと下り、預託手荷物の手提げバッグを受け取ると、トイレに入って手荷物のタグを取り外し、2階の出発ロビーに上がり、2階のトイレに入り、整髪料で髪型を変えて出て、午前10時45分発の全日空083便の搭乗ゲートに向かったが、すでにゲートは閉まっていて乗り遅れた。そこで、出発時刻が10分遅い午前10時55分発の全日空061便に搭乗した・・・。

【 その後 】

1999年(平成11年)8月2日、運輸省は定期航空11社を集めて再発防止対策会議を開き、次のような事項を決定した。

(1)X線透視検査装置1997年から順次新しいものに取り換えているが、国が管理する26空港の68台については今年度中にも取り換える。

(2)これまで実施していなかった預かり入れ手荷物の検査については、預かる際に危険物が入っていないか質問を徹底し、必要に応じてその場で荷物を開けることにする。

(3)操縦室見学については、従来、離着陸時を除き、機長の判断で許可している会社が多かったが、「飛行中は操縦室を開けない」という原則に立ち返り、社内の手続きを経ていない見学は廃止する。

(4)ハイジャック発生時の対応マニュアルは、会社によって異なる部分もあるが、原則として「操縦室にはできるだけ入れない」「最終的には機長の判断」となっている。今回の事件にからんで「機長の負担が大きすぎるのでは」との声も上がっていることなどから犯罪心理学者や危機管理の専門家らで構成する検討会を設置し、マニュアルの見直しと統一化にも着手する。

その後、運輸省航空局は航空関係者を集めて、ハイジャックされた場合にとるべき措置について検討し、ハイジャック対応マニュアルを改善した。また、ターミナルビルの設計上の欠陥については「逆流」防止のゲートを設けるかガードマンを配置するなどの措置がとられるようになった。

8月13日、西沢裕司はハイジャック防止法(航空機の強取等の処罰に関する法律)違反(ハイジャック致死罪)と殺人および銃刀法違反の罪で起訴された。

ハイジャック防止法は、1970年(昭和45年)3月31日〜4月3日に起きた「よど号」ハイジャック事件を契機として、6月7日に施行されたが、第2条の「ハイジャック致死罪」が適用されたのはこの事件が初めてで、その法定刑は「死刑また無期懲役」となっており、「死刑または無期懲役もしくは3年(現在は2005年1月1日施行の改正刑法により「5年」に改正)以上の懲役」の殺人罪よりも重い。「よど号」ハイジャック事件

ハイジャック防止法

第一条(航空機の強取等) 暴行若しくは脅迫を用い、又はその他の方法により人を抵抗不能の状態に陥れて、航行中の航空機を強取し、又はほしいままにその運航を支配した者は、無期又は七年以上の懲役に処する。
2 前項の未遂罪は、罰する。

第二条(航空機強取等致死) 前条の罪を犯し、よつて人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。

(第三〜五条、省略)

2005年(平成17年)3月23日、東京地裁は西沢裕司に対し、求刑通り無期懲役を言い渡した。裁判では刑事責任能力が争点となり、2度にわたる 精神鑑定が行われた。「事件当時は、抗うつ剤の影響でうつとそうが混ざった状態で善悪の判断能力が著しく減退した心神耗弱の状態だった」とする2度目の鑑定結果は合理的で支持できると判断し、無期懲役の判決を下した。

検察側、被告側双方が期限の4月6日(上訴の猶予期間は判決の翌日から2週間)までに控訴しなかったため、無期懲役が確定した。

2007年(平成19年)12月21日、東京地裁で殺害された長島直之機長の遺族が、国や全日空などを相手に計約2億8000万円の損害賠償を求めた訴訟について和解が成立した。具体的な和解条件は原告、被告とも明らかにしていないが、全日空などが遺族側に和解金を支払うとともに、国などがハイジャックの再発防止策を引き続き講じていくことを誓約したとみられる。

参考文献・・・
『日本航空事故処理担当』(講談社+α新書/山本善明/2001)
『新潮45』(2005年12月号/2007年2月号)
『毎日新聞』(2005年3月23日付/2005年4月7日付/2007年12月21日付)

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