2018.10.18

「初期の教会では人々は聖体を手で受けていました」?
Part 1

ヒトラーはこう言ったそうである。

民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運なことだ。

“Was für ein Glück für die Regierenden, daß die Menschen nicht denken!”

参照

ヒトラーの “宣伝相” ゲッベルスはこう言ったそうである。

もしあなたが大きな嘘をつき、それを十分に頻繁に繰り返せば、人々は最後にはそれを信じるようになるだろう。

“Wenn man eine große Lüge erzählt und sie oft genug wiederholt, dann werden die Leute sie am Ende glauben.”

参照

アルフレート・ポルガーというオーストリアの批評家も──

人々は、彼らにとって全く目新しい真実よりも、百回聞かされた嘘の方を遥かに信じやすい。

“Die Menschen glauben viel leichter eine Lüge, die sie schon hundertmal gehört haben, als eine Wahrheit, die ihnen völlig neu ist.”

同上

(別に、この本そのものを勧めたいわけではないが)

つまり、私はこう言いたいのである。
「初期の教会では人々は御聖体を手で受けていた」などというのも、「根拠」の名に値する根拠なしに、ただ何度も繰り返し言われ、聞かされれば、私たちにとってそれはやがて「本当の事」になってしまうのか? 私たちはそれを「信じて」しまうのか?

私は、もちろん、私たちにおいてそういうことは十分あり得る、十分過ぎるほどあり得ると思う。「繰り返しの効果」ばかりでなく、それを私たちに言い聞かす人たちが「司祭」だったり「学者」だったり、私たちより “物を多く知っている” と思われる人たちであることもあって。

しかし、私は以前、そのように主張する人たちの発言を少しまとめたのである。
手による聖体拝領:「歴史的事実」には警戒しなければならない

そのような主張は、大抵の場合、「根拠」や「典拠」の十分な提示なしに、ほとんどただ「◯◯は◯◯でした」式に、ごく短く結論的に言って済まされる。

しかし、「◯◯は◯◯でした。と云うのは、カクカクシカジカ」というふうに、或る程度(あまり学術的に言われても私たちは困るというのも本当かも知れないが)「根拠」や「典拠」についても言及する、短くとも言及を添える、ということがなければならない。それらについて全く(あるいは、ほとんど全く)言わず、ただいつも「◯◯は◯◯でした」式で済ますならば、非常にどうかしている。神父様方は「一般信徒は根拠や典拠を気にしない」とでも思っているのか?

上で言った「まとめ記事」に、二、三追加しよう。

◎ “典礼学者” ピエール・ジュネル神父の言葉

第二バチカン公会議後、信者はようやく、かつてのように群れをなして祭壇に進み、キリストのとうといからだをいただくために手を差し出し、(…)拝領できるようになりました。

参照

彼は涼しい顔してこんなことを言うのである。やはり根拠や典拠の提示はない。(訳者のシスター菊地はこれを信じたのか?)

また最近も、「聖母奉献のアーカイブ」さんの記事で──

◎ 教皇儀典室の言葉

聖体授与の最古の慣わしは、おそらく、信徒の手のひらに聖体を授けるというものでした。

バチカン教皇儀典室:「跪いての舌での聖体拝領」を主張する文書 | 聖母奉献のアーカイブ

教皇儀典室のその文章は全体的また最終的には「跪いて舌で受ける拝領」を推奨しているような恰好になっているが、とにかく冒頭ではそう言っている。教皇儀典室は、「もちろん」だの「当然」だのと、さも見て来たようなことを平然と言う人たちとは違い、「おそらく」と言っている(英文では「with all probability」)。しかしそれでも、「おそらく」付きであろうと、教皇儀典室はそう言うのである。──しかし、「根拠」は?

◎ サラ枢機卿様の言葉を伝えた The Tablet 誌の記者の言葉

手による聖体拝領は初期のキリスト教徒によって行われました。

サラ枢機卿「手による聖体拝領は教会に対する『悪魔的攻撃』の一つ」(英The Tablet誌より)| 聖母奉献のアーカイブ

注)これはサラ枢機卿様の言葉ではなく、あくまで「記者」の言葉。

──しかし、「根拠」は?

ひとこと言っておけば、これらの言葉に関し「聖母奉献のアーカイブ」さんには責任がない。「聖母奉献のアーカイブ」さんはこれらの記事を紹介しているだけだから。
それどころか、「聖母奉献のアーカイブ」さんは御自身としては、教皇儀典室の言葉にもかかわらず、「最古の儀式でも舌での拝領だったのではないか」と書いておられる。これに対して人はこう言うかも知れない。「教皇儀典室と云えば、典礼の歴史に関して世界で一番資料を持っている所かも知れない。それに対してそんなことを言うのか、一般信徒の分際で」。しかし私たちは、偉い肩書きを持った神父様方が案外頼りないものであることを、そんな事例を、既に多く知っているのではないか? 聖座で働く神父様方だけは例外か? 彼らはそんなにしっかり者か? そうだったらよいのに。

とにかく、「司祭」が、「典礼学者」が、そして「聖座」までがそんなことを言うならば、あなた(カトリック信者の大部分)もついそれを「信じる」方向へ行ってしまうのではないか? 「これほど多くの神父様方が言っているのだから、そうなのではないか、そうなのだろう、そうに違いない」というふうに。

しかし、あなたも自身一人の「真理・真実の追求者」であるならば(違うのか?)、「根拠」とか「典拠」とかいうものをもう少し気にした方がいいのではないか?

あなたはこれまで、「司祭」の口からであれ、「典礼学者」の口からであれ、そして「聖座」の口からであれ、「初期の教会では人々は聖体を手で受けていた」と主張された時、その「根拠」を、また「典拠」を、その「具体的」なものを、彼らの口からどれほど聞いたことがあるか?
不思議なことに、ほとんど聞いたことがないのではないか?
私はほとんど聞いたことがない。

しかし、「ほとんど聞いたことがない」ということは「少しは聞いたことがある。それらしきものを」ということを意味する。後で少し見よう。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

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