2018.07.20

良い着眼だと思わせて頂きました

「聖母奉献のアーカイブ」という信徒さんのブログ(当サイトとは特に関係なし)の次の二つの記事をご覧ください。

で、今ここで言いたいのは、そのブログ筆者さんの次の着眼は良いな、ということです。

バチカン教皇儀典室:「跪いての舌での聖体拝領」を主張する文書 | 聖母奉献のアーカイブ

サイト管理人による備考

(3) 前回の記事でも引用したような、初代教会に関する私的啓示を参照すると、最古の儀式でも舌での拝領だったのではないかと考えられます。なぜなら、尊者アグレダのマリア(1602-1665)や福者アンナ・エンメリック (1774-1824)の啓示内容には「手の上に聖体を授かっていた」という言及がないからです。彼女たちがこの世に生きていた時代においては、舌での聖体拝領が通例であり、もし手による聖体拝領の様子を彼女たちが幻視したのであれば、異例の所作として特別に言及すると思われます。

人間は、何かを書き記すときに当然のことだと認識している物事をことさらに描写しようとは思わないものです(例えば、或る人が食事している様子をルポルタージュする場合、「鉛筆を持つように箸を右手で持って…」のような箸の使い方の通常動作の描写を省くように)。彼女たちも、幻視した「通例の」舌での聖体拝領の所作を特別に言及しようとは思わなかったのではないでしょうか。

もちろん、私的啓示は信ずるべき教義ではありませんが…。

確かに、彼女らがその幻視の中で聖母や使徒たちが御聖体を手で受けているのを見れば、「私は彼らが御聖体を手で受けているのを見た!」* とでも叫んでいたことでしょうからね。そういう意味では、彼女らが書いたものの中に「最古の儀式で御聖体拝領はどのように行なわれていたか」は “書かれていない” のではなく “書かれている” と言えるでしょう。

* 「私は … 見た(I saw … )」はエンメリックに特有の言い回し。参照参照

付録

「聖母奉献のアーカイブ」さんが引用しておられる彼女らの幻視の部分をここにも置いておきます。英文も付記します。強調は私。

まずはアグレダのマリア。

ミサの終わり近く、聖体拝領台に近づくにあたり、三度も恭しく跪き、愛に燃え、秘跡の中の御子を拝領し、心から歓迎されます。拝領後、引きこもり、大事な用事のない限り、三時間一人きりでおられます。この時間、聖ヨハネは聖母から光が太陽光線のように照射しているのを見ることがしばしばありました。

『神の都市』p.327(第八書、第四章) PDF

At the end of Mass the heavenly Mother approached, making three most profound genuflections; all inflamed with love She received her Son in the Sacrament, welcoming in her purest bosom and heart that same God, to whom She had given the most sacred humanity in her virginal womb. Having communicated, She retired, and, unless some very urgent need of her fellowmen demanded otherwise, remained alone for three hours. During these hours the Evangelist was often privileged to see rays of light darting forth from Her as from the sun.

Book 8, Chapter 4 参照参照

日本語の訳者の甲斐先生は、上に見るように、「跪き」としておられます。しかし、英訳版では「genuflection」となっています。それは「片膝をつく」ことを意味します。しかし、では、聖母は拝領の地点に到達するまで「深く三度も片膝をついた」が、拝領の地点では立ち上り、現在の私たちのように「立って拝領」したのでしょうか? 否。

そして、エンメリック。

真夜中後、聖母は跪いてペトロの手から聖体を拝領された。

『キリストのご受難を幻に見て』光明社、p.267

When midnight had sounded, the Blessed Virgin, kneeling, received the Blessed Sacrament from Peter.

参照

音楽ききますか。

ちょっと悲し過ぎるか・・・

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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