2018.06.21

海外では聖体拝領台を回復したところが複数

わがPCの中に、昔訳してアップしないでいた記事を見つけた。
もったいないので(?)ここにアップする。

* *[始]* *

聖体拝領台と跪きの防衛』などでは、私は「Altar Rail」を「聖体拝領台」と訳した。まあ、それでも構わないかも知れないが、しかし、ここで一応、二つのものを分けておこうと思う。(古い信者さんなら分かっていることだが)
すちわち、下の左右は、まあ、違うと言えば違うのである。

Altar Rail
or
Communion Rail

ペローヌ神父様の教会での初聖体

ペローヌ神父様が司牧する教会での初聖体参照

Kneeler
(跪き台)

ケラー司教様の指示に従ってカテドラルに設置された跪き台

跪いて舌で受ける御聖体拝領を回復したが、Altar Rail はまだ取り戻しておらず、Kneeler を使っている教会参照

他の画像 Altar Rail Kneeler

しかし、今回も「Altar Rail」を、やっぱり「聖体拝領台」と訳すことにする。「祭壇レール」などと訳したのでは、一見何のことか分からないから。
2014年の記事。動画は私による付加。

liturgy guy

聖体拝領台と畏敬の念

Altar Rails and Reverence

2014年6月22日

Jun 22

by ブライアン・ウィリアムズ

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聖体拝領台がカムバックしつつある。そして、それと共に畏敬の念(reverence)も戻りつつある。最近では、典礼改革と教会建築の不可欠な要素として聖体拝領台が設置されることがより一般的になって来ている。ノースカロライナ州のシャーロットやウィスコンシン州のマディソンと云った複数の司教区に聖体拝領台が戻って来ている。

先ずはっきりさせておくと、第二バチカン公会議に引き続く時期に、聖体拝領台(Altar Rail 又は Communion Rail)を撤去することが不可欠の要件としてあったわけではない。しかし、教会の中に、伝統的で神聖なものを積極的に取り除こうとした人たちが多く居た。高祭壇や美しいカトリックの彫像は姿を消して行った。そして、もちろん聖体拝領台も。

平等主義的な観点から典礼に加えられた誤った試みが、公会議後の風景を支配した。それは聖域と身廊(ネーブ)を明確に区別することに異を唱えるものだった。反聖職者主義者たちの大声が勢力を伸ばし、それと共にカトリックの新しいタイプの礼拝の仕方、エキュメニカルな目的のために意図的にデザインされた礼拝の仕方が勢力を伸ばした。

聖体拝領台は、ただそこに在るだけで、多くの人が望んだ神聖冒涜(profane)に向かう行進のために邪魔なものだった管理人注1。特別聖体奉仕者、そして特に「手による聖体拝領」と云った典礼の革新を推し進める上に於いて、聖体拝領台はモダニストたちにとって非常に目障りなものだった。新しい民主的な典礼にとって、跪くことはただ時代遅れの不愉快なものになった。

ラッツィンガー枢機卿は、彼の注目すべき著作『典礼の精神』の中で、「信じることを学んだ者は、ひざまずくことも学びます。そして、もはやひざまずくことを知らないような信仰、あるいは典礼は、その核心において病んでいるのでしょう」と書いている。しかし近年、ゆっくりとではあるが着実に、典礼の中で癒しが起こっている。

ダンカン・ストロイクデニス・マクナマラといった教会のデザイナー、建築家、また歴史家たちが、この取り組みに参加している。マンデレイン〔イリノイ州〕の University of Saint Mary of the Lake の教授であるマクナマラは、2011年7月の National Catholic Register とのインタビューで、聖体拝領台の神学的意義についてこう語った:

(聖体拝領台は)今も天国と地上が出会う場所の標識であり、天国と地上がまだ完全には一つになっていないことを表示するものです。... しかし同時に、聖体拝領台は低く、視界を妨げるものでは全くなく、そして出入口を持っています。だから、それは私たちが天国に参加することを妨げるものではありません。それで、これを「聖体拝領台の神学」と呼ぶことができるかも知れませんが、聖体拝領台はフェンスのようなものであるよりもむしろ、そこで天国と地上が出会い、司祭がキリストの位格となってin persona Christi神的生命を与える恩寵としての御聖体を与えるために天国から地上へ降り来たるという、そのような場所を示す標識なのです。

聖体拝領台は、ミサ聖祭に於いて、聖なるものの修復と畏敬の念の回復に貢献している。私の所属教会であるノースカロライナ州シャーロットの聖アンナ教会では、2009年の改修工事の際に、聖体拝領台が回復された。毎週捧げられる伝統的ラテン・ミサのために設置されたのである。時間が経つにつれ、聖体拝領台は、通常形式のミサと特別形式のミサの別を問わず、全てのミサで使用されるようになった。

聖アンナ教会の変容

YouTube

聖体拝領台はまた、ノースカロライナ州ソールズベリーイエズスの聖心教会(これもシャーロット司教区だが)にも戻って来た。この新しい教会は2009年に完成されたが、伝統的ラテン・ミサを毎日曜に捧げることになった昨年〔2013年〕まで、聖体拝領台は導入されなかった。

もっと最近では、ウィスコンシン州パインブラフ聖マリア教会の物語がある。主任司祭リチャード・ハイルマン神父が匿名の寄付者から2万ドルを得て、今年の初めに聖体拝領台を導入した。全体としては、聖体拝領台の回復は彼の教会員たちから好意的に受け容れられている。ハイルマン神父はそれ以前から東向性の〔ad orientem、背面式の〕ミサを捧げており、また聖体拝領者のために跪き台(kneelers)を使っていたので、聖体拝領台(altar rail)の導入は完全に目的に適ったものだった。更に重要なことには、同神父はそれ以来、御聖体に対する畏敬の念が増大しつつあるのを目撃している。シャーロットの聖アンナ教会とまったく同じで、彼の教会でも、その教区民たちは御聖体を舌で受けることを選んでいる。

この記事を締めくくるために、私たちの名誉教皇ベネディクト16世がまだラッツィンガー枢機卿・教理省長官だった時にお述べになった言葉を引くことがピッタリだろう。彼はこう書いている。「跪いての聖体拝領は何世紀にもわたる伝統を持っており、崇敬の極めて表現豊かなしるしであり、聖変化されたパンと葡萄酒の外観の内に於ける我らの主イエズス・キリストの真の、現実の、実体的な現存に完全に適合したものです」

より多くのカトリック信者が祝福され、自分の教会に聖体拝領台が戻って来ることを経験するよう、また御聖体を跪いて拝領するよう、祈ってください。

(冒頭の写真は、ノースカロライナ州ソールズベリーのイエズスの聖心カトリック教会の聖域と聖体拝領台)

[管理人注1] 「多くの人が望んだ神聖冒涜」という “言い方” には難があると思う。まあ、教会内フリーメイソンは別として、「多くの人」は、自覚的に「神聖冒涜を望んだ」わけではない。そうとは分からずに、つまり無自覚に、そして「結果的」に、それを望んだ恰好になった(なっている)というだけである。
本当は「だけ」とは言えず、天国の悲しむところであるが。

* *[終]* *

実際、Google で「altar communion rail return」とか「altar communion rail restore」と打って検索すると、今回のこの記事ばかりでなく、かなりの数の記事がヒットする。

しかし、日本では・・・と続けたいところだが、私はそういうことはこれまでさんざ書いて来たのであり、これ以上書くと愚痴になるから、グッとこらえてこれで終わりとする。

「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌

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