前々々回に ④ として示したもの、すなわちフェララ氏の. . . やや「感情的」な感じの文章を訳しておく。
画像と〔 〕は私による付加。
文中の「フランシス」はフランシスコ教皇様のことである。
Fatima Perspectives / Catholic Family News
Helder Câmara, "Servant of God"?
Have They Gone Mad?
by クリストファー・A・フェララ
by Christopher A. Ferrara
2015年5月21日
人は、フランシスの統治下で教会は今、その人間的側面に於いて、ラテンアメリカ式の扇動性に満ちた、貧しい人々を賞め上げ、彼らを常に貪欲な富裕層の無実の犠牲者として描くバナナ共和国のようなものになりつつある、という印象を持っている。私たちの主は「霊において(in spirit)貧しい人は幸いである。天の国はその人のものだからである」(マタイ 5:3)とおおせられたのだったが[管理人注1]、この祝福のフランシス・バージョンは「貧しい人は幸いである」というものであって、これは明らかに、ただ貧困でありさえすれば祝福される、というものである。フランシスは更に、貧しい人々は、彼らが教会に入って来た時に私たちが彼らの前に文字通り跪くべき崇敬の対象とされるべきである〔リンク切れ〕、と提案するところにまで来ている[管理人注2]。そのような言い方は冒涜的だが、しかしほとんど馬鹿馬鹿しいほどのものである。
しかし、そのようなものは、フランシスが抜け出せなくなっているように思われる70年代から続くラテンアメリカの自由主義的なイエズス会の神学である。それは、感情に囚われ、富裕層に対する反感を煽り、福音の真の教えに対する忠実さが足りない神学である。そして、教皇の擁護者たちが擁護できないものを絶え間なく擁護しようとして何を言おうと、そのようなものは、ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世が正しくも断罪した、マルクス主義革命の目的に向けて教会を利用しようとする「解放の神学」と全く似たようなものである。
私のこの主張を極端のように思うだろうか? 〔しかし〕そう思う人は誰でも、なぜ教皇フランシスは今から三十年前にヨハネ・パウロ2世によって聖職停止された「解放の神学」の神学者ミゲル・デスコト・ブロックマン神父〔メリノール会司祭、1933-2017〕を復帰させたか、その理由を説明しなければならない。この強烈な破壊的マルクス主義者は、レーニン平和賞を受賞した人物であり、共産主義者たちが潜り込んでいる世界教会協議会の職員だった人物であり、ニカラグアのマルクス主義を信奉するサンディニスタ〔民族解放戦線〕が政権を取った時に外相を務めた人物である。そしてまた、2008年から2009年にかけて国連総会の議長を務め、その地位から「私たちは皆、地球の息子であり娘であって、それ〔地球〕に属しているのです」と宣言し、「母なる地球をもっと尊敬し、全ての人に対してもっと包容的になり、最も貧しい人々ともっと連帯する、もっと霊的で、宇宙の素晴らしさに満腔の敬意を捧げる非常に幸福な」「地球市民」である必要を呼びかけた人物である。
護教の盾・管理人による挿入
ブロックマン神父とフィデル・カストロ
スペイン語の記事に掲載された写真。私(護教の盾・管理人)はスペイン語は分からないし、写真にキャプションはないが、この二人がその両人であることは、画像のファイル名が「miguel-d-escoto-con-fidel-castro.jpg」であることから間違いない。
フランシスによって司祭職に復帰させられた直後、この悔い改めることを知らないマルクス主義熱中者は次のように宣言した。
たとえバチカンが全ての人を黙らせても、神が石に語らせるかも知れません。石が彼のメッセージを広めるかも知れません。しかし、神はそうはなさらず、歴史上最も偉大なラテンアメリカ人、フィデル・カストロを選ばれました。(…)聖霊はフィデル・カストロを通して私たちにメッセージを送っているのです。この地球に神の王国をしっかりと不可逆的に確立するために闘わねばならないというイエスのこのメッセージ(…)
これが解放の神学の異端の本質である。聖霊は共産主義の独裁者を通して地球に神の王国を確立するために働く、というのである。〔しかし〕実際の結果は、革命家たちが富裕層(しかし彼らの革命に資金調達した国際的な銀行家ではなく、地元の富裕層のみ)の全財産を自分たちのために巻き上げた後、彼らが解放したと主張する非常に貧しい人々の裏側で彼らが贅沢な生活を送れるようになったという、貧しい人々を名目にした暴力革命だったということである。
ヨハネ・パウロ2世とベネディクト16世の両方が、解放の神学をカトリック信仰と全く相容れないものとして扱ったのも不思議ではない。しかし今、リベラルな「カトリック」メディアは「解放の神学は教皇フランシスのもとで成熟期を迎えつつある」と喜んで報告している。暴力的な革命によらずに社会主義の核心を推進することによって解放の神学を「浄めよう(baptize)」とする試みは、アントニオ・ソッチがいみじくも「ベルゴリアニズム」と呼んだものが含む一つの重要な要素のようである。たとえフランシスが自身公然とそれを支持することは慎重に避けているとしても、彼の行動が彼について語っている。
そして、それらの行動は、それほど大きな声では自己表明しないかも知れない。〔しかし〕つい先日、全く信じられないことに、他でもない、教会の現代史における最悪のマルクス主義者にしてモダニストの破壊者の一人であるエルデル・カマラ大司教の列福のためのプロセスが始まった。カマラは解放の神学の紛れもないアイコンであっただけでなく、『フマネ・ヴィテ』に対する反対者、女性の司祭叙階とカトリック教徒の離婚〔の擁護〕の提唱者、そして或る時期には、フルシチョフのロシア、毛沢東の共産主義中国、そしてカストロの共産主義を声を挙げて支持した、正しくも「赤い大司教」という称号を獲得した人物である。そして、それ以前の1930年代には、プロ・ナチの活動家だった人物である!
それらの事は、カマラが列聖省によって「神の僕」と(5月3日に)宣言された[管理人注3]こととは全くもって相容れないことである。それは、この露骨な異端者の「列福」のための地元におけるプロセスの公式な始まりに「青信号」〔「進め」の信号〕を与えた。これはフランシスの承認がなければ有り得なかったことである。そして、この馬鹿げた「列福」への踏み出しの基礎は何か? カマラの、言われているところの、貧しい人々に対する愛と保護、である。しかし、共産主義独裁政権の支持者として、彼は実際には、常に共産主義の最初の犠牲者であるところの貧しい人々の敵だったのである。
そして、Rorate Caeli のブログ 以上に、この〔列聖省による〕承認に対する怒りを簡潔に表明したものはない:「エルデル・カマラ: 教会の内部から教会に反して働いた生涯──それでも彼らは彼を列福したいのか?」。そう、彼らはそうしたいのである、彼らは本当にそうしたいのである。しかし、もしカマラが「列福」されることがあるならば、私たちはその時、こう結論するほかはない。すなわち、現在の状況下では、列福へのプロセスなるものは、決して不可謬的に始められるのではなく、致命的に妥協的なものになっているのであり、全くもってバチカンと高位階に巣食う、フランシス自身によって教会に解き放たれたイデオロギー信奉者たちによって支配されているのである、と。[管理人注4]
今月初めにローマで開かれたプロ・ライフ会議で最初にスピーチ〔動画〕したリヌス・クロヴィス(Linus Clovis)神父は、「フランシス効果」とでも言うべき増大しつつある災害について率直に語った。その中で彼は、答えが自明である時によく言われる言い方を口にした:「教皇はカトリック教徒?」。しかし今、クロヴィス神父はこう言う:「その問いは今や馬鹿馬鹿しいものではありません」。
そう、馬鹿馬鹿しいものではない。私たちが教会の歴史の中で最悪の危機である最も深い溝の中に陥っていることは明白である。ファチマの聖母、われらのために祈り給え!
[管理人注1] フランシスコ会訳聖書(の旧版)も、こう注釈している。
(3)「自分の貧しさを知る人」は、一般には「心の貧しい人」と訳されているが、直訳では「霊において貧しい人」。(…)
(戻る)
[管理人注2] リンク切れになっている記事はバチカン放送局の英語版の記事である。復元サイトで見ることができる。
Pope: Christians should kneel before the poor - Vatican Radio
なぜ「リンク切れ」になっているかと云うと──別に、教皇様のその発言が批判されたのを見て「マズイ」と思い、削除した、というわけではないようだ。と云うのは、バチカン放送局はバチカンの公式サイトとは違い、少し時間が経ち古くなった記事は順次削除していくようだからだ。世俗のニュースサイトがそうであるように。
(復元サイトはその記事に関して「17 captures, 1 May 2015 - 8 Aug 2017」と表示している。これで見る限り、バチカン放送局自身による記事の保存期間、表示期間は、二年ほどのようだ)
[管理人注3] フェララ氏のこの言い方を見て、人は、「いや、列聖省はカマラ大司教のことを最終的に『神の僕』と宣言したわけではないだろう。列福に向けた調査にゴーサインを出しただけだろう」と思うかも知れない。私もそう思う。しかし、物事が最終的に決まらぬうちから誰かのことを列聖省が「神の僕」と呼ぶのはどうだろうと私は思う。
Abp. Fernando Antônio Saburido
菊地大司教様がリツイートしていたアメリカの記事によれば、「カマラ大司教の列福のための調査を求める正式な要請は、2014年5月、ブラジル司教協議会の全会一致のもと、オリンダ及びレシフェの現在の大司教アントニオ・フェルナンド・サブリードからバチカンに提出された」。サブリード大司教はその後、「Nihil Obstat〔承認状〕はまだ出ませんか」的な問い合わせを列聖省にしたらしい。列聖省はそれに答えて、2015年2月16日付の返書の中で、つまりフェララ氏の言う2015年5月3日の文書の前に、既にカマラ大司教のことを「神の僕(Servo de Deus)」と呼んでいる。オリンダ及びレシフェ大司教区の公式サイトが、列聖省からのその返書のスキャン画像をアップしている。
要請側が「神の僕、誰々」という言い方をして来たなら、それに合わせてこちらも「神の僕、誰々」という言い方でもって返すのが「慣例的礼儀」あるいは「優しさ」だとでもいうのか? しかし、それは良いことではないだろう。物事が最終的に決まってないうちから。(戻る)
[管理人注4] 「列福・列聖」に対する現代のバチカンの感覚が必ずしも当てになるものでないことを感じさせる幾つかの(or 幾つもの)事象がある。一つ挙げれば、私は以前、或る銀行家が主の冒涜的に曲げられた磔刑像と共に「列福」されるのを見て(参照)、決定的に疑い出した。(戻る)
教皇様は「私たちは貧しい家族の前に跪くべきである」
という言い方を2015年に少なくとも二回なさったようだ
(2015年4月28日と2015年6月3日)
そのうちの一回は、フェララ氏が取り上げた、今はリンク切れになっているバチカン放送局の記事の時。それは “いつ” のことかと云うと──
その記事は表示に従えば「28/04/2015 17:00」にアップされている。曜日検索で調べれば、その日は火曜日である。そしてその記事は「教皇フランシスは(…)と火曜日に述べました」と書いてある。だから、教皇様がこのお話をなさったのは、その記事がアップされたのと同じ「2015年4月28日」のことだろう。(バチカン放送局は、常にではないが、即日に報道することも多いだろう)
そしてもう一回は、この動画の時。
その動画は「2015/06/03 に公開」となっている。
では、この動画も「即日」のものだろうか?
教皇様はこの発言を「2015年6月3日」になさったか?
そのようである。と云うのは、この時のお話はバチカンの公式サイトにも載っていて、こうなっているからである。
「教皇フランシス、一般謁見、2015年6月3日水曜日」
この記事の中に上の動画と同じ「we should kneel down before these families」という言葉がある。記事と動画は一致している。
だから、教皇様は少なくとも「2015年4月28日」と「2015年6月3日」の二回、同様の言い方をなさったということだろう。
veneration?
フェララ氏が言うように、バチカン放送局の記事には「veneration」という言葉が入っている。
How I wish, he said, that Christians could kneel in veneration when a poor person enters the church.
「veneration」という言葉は、「尊敬」というよりも「崇敬」というニュアンスが、おそらく圧倒的に強いだろう。だから、上の文は「貧しい人が教会に入って来た時、クリスチャンたちが崇敬をこめて跪くことができればと、私はどれほど願っていることでしょう──と彼は言った」という感じになるだろう。
私は、「veneration」という言葉が入った上の言葉は本当に教皇様の言葉か? と疑う。その記事は、教皇様が言ったとされる言葉を「 “ ” 」で囲む直接話法の表記をしてない。ひょっとしたら、バチカン放送局の記者が勝手な「付け足し」をしたのかも知れない(と思いたい)。
しかし、「崇敬」はもちろん「跪き」も、神のために取っておかなければならない。*
* 昔の信者は司教の前にも跪いた。今でも叙階式の時はそうかも知れない。しかしそれは、司教の「人」に跪くのではなく司教の「権威」に、十二使徒の後継者としての司教が神から与えられた「権威」に跪くということであって、私はあっていいことだと思う。
しかし、とにかく、あの信徒さんが言ったように、今の教皇様の御発言には危うさが漂う。
「なぜ教皇フランシスコは信者に嫌われるのか」と
「なぜ教皇フランシスコはフリーメイソンから好かれるのか」
日本の注目すべきカトリック・サイト「カトリック的。」さん(当サイトとは無関係)は「なぜ教皇フランシスコは信者に嫌われるのか」という記事を書いておられるが、「OnePeterFive」という海外の(おそらくアメリカの)護教的なカトリック・サイトは「なぜフリーメイソンは教皇フランシスコのことが好きなのか」という記事を書いている。 Part 1 Part 2 Part 3
私は、フランシスコ教皇様はそれでも、その御主観では善意なのだろうと──つまり、前に言ったような「真面目だがイノセント」「真面目だがナイーブ」の一人の代表なのだろうと思うけれども。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標 -