日本の或る大司教様は、自分の教区の或る信者たちが「社会は同性婚を認めるべきだ」と主張する公然活動をしていても、自分は一切何もするつもりがないことを露わにした
或る大司教様の「宗教」は、一言で言えば「人間に対する優しさ」であるだろう。もちろん「人間に対する優しさ」それ自体はいい。しかし、物事は「それ自体」ではない。それでは済まない。
彼の場合、それは「人間に対する優しさ」でしかない。ほとんど未信者の「ヒューマニズム」と変わりがない。
私は或る信徒から証言を得た。その証言の信頼性は私が保証する。その信徒は、カトリックでありながら LGBT を完全肯定する二人の代表(信徒)によって運営される或るグループについて、その大司教様に書簡を書き送った。しかし、残念ながら(いつものことのようだが)返事をもらえなかったので、その後、その大司教様に直接接触できた機会に直接質問した。その時の様子は次のようなものであった。2017年5月のことである。〔 〕は私による付加。
信 徒 |
もう一度確認しますけど、結局、今、◯◯教区〔大司教様の教区〕の「LGBT ◯◯」のミサというものについては、大司教様は特に何かされることはないということですか? |
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大司教 |
ええ、あまり関わりないですわ。あれはまぁ、勝手にというか、自由にやってるわけでね、やってるらしいけど、あれは別に公的なものではないです。 |
信 徒 |
ただ、あれはですね、◯◯教区〔大司教様の教区〕の神父様も関わっているんですけれど。 |
大司教 |
関わっているようですね。あまり一人一人の行動を拘束、詮索しない・・・ |
信 徒 |
いや「詮索」ではなく、ちゃんと載っているんですよ。 |
大司教 |
載っててもいいじゃないか! あんたは・・・ |
信 徒 |
いや「自由」と言いましても、一応・・・ |
大司教 |
そのこと自体悪くないんだから、ミサは。 |
信 徒 |
いやいや、ミサでなくてですね、その人たちの考えが・・・ |
大司教 |
考えは、色んな人たちが色んな考えを持つの。 |
信 徒 |
いや、そうじゃなくて、思想だけならともかく、それを行動に移されちゃ困るんですけれど・・・ |
大司教 |
行動? |
信 徒 |
つまり、同性婚なら「同性婚賛成」とかいうふうにやられたらマズイんですが・・・ |
大司教 |
賛成は賛成でしょうがない。 |
信 徒 |
いやいや、どうして。だってカトリックですよ。 |
大司教 |
あんたね、カトリックだろうと何だろうと、もっと間違ったことを言って、間違ったことをしてる人が世界中ゴマンといるじゃないすか。人を殺しているのもいるしさ。 |
信 徒 |
いや、まさか私もそういうことを言っているのではなくて、そりゃ人を殺すことは悪いことと決まってますよ。ただ、同性婚の問題、これもマズイわけでして。 |
大司教 |
あんた、なんでそんなムキになるの? |
信 徒 |
いやいや、何回も訊いているんですけど、大司教様はまともな答えを下さらないんですよ。 |
大司教 |
答えるに値しないの。 |
信 徒 |
それは「重要な問題ではない」ということですか? |
大司教 |
同性婚には反対しろっていう意見・・もちろん、同性婚・・賛成するわけないでしょ・・同性・・あれは同性婚の運動なの? 僕はそうは思わなかったけど。 |
信 徒 |
いやいや、カトリック新聞のサイトにも、あの・・・会のページがありまして、それに載ってるんですよ。 |
大司教 |
あったっていいじゃない、あったっていいじゃない。 |
信 徒 |
だから、その中でそういう主張がされているんですよ。 |
大司教 |
主張する人は主張してもいいのよ。 |
信 徒 |
いや、それ、だからマズイじゃないですか。 |
大司教 |
人の思想を弾圧しないんだ、私は。 |
信 徒 |
ああ・・・そうですか・・・ |
大司教 |
はい、そういう、もう切・・・間違っていても、その思想の持ち主を弾圧はしない。 |
信 徒 |
いや「弾圧」って言いますけれど、これは一応、「そうだ」というふうに指導する必要があるのではありませんか? |
大司教 |
じゃ、教皇様はどうなの、教皇様のことはどう思うの、あなたは。 |
信 徒 |
正直申しますとね、あの、教皇様の発言はちょっと人々を混乱させるようなところがあるんじゃないかと思っておりまして、だから、ちょっと私としては心配ではありますね。・・では、すみません、どうも。 |
大司教 |
では、心配してあげなさい、私のことも心配して下さい、はい、はい・・・ |
信 徒 |
どうも、ありがとうございます。 |
大司教 |
でも、あなたの立派な手紙、字も立派でさ。あなたなんですね、あの手紙のぬしは。何回か頂きましたよね。 |
信 徒 |
ええ。実は私の個人の経験ですけど、日本の司教様よりも外国の高位聖職者の方たちがよく返事を下さいます。日本の方からはあんまり信者のことを大事に思ってないんじゃないかとすら思いますね。申し訳ないですけれど。 |
大司教 |
・・・ |
信 徒 |
じゃ、すみません、失礼します。 |
もう一度言うが、これは「教理」も何も関係なくなった、未信者が持つのと変わらない「ヒューマニズム」の世界である。
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もう少し丁寧に見てみよう。
その大司教様はまず、その信徒から書簡でそのグループのウェブサイトの主張(「同性婚賛成」等)について知らされた。ところが彼は、それに促されてそのサイトを見ても、そのサイトがそのような主張をしていることが「わからなかった」ようである。
「あれは同性婚の運動なの? 僕はそうは思わなかったけど」
それはおそらく、一つには、彼があまり乗り気でなくそのサイトを見たからであり、もう一つには、そのサイトが「言葉の曖昧さ」を持って(用いて)いたからだろう。
さて、確かに、そのグループがそのような主張をしていることを「わからなかった」なら仕方がない。つまり「わからなかった」その時点では仕方がない。しかし、ここではそうは行かない。何故なら、大司教様はこの時、その信徒から、そのグループが確かにそのような主張をしていることについて念を押されたからである。
「会のページがありまして、それに載ってるんですよ」
それでいて、彼の返答はこうであった──「(そのような主張が)あったっていいじゃない、あったっていいじゃない」
そのように彼は、自分の管轄区のそのようなグループがウェブサイトでそのような主張をしていても、自分は一切何もするつもりがないことを、一人の信徒の前で露わにした。
彼にとっては「人の自由」「思想の自由」が “神” のようである。人はこのような場合「指導」という言葉を自然に思うものだし、イエズス様も「いさめる」(聖マタイ 18:15)、「戒める」(聖ルカ 17:3)という言葉を出しておられるが、彼にとってはそのようなことはただ「詮索」「拘束」「弾圧」を意味するようである。
信徒の口から「指導」という言葉が出ると、彼は「じゃ、教皇様はどうなの」と返した。信徒はそれに答えたが、彼の言葉は続かなかった。(じゃ、なんでそんなことを訊いたのか)
しかし彼は「人間関係」はよくしておきたかった。彼は最後に信徒を誉めた──「でも、あなたの立派な手紙、字も立派でさ」。
この最後の関係修復の試みの中で、彼は相手のことを「あなた」と呼んだ。しかし、それまでの会話の中では「あんた」と呼んでいたのである(上に見るだけで三回)。彼は信徒に「あんた、なんでそんなムキになるの?」と言った。しかし、彼自身が感情的になっていたのである、「あんた」などと呼ぶのだから。感心できる態度ではない。
大司教 |
あんたね、カトリックだろうと何だろうと、もっと間違ったことを言って、間違ったことをしてる人が世界中ゴマンといるじゃないすか。人を殺しているのもいるしさ。 |
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しかし、上のような言い方をしていいものならば、司牧者は、世界にテロとか人身売買とかの酷い犯罪がある限り、教会内の大抵の問題は「小さな問題」としてスルーできる。考えられないほど「横着」な言い方である。そして「世俗的」な感覚である。新橋の呑み屋でサラリーマンが宗教談義をしているのと変わらない。
「カトリックだろうと何だろうと」という言葉が不吉に響く。
私たちはこのような人から「限りなく尊いお方」に対する信者としての適切な姿勢というものを「学習」させて頂くことは果たしてできるのだろうか?
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」