「内的オブセッション」は、私たちにとって「一般的」なことであるに違いありません。
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このイラストを、完全な憑霊、つまり Possession を表わすものとしてみましょう。ここに於いては悪霊は完全に「中に」入っています。 そして、「しかし、このようなことは滅多に起こるものではない」としてみましょう。 |
しかし、次に、下のイメージを見て下さい。
ここに於いては悪霊はあなたの「中に」入っていません。
しかし、この悪霊は、その不浄な如雨露[ジョーロ]でもって、チョロリ、チョロリと、あなたの頭に、いわば「差し水」をしています。(或いは、そうしようと「試みて」います)
私は、完全な憑霊、Possession は、私たちに於いて滅多に起こるものではないとしても(それでも油断はできないが)、上のような状態は、私たちに於いて殆ど「一般的」であると考えています。つまり、必ず汚染されるとは限らないが、もし私たちが油断すれば汚染されるという、脅威の状態には常にさらされていると。
悪霊の如雨露からしたたる水滴は、私たちに好ましくない「感情」や「欲望」を引き起こします。もっとも、彼らとしても、全く何もないところからそれらを起こすことはできません。たとえ小さくても私たちが初めから自分の内側に持っているものを、その「差し水」で刺激し、引き出し、煽り、掻き立て、増大させます。
そして、私たち。私たちはその時、悪いことに、前回も書いたように、それを「自分の感情」と思ってしまいます。と云うのは、私たちとしては「自分の “内側” に発生したものだから “自分の感情” だ」と理解するしかないからです。
しかし、本当言えば、「しかない」のではありません。私たちがそのように受け取ってしまうのは、私たちに「内的オブセッション」(或いは「包囲された憑依」)についての知識がないからです。
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そして、そのように「知識がない」のは神父様方も同じです。
訊いたわけではないから正確なところは分かりませんが、しかし決して少なくない神父様方が「悪魔」の存在を信じていないでしょう、まともには。つまり、「なにか、一つの精神的な比喩、教えではないか」ぐらいには思うかも知れませんが、ストレートには「悪魔」の存在を信じていないでしょう。
ならば、そのような神父様方に於いては(もちろん信徒に於いても)必然的に「内的オブセッション」ということも考えようがないということになります。これはなかなか大変な事です。何故なら、そのようでは、そういう方面での──誤解を恐れずにこの言葉を使えば、「心霊的」方面での──警戒が非常に薄くなる、否、「無い」に等しくなるからです。
そのような神父様方にとって「ある」のはただ「あの人の考え」「この人の考え」「あの神学者の考え」「現代人の考え」... 等々、地上的な捉え方ばかり。悪霊が日々、人々の想念(mind)に影響を与えていることなど、思ってもみません。
そのような神父様は、自分や同僚の異常に十分には気づくことができません。例えば──神父様方の中には、所謂「従来型」の信者や信仰に対して(例えば「御聖体への崇敬」に対して)ハタから見てちょっと「度外れた」と思われるぐらい、「異常ではないか」と思われるくらい、どうも「無性に」と云った形で反感や嫌悪感を感ずるらしい人たちが居るようです。信徒の証言を二つ。
パリ・外国宣教会所属1926年生まれの某宣教師はこんなことを、私の友人にほざいた。プロテスタントの集会にいって「気持ちがよかったのはこ聖櫃がないことです。ここの(カトリック)教会にはこ聖櫃のなかに、ごまんとこ聖体が安置されていて、きもちが悪い」。 |
「貴方の信心を否定する気はありませんが、私は跪きと舌による聖体拝領が気に食わないです」といった内容のことを言われました。 |
神父様方は、もしこのような同僚に出会っても、「この神父様は少しばかり極端なことろがあるのではないか」と思う程度でしょう。そして、その同僚からそのように思う「理由」のひとくさりふたくさりを聞かされると、案外、納得してしまうかも知れません。
しかし、私に言わせると、「そんなんちゃいます」ということになります。ここに於いて、物事は決してそのようなことではありません。
そのような司祭に於いては「理由」ではないのです。もちろん、その司祭自身、その「理由」を支持しているわけですが、しかし本当は、いわゆる「理屈ではない」というやつなのです。「情動」なのです。
このイラストを思い出してもらう必要があります。
悪魔は人間の「情動」に働きかけます。
そして、どんな「哲学」にも、「神学」にも、その根底には意外とこの「情動」というものがあるものです。
この人間の「情動」というものを見るのが下手くそな(鈍い)神父様方は、結局、人間の「心」について分かりません。
(傲慢な言い方です。でも本当です)
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人間とはそのようなものです。
LGBT の人たちも、例えばクリスティーン・ディクソンの言葉を参照して下さい。
私は自分自身に取り組んでいて、神が私をそう創ったところの神の女性、本当のクリスティーンを知りつつあります」
「お前に何が分かる」と言わないで下さい。私たちは皆、意外と ― 或いは、大いに ―「自分自身についてよく知らない」のです。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」