「LGBT カトリック・ジャパン」 のウェブサイトにそこはかとなく漂う
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昔、本田神父関連で作って、使わないでいたイラスト
LGBT 当事者の人たち、所謂「科学者」たちの「科学的知見」なるものを容易に信ずる勿れ。特にその「科学者」が「活動家」でもある時。何故ならば、彼はその時、その「科学的知見」なるものを(或いは、その表出を)自分の「目的」に “沿わせる” だろうから。彼は自分の言いたいことは言い、言いたくないことは言わないだろう。自分の目的のために不都合なことは、たとえ事実として有ったとしても、言わないだろう。口をつぐんでいるだろう。聞かれて初めて何か言うだろう。・・・そんなもんなんである。
例えば、このような口振り。
また,LGBT の大多数において,性本能の規定性は先天的です.実際,思春期の始まりよりはるか以前に,或る人の性本能がどう規定されているかは,その人の思考や感性において明らかになってきます.
多少の知識と診療経験から自信過剰になり、このように言い切る者は、私たちが今まで幾つか見て来たような脱同性愛者たちの証言に耳を傾けないだろう。彼はそういう事例を調べもせずに「性本能の規定性」などという言葉を使い続けるだろう。
脱同性愛者たちの証言を見る時、あまり簡単に考えてはならないとしても、そこには幾つかのパターンが、共通項があるように思われる。例えば、男性であれば、求めても得られなかった父親の愛情とか(ジャニガン、ベネット)、女性であれば、男性の暴力で辛い不快な経験をしたこととか(ボインズ、コトラン、オースティン)、そして男女の別なく、幼い頃に──必要ならこう言おう、「思春期の始まりよりはるか以前に」──性的虐待や性的いたずらをされたこととか(ブレイボーイ、ブラック、オースティン)。
しかし小笠原氏は、少なくとも「確かにそのような要素も幾らか観察されますが」程度には言っても良さそうなものなのに、見受けられるところ、そのようなことは全く言っていないようだ(これが上に言ったことの意味である)。
そして彼は、ひたすらこの二極対立の中で騒いでいる。
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そして、そもそも、「科学」というものにそんな大きな顔をさせてはならない。科学には、「神」や「霊」を捉えることが出来てから、大きな顔をしてもらおう。「神」や「霊」はおろか、「人間」という、これもなかなか複雑な生命現象に関して、科学は「全部わかった」のか?──大分進んだには違いない。しかしそれでも、「全部わかった」より遥か手前である筈である。科学も科学者も謙虚でなければならない。
そして、LGBT 当事者の人たちも、もしあなたがクリスチャンなら、「科学」に聞く前に「神」に聞くべきではないのか。よく考えてもらいたい。
キリスト教と同性愛(6) | 日本ではほとんど報じられない海外クリスチャン事情 キリスト教と同性愛(6) | クリスチャン世相分析
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罪を受け入れず、罪人を受け入れる。結局は、「罪は決して受け入れないが、罪人は受け入れる。」という、キリストご自身の態度を私たちがどれだけ身に着けられるかにかかっていると思います。
同性愛、同性婚の問題について | 道奥 MICHINOKU せみなりお
「罪は罪としつつも、罪に陥っている人々を冷たく断罪するのではなく」
私が同性愛から解放された証: 同性愛からの解放ージーザスと生きる!
教会の友達に自分が同性が好きであることを打ち明けた。
そして、その子はこう言った。
「勿論受け入れるけど、同性愛に賛成はしない」
多くの人は物事を「分けて」考えるということがひどく苦手なようで(今の教皇様も?)、この「罪を憎んで人を憎まず」的な行き方もピンと来ないようだ。しかし、上の彼らの言葉は真実だ。そのように物を「分けて」考えることは可能なのである。可能であるどころか、これこそが必要なことだ。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」