2016.05.27

ウイリアム・グリム神父が「宗教改革500周年」のために自ら立ち上げた企画に於いて来年「東京カテドラル聖マリア大聖堂」でタクトを振らせようとしている音楽家はフリーメイソンである

Part 5

世の人々よ、ライカーさんは本当に「いい人」なのか?

Part 1Part 2 で、私はこう書いたのでした。

管理人が注意を引きたいこと

(中略)

ライカーさん、ご自分がフリーメイソンであることを東京大教区に言って下さい。

これに対してこう思った人が居るに違いありません。

いや、ライカーさんはその事をカトリックの聖職者にはちょっと言えないよね。何故って、彼はカトリック聖職者というものがいまだにフリーメイソンに “偏見” を持っていると知っているだろうから。

人は意外と簡単にそのように「理解」を示すものです。しかし、ちょっと待って下さい、それは本当に正しい受け取り方でしょうか?

いいですか? 彼が「カトリック聖職者というものがいまだにフリーメイソンに偏見を持っている」と知っているなら、彼はまた、こうも知っているのです。

物事が済んでから、つまり東京カテドラルでの「宗教改革500周年」のための音楽会が終わってしまってから、「ライカー氏はフリーメイソンだったのだ!」と気づいて、驚いたり傷心したりするカトリック聖職者が出て来てもおかしくない。(聖職者ばかりではないですが)

彼はそれくらいのことは予想しています。そうして、そう予想していながら、それをやっちゃっても構わないと考えているのです。
(グリム神父も勿論そうです)

そして、自分がそう思うことの正当性を、彼は次の理由をもって支えるでしょう。「そもそも、フリーメイソンにそのような偏見を持っているのが愚かなのだ」と。つまり、「愚か者は後から気づいて驚いたり傷心したりしても構わない」という考え方です。

注)私は今、それが本当に「偏見」と言われるべきかどうかの問題は措いて話しています。

以上は私の勝手な想像なんかじゃありません。人間心理に対する普通の「論理的推理」であるに過ぎません。それしか考えられない、というところなのです。

いいですか? 彼がもし「カトリックの聖職者たちはいまだにフリーメイソンに偏見を持っている。残念だ」と思っているだけなら、そんなことはしないのです。そんなことができるとすれば、上で言ったような、相手に対する「軽侮」があるからこそなのです。

以上のようなことを考えると、ライカーさんという人はやっぱりどこか「秘密結社的」な人だな、と、私などは思います。
やり方が暗い。「裏をかく」「出し抜く」的な。そして、「人を見下げる」ところもあるだろう。冷淡、傲慢なところがあるだろう。

注)私は今、特にカトリック信者としての立場から言っているつもりはありません。ただ私としての「人間理解」から言っているつもりのものであります。

普段どんなに「人当たり」がよくても、或る分野で立派な業績を挙げていても、後進の指導に熱心であっても、たとえ美しい音楽を奏でても、彼はそういう性質を隠し持っていると思うのです。

二面性のある人格。

「裏表のない人柄」の反対。

「隠し持つ」、これが秘密結社の本質です。「秘密結社」、別の言い方をすれば「表面ヲ糊塗スル結社」です。それだのに一般の人々は、「ご覧なさい。フリーメイソンはライオンズクラブやロータリークラブと変わらない様々の慈善活動をするグループであるに過ぎません」と、まさしく物事の「表面」に誘導されているのです。(「表面」だけ見れば、そりゃそうなんですよ。フリーメイソンは一つの友愛組織です。「表面」だけを見るなら、たとえ穴があくほど見ても

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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