注
この記事にある「古本(内容)求む」についてですが、私はこの記事の三年後、それらの文書を入手しました。参照
しかし、私は結局、能力の点から、またエネルギーの点から、それらを活用した検証を、ほとんど進めることができませんでした。
典礼憲章
Constitutio 可決 1963年12月4日 ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ 書簡 (1967年7月2日付)
「もう一つの指針が6月 |
左の図は第二バチカン公会議近辺に教会が「典礼」に関して発布した主な文書を時系列順に並べたものです。そして特に青の枠で囲ったものは「礼部聖省」から出されたものです。 典礼憲章実施のための第一の指針、第二の指針、そして『聖体祭儀指針』あたりの内容に当たってみたいものです。しかし、私の能力では翻訳は難しそうです。 古本(内容)求む。
日本語で読めるもので、それらについて書いたものが何かないでしょうか? マイケル・デイヴィス氏が僅かに触れています。 実は、第二バチカン公会議の文書のどこを読んでも対面ミサへの言及は皆無です。対面ミサが最初に登場するのは教書「インテル・エクメニチ」においてです。「司式者が困難を感じることなくその後ろを通ることができるように、また対面ミサにも使うことができるように、主祭壇は壁から離れて作られることが望ましいのです」(九十一) 「それらの “指針” は本当に、その “書簡” が言っているように、天主の典礼を《非神聖化》するという、そんな恐ろしい内容を持っているのか」を確認しようとしているわけですが、しかし多くの人は、『インテル・エクメニチ』が簡単な理由によって「対面ミサ」のことを言い出したと知っても、きっと何も “確認” しないのでしょう。「ミサが対面式になったからと云って、それがミサの非神聖化につながるなどということはない」と思うのでしょう。 |
omit(省略)
少しだけ読んだところでは、『インテル・エクメニチ』や『トレス・アビンク・アンノス』には「omit」という言葉が多いようです。「片膝をつく」「十字を切る」などの伝統的所作の「省略」です。(まったく無くすわけではないが、数を減らすということ)
それらを省略する「理由」は “確か” でしょうか?
つまり、信頼できるものですか?
その「理由(付け)」は典礼憲章から流れて来ているようです。
私達は言葉だけに生きるわけにはいきません。これは人間の生きた心、魂に関することです。つまり、浅薄な「リクツ」で考えると間違います。
私達の宗教生活に於いて、重複という重複、繰り返しという繰り返しがすべて「無益」だというのでしょうか。もしそうなら、いったいロザリオはどうなるでしょう。
それとも、「有益な繰り返し」と「無益な繰り返し」の二つがあるというのでしょうか。仮にそうだとして、しかし一体誰がそれを “分ける” のでしょうか。長江司教様のような人ですか。それともグリム神父のような人ですか。その判断は “確か” ですか。
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典礼憲章のことに戻れば──それはマイケル・デイヴィス氏の言う通り、教会内フリーメイソンたちが後からそこから物事を引き出し発展させる「Liturgical Time Bombs(典礼上の時限爆弾)」だったのであります。