2015.04.15

「手による聖体拝領」 は御聖体に対する現実的な加害である
Part 9

 以前書いた、「手による聖体拝領」は御聖体に対する現実的な加害である、と題した一連の記事について、やはりこれを書いておこうと思います。(「やはり」と言うのは、これは初めから私の頭にあった事だからですが)

 これはきっと「矛盾」と思われるに違いないのですが・・・私はこう思うのです。

 もし御聖体を大事に思うカトリック信者が、あれら一連の記事を読んで、私達の一般の小教区教会、すなわち「手による聖体拝領」を行なっている教会に行けなくなったら、それは天国の望むところではない、と。

 自分自身は御聖体を「舌で」受けていても、もしあれらの記事を読んだなら、その人は以降「手による聖体拝領」を行なっている教会で御聖体拝領の行列にならぶことができなくなってしまうかも知れません。──何故なら、床に落ちた御聖体の欠片を踏んでしまうかも知れないから。

 それどころか「御聖体訪問」すらできなくなってしまうかも知れません。そのような御聖堂には一歩も足を踏み込めなくなってしまうかも知れません。──理由は同じです。

 また、心をこめて御聖堂を掃除する奉仕をしている人も、その奉仕を続けることを恐れるようになってしまうかも知れません。──何故なら、床に落ちている御聖体の欠片を掃除機で吸い取ってしまうかも知れないから。(おそらく、「かも」ではなく)

 私は、御聖体にそのようなことが起こるのは・・・必然だと思います。しかし、それでいて私は、御聖体を大事に思うカトリック信者が一般の教会で御聖体拝領も御聖体訪問もできなくなり、今まで心をこめてしていた奉仕もできなくなってしまうことを望みません。いや、私が望む望まないの問題ではありません。天国がそう望んでいないと思うのです。

 私がそう思うのは、私が聖ピオ十世会の次のような考えに最終的に同意しないのと似ています。

新しいミサはそれに固有のものとして涜聖の要素を含んでいる。

信者の主観的な罪の問題は天主のみが裁くことができる。

しかしながら、人はもし新しいミサで客観的に涜聖が行われているということに気づいているならば(前提)、新しいミサに与ることは少なくとも小罪となる。

小罪と云えども「罪」であるから、知りつつ行なうことは許されない。

参照: マニラのeそよ風 第354号

 私は ① に同意します(もちろん ② にも)。しかし、③ と ④ には同意しないのです。何故か?

 この「何故」ということをカトリック界で問うと、それは圧倒的に「学」の世界のことになります。聖ピオ十世会のその記事が「倫理神学」という言葉を出しているようにです。しかし、私にはそのような知識もありませんし、また実は「学」の世界が全てだとも思わないのです。

 欠けのない「聖伝」は、それは素晴らしいものです。しかしそれでも、一部の者がいくら熱心に「聖伝」を叫んでも世界の圧倒的大多数の教会が一向に振り向かない「現状」に於いて、天国がただ全く一辺倒に聖ピオ十世会の記事のように叫んでいると想像することは、私にはどこか「据わりの悪い」ことのように思われました。

 そのような私の心を納得させたのが「ベイサイド」です。ベイサイドは「手による聖体拝領」に「冒涜」という言葉を当てながら、しかし「小教区教会に留まりなさい。そして、人々の模範になることによって戦いなさい」と言うのでした。

 カトリックには「頭カッチン」の人が揃っています。そのような人から見ると、ベイサイドは「矛盾」したことを、或いは「妥協」を言っているように思えるかも知れません。しかし、私にとっては必ずしもそういうことにはなりませんでした。

 こう思えたのです。

天国と云えども、この地上の圧倒的大多数の教会の「現状」を前にして──そのあまり芳しくない「現状」の中でさえ──人々に何とか恵みを与えようとするする御心をお持ちに違いない。

 「頭カッチン」の人達には通りの悪いことですが。
 (何度も言って御免なさい)

 つまり、天国と云えども或る程度「実際問題」というのを考えるだろう、ということです。(巧く言えないけれど、現在の教会も、天国から見て、「天主の教会」であることを “やめた” ものではないだろうからです。今もやはり「天主の教会」だろうからです)

 で、ベイサイドは「手による聖体拝領によって無駄に失われる御聖体の欠片」のことは言ってません。私はこれを認めます。ベイサイドが言っているのは「御聖体に対する敬意」のことです。

 しかしまた、あのクィンタナ大司教のように「もし或る人の態度が、そこに来られようとしている神と出会うための尊敬の態度であるならば、それは間違ったものではありません」などという、結局「主観あるのみ」みたいな口振りも取っていません。やはり教会の長い歴史に於いて主要な神学の一つであった「御聖体に直接触れるのは奉献された司祭の手だけである」ということを言っています。

 天国は、もちろん、「手による聖体拝領」によって御聖体の数多くの欠片が無駄に失われているのを見ているでしょう。しかしそれでも、天国が言いたいのは「敬意」なのです。それが回復されれば、御聖体の欠片の喪失の問題も、自然、解決されるでしょう。

 とにかく、御聖体の数多くの欠片が無駄に失われているとしても、それを踏みそうだとしても、天国は私達が小教区教会から離れることは望んでいないと私は信じます。(教会が今以上に酷い状態になれば、また別の話かも知れませんが)

 矛盾? そうかも知れません。しかし、或る意味、天主様の教会自身が「矛盾」の中に、「ジレンマ」の中にあり、それを苦しんでいる、ということなのでしょう。

 歯切れが悪かったですか? そうかも知れません。しかし、はっきりしているのは、御聖体の肉眼で見えるほどの大きさの欠片に関するあれらのかなり実証性を持った実験結果を見せられながら、なんやかんやと “リクツ” を言って、そこには何も問題がないかのように言い振る舞うならば、そのような一種 “安直” な「精神」自体が一つの「涜聖的」な性格を形成している、ということです。

 こういう「神経」があって初めて「敬意」と言えます。

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