再掲
日本の神父様方。
このようなはっきりした徴候があるに拘わらず、もしあなた方が「しかし、どちらにせよ、手による聖体拝領は初代教会の頃も行なわれていたのだから、問題ない」とか * 、「聖座もそれを承認したではないか」とか、そのように簡単に考えるなら、あなた方は「愚か」という称号に値します。
*「手による聖体拝領は初代教会の頃も行なわれていた」に関しては、本当は一考も二考も要します。
参考 ① デルコル神父様 ② ポール・J・マクドナルド神父様
(これらでさえ “参考” であって、私達が考えるべき “全て” が含まれているわけではありませんが)
*
さて、今回のテーマは『ローマ・ミサ典礼書の総則』です。
でも、これは本当は書かなくてもいいような事です。今まで見て来た所からすれば「言わずもがな」の事です。しかし、人間というものはどうも「苦い真実」からは目を背けがちなので、「見たいものを見、見たくないものは見ない」という心理的傾向が極めて強いものなので、「はっきりさせたい症候群」の私としては、はっきり言っておきたくなるのです。
言いたいことは簡単で、表題の通りなのですが。
既に削除済みのブログ記事のコメント欄を何度も掘り返して申し訳ない気もしますが、しかし私達が「考える」ことをするための材料とするために許して頂ければと思います。かつて某ブログのコメント欄で「セルフ・インティンクション」についての議論が活発に行なわれた時、HN「新潟司教」さんがこう言いました。
決まり事には優先順位があります。優先されるのは指針ではなくて典礼書の総則です。
私はこの言葉が正確に正しいかどうか不勉強で知りませんし、また実は、その事にはあまり関心がありません。何故なら、『総則』が高い位置にあろうとなかろうと、それの中に悪の手が加わっていることは確かだからです。何もビックリすることはありません。今まで見て来た所からすれば、これは明らかです。
『総則』の中にはこう書かれています。
161 … パンだけの拝領であれば、… 拝領者は「アーメン」と答え、口で、あるいは許可されている場合で拝領者が望むなら手で秘跡を受ける。…
『総則』は「手による聖体拝領」を許容しているのです。
ところで、『総則』に先行する「手による聖体拝領」を認めた公文書は『メモリアーレ・ドミニ』と『各司教協議会宛の書簡』しかないでしょう。そして、その二つは今まで見て来た通りのものです。あんなものは「偽りの精神」によって書かれたものです。
だから、『総則』のその部分は──「全て」とは言いません、「その部分」は──その「偽りの精神」から来たものです。
現在の私達は「指針と総則のどちらが優先されるか」という通常の議論をしていたのでは状況に正しく対応できません。教会のこの「異常事態」に対応できません。
しかしHN「新潟司教」さんが言うように、カトリックは「文書主義」ですから、『総則』など権威ある文書がひとたび敵の手に落ちたら「ニッチもサッチも行かない」ようなところがあるのです。
だからこそ、“彼ら” は教会の高位の地位(司教、枢機卿、聖省高官等の地位)を取りに行ったのです。
「言わずもがな」の事ばかり書きました。