cafe-cup
spluso graphics

いろテナーニ:その3

色への執着の動機は、突然やってきました。
仏教五色幕の不思議、マゼンタの名の由来、サイン機能としての色、and etc。
調べれば調べるほど、太古へ遡って行くのです。
色は調和のために生まれたのでしょうか? それとも、区別のためでしょうか?

「そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、」聖書Mark15;17

いろの研究をつづけようと思います。見ることが叶わなかったひとの分まで。

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2012/05/23/wed/ Ysasayama

▼ Rep-11

 忍法「黒紫」かぎろひの術

todaiji-daibutsu_1250

五色の青・赤・黄・白・クロ!

←Photo:東大寺大仏開眼1250年慶讃大法要 ©山車とまつり(†1) 無断転載不可 Do not share.

♣今から10年前、2002年10月15日火曜。快晴の奈良東大寺で、壮大で荘厳な仏事「大仏開眼1250年 慶讃大法要」が執り行われました。聖武天皇天平752年の開眼です。歴史教科書をそのまま現実として、TVで観ていることに驚き、堀口大学作詞・檀伊玖磨作曲の「盧舎那仏讃歌」奉唱が始まるのを、ぼーっと見つめていました。ただただ、きれいだなあ…と。当時は不勉強で、特別関心もなく、傍観者だった私です。
♣しかし何と愚かだったことか!10年も経過した今頃になって、当時の写真に目が釘付けになるなんて。左写真の五色幕の「黒い」部分、みなさんの目には何色に見えますか? 私の目にははっきりと「クロ」色に見えます、「紫」でも「紺」でもなく。
♣寺院で見かける幔幕の五色でいつもこの色、「紫のような、紺のような」に見えます。「インド仏教古来の『風』を意味するクロです」と、ご教示いただきました(拙項Rep-1別ウィンドウで開きます)。しかし、それが「クロ」の五色幕にとんと出会えない。唯一新聞で見かけた法隆寺の幔幕写真も散逸…、私の「紫色」への旅の始まりです。だからこの東大寺の幔幕! 心臓をグワッと鷲掴みにされたのです。
♣溢れる寺院の五色幕、この「紫のような」色、いったい何者? インド仏教やら中国陰陽五行やら、日本の神道も仏教も絡まり、さては甲賀か伊賀か雑賀か、はたまた風賀、忍者の仕業なのかもしれません。

†1:感謝「山車とまつり」伎楽より(//yoshik.boy.jp/contents/contents.html)
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クロと紫の二人羽織

←Photo:山背大兄王ゆかりの奈良斑鳩、法起寺情景 ©ろまんすぐれー(†2) 無断転載不可 Do not share.

♣クロは「玄」ではないか? いや、単なる呼び習わしの名、ではないのか? そうだ、観念が永いながい年月を経るうちいつの間にか概念に、置き替わってしまったのではないか? そう考えた私です。

♣儒家の教科書のひとつ、周禮しゅらいにある「冬官 考工記」(中国最古の技術書;冬官は土木工作所管)の第63-64説 鍾氏に、次の記述があります:

「鍾氏染羽。以朱湛丹秫、三月而熾之、淳而漬之。三入為纁、五入為緅、七入為緇。」

♣朱で染めるについて「三入みしおを纁(くん)と為し、五入いつしおを緅(しゅう)と為し、七入ななしおを緇(†3)(し)と為す」。染めの浸す回数は「〜入(しお)」と数えます。後漢末の儒者 鄭玄じょうげんによる注釈に『緇は、朱の三度染め纁を、さらに「黒」で四度染め上げる』と。黒…それも火で燻した程の深いクロ…、緇衣しえとは中国この時代、諸侯臣下が着る朝廷服です。また先鄭の論語説やら爾雅辞典やら詩経を引き『凡玄色者、在緅緇之閒。其六入者與:「玄」は、緅と緇の間で六入か』と括っています。五だの六だの七だのが規範なら、色よりむしろ位の象徴としての表現認識ですね。
♣「玄」:説文解字は、「幽遠なり」「黒くして赤色ある者」「入+幺の会意で、糸を染める意」と説く。何度も染色して黒くするので幽遠なのだろう、と漢字大博士の白川静氏は述べます。クロの向こうにもうひとつの色、朱/赤。五色幕の「クロ」は、そんな観念的で奥深く、広がりのある「玄」にちがいない。もし、そのもうひとつの色が紫、第六の色「紫」だったら、どうでしょう?
♣「黒紫」という古代色が日本にはあります。平安朝の最高冠位、大徳の「深紫(こきむらさき)」とも呼ばれます。紫根染めを何度も何度も繰り返し、極限の濃さにまで染めるため黒に近い。当時も今も、高貴な染め色(†4)です。荘厳に相応しい、しかしこの上なく畏れ多い。そこに一陣の風が吹いた。「玄」であるはずが、実に神秘を顕在する「かぎろひ」(†5)を内在させ、クロが紫のような、紺のようなとなる不思議に。聖武天皇は東大寺大仏造営に、宇佐神宮の全面協力を受入れ、八幡大神は「紫の輿」に乗り、緇徒の寺門をくぐったではないですか。色における神仏の習合、忍法「黒紫」かぎろひの術でしょうか、私の推論です。

†2:感謝「ろまんすぐれーの徒然写真」(2021.11月現在リンク不明)
†3:色彩用語ではなく、繊維製品名称と検証する論文もある。参考『「詩経」から見た色彩語』劉渇氷著;p125-126;神奈川大学大学院「言語と文化論集」No.12;2005.12月
†4:平安ファッションブックの延喜式巻第十四の縫殿寮によれば、深紫:綾一疋(いっぴき=二反=24m)につき、紫草は三十斤(18kg)必要。繁殖力が弱く、育成地環境に左右されやすい紫草は、最高位に使われるだけに、価値のはかりようもない。
†5:古語かぎろひ。一般に「陽炎」と解説されるが、「炫ふ火(かがよふひ)」の転化とspluso推測。陽の響(ゆら)ぐ陰陽の情景。火で「玄」を表すと解釈した。

色、陽炎う時

♣大仏開眼をさかのぼる事110年あまり、聖武天皇と同じように、衆生のために命を落した山背大兄王(厩戸皇子の子)の昇天模様が、日本書紀に次のように描かれています。(巻第二十四、皇極二年十一月丙子朔)

「おりから大空に五色の幡(はた)や絹笠が現れ、さまざまな舞楽と共に空に照り輝き寺の上に垂れかかった。
 仰ぎ見た多くの人々が嘆き、入鹿に指し示した。するとその幡・絹笠は、黒い雲に変った 。それで入鹿は見ることもできなかった…」。

♣五色の幡は、かぎろひの風神を現す装置で、寺院の五色幕は、その化身なのかもしれません。

資料:光明皇后1250年御遠忌記念特別展_東大寺大仏天平の至宝;東京国立博物館+読売新聞東京本社文化事業部;2010年
資料:日本心 東大寺;別冊太陽(172号);平凡社;2010年
資料:続日本紀 巻第十八_天平勝宝四年(七五二)四月乙酉【丁丑朔九】;底本「増補_六国史」朝日新聞社;昭和15年
資料:東大寺要録 (写本)著者 観厳;NAJ国立公文書館デジタルアーカイブ
資料:八幡大神ゆかりの伝承;八幡総本宮 宇佐神宮
資料:道徳経;老子
資料:冬官考工記;周禮
資料:説文解字://ctext.org/etymology/zh(中国語)
資料:延喜式 巻第十四 縫殿寮 雑染用度;国会図書館近代デジタルライブラリー:kindai.ndl.go.jp/;国史大系第13巻;経済雑誌社;1901
資料:日本の色を染める;吉岡幸雄著;岩波新書818;2002年
資料:日本書紀全現代語訳;宇治谷孟;講談社学術文庫834;2002年
資料:道教と古代日本;福光公司;人文書院;1987年
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2012/06/24/sun/ Ysasayama

▼ Rep-12

 コード「紫」から「深紅」へ

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「紫色」という、神のことば

←Photo:ビブリア・ヘブライカの出エジプト記25-4(†1)by ルドルフ・キッテル 無断転載不可 Do not share.

♣記録に残る古代文献で、「紫色」に言及した最初は旧約聖書 出エジプト記25章4節か。失われた原典と写し続けられる写本に、文字のバベルを重ね思う。

「そしてスミレ色、そして紫、そして虫の緋色…」「そしてサファイヤ、そして紫布、そして緋色の布二倍を…」「二度染めされた青色と、赤紫と、緋色の…」。(聖書Exd25;4 ヘブル語からの翻訳に揺れあり)

♣この言葉は、神の幕屋の「幕の色」と続く26章1節で判る。なぜそれらの色か? 一体どんな色相を示すのか? 神のみぞ知る。紀元前1300-1250年頃(†2)のエジプトでの話だが、果たして現代の色イメージで解釈してよいものやら悩む。地中海にミケーネ・ギリシアが花を咲かせ、その東隣ヒッタイトが衰微する時代。歴史地理上に大国エジプト新王朝、メソポタミアにエラム、カッシートのバビロン第三朝、アッシリアの三国、インダスは謎に掻き消され、遥か東に古代中国の殷が顕現している。世界の考古学博物館を廻らねば、正真の色は得られまい。
♣「紫色」の使途がいきなり信仰で、しかも幕というのも、何かの因縁(拙項Rep-1別ウィンドウで開く)だろう。歴史舞台に煌めく帝王の色、日がな遊んで暮らす贅沢な金持ち(聖書Luk16;19)の衣色、人の身分をあらわに色別する衣飾り(†3)・・・。人の心の奥底を見透かすかのように「紫」を、神は天幕の色の中に選ばれたか。神への崇高な権威と、文明に驕る権力の裂目に棲む、まるで龍のような色を。

†1BIBLIA HEBRAICA:Rudolf Kittel著;EXODUS p107;Lipsiae, J. C. Hinrichs 1905;Wellesley College Library(Page view= 572の448;URL…page/n447/mode/2up)
†2a教文館聖書大辞典†2bThe Miracles of Exodus;Colin J.Humphreys著2004
†3蒙古ノイン・ウラ出土下袴について p43;坂本和子著1982・1983;国士舘大学学術リポジトリ
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フェニキアの「紫色」

←Photo:地中海マップ ©spluso 無断転載不可 Do not share.

♣記録の始まりはどこだろう、皇帝、教皇が求めた「紫衣」(†4)は、ポルポラ(地中海沿岸で獲れる紫貝)こそ正銘だと。色素は、強烈な臭いの内蔵分泌液に極めてわずか。当時の衣類(ウール)を染めるには、気の遠くなる数を捌かねばならない。しかし定着される「紫」は慈愛しく、耐候の高さは神懸かりとされた。キリスト者 内村鑑三は「興国史談」(†5a)に、その発色の不思議を克明に記述している。「紫」は生命代償の色、神の賜物なのである。

♣ポルポラ紫染色の技術は、地中海東海岸のフェニキア(†6a)の漁師町シドンとツロ(ティルス)が秀逸だった。古代イスラエルの王ソロモンも、ツロ王フラムから手に入れたと記される(聖書2Ch2;7-14)。流通はその北、交易の要所ウガリットが起点だろうと考える。列国の宮廷商人たちが八方から群がり、自国の宝物を売買するに最適の条件地。水が流れるように、ポルポラが世界の上級社会へと広がっていったに違いない。
♣古代から混迷の十字路、ウガリットとフェニキア。征服と服従の連鎖は、現代レバノンに至るまで数えるに堪えず、いかに垂涎の的であったかを物語る。豊富な木材資源を背景に造船技術も長けていたフェニキアが、紀元前の500年間、海洋の商人として地中海に大きく交易地を広げていく。フェニキアのツロが、北アフリカに植民したカルタゴ(新しい町)がその筆頭である。商人は貿易者へ、漁師は航海者へと変貌した。その経済力は古代においても、脅威と何ら変わらなかった。ローマ人が彼らをPhoeniポエニ(†6b)と呼んだ背景に、含みがないはずはない。
♣アルワド島、ビブロス、シドン、ツロ。東の沿岸にへばりつくように点在するフェニキアの町。ここはカナンの住む町だという。カナンは、神とアブラハムとの契約で誓約された「紫の大地」。シドンはカナンの長子と記される。しかし原住の民カナンは、神に故郷から追い払われる、強く激しく(聖書Gen9;18-27、Deut7;1-5)。「紫」を追われ「紫」を商う。どこか龍を商うに似て、権威と権力の重心を占う巫覡のようにも思えるが、買い手が慾を絶たぬ人の世も透けて見える。3000年を優に遡るフェニキアの、神に名指しされた「紫」は、さてどんな色なのか? 想像の域は脱しない。

†4a紫色は青色か?日本語とドイツ語の「紫」の色彩語について;城岡啓二著2000;静岡大学学術リポジトリ
†4b皇帝紫探訪:吉岡常雄著;紫紅社1983
†4cプリニウスの博物誌;雄山閣出版1986;The Naturall Historie of C. Plinius Secundus.(//penelope.uchicago.edu/holland/index.html)
†5a/5b興国史談-フィニシア上p107-108/中p112;内村鑑三著;警醒社書店1900;国立国会図書館近代デジタルコレクション
†6a/6b:フェニキア/ポエニとは、古代ギリシア語"Φοινίκη"の、後のラテン文字転化「Phoiníkē/Phoenice」の読み。ギリシャ人が呼んでいた呼称をローマ人は踏襲していた。言葉の意味は詳細不明だが、古語"Φοῖνιξ":"Date Palm"(海棗:ナツメヤシ)を多く示す(参照:https://lexicon.katabiblon.com/index.php?lemma=%CF%86%CE%BF%E1%BF%96%CE%BD%CE%B9%CE%BE%5B1%5D);聖書にあふれるナツメヤシの象徴表現と、相反するバアル神における象徴表現とがあるが、カルタゴ人によるBC5世紀頃の造営とされる「エルチェの椰子園」が、ローマ帝政の破壊を受けず、現在にまでイスラムとキリストを共存・維持させている事実からも、その重要性がうかがえる。(参考:ナツメヤシの図像と意味;前田龍彦著2000;金沢大学考古学紀要, 25: 64-73;金沢大学学術情報リポジトリ);他に「ギリシア神話フェニキア王子」の説、「深紅色の不死鳥フェニックス」の説、等々ある。なお「深紅色」語源の説は不詳。
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「紫色」故に天下の貴きとなる。

←Photo:Star Trails ©Lincoln Harrison(†7) 無断転載不可 Do not share.

♣フェニキアにはもうひとつの意味、「北極星」がある。自らの呼び名フォエニケ(ギリシア語読み)そのままを、北極星に命名している(†5b)。海洋の民としての象徴なのだろうか、占星術としての暗号なのだろうか。これは、古代中国の道教に伝える北極まわりの天空「紫微垣しびえん」命名に重なる。なぜ天に「紫」の字を当てたか? 北極星が紫色に光芒くのを見たのか? まさか紫薇(百日紅さるすべり)と書き間違いではあるまい。

♣老子先生はおっしゃった「搏之不得 名曰微:手で探ってつかまえようとしても、つかめない。これを微と言うんだ」(道徳経第十四)と。「紫」の崇高さは、有るのに無く、居るのに見えない、捉えようにもつかめない。一千光年ギャップの北極星を、まるで先生は知っているかのようではないか。考える程に、准南子天文訓の四(紀元前140年)に突如現れる「紫宮」が、神秘に思えてくる。「紫」とフェニキアと北極星と、遠く離れた別々の国で…。老子の誓いに「人之所教、我亦教之:人から聞いた良いことは、私も人に教えよう」(道徳経第四二)とある。「紫」は、紫微だからこそ「紫」たりうるのだ。

♣天武天皇(†8)が、わが国で初めて占星台を据置いて天体を観測し、陰陽寮を設けて方術したそうだ:675年。道教を、仏教を、そして日本の八百万の神を愛し信仰した彼が残した暗号がもとで、空海は宿曜経(インド占星術)を持ち帰り、最澄も八幡神より紫小袖を賜った(†9)。まるで星がすべてをつないでいくようだ。

†7Lincoln Harrison:Australian photographer(//lincolnharrison.com/#/0)
†8隠された神々:吉野裕子著;人文書院1992
†9攷証今昔物語集-中-巻第十一第十p111:芳賀矢一編;富山房大正2-3;国立国会図書館近代デジタルコレクション
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「紫色」が「深紅」に蘇る

←Photo:マゼンタ100%色とアカバナ科フクシア ©spluso 無断転載不可 Do not share.

♣先に生命代償の「紫色」と書いた。人工の「紫色」は化学染料か・・と思った瞬間、「マゼンタ」とつながった!「緋色」のダブダブドレープズボン!あのズアーヴ兵!(拙項Rep-2別ウィンドウで開きます) イタリア統一戦線にフランス傭兵として参戦した彼らは、ベルベル人だ。彼らの祖は、先のカルタゴの、その先住民なのだ。フェニキア商船団の傭兵として働いたとも言われる。「紫色」の影響は計り知れない。ローマの宿敵ポエニの、その末裔がイタリア統一を援護している…しかも目印の色を堂々と晒して。神の仕業だろう。
♣化学合成の「赤紫:深紅」染料として1859年世界初(1856年のMauveモーヴは青味の紫)、しかも「マゼンタ」というイタリア側の初戦戦勝地の旗を示した訳だ、生産に成功したのはフランスなのに。そこにローマ側の興奮は見えないか? フェニキアが築いたカルタゴを、ポエニ(ローマがカルタゴをも含め呼ぶ言葉)戦争(†10)で三度も敗り、最後は大地に塩まで蒔いてせん滅したはずなのに…、ビザンティン文化の象徴コンスタンティノポリスの陥落とともに、地中海から「ポルポラ紫染め」は消え去ったはずなのに…、ローマはずっと「フェニキア紫」の影と戦っていた?とは、考え過ぎだろうか。いや、自由の発芽を感じたに違いない。「赤紫=深紅」は光には存在せず、人の目には在る、紫微なる色となったからだ。「紫色」を超え、赤へと色彩環をつないだ蘇生の瞬間であろう。

†10カルタゴ興亡史-ある国家の一生-:松谷健二著;中央公論新社2002

色は文字でなく、光

♣日本の仏教は、遥か4500kmも離れたネパールから伝播してきた。ネパールからフェニキアへも、同じ4500kmである。色相こそ異なるかもしれないが、離れた場所で、高貴な色が同じ「紫色」とは、偶然ではあるまい、それも天平の昔に。色は、形や言葉を超越する、観念というこころに染みいる力で、人の脳裏の奥底にデータベース化される。神様がそのように、人を造ったのだ。これに勝る、光の御印はないのだから。

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2015/02/27/fri/ Ysasayama

▼ Rep-13

 仏像の金色、何故か?

Statue of Nāgārjuna
←Photo:金銅龍樹像(チベット,17世紀) ©The Walters Art Museum

♣禅僧、師に問う「仏像に仏はおられるや?」
師丹霞(†1)、云う「割ってみなはれ」
あぁ、深い。深いなぁ…人心か。
仏教公伝538年(†2)(いや552年(†3)、いやいや実は…)以来、凡そ1500光年近くにも来ようとしている日の丸仏の光。有頂天(4光年)なんぞほーら、遥かに点。お釈迦さま、間もなくオリンピック大星雲に着きましょう。日の丸代表(†4)招集、いかがいたしましょ?「金」メダル、楽しみだなぁ…。えっ?オリンピックじゃない?オリオン…あっ!…これは南無三。「金」の潮目を変えるところでした。

♣ラピスラズリの、こころ透く青い色(拙項Rep-6別ウィンドウで開きます)も「金」の色も、神仏を通じて特別な意味をまとい、まして希少で奢侈だからこそ、フェティッソ(fetisso: 護符)となる。けれどメダルのように、執着へのフェティッソともなる。ネブカドネザル王の「金」の巨像(聖書dan3-1)はどうだったろう。奈良東大寺の「金」の盧舎那仏はどうなのだろう。「金」ばかりを見せる仏像、本質はその先なのに…。大乗日の丸仏教の師、龍樹(†5)に、問うてみたい。

†1:法号は天然(てんねん)字を丹霞(たんか)。唐代の石頭宗の禅僧(739-824中国);木仏を焼べて暖をとった禅話は、岡倉天心が「茶の本」に取り上げたほどに有名
†2:研究専門学会による推定承認の公伝年。日本最古の寺社縁起帳「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(747年天平19)に記載の「欽明戊午12月」を指すが、欽明期に戊午がないため、直近の宣化天皇3戊午が相当だとする説;元興寺は、蘇我馬子発願(587年用明2)の日本初の寺「法興寺(飛鳥寺)」で、平城遷都に伴い官寺化された寺院
†3日本書紀(720年養老4完成)第19巻欽明13年壬申10月にある記載年;書紀の仏教編纂役、三論宗僧道慈が、自宗の末法思想(釈迦死後、仏教効力が失せる1500年目から数えて初年に光明残る国は、永遠に広がる)による元年に、その公伝年を充当させたという説;三論宗とは、龍樹†5の「中論」「十二門論」と堤婆「百論」を基軸とする宗派
†4文化庁平成25年度の宗教統計調査によれば、仏教宗教法人合計77,568、仏教信者数合計85,138,694人。仏教寺院安置の仏像数統計は不詳(平成24/12/31現在://www.bunka.go.jp/shukyouhoujin/toukei/)
†5:南インドのバラモン出身の天才僧ナーガルジュナ(漢訳名「龍樹」の龍はNāga=蛇から、樹はArjuna=神話の英将名を漢音写)。釈迦の死後、誰も成し得なかった仏教の「空」を持論「根本中頌(中論)」で論理解明し、初期大乗仏教を基礎づけた仏教全宗派の祖師(150-250?);インド僧アーリヤデーヴァ、漢訳名堤婆(170-270?)は龍樹の弟子
Nyorai Statue,AD 539th Koguryo

こころ揺さぶる「金色」

←Photo:延嘉七年銘金銅如來立像(高句麗,539年) ©National Museum of Korea 無断転載不可 Do not share.

♣我が国公文初出の仏像は、無念だが、流し捨てられる。作りを知る記述か「金銅」の釈迦仏、金鍍金された「金キラ金」の青銅仏神だった。神事治める国津神が、韓嶋の蕃神を遠ざけるは勅(書紀第9条2節)である。しかし見える政か、見えない祀かを裁けぬ程、惑わしい「金」だったのだろう。

♣仏教公伝(552年欽明13)記載は、実に恣意的だ。前後に極東の半熟外交文書である。前年551年、強靭な高句麗を百済・新羅・伽耶連合が逆転!と思いきや新羅が連合転覆で揺さぶる、透かさず大陸北斉が高句麗に忍び寄る、援軍を!とヤマトに依り頼む百済。そんな最中、公伝記述(†6)が挿み込まれる、当時の最先端文化キットが、政争の具さながらに。まるでスパイ小説を読むかのようだ。
♣「国に流行った疫病は、蕃神の「金」の像を拝んだからだ」とか「仏神を今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう(奏上ヨイショ)」とか、政祀に対峙せず、あろうことか難波の堀江(津国か大和国高市か未だ不詳)にドボン!御仏像を流し棄てたとか。不浄を穢れと企てるかの記述に、神祇の国を支える神派物部・中臣(†7)連合の、戸惑う顔が読み取れる。

♣神官は古来より、不浄を川に祓い流す。蕃神の「金色」を畏れるあまり、無意識に水で祓ったか、と個人的に推測している。理由は事の終いを読んでの直感だ——糠喜びだった欽明天皇に、河内泉郡茅渟の海底から拾い上げられた「輝く」クスノキが献上される。不思議にも仏教の楽の音を、それが発していたとある。欽明はそのクスノキで、何と仏像二軀を造らせ給う。——「音色を聞く者は誰でも、自ずから仏を念じ、法を念じ、僧を念じる心を起す(仏説阿弥陀経)」というその音を、欽明が耳にしたとは記載がない。感染してしまったのではないか?「金色」依存という、神官らが畏れる病のひとつに…。丹霞、思わず「欽明も焼べるか」と叫べば、龍樹うなずき、云う「色即是空」と。

†6日本書紀 巻第十九の欽明紀冬十月(十三年と記載なし)の項に「百済の第26代国王、聖明王の使者、西部(ソブ)の姫氏(キシ)達率(タルソル)で、名を怒唎斯致契(ヌリシチケイ)という人物らが、釈迦仏の金銅像一軀、経論と仏具若干を時の天皇欽明に奉った」とある;西部(ソブ)とは、百済の王都軍政五部区画のひとつ。都の貴族の居住地区称号として官職名の上に冠く。条例では上部/前部/中部/下部/後部。東部/南部/西部/北部の表記は、百済末期の第31代義慈王による行政区画改革以後に使われる。書紀欽明紀での百済人名に「西部」記載は異例;達率(タルソル)とは、百済十六等官品の第二品で、上から二番目の官職名。五部名の直下に記す;姫氏(キシ)とは百済氏姓のひとつ;この公伝には、三宝である僧の記載がないが、既に定期常置されていたか(書紀554年欽明15年2月の条);参考「百済史研究」今西竜著;近沢書店1934;p300-p326;参考「日本書紀における百済人名の記載様式」柳玟和著;日本語文學第63輯2013;p63-p76
†7:書紀には中臣鎌子とあるが、中臣氏延喜本帳にその名は存在しない

「金ぴか」は、理論か? 現実か?

「大智度論」(405年;漢訳鳩摩羅什くまらじゅう)という100巻もの巨大書物がある。「摩訶般若波羅蜜経」の注釈書、乱暴に言えば仏教百科虎の巻。その巻四に、仏(また菩薩も)にのみ具有する三十二種の吉相、大丈夫相(梵mahApuruSa-lakSaNa;巴mahāpurisa-lakkhaṇaの漢訳)が丁寧に解説されている。また巻八十八には、弟子スブーティ(漢名:須菩提)との問答中、釈迦のことばで「三十二相」が記されている。以下「金色」に関する抜粋——

Buddha Parinirvana Statue at Kushinagar

釈迦の最後

←Photo:金色絹衣をまとう涅槃仏陀(Kushinagar, Parinirvana Stupa)by Wikiwand

♣釈迦の身体が紫金色に輝くと「観仏三昧海経(420-422年)」や「観無量寿経(424-442年)」は説く。「仏説大乗造像功徳経(691年)」はどうだ、釈迦を像にする…なんと畏れ多いこと。後の僧たちの智力もとうとう錆つき始めたか、梵語はじめ原典などどれも残ってやしない。そこで伝承と断った上で、このマハー・プルシャ身金色相の原点を「大般涅槃経(300-350年)」に求めたい。齢八十歳の釈迦がネパールに程近いインド北部のクシナガールで入滅する、最後の旅の記録(†8)を納めた上座部仏教経典である。梵語原典も断片だが見つかっている。

第4章:アーラーラ・カーラーマ(釈迦が出家直後に道を求めた思想家、漢名:阿羅邏迦蘭)の弟子プックサ(福貴)との出会い
——プックサが釈迦の説話に大感激し、「金色」の絹衣一対を差し上げて帰依を誓う。その衣をまとった釈迦を伴のアーナンダ(漢名:阿難)が見て驚く。修行完成者としての清浄で輝かしい膚の色のためか、衣の「金色」の輝きが失せたように見えたからだ。釈迦は言う、悟りの夜と涅槃の夜、この二度は肌が輝かしくなるのだと。死が近いとアーナンダに予告する。——

♣ここには釈迦の肌が「金色」とも、光一丈を放つとも、表現されてはいない。仏教の教義は仏の教えだと聞く。智度論の著者と噂される師龍樹、この論理はどう考えればいいのだろう? そうそう、閻浮檀金えんぶだごんについて興味深い説話がある。それは先の「ドボン!難波の堀江」からつながるのだ。

†8「ブッダ最後の旅-大パリニッバーナ経」;中村元(サンスクリット/パーリ語の大家、国際的仏教学者)訳著;岩波文庫1980年06-16
Plain Sketch of Zenkoji Amida Nyorai

見たか?御仏、光る正体

→Photo:善光寺一光三尊阿弥陀如来白描図(「一光三尊の御仏」明42.9) ©善光寺保存会 無断転載不可 Do not share.

♣またまたの難波の堀江。ここに長野善光寺縁起(†9)が絡まる:602年推古10の頃か。信州伊那の若麻績東人わかをみのあづまんど、字を本田善光という者が親子で人夫(†10)とも、夫婦で国主の伴とも、とにかく都の飛鳥に上ったその帰りだ。難波の堀江のほとりを通ると俄に芳香、光明がピカーッ、見ると不思議にも御仏だ!思わず拝んだ!一説によれば「善光、待ちかねたぞ」と背中へドボンと飛び移ったとか、背負って帰ったとか。そして伊那の自宅の臼上に祀った。驚いたね、神派が祓った御仏たちが再生したか? 光の国から僕らのために、キータゾ我らの阿弥陀如来だ、しゅわっち!
♣そして、光の阿弥陀さまがしゃべった!「実は私、生き仏です…右が菩薩の観音さん…、左が勢至さん。ホトケ呼んで、一光三尊生き写しトリオ!」。微笑みを浮かべて「インドに住むバチ当たりでケチな億万長者 月蓋という者が、悪疫に罹患した自分の娘を何とか助けてくれってね。で、成就した後そやつ、決して功徳を忘れません、竜宮城の娑伽羅大龍王が牛耳る仏界第一の宝、ピッカピカーの「閻浮檀金えんぶだごん(†11)」で祀りますーとね。で、我らの像を写したというワケです…」と。

♣…絶句、…啓示の世界、…たまげーたー! 善光寺一光三尊如来は聖徳太子に始まり、源頼朝、上杉謙信に武田信玄、織田信長に豊臣秀吉、さらには徳川家康も、我が後盾にと拝んだという。御仏像は語る「不善造悪の輩、ほしいままに我前に寄て臭気をかけ、手を触れる。だから自ら籠る」と。以来お隠れになられた。時は孝徳白雉3(652年)甲寅(654年)かと縁起(†9)は伝える。まるで紫のガウンを欲しがったヨーロッパ皇帝らの再来だ。彼らはいったい絶対秘仏の何を見たと言うのだろう?さて…。龍樹首をふり、呟く「南無阿弥陀仏」と。丹霞も続き、吐く「見てはならん」と。言われなくとも数百年、誰も見ていない。

†9:関連書は数十種類に及ぶ。初発は768年(神護景雲2)頃。参照本1=「善光寺物語」信濃郷土史研究叢書第2編;信濃郷土史研究会1916(大正5);参照本2=「山陰霊場摩尼寺、附・善光寺如来記」宮地猛男著;博進堂書店1912(大正1)p48-63;参照本3=「善光寺縁起巻第4 葉山之隠士撰」白慧著;菱屋孫兵衛版1692(元禄5)
†10:602年は律令制以前だが、人夫=納税を中央に運び込む運脚
†11:サンスクリット梵語[Jāmbūnada-suvarṇa]の音写(Jāmbūnada=閻浮提、suvarṇa=金);パーリ語辞典訳=ジャンブー川(閻浮と呼ばれる樹の森を流れる)の底からとれる紫を帯びた赤黄色の良質の砂金。仏教経典中に頻出。想像上かは不詳;Jāmbūnada[Sansk];Jambonada/Jambunada: a special sort of gold (in its unwelded state) belonging to or coming from the Jambu river(?);suvarṇa[Sansk];suvaṇṇa: of good colour, good, favoured, beautiful
King Tutankhamun's Coffin

業を見せつける「金」

←Photo:第18王朝ファラオTut-ankh-amen 内棺 by wikiwand

♣人と「金」との最初の出会いは、地中海バルカン半島のブルガリアに残されていた。紀元前5100年、西部の金漂砂鉱床に精錬・加工工房が存在したと論じられ、東部の黒海沿岸Varnaの銅石器時代墳墓からは、紀元前4000年末の「白金」を含む「金」製品が大量に出土した(†12)のだ。追い求めて止まない「紫」色と同じ、地中海沿岸で…。しかし人と「金」の資質は、アマルナ書簡(†13)に刻まれた「金」の流れにこそ、滲んでいるのではないだろうか。古代オリエントのエジプトが一番知っている、国の力を左右した希有の資源。仏教が起こる遥か昔のことである。

♣紀元前31世紀のエジプト。太陽神ラーの子ファラオが、統一政権中央に生まれる。冥界オシリス神の後継、天空神ホルスの化身でその言葉は神聖、命不滅の存在と考えられた。「金」の普遍の輝きが、ラーの永遠不滅の生命観と一致したのだろう。王は「金」の祭壇を築き、「金」の仮面をかぶり、「金」の装身具をまとい、死して「金」の棺に入った。やがてそれは「金」の宮殿、「金」の独占へと、国威を膨張拡散させていく。神権と王権とを呑みこんだ「黄金」への偏光が、南部ヌビアの金鉱を軸に、エジプトをバベルの塔にして旋回を始める。気づけば錬金術による秘法が、神への不思議と寄りそう秘密を産むまでに陥る。審美という色彩と造形の魔力か。幾種もの「金」の色を操り、合金を作り出す術もが、アッカドの楔で刻まれている。エジプトは「金」の威光から、どうしても抜け出せなくなっていったのだ。

♣権力に直結して憚らないその「金」を、後世の聖書は主への奉納物の筆頭に(exod25-3)記し、仏典は極楽国土に散りばめた(仏説阿弥陀経-讃極楽依正)とさ。大乗も彼方を眺めれば、供養は現世の人の「金」、回向は見えぬ釈迦の「金」と説く。高僧は紫紙に「金」の文字で写経し、宝石を身につけ、大理石と「金」の玉座に「黄金」と光る聖者を迎える。見えないはずの、見てはならない畏れ多い神仏をわざわざ顕露し、それを疎い信者が拝み手を合わす。釈迦尊は龍樹と企んで、見えないものをわざわざ見えるようにする梵、色を媒介に機能する菩薩コードを「金」に、どうやら書き込んだらしい。数グラムを得るために、1トンもの鉱石を掘削(†14)し、99.999%を廃石ぼたる「金」である。たった1gが、540kgもの負荷を環境にかける(†15)「金」である。陰陽あぶる「金」である。人間の業を、丸裸にする「金」である。丹霞と龍樹ふたりで吐く。「喝!」

†12「ブルガリアの沖積漂砂鉱床に伴う特異な金製出土品」ブルガリア科学アカデミー鉱物学および結晶学中央研究所、ツィンツォフZ.L.著、溝田忠人訳;岩石鉱物科学巻29(2)、page52-58、日本鉱物科学会2000年05-30
†13:エジプト新王国時代の第18王朝アメンホテプ3世(紀元前14世紀後半から)とその息子アクエンアテンからツタンカーメンに至る50年間余りに、古代オリエント列強国高官らと交わした外交記録の粘土板382枚;共通語であるアッカド語楔形文字で内容は多岐(エジプトへ:紛争苦情・調停依頼、戦闘具、馬、銅、ラピスラズリなどの献上等、友好強化策。エジプトから:金、政略婚姻、情報提供等、支配強化策);The Encyclopedia of El Amarna Research Tool(//www.specialtyinterests.net/eae.html)
†14:貴金属の品位は、1トン中のグラム数(g/t、ppmと同単位)で表す慣例。世界的に鉱石の金品位は数グラム/t、場所により数十グラム/t。鹿児島菱刈鉱床の平均金品位は80g/t(東京大学総合研究博物館「東京大学コレクション2;岩石3;鹿児島県菱刈鉱山産筋鉱石より)
†15エコロジカル・リュックサック;ドイツのヴッパータール研究所が提案する環境負荷指標。日常使う製品や受けるサービスは、それらを作り出すために動かされ、変換される自然界の物質をリュックサックに入れて背負っていると考えられる。指標は、ある素材や製品1kgを得るために、鉱石、土砂、水その他の自然資源を何kg自然界から動かしたかによって表わされる。データ例:鋼鉄=21kg、アルミニウム=85kg、再生アルミニウム=3.5kg、ダイヤモンド=53,000,000kg等(環境省環境白書より)

そして色となる、「金」からの自律

♣2014年の春だった、金属を使用せずに金属調光沢を可能にする塗料が開発されたのは。有機化合物の一種で硫黄を含むチオフェン系化合物を合成し、溶媒に溶かして作製される(千葉大学大学院融合科学研究科教授星野グループ;日刊工業新聞2014-03-26掲載)云々。またひとつ、光とのほころびを解こうとする試みである。光の中へ、新しい色が生まれる。有るか無いか、見えるか見えないか…ええい、説破!いっそ目瞑りなはれ。

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2019/05/05/sun/ Ysasayama

▼ Rep-14

 「文字から生まれた色」

A Gompa in Sankar of Ladakh
←Photo:インド最北部ラダックのラマ教寺院ゴンパ ©123RF 無断転載不可 Do not share.

♣真言は曼荼羅か、曼怛攞か(宮坂宥勝 1998-p116-133)(†1)を読む。真言は梵語 Mantra の音写で曼怛攞(マントラ)である。「金剛頂経」「大日経」の仏陀の言説と文字は如義語、つまり真言であり、梵語 Maṇḍala 曼荼羅(マンダラ)と音写される。微妙の精緻がここにあるのは、文字だからである。そうか!なるほど合点した。

畏れながら哲学者空海に、問答願う。
文字「黒色」とは、何色か? 文字「青色」とは、どのような色か?

♣五色即ちこれは五大の色だと、空海あなたは「声字実相義」(†2)に記されておられる。「大日経疏」には五如来と色の関係、五つそれぞれの色の定義がこと詳細に示され、そこに言説、文字と声音が響く。では、文字や声音が示す色はどうすれば、目に見える色彩を現すだろう。赤は朱か緋か、黒は玄か墨か。空海あなたが唐より請来した一尺六丈の絹地彩色曼荼羅(†3)こそ、その五色ではないか。すでにこの世にない原画、灌頂の度毎に外気に晒した彩色を、その眼で凝視した人間以外知る由もない。唯一現存の高尾山曼荼羅は、紫綾に金銀泥の仕上げ。もとより五色は、そこにない。

♣インドに仏教が生まれる300年以前から、釈尊含め人々の心には偉大な自然秘教の教えがあった。釈尊が如来の自覚を得た後も、梵天からの説法勧請を三度も断り続けた誘因の真理知、ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッドだ。その原文4-4:9に天に昇る道の五色と出会う。現代に生きる五色糸かと想像した。しかし翻訳者により色の一部が揺らぎ、一定しない。白/赤黒or青黒/黄/緑/赤(†4)、白/青/黄/緑/赤(†5)、白/青/灰/緑/赤(†6)という具合に。文字による色は目に見えず、文字のままなのだ。

†1「宮坂宥勝著作集 第4巻 密教の思想」法蔵館1998
†2「空海 声字実相義」加藤精一編;角川学芸出版2013
†3「図解 曼荼羅入門」小峰弥彦著;角川文庫2016
†4:出典:「往生」真野龍海著;仏教文化研究第44号 浄土宗教学院2000;「白道の意義」真野龍海著;天光院HP研究論文
†5:出典:「The Thirteen Principal UPANISHADS」p141(162/568);Robert Ernest Hume;Oxford University Press 1921
†6:出典:「The BṚHADĀRAṆYAKA UPANIṢAD」p734(762/987);Swami Madhavananda;Swami Yogeshwarananda, Advaita Ashrama 1950
Part of Mural in Mogao Cave 323

目に見える色

←Photo:中国敦煌莫高窟のAD7C彩色仏教壁画 ©Harvard Art Museums(†7) 無断転載不可 Do not share.

♣釈迦の入滅後、言葉の記憶は時とともに変容を始める。都市と田舎、上層と下層、信仰と哲学、ボーディサッタとアラハー、記憶と記録、記録と文字、文字と印刷…。無我は延々と、二極分裂あるいは昇華を重ねゆく。密教の出現はその究極の修法、秘法秘儀ではないか、そう感じてしまう私である。
♣アショーカ王没落(推定BC232)後、インド国情も変容する。北西部からアレクサンダー帝国没落後のバクトリアが侵入、ガンダーラはギリシャ王国になり、透明だった仏教に色と形をまとった如来が現れる。国の乱れが、そこに住む人々の現世利益を呼び起こすのは、いつの世も同じだ。西域の石窟(†8)の中、1000年もの時の中でインド密教は研ぎ澄まされていく。特別ではなく、暮らしの中で曼怛攞が色を、呼び寄せ始めるのだ。

科学で見えた色

♣人類無二の文化的遺産は、研究・保護・保存される。修復復元のため、使用された色材の非接触分析結果が公表された密教石窟(†9)がある。附帯する紀念名発願文の造営年は、空海請来の曼荼羅(AD806)年より古いことが確認できる。非接触分析とは、可視光下肉眼観察、デジタル顕微鏡表面観察、蛍光X線元素分析、ラマン分光材質分析等による総合科学検査である。以下に、その色料の評価を記す。

敦煌莫高窟第285窟に使用されている色料
分 類検出された主要元素・化合物使用が推定される色料
R1赤褐色Fe 酸化鉄系赤色顔料
R2赤 色Hg
R3赤 色微量のFe 有機色料
GB1緑 色Cu Cu化合物による色料
GB2青 色微量のFe ラピスラズリ
GB3濃青色As・インディゴ 含砒素顔料+藍
GB4緑 色Cu Cu化合物による色料
Y黄 色As 石 黄
Y2淡い褐色As 石黄(変色)
B褐〜黒色Pb鉛丹

♣やっと色の現代イメージを想像できる。

†7:出典:Harvard Art Museums
†8-1:参考1:「チベット仏教文化調査団報告書」高野山大学 密教文化研究所
†8-2:参考2:「敦煌 中原と西域の文化が融合した芸術の宝庫」チャイナネット2009-08-31
†9:出典:「敦煌莫高窟 第285窟壁画に使用された彩色材料の非接触分析」 東京文化財研究所 保存科学第47号・48号・55号(高林・小瀬戸・于・范 2008_No.47 p90-p99)

「紫」何をか言わんや

♣「紫」は、姿を現さなかった。「青」と「緑」は、遠い彼の地で使い分けられた。経典に刻まれた五色の文字から、たなびく五色は生まれたのではないのか。真理と、象徴。異なれば、響くことはない。「五色は五如来を示す。五色の色がやや異なっているのは、如来の加持を確認する感覚が強まってきたということだろう」、そう説教された高僧の悟りは深い。だとすれば私など一生訪れないだろう、黒が紫に見える時など。それとも黒を「玄」(†10)となされたか。あぁ、ようやく腑に落ちる感覚に、出会ったようだ。

†10:参照追記2021.1116:拙稿Rep-11「忍法『黒紫』かぎろひの術」;「玄」は色でなく哲理と解釈。
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