色は調和のために生まれたのでしょうか? それとも、区別のためなのでしょうか?
2008/06/29/sun/ Ysasayama
▼ Rep-1この色塊は、ある寺院の本堂を被っていた幕(五色幕/幔幕)の基本配列です。繰り返し縫い合わされ、長い長い幕となります。向って右端の色は、何色に見えるでしょうか? 私には「紫色」に見えたのですが…。「紫色」には「禁色」の時代がありました。それで無性に知りたくなったのです。
この寺院の宗派総本山よりご指南いただきました。
五色幕(あるいは幔幕)は、本堂などを道場とするために張り巡らすものです。五つの色は、世界を構成する五つの要素を表しています。
色と構成要素との関係は以下の通り
1)地=黄 2)水=白 3)火=赤 4)風=黒 5)空=青
インド伝来の経典を根拠にしておりますので、幕は5世紀頃には使われていたのではないかと考えられます。
5世紀!日本はヤマト、古墳時代の中期です。しかし今度は「紫」どころか、「黒」と「青」との色が、配列の中に見当たらない。ボタンのかけ間違いかと思い、失礼を承知で再度伺うと古来の配色で青は緑か黄緑色のことで、紫色は黒の代用です
とのお答えでした。
この紫のような色、寺院によっては「紺に近い茄子紺」(左図)に染められて(技術の差?)います。古代日本では、あか/くろ=赤/黒に限らず「明るい/暗い」の表現でもあり、あお/あを=最も複雑で、藍染め「縹」なら、現代でいう黄緑色〜緑色や深緑色〜青色も色範疇です。「くろ=暗い」色合いからわざわざ選ばれた「紫のような色」を、なぜ代用だと仰るのでしょう?日本の仏教伝来は百済から公伝538年。五色は古代インドそれとも…。
チベットには、伝統の「ルンタ」という五色(左図)の魔除けと祈りの旗があります。インド仏教が栄える7世紀よりも遙か以前から、寺の屋上や家々の屋根上、峠や山の頂きにいたるまで飾られてきました。自然に対して、チベットの人たちが素直に感謝と祈りを捧げていることが窺えます。生地に経文や吉祥絵が印刷願掛けされ、信仰に対するおおらかさが五色幕と対照的に感じます。
ここにもインド宇宙観の影響はあるはずですが「黒」色は、ありません。経典に準拠の「黒」色、なぜ「紫色」に置換するのか、ますます興味渦巻くのです。
五正色と言われる幔幕も存在します。世界最古の木造建築寺院、聖徳宗総本山の法隆寺に掛けられた写真を見たのですが、ノートに「法隆寺にも五色幕;白、黄、赤、黒、青(現代の)」とメモを残し画像散逸! 教示の「黄=地、白=水、赤=火、黒=風、青=空」と現代色相がピタリと一致しているのです。
定義は一つ、なのに見た目異なる五色幕、さぞ仏様もお困りでしょう。
そこで仏旗:仏教界シンボル。色の出典は「小部経典」の無礙解道。
御説教の旗は「左上」です。今も賑やかに参道ではためく「左下」は、お払い箱の旧意匠だとか。経典準拠の「黒」の代用「紫のような色」は、不可視の輝きになられたのですね……。
色は文字や言葉とは異なり、一人の想像で固着できる代物ではありません。五色幕の「紫のような色」、解決に至らず興味は溢れるばかり。
ページ最初へ戻る ▲2008/07/23/wed/ Ysasayama
▼ Rep-2マゼンタ Magenta、シアン Cyan、イエロー Yellow。これらは現代の印刷色材の三原色色名です。Cyanは、ギリシャ語「暗い青」をラテン語文字書きで「Cyanos」とした語源を持ち、Yellowは、古語ゲルマン語「Ghel:輝く;Goldの語源」に由来するとされています。両色名とも色彩イメージを根源としているわけですが、Magentaはそうではないのです。現在のイタリア北部、世界有数のファッションの街ミラノのすぐ西にある、小さな町の名前なのです。日本にも「新橋色」という、地名を冠する特殊な色合いもあります。しかしそれは日本固有の文化の色です。世界スタンダードの印刷原色の色名、誰もが基準とする色材名に、イタリアの「Magenta」という町がなぜ結びつくことになったのでしょう?
光三原色(Red-Green-Blue)の加法混色は、不断の物理的実験と膨大な科学的蓄積データ分析による、証明された事実です。17世紀のケプラーから、18世紀のニュートン、ホイヘンスら物理学者による光学研究発表が、1801年のトーマス・ヤング三原色説「光と色の理論について」を引出し、ミューラー、ヘルム・ホルツ、マックスウェルを経てハーバード・ジョンズホプキンス大学共同研究「感光三色素発見」へ至る、約160年にも及ぶ連携研究で立証されました。これは「光学」であり、色材「化学」ではないのです。
向って正三角形の位置の三色が「色材の三原色」、逆三角形が「光の三原色」の配置構成で、全体は光スペクトル順に並べられ(物理的に赤と菫とが繋がることはあり得ません)ています。芸術・物理両面から分析されていることが読みとれます。ゲーテは「色彩論」草案に20年をかけ、1810年の公表後も、亡くなるまで22年間、一切研究を止めなかったと言われています。経験だけでも、理論だけでも価値はなく、主観と客観双方の仲介実験者としての信念を、未来へ託したのでしょう。だとすれば「色材の三原色」は、芸術的にも産業的にも、調和向上するための色彩定理として機能しなければいけません。
色彩環上部に「深紅色 Purpur」をゲーテは特別な純粋赤色として捉えています。「Purpur」とはドイツ語 Purpurschnecke(アクキガイ)の頭語で、ラテン語プールプラ Purpura(巻き貝)に由来し、古代より地中海中心に王族・聖界垂涎の「赤/紫」染色ブランドでした。「アクキガイの汁を良質のキャンバスにしみ込ませてから日光に当てると、極頂の最高点に到達するからである(†2)」と、ゲーテ自らも記しています(†3)。中世から混ぜること、混色あり得ずの色世界。これが色材のフラッグシップ、「マゼンタ Magenta」と結びつくことになったのでしょうか。
このマゼンタ、フランスでの商品名は "Fuchsine フクシン"(追記(†4B):アカバナ科の花「フクシア」の色に因んだと特許欄に記載アリ?)。ところが英国では "Magenta マゼンタ"の名で知られていたとか。フランス特許が絡んだためか、時代の万国博熱にうなされたためか…。官民一体突っ走る魔の産業特急に跨って、科学と産業と工芸とやらで世界をアッと言わせて貿易振興だ!とお偉い方はおっしゃった。おかげで発明の閻魔様は判定お裁きでそりゃぁお忙しい。科学なのか、金儲けなのか……医薬繁栄への黎明、深紅のマゼンタなのですが。
19世紀は「色彩」の化学的/美術的技術開発が急伸します。1856年、世界初の合成紫色染料「Mauveモーヴ」が、弱冠18歳の英化学者W.H.パーキン William Henry Perkin 1838-1907によって発見されました。パーキンは先のA.W.ホフマンのRCC研究員でした。1849年、マラリヤ治薬キニーネの合成実現をRCC表明していたホフマンの課題を、パーキンらしく実践しようとした中での偶然でした。「モーヴ」はゼニアオイ、フランス語モーヴェインからの命名です。"Born in the purple"…どれほど清楚に抱きたかったことか、気の遠くなる臭気まみれの精製と超のつくほど偏った高値から。「フクシン」も「モーヴ」も、Report-1で気にかかる紫、光には存在しない色なのです。仏デュコ・デュ・オーロン Ducos du Hauronが、三色インキで天然色写真「エリオクロミイ Heliochromy」を見つけるまで、今しばらく待たねばなりません。「色材の三原色」と「光の三原色」、色彩が自由になる美術の到来まで。
科学と産業が新しい胎動を始めると、イタリアは独立統一運動(リソルジメントRisorgimento)を再燃し、フランスと国境を分かつサルディニア王国(ピエモンテ)が先頭に立ちました。第一次戦に苦杯を舐めたサルディニア軍は、プロンビエールでフランスとの密約に成功し、仏軍20万の兵力援助確約を手にします。ナポレオンはウィーン議定書を、いやオーストリアを心底毛嫌いしていたのでしょう。そして1859年、オーストリア帝国の属国とされたロンバルディア・ベネチア奪回を皮切りに、祖国統一戦線の火蓋を切るのです。
フランスのナポレオン3世がサルディニアに支援した兵力は、外人部隊「Zouave(ズアーヴ)」と呼ぶアルジェリアベルベル族(†7)による軽歩兵でした。起源は1830年のフランスアルジェリア征服戦争。世界に先駆けて編成されたフランス外人部隊はそれ以後、大きな戦争の度毎に傭兵されています。そのユニフォームが左図です。
「マゼンタ村」の戦場にいた連合軍の半数以上が、このダブダブの赤いドレープズボンをはいていたとすれば、確かに異様な光景です。6月4日のマゼンタの町は、まっ赤であったかも知れません。連合軍は戦いを優位に進め、オーストリア軍を後退させました。マクマオン司令官は後に、マジェンタ公爵という称号ももらった……。だから、この赤いドレープズボンの色を「マゼンタ」と呼ぶようになった? 同年開発の自国フランス発の特許染料「フクシン」も「マゼンタ」と呼ぶようになった? いいえ、むしろプロパガンダでしょう。何故ならこの第二次イタリア独立統一戦では、「マゼンタ村」よりも「ソルフェリーノ村」に歴史上重要な鍵を与えられてしまったからです。
勝利か生命か、戦争か救援か、天秤にかけるまでもない「赤十字」という真理の鍵……皮肉なものです、相反する意味が同じ赤だなんて。これも色彩環の最上に位置するための、Purpur資質試練なのでしょう。
もうひとつ、「赤」が絡みます。それはイタリアリソルジメントを成功へと導いた「赤シャツ」の人物、名はジュセッペ・ガリバルディ Giuseppe Garibaldi 1807-18082。彼の存在なくして祖国統一は実現しなかったでしょう、後世のチェ・ゲバラからも尊敬された革命家です。義勇軍 千人隊(赤シャツ隊)を結成し、勝利を重ね上げる彼は南部両シチリア王国を掌握。1860年には南イタリア一帯を驚異的に納めしかも、サルディニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世にすべて献上するのですから、先の「赤いズボン連隊」とは比較にならない程のアイデンティティをこの「赤シャツ」は持ち得たはずです。しかし歴史は「フクシン」との関連を避けるように、ナポレオンの密約破棄、オーストリアとの単独講和と、戦争記述を刻むばかりです。
コーランの伝承として、預言者ムハンマドが神のために戦う聖戦ジハードで苦戦していたとき、神の遣わした天使たちが、赤いターバンと赤いベルトをしていたと言われます。「赤」は神の援軍のシンボルだったわけです。ローマ時代の勝利の神マルスMarsも「赤」でした。日本においても武士の「ハレ」の場は戦場であり、着用する甲冑の色彩は重要なアイデンティティでした。武者の好む物、紺よ紅山吹濃き蘇枋、茜…
と梁塵秘抄(1180年)にも記されています。時代は「赤」の無限の価値を有限の生命と等価であると信じて疑いませんでした。しかし科学が先導し始めると、雲行きが変わったのです。日本の古代染色第一人者、吉岡氏のある補修にまつわる一件、東京青梅御獄神社所蔵の国宝「赤糸威大鎧(あかいとおどしのおおよろい)」(†8)を例えに、ご紹介しましょう。
なお、「赤糸威鎧」は、出来事から百八十年近くを経た明治三十年代になって傷みが激しくなり、修理がおこなわれた。そのころは、1850年代に発明されたイギリス・ドイツの化学染料が日本に大量に輸入されはじめていて、日本の伝統的な植物染は衰退の一途をたどっていた。もちろん、吉宗が再興を願った日本茜染の技法などがのこっていたはずがない。その補修には、ドイツから輸入された、当時では最先端の化学染料が用いられたのである。ところが、それから百年たった現在はどうであろう。補修されず平安時代に茜に染められたままの糸は、若干退色はしているものの、いまなお茜色を呈しているが、化学染料で補修された糸は、無惨にもはげたような汚れた桃色になっている。天然の染料で染めた糸はたとえ退色していってもそれなりのうつくしさがある。しかし、化学染料は、ひとたび退色あるいは変化がおきると見るに忍びない色になってしまう危険性がある。
Zouaveの赤パンツも、Garibaldiの赤シャツも、マゼンタで染められていたかどうかわかりません。しかし色彩は、ゲーテの言うとおり、人間の生理的な側面、超越して精神的側面から生まれ来るものなのかもしれません。マゼンタは単に「Magenta村」の名を指すものでも、化学染料「フクシン」を指すものでもない。イタリアリソルジメントをこじ開けた、「自由の勝利を象徴する超越の深紅」そのものを指そうとした言葉ではないかと…やや万博的な匂いも残りますが。
2012.0701追記:Rep-12で、マゼンタ「赤紫あるいは深紅」についての新たな気づきがありました。ゲーテの素晴らしい洞察に感謝!
2008/08/31/sun/ Ysasayama
▼ Rep-3光の色を日頃意識するなんて、そう多くはありません。色に係る専門家でない限り、室内の明かりだって大して問題にはしません。しかし突然、日常生活の中で大自然の光の色に遭遇し、立ちつくすことがあります。それは、虹。物理で学習したはずなのに、本物を実際目の前にすると、消え入るまで見惚れてしまうのです。そして神懸かりのように、その虹が雲の中に現われることがあるのです。
今までに三度、それに遭遇したとはっきり記憶しています。一度目は、大船から江ノ島に向うモノレールの中からでした。空に浮かぶ雲が、えも言えぬ輝きを放って悠然といました。二度目は近くの公園から、南西の空の真正面に神々と光りたなびいていました。道行く人々も車も、みな立ち止まり、ただただ空を仰いでいました。三度目は夕暮れに染まる西の空に、茜雲の後光のよう静かに輝いて、時を引き連れゆっくり溶けるように透けて往きました。神妙で筆舌しがたく、印象深い光景なのです。(海外の参考事例:Optics POD)
日本では「彩雲」と呼ばれ、仏教でいう、西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えてやってくる時に乗っかってくるあの「五色雲」だとされています。別の名を「紫雲」と言います。そうです、またしても紫色なのです。極楽からとすれば、死に直面した人でなければ経験できないのでしょうか? 確か、竹取物語のかぐや姫の月からの迎衆も、これに乗っていた記憶があるのですが、さてどうだったでしょう。
なぜ虹が人の心を打つのでしょう? なぜ虹色が瑞相なのでしょう? 遙か古代から、自然の営みが生むすべての色彩を、誰も嫌悪する人はいないのです。空の青さも、海の碧さも、山の緑も花の艶やかさも。ましてや想像を超越する、七色同時に輝く虹や彩雲は、畏怖の念を抱く以外どうすることもできないのです。光に、色を見いだしたニュートンは、さぞかし誇らしかったでしょう。しかし同時に恐怖を覚えたに違いありません。光そのものは見ることはできず、ただ感じる偉大な存在なのに、分光で切り刻み色に変え区分するとは……科学は神を冒涜するのか!と。だからこそ、彼は神の加護=吉祥「七」の数字を当て護符とした、光は七色としたのだと想像してしまうのです。不協和音をも含む音階七音に比べ、光のそれは完全な平穏の調和、そう誰もが感じるからでしょう。
4世紀、東ローマ政権下で生み出されたビザンチン建築では、バシリカが教会モジュールになったことで、礼拝堂内部へ光を取り込む窓は雨の日も保てるようガラスが嵌められ、やがて神との対話を行なう「ステンドグラス」へと昇華してきました。宝石と交換することもあったガラス工芸品。その製造技術の中心地がここ地中海東岸でした。日本では邪馬台国消滅か? 今も考古学的に定まらぬ4世紀だというのに、世界中の教会という教会はガラス芸術の基盤を波及し始めるのです。
ちょうど一年前の夏、2007年8月25日。ドイツ西部の街ケルンの大聖堂:ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂 Dom St.Peter und Mariaは、南面の大窓に新ステンドグラス(左写真)の完成を祝いました。デザインは現代芸術重鎮のひとり、地元ケルン在住のゲルハルト・リヒター Gerhard Richterです。しかし大司教マイスナーの口からは、予期せず作品を揶揄する言葉や退廃発言が漏れたのです。非常識? ちっちゃいなぁ、この新ステンドグラスのメッセージは超越なんだぞ。大司教様、光は創造の母なんでしょう?
古くより教会は、優れた芸術家とより良い関係を築き上げてきたのでしょうか? ポーランド語で、創造者は"Stworca"、名匠は"Tworca"と言うのだと記された枢機卿の書簡をどこかで読んでメモをとっていました。芸術は誰が承認者となるのでしょう? 名匠? 創造者? 司祭? 光影を求めて原案を練り、構図を引き、色合いを選ぶ、選ばれた名匠リヒターは中世からのステンドグラスカラーを念入りに調査し、その中から72色を選び抜いて使用したと言います。72色の正方形の光の実、一枚一枚、手作り吹きガラスを何千枚も、神に委ね組上げたのです。
礼拝堂の窓から射し込む光は、ステンドグラス意匠を通して、いつも調和の心地を訪れる人々に優しく気付かせてくれる、そう思うのです。
4096の正方形色チップを無作為に並べ、主観を入れずすべて客観に任せる。偶然が必然になり、偶発が自然に生まれ、虚が実に実が虚に置き換わる。人間の目は色を追い残像を残し、心は想像を呼び不思議を描く。方式のない色の配置が光の原則を呼ぶ。美術に境界はない -spluso感想-
無彩の無数の星座。一面色のない恣意と、満天の光降る恣意と、現実を客観に委ねる。芸術は見る者との合作だろう。 -spluso感想-
写真を通じた絵画手法を編みだし、芸術界に頭角を現わしたリヒター。抽象画でインスピレーションを得たと述べています。抽象は具象と常時対を成し、それは彼自身の、心の揺らぎそのものにも思えます。写真は光がなければ映像を結びません。宇宙の星々も、光がなければ輝きません。光は大自然を調和するメシア(Messiah) なんでしょうね。ゲルハルト・リヒターの難解な芸術、カッコいい。
2008/10/02/thu/ Ysasayama
▼ Rep-4子ども:(交差点で)「ねえ、赤いろ信号は、どうして『とまれ』なの?」
お母さん:「それはね、自動車どうしがぶつからないようにするためよ。」
お父さん:「道路の交通信号機の色は『赤:Red light:安全に止まれ』『黄:amber light:安全に止まれ/それが無理なら安全に前進させる』『緑:Green light:安全に進める』の三色でね、CIE国際照明委員会によってその光・色が決められているんだよ。その色と意味は、世界のみんなが守る共通のルールなんだよ。日本ではさらに、交通安全を守るための法律として、その信号の種類と意味について、詳しく条文で取り決め(†1)ているんだ。他にもね、ISO(†2) 3864-1~3や、JIS(†3) z9101,z9103,z9104っていう、安全の色についての取り決めもあるよ。」
これでは子どもの疑問に答えていません。知りたいのは、赤色と「とまれ」の意味の相関です。先のCIEの交通安全光源基準色は5色:赤・緑・黄・白・青です。なぜその5色が選ばれたのか、科学的検証結果です、と言われればそれでおしまい。オリンピックシンボルも5色:青・黒・赤・黄・緑。五大陸をイメージしていると言われていますが、なぜその5色になったか、クーベルタン男爵に伺わなくてはなりません。色には象徴(ヒト中心で驕るようですが)を醸すエネルギーが組み込まれている? いいえ、ヒトは太古から学び続けている、と考えるべきでしょう。
遙か先史、海、山、平原、氷河、大自然の真っ直中で、黙して天然鉱物(顔料)を手に、思いをなぞるヒトがいました。言葉も文字もない、太古のコミュニケーション。自然に彼らは赤い土と花で、何かを確かに念じたのです。(Shanidar-1968.Leroi-Gourhan)、あるいは洞窟の暗い岩壁に向い何かを念じ画いたのです(Chauvet-1994:左写真:ショーベ洞窟)。南アフリカの、海を見下ろす岩窟に、赤色などの鉱石が57片残されていました。何かを思い使ったのです、16万4000年も昔のことです。(Pinacle Point Caves in South africa, Nature 2007.10.23.AFP)
彼らの行動を「象徴行動」(心理学用語でしょうか)と表現する文を多く見受けます。幼児がある物を別な物で代理させる「象徴」で、ごっこ遊びやふり、見立て話も。しかし色はいくら気になって仕方なくても、病気で光に出会えなかったヒトはそれを享受できません。象徴行動は、見ること以外にも色を関連付けられる、ということでしょう。
「色」には「しるし」のエネルギーが確かにあります。着衣の色は、心境などを示す「しるし」、顔色は健康を示す「しるし」という具合です。日常から離れたところにある、例えば祭祀、埋葬、祈祷などでの「色(しるし)」は畏怖であり、古墳の煌びやかな装飾での「色(しるし)」は無価(むげ)であり、不完全にも区別や種別する「色(しるし)」は権力でしょうか。存在そのものが調和である自然色に対して、人間が介在する色は、なぜか無常でいっぱいです。呪詛に言う怨念とも、意識に言う観念ともいえるエネルギーを放つ「色」の、想像を絶するイメージ力に脱帽です。何万年、何十万年も飛び越えて、我々に訴えかけ続けるのですから。
金色の鏡面質な紙の上に、壊れた破片飛び散る半立体の地球が、現われては消え、消えては現われる。色が不確かな虹色に滲んで揺らぐ。手で思わず像をさぐる。しかし掴むことは叶わない……。
地理学・地球学研究機関のパイオニア、ナショナルジオグラフィック協会は、記念すべき自社100周年記念誌(1988年12月号)イメージを、表紙・背柱・裏表紙とも、メタリックゴールドに全面レインボーホログラム Hologram(†5)という、大胆奇抜な仕様で全世界に発信しました。ホログラムは当時、一部信販会社のカード偽造防止用として使用される程度でしたから、前述のような3D印刷のグラフィック露出そのものが珍しく、しかもB5版フルサイズという迫力です。カバーに通常の11倍という巨費を投じた、ナショジオのイメージ戦略に、見るものは息を飲むほど度肝を抜かれ、小学生のように大はしゃぎしたのでした。
人は「色」に従わせようとします。「色」は人を導こうとしています。色の意味がいつ、どこで、どのように生まれたのか、知りたいと思います。
2008/10/22/wed/ Ysasayama
▼ Rep-5太古の人間が初めて目にした不思議な石、なんと妖艶なことか。叩いたりぶつけたり、手を加えてもみただろう。彼らが手にした石は銅鉱石の原石「マラカイト Malachite(孔雀石)」か、露頭した色変化の「自然銅 aes Cyprium」か。人間と金属の歴史の幕開けです。
「銅の時代」は、色彩世界に新しい「緑の時代」の幕開けを告げるものでもあったのです。Rep-1 五色幕の色で古来の配色で青は緑か黄緑色のことで(後略)
という解説は、残念ながら正しいとは言えないことになりますね。
エジプトの有史は、今から約5000年も遡らねばならなりません。イメージしてみてください、国土の90%以上を被う灼熱の赤い砂漠と、残された数%の緑の農地のエジプトを。「緑:ウアジュ」こそ、アケト(暑く乾く)後の、ペレト(種まき期)の春に、必ずや現われる穀物の芽吹き、命の象徴です。マラカイトは、その鮮やかな「緑」色を表現することができるのです。
肌の色が「緑 Green」であるオシリス神 Osiris(上記画像の右から三番目)は、エジプト神話の冥界の王、そして復活の神です。ピラミッドの玄室壁面に、柩の底や外側に、新しくはパピルス紙に、死者が黄泉の国で永遠に、平和に暮らせるよう嘆願するヒエログリフ(文字)と共に描かれました。あの世へのガイドブック、同時にパスポート「死者の書」として、ミイラに携えさせたのです。オシリス神は、死者の現世の行いを知る彼の心臓と、法と真実の羽毛とを正義の天秤にかけます。死者が約束の野原で、平和に土地を耕し暮らすのに相応しいか、あるいは野獣に喰らわせることが相応しいか、裁くのです。緑のことをする、それはエジプトの人々が、自らの生命を磨くこと、希望を祈ることに他ならないのです。
中国「禮記」第六篇の月令(暦/年中行事/天文書)に記述された、春の情景を謳った冒頭部分です。「青陽」「青衣」「倉玉」「青旗」「鸞路」「倉龍」と「青」づくしの春、春の象徴「青」です。しかしその天子「青のことをする」に反して時節のイメージは、雪解けの大地に草木の新芽が一斉に芽吹き、双葉薫るそよ風、若々しくきらきらと輝くみどりの光。外は一面の「緑 Green」澄みわたる世界なのです。おわかりでしょうか、古来より中国における漢字「青」は、清々しい「緑」色を意味する文字なのです。陰陽五行説の立て役者、斉の鄒衍:BC305〜BC240も異論はないはずですが、如何でしょう?
画像の切手は、奈良飛鳥の高松塚古墳壁画を記念して発行された一枚で、石室東壁に描かれている青龍を克明模写デザインされたものです。劣化したリアルな色彩を考慮しても、五方「東」の五色「青」が、「青 Blue」ではないことがわかります。
エジプト、メソポタミア文明から約2500年後、中国に青銅器が出現します。夏朝の末期から、商(殷)朝の始まり,いわゆる龍山文化の頃です。やがて青銅器の内側に直接、象形(文字)を刻み鋳込むという非常に高度な技術を持つのですが、その文字「金文」に、染織家 前田雨城氏は「青」の原点、井戸の傍らに木が立っているようなものを見いだせると、著書「色:染と色彩」で述べられています。
字書「金文編」(容庚 著;中華書局1985)の「静」ページを参考に「青」扁部分を作字してみると、確かにその意向を理解できました。漢和辞書に拠れば、「青」は「生せい」を音符、「丹」を意符の形声文字で、草が生成する意。草木生成の色。一説に丹は鉱石の意であおい色とも。憶測ですが、マラカイト(孔雀石)を熱して炉に生まれる塊「銅」から、木の緑が生まれると解釈すれば、それは「緑青」ということになります。いづれにせよ、丹から生まれた「青」も、イメージは植物の芽吹き「緑 Green」なのです。
丹から生まれた青が緑とは、何とも摩訶不思議で面白い。日本の上代において、純粋に色名と考えられるものは「明アカ、暗クロ、顕シロ、漠アヲ」の四つがあるに過ぎないと、国文学者の佐竹昭広氏は発表されました。すべて光のイメージです。特に「漠アヲ」は情景を物語る「概念的」な色彩で、何となく実体が伴わない。伴ったとしても恣意的です。湖の湖面に映った山を指して、あれは湖だという人は少ないだろうし、映り込んだ空の色と山の色は決して同じではないのです。「緑」である「青」に、一体どこで断定的Blueイメージが挿入されたものか? まるでソシュールの言語理論講座のテーマになりそうな話です。