52  戸隠神社(長野市)  芦峅寺地区(富山県立山町)


・令和3年5月10日(月) 戸隠神社中社(長野市)

 東京駅6時16分発北陸新幹線「かがやき501号」に乗る。7時37分に長野駅に着く。東口の近くに建つ相鉄フレッサイン長野東口へ行き荷物を預かってもらう。2泊予約していた。

 長野駅に戻る。善光寺口を出て、アルピコ交通バス長野駅前総合案内所へ行く。窓口の職員に、今日、戸隠神社の中社を参拝し、明日、奥社を参拝する予定であることを話すと、2日間乗り降り自由のフリー切符を勧められる。別々に購入するよりも4割ほど安くなる得な切符である。
 「2日間フリー切符」を買って、8時30分発のバスに乗る。

 創建以来2000年を超える戸隠神社(とがくしじんじゃ)は、奥社(おくしゃ)、中社(ちゅうしゃ)、宝光社(ほうこうしゃ)、火之御子社(ひのみこしゃ)、九頭龍社(くずりゅうしゃ)の五社から成り立っている。今日は中社を参拝し、明日は、九頭龍社と、戸隠神社のご本社である奥社を参拝する予定である。
 戸隠神社は、山岳信仰の歴史を今に伝えていることが認められ、昭和54年(1979年)3月、長野県史跡に指定されている。

 20年ほど前に宮崎県高千穂町に建つ天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)を参拝した。天岩戸神社は、天照大御神が隠れた天岩戸と呼ばれる洞窟をご神体としてお祀りしている。社殿の横を川が流れている。
 案内係の説明では、川の向こうに天岩戸の洞窟があったと推定されています。今は原生林に覆われていますが、その林に幾分窪みがあるように見えます。そこが洞窟の入り口と考えられていますが、洞窟に近づくことは禁じられています。役所の人たちも近づくことはできません、というお話だった。
 確かに樹林に一部後退しているのが認められるが、洞窟を見た者はいないということだった。
 また、次のようなお話も伺った。天照大御神が天岩戸の外が騒がしいので入り口の天岩戸を少し動かしたとき、怪力の持ち主の天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が天岩戸を外し投げ飛ばしました。この天岩戸が飛来して戸隠山ができあがりました

 バスは、善光寺の、門前町の雰囲気が残る狭い道路をスピードを落として左右に曲がる。狭い町並みを抜けると山へ上っていく。
 40分程上って飯綱高原を過ぎると道路が平らになる。白樺林が現れる。瑞々しい新緑の樹林の間から豪快な山容の戸隠山(標高1、904m)が見えてきた。
ゴツゴツした岩壁が剥き出しになった頂上付近は残雪が輝やいている。戸隠山は戸隠神社のご神体である。

 20分程上がると道路が急坂になる。バスは戸隠神社宝光社の前を通る。道路を隔てた反対側に宿坊が並ぶ。戸隠中社、宝光社の宿坊のある町並みは、平成29年2月、国重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
 古来7年ごとに行われる戸隠神社式年大祭が今年の4月25日から5月25日まで行われる。そのためか参道、境内などあらゆる神域に縄が張り巡らされ、紙垂(しで)が吊るされている。

 9時34分、停留所「戸隠中社」に着く。風が冷たい。気温は10度くらいだろうか。桜の花が咲き、ようやく葉が出始めている。ここは標高1,100mに位置する。

 大鳥居を中心にして樹齢800年の巨大な杉の木が3本、72m間隔で正三角形状に並んで立っている。戸隠の三本杉と呼ばれている。
 大鳥居を潜って石段を上がる。右手に三本杉の内の1本が立っている。

 更に石段を上がる。戸隠神社中社の拝殿が建っている。


戸隠神社中社 拝殿


 中社のご祭神は天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)である。説明板が立っている。一部を記す。

 「神話に名高い天照大御神が御弟須佐之男命(すさのおのみこと)の度重なる非行をお怒りになり、天岩戸にお隠れになった時、神楽を創案し、万民をして安んぜしめたと言う知恵の深い神である。」

 拝殿に相対する位置に、ご神木の杉の木が聳えている。説明板によると、推定樹齢約700年、幹回り約7mと記されている。


・同年5月11日(火) 戸隠神社九頭龍社 奥社(長野市)

 昨日と同じバスの乗り場から7時発のバスに乗る。昨日降りた停留所「戸隠中社」を過ぎて8時8分、停留所「戸隠奥社入口」に着く。鳥居を潜って参道を歩く。

 30分程歩く。茅葺屋根の赤い随神門(ずいしんもん)が立っている。


随神門


 随神門を潜ると、樹齢約400年、高さ約30mの200本の杉並木が続く。厳かな雰囲気の杉並木は約500mにわたる。参道は善光寺から戸隠神社奥社への参詣道として戸隠道と呼ばれた古道である。戸隠道は文化庁の「歴史の道百選」に選定されている。


戸隠道


 参道の杉並木を含む戸隠神社奥社の社叢(しゃそう)は長野県天然記念物に指定されている。説明板に大要次のように説明されている。


 「戸隠神社社叢は、戸隠神社奥社の境内地として、400年にわたり保護管理されてきた51haに及ぶ広大な社叢林である。針葉樹林を支えつつ、多様な広葉樹が生育する。樹木の伐採が禁じられたため、原生林に近い稀有な森林植物相を示している。
 また、モリアオガエル、クロサンショウウオなどの水生動物や約80種の野鳥の繁殖地としても大変貴重である。」

 

 20分程歩く。杉並木が終わって急坂になる。右側の、急斜面を流れる川から響く大きな水音を聞きながら上る。10分程上がると急勾配の270段の石段が始まる。

 20分程かかって上る。戸隠神社九頭龍社に着く。右手の少し石段を上った狭い境内に戸隠神社奥社の拝殿が建っている。拝殿の左裏に、巨大な岩が拝殿に迫る勢いで聳えている。


戸隠神社奥社 拝殿


 奥社のご祭神は、怪力の持ち主の天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)である。奥社の拝殿まで上ると戸隠山の頂上付近がもっとよく見えるのではないかと期待して上って来たが、頂上下の山肌しか見えなかった。

 足を踏み外さないように気をつけてゆっくり石段を下る。
 随神門から鳥居までの参道の両側に
きれいな水が流れている。水際のあちらこちらに水芭蕉の花が咲いている。



・同年5月12日(水)  菜の花公園(長野県飯山市)

 ホテルを出て長野駅へ行き、6時58分発の「しなの鉄道」に乗る。
 三つ目の豊野(とよの)駅に着く。「しなの鉄道」は豊野駅でJR飯山線に引き継がれる。駅の左右にリンゴ園が広がる。リンゴの木は枝を伸ばし、白い花をつけている。

 次の信濃浅野駅を過ぎると右手に千曲川が現れる。千曲川は大河の風格を漂わせて滔々と流れている。

 替佐(かえさ)駅に着く。15年ほど前に初めて野沢温泉へ行った。当時、新幹線は長野駅が終点だったので長野駅から飯山線に乗り換えた。替佐駅に着いたとき、ホームに、「唱歌・故郷が生まれた所です」というようなことが書かれた案内板が立っていた。駅の周辺の風景は、「故郷」に歌われている穏やかで落ち着いた風景だった。
 今日は、そのような案内板は見当たらなかったが、やはり今日も15年ほど前に見たものと同じ美しい田園風景だった。

 「故郷(ふるさと)」の作詞者は、長野県下水内郡豊田村(現・中野市水江)出身の国文学者であり、作詞家であった高野辰之(1876~1947)である。高野辰之は、作曲家・岡野貞一(1878~1941)と共に多くの名曲を世に出した。「故郷」の他「朧月夜」、「もみじ」、「春がきた」、「春の小川」、「日の丸の旗」などである。

 7時47分、飯山駅に着く。駅前から8時50分発「野沢温泉行き」のバスに乗る。9時14分、停留所「湯の入荘入口」に着く。
 バスを降りて、右手の小学校の運動場を回り込むようにしながら坂を上がる。左手に菜の花畑が広がる。

 約20分で「菜の花公園」に着く。広さ4haの敷地に約800万本の菜の花を咲かせる「菜の花公園」を含む地域は、唱歌「朧月夜(おぼろづきよ)」の舞台として知られている。菜の花は菜種油を取るアブラ菜の花が一般的だが、この地域では野沢菜の花である。
 「菜の花公園」へ入る。

 視野いっぱいに美しい風景が展開する。標高1、382mの斑尾山(まだらおさん)千曲川が見える。


斑尾山と千曲川


 右に眼を転じると、いずれも標高2、000mを超える黒姫山妙高山(みょうこうさん)火打山(ひうちやま)の信越国境の山が連なっている。

 ベンチに座って朝日に輝く菜の花畑や山や川を眺めていても「朧月夜」の歌は思い浮かばない。「朧月夜」は夕景色を歌っているからである。それよりも、自然に思い浮かぶのは「故郷」である。

 平成28年2月15日から17日までと、平成29年2月13日から15日までそれぞれ2泊3日、野沢温泉の旅をした。旅の間、標高1、300mの上ノ平(うえのたいら)高原を走る雪上車遊覧を楽しんだ。
 そのとき、雪上車に同乗してガイドをしてくださった土田さんが次のように仰った。


 「5月の連休の頃になると千曲川の流域は菜の花で黄色に染まります。小学唱歌に『おぼろ月夜』という歌がありますが、あれは、この野沢から飯山にかけての早春の景色をうたったものなのです。ここが、あの舞台です。
 作詞は高野辰之さん。彼のいちばん有名な歌は『ふるさと』でしょう。“うさぎを追ったかの山”がいま見えているあの斑尾山、“小鮒を釣ったかの川”は千曲川の支流の斑尾川なのです。」


 人の声も音楽も車の音も聞こえない。静寂の中で聞こえるのは鶯の美しい声だけである。

 平成29年2月14日、雪上車遊覧を楽しんだ後、 記念館「おぼろ月夜の館」を訪ねた。「おぼろ月夜の館」は高野辰之の書斎を再現し、高野辰之の著書、書、書簡、高野が取集した書画などを展示している(雪上車と「おぼろ月夜の館」について、目次26目次32参照)。

 「菜の花公園」について説明板に次のように記されていた。
 ここは、元飯山営林署、宮中苗園が明治34年(1901年)に設立された場所である。平成4年、飯山市が農村公園として整備し、日本一の菜の花景観をめざして活動している。
 公園の周辺の樹木は設立当時に植えられたものである、と説明されている。
 周辺に桜や杉の木が植えられている。そうすると、これらの樹木の樹齢は100年を超えているのだろう。

 停留所「湯の入荘入口」に戻る。11時59分発「飯山駅行き」のバスに乗る。12時28分に飯山駅に着く飯山駅13時4分発北陸新幹線「はくたか561号」に乗る。
 新幹線はトンネルに入ったり、出たりを繰り返し、長いトンネルに入る。黒部宇奈月温泉駅の手前で地上に出る。左側の車窓から、残雪に輝く豪快な山容の黒部の峰々が見える。

 13時56分、富山駅に着く。駅の近くの富山エクセルホテル東急にチェックインする。2泊予約していた。以前、奥の細道を歩いていた頃、富山駅で降りたときに数回富山エクセルホテル東急でランチのバイキングで食事をしたことがある。デザートが充実していた。今回、朝食が楽しみである。

 夜、JR富山駅に隣接する名店街の中の寿司屋「すし玉」へ入り、「朝とれ地物盛り11貫」を注文する。おいしいので、最近、富山駅で降りるたびに「すし玉」へ行く。寿司が来る前に運ばれてきたカニ入りの熱い味噌汁がおいしい。寿司は今日もみんな新鮮でおいしかった。富山湾で獲れるホタルイカ、白エビも入っていた。


・同年5月13日(木) 芦峅寺地区(富山県立山町) 

 早朝ホテルを出てJR富山駅に隣接する富山地方鉄道電鉄富山駅へ行く。7時5分発立山線の電車に乗る。7時59分に立山駅の三つ手前の千垣(ちがき)駅に着く。無人の駅である。千垣駅発8時2分の立山町営バスが待っている。バスは定員13名のジャンボタクシーである。8時8分に、終点の停留所「芦峅寺」に着く。

 バスを降りると、正面に残雪に輝く立山連峰が見えた。


立山連峰


 雄山(おやま)神社は、立山連峰の雄山山頂3、003mに位置する峰本社、山裾に建つ芦峅(あしくら)中宮祈願殿岩峅(いわくら)前立社壇(まえたてしゃだん)の三社から成り立っている。
 今から3年前の平成30年10月15日、岩峅前立社壇を、翌日16日、芦峅中宮祈願殿を参拝した(目次41参照)。

 岩峅前立社壇の所在地は富山県中新川郡立山町岩峅寺(いわくらじ)1番地、芦峅中宮祈願殿の所在地は富山県中新川郡立山町芦峅寺(あしくらじ)2番地である。岩峅寺、芦峅寺ともに信仰のために立山に登拝する客を泊める宿坊として発展した町であり、立山信仰の基地であった。
 今日、訪ねる芦峅寺地区は、室町時時代からの宗教村落であり、立山へ入山する際の最後の集落であった。江戸時代後半には立山登拝の参拝者の数は年間6千人を越え、宿坊33坊が建っていた。
 現在の芦峅寺地区は「立山曼荼羅(まんだら)の里」として整備されている。現在、営まれている宿坊はなく、かつての宿坊の建物が2棟残っている。今日、宿坊他を見学しながら芦峅寺地区を散策する予定である。

 まだ時間が早いため近くに建つ立山博物館とかつての宿坊・教算坊へ入ることができないから、始めに閻魔堂を訪ねる。少し後戻りして左側の坂を下る。静かな集落に用水路を流れる水音が響く。閻魔堂の境内入り口に着く。石段を上がって門を潜る。


閻魔堂 門


 杉林に囲まれて閻魔(えんま)堂が建っている。閻魔堂は、立山が女人禁制だった時代に女性たちが閻魔大王に罪を懺悔したお堂と伝えられている。


閻魔堂


 説明板が立っている。一部を記す。

 「このお堂は、文正元年(1466年)の造営の記録があり、現在まで530年間、篤い崇敬を集めています。
 現在の建物は、廃仏毀釈の際に取り壊され、昭和3年に、かつての閻魔堂の部材を一部使用して再建されました。」

 外から堂内を拝観する。正面中央に地獄の王・閻魔大王が安置されている。赤い顔に口をかっと開け、眼をいっぱいに見開いて憤怒の形相で睨みつけている。堂内が暗く、内部の細かいところまでは分からなかった。閻魔大王は南北朝時代の制作である。富山県の有形民俗文化財に指定されている。

 境内に多くの石仏が並んでいる。


石仏


 門の手前の左手に、杉林に囲まれた石段が続いている。明念坂(みょうねんざか)と名付けられている。閻魔堂の参道である。参道の両側に、往き来する人を見守るように石仏が並ぶ。しかし、歩く人は稀のようで石段は苔むしている。滑らないように気をつけて、ゆっくりと石段を下る。杉林のあちらこちらから鶯の美しい声が聞こえる。


明念坂


 石段の途中の左手に、明念坂六地蔵菩薩が並んでいる。


明念坂六地蔵菩薩


 説明板の一部を記す。

 「地蔵菩薩は、現世利益(げんせりやく)の他、死後六道(ろくどう)の世界に迷う亡者を救済する仏として平安時代以降、多くの人々の信仰を集めた仏です。」また、背面に貞享2年と刻まれていることが記されている。貞享2年は1684年である。

 石段を降りると、姥谷川(うばだにがわ)に架かる朱塗りの布橋(ぬのばし)の前に出た。


布橋


 明治時代初期まで立山が女人禁制だった時代、女人は布橋を渡って立山を遥拝した。姥谷川は三途の川に見立てられ、布橋は立山にあるあの世と、人が住むこの世の境界とされていた。布橋を渡ってあの世を見た女人は、また布橋を渡ってこの世に戻って生まれ変わると伝えられていた。
 江戸時代、死者に着せる白装束を身に纏った女人が布橋を渡る儀式が行われていた。
布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)と呼ばれた。その後、布橋灌頂会は行われなくなって久しかったが、近年、この儀式が復活した。3年ごとに行われていて、昨年がその年に当たったが中止になった。

 左へ曲がる。布橋の全景が見える。右側から渡り、左側のあの世へ入る。左側は墓地になっている。


布橋


 立山博物館と宿坊・教算坊が開館する9時半に近くなったので後戻りして立山博物館へ行く。
 博物館は3階建である。展示室は2階と3階にある。3階の展示室から見て下へ下る。3階の展示室は立山の自然を紹介している。2階の展示室は立山信仰について展示している。

 「立山曼荼羅」が展示されている。寸法は縦128cm、横146、7cm、4幅であるが、展示されているものは複製である。原物は慶応2年(1866年)に制作されたものである。
 空に天人が舞っている。ゴツゴツした岩だらけの立山連峰が描かれている。左端に、剣を逆さに立てたような鋭く尖った峰が描かれている。剱岳である。剱岳の下に、血の池でもがき苦しむ亡者の群を更に痛めつけている鬼がいる。亡者が乗った車を曳いて走る鬼がいる。車は火炎に包まれている。火車(かしゃ)である。

 右側には、立山連峰の中腹の緑の峠と樹木が描かれている。峰の頂上に建つ社をめざして登っている行者がいる。行者に混じって一般の参詣人も登っている。長閑な光景である。地獄と極楽の世界が描かれている。

 明治40年(1907年)、標高2、999mの剱岳(つるぎだけ)山頂で発見された銅製の錫杖頭(しゃくじょうとう)鉄剣(てっけん)が展示されている。今日、立山博物館へ入館したのは、この錫杖頭と鉄剣を見学するのが目的だった。
 錫杖は、修行僧や修験者が山野を行脚するときに用いる杖である。頭部は銅を撓めてうちわの形に作られている。使用するときは頭部に環をかける。展示されている錫杖頭と鉄剣は平安時代の制作とされている。しかし、錫杖頭と鉄剣が、何時、山頂に奉納されたのか判明していない。錫杖頭と鉄剣は昭和34年(1959年)、国重要文化財に指定された。

 弘法大師が草鞋3千足を使っても登れなかった山として伝えられ、人跡未踏だった筈の剱岳の山頂で発見された錫杖頭と鉄剣について、また山岳地方の地図を作成するために山へ分け入って行う測量の仕事の過酷さは、新田次郎(1912~1980)の『劔岳 点の記』に詳しい。

 明治39年(1906年)、陸軍省陸地測量部測量官・柴崎芳太郎(1876~1938)は、中部山岳地方の正確な五万分の一の地図を作るために、未だ誰も登頂したことのない剱岳に初登頂して、山頂に地図作成に必要な三角点標石(ひょうせき)の埋定(まいてい)を命じられる。
 柴崎は剱岳登頂の準備を始める。しかし、剱岳は「立山曼荼羅」に地獄の針の山、死の山として描かれて、登ってはならないし、もし登ったら生きては帰れない山と信じられていた。そのため剱岳の資料や情報が乏しく、しかも芦峅寺地区には剱岳を怖がって案内を引き受ける者はいなかった。
 そこで仕事の先輩の薦めで、芦峅寺地区から1、5キロ程離れた和田地区に住む、案内人として評判の良い
宇治長次郎(1872~1945)に案内を依頼した。

 宇治長次郎も当初は剱岳に登ることに不安な様子だったが、登頂路について近くの猟師に訊いてまわり、自身で登れるところまで登って、簡単な地図を作って登山口を探したりして剱岳登頂に向けて準備をした。
 柴崎芳太郎は東京と芦峅寺地区を往復しながら、宇治長次郎と何度も話し合いを重ね、登頂に向けて思案していた。
 登頂の予定を立てて、柴崎は、長次郎の他に測量官の助手・測夫2名、人夫2名と共に登った。途中、テントを張り、人夫を残して登る。しかし、急激な天候の変化による暴風雨、吹雪、雪崩、熊の出没、垂直に切り立つ岩峰、雪渓の割れ目などの危険な場所など困難なことに遭遇し下山を余儀なくされる。引き返して他の登頂路を探す。死の危険を感じながら、こういったことを何度か繰り返した。

 その後、柴崎と長次郎は、絶壁を這い上がるのは無理だから、雪が残っている時期に急峻だけれども大雪渓を登ることが唯一頂上へ近づけるのではないかと考える。
 最初の予定を立ててから9ヶ月後の明治40年7月12日、長次郎と測夫1名、人夫2名が鳶口を持ち、草鞋(わらじ)の裏に重い鉄の「かんじき」を付けて剱岳東面の大雪渓を登る。柴崎は他の者と途中に張ったテントで待機する。
 大雪渓が巨石にぶつかって二つに分かれる。左側の雪渓を登る。雪渓を登りきると高さ約60mの岩壁がそそり立っていた。長次郎は裸足になって岩壁を攀じ登る。測夫と人夫2名も裸足になって後に続く。ようやく頂上に着いた。
 頂上に大きな石の窪みがあった。そこに錫杖頭と鉄剣があるのを測夫が発見した。錫杖頭は緑青(ろくしょう)がふいていて、鉄剣は赤錆びていた。行者が登拝した際に奉納したものと思われた。下山した4人は柴崎に報告し、錫杖頭と鉄剣を渡す。
 15日後の7月27日、柴崎と長次郎、測夫2名、人夫2名は、重い測量器材と建設用材及び標石を背負って登頂し、山頂に四等三角点を設定した。

 正確な地図を作るために、雪渓や岩壁を攀じ登り、断崖の縁(ふち)を歩き、幾多の苦難を乗り越えて、遭難や凍死することもなく無事、登頂して仕事を完遂させた。それにも拘らず柴崎たちの献身的努力と功績は評価されなかった。初登頂にこだわった陸地測量部は初登頂ではなかったことに落胆するばかりだった。その中で、英国の山岳会に倣って2年前に創立された日本山岳会の幹事が柴崎に暖かい祝電を送る。

 「剱岳初登頂おめでとうございます。なお、頂上におけるかずかずの貴重なる歴史的発見は日本登山史を飾るものとして長く後世に伝えられるでしょう。あなたがたの輝かしい成功に心から、尊敬と感謝の言葉を送ります。山岳会」

 錫杖頭と鉄剣は平安時代の制作とされている。しかし、錫杖頭と鉄剣は錆具合なども鑑定したのだろうが、何時、山頂に奉納されたのか判明していない。

 柴崎芳太郎は寡黙な人だったようである。剱岳登頂を含めて仕事のことは同僚とも殆ど話すことはなかった。
 大正初期までに本土の測量が終了すると、北海道、千島、台湾、朝鮮、満州、蒙古、中国、シベリアなどの測量に従事した。昭和13年1月29日に亡くなる。享年62歳だった。

 宇治長次郎は献身的に仕事をする人だった。『劔岳 点の記』から引用する。


 「『お客さんは大事にしなければならない。自分が眠らずとも、お客さんには眠れるようにしてやらねばならないし、お客さんに登ってみろと云われたら、どんな危険なところでも登らねばならない』

 と口癖のように云っていた。彼は常に自分の身を犠牲にしてお客に尽くそうとしていたらしい。お客さんの荷は極力軽くし、その分だけ自分が持った。足がすくむほどの荷を背負って山に登ることが当り前だった。食事の折も、お客さんが食べ終わってからテントの片隅で残り物を食べるようにしていた。客のために自分はテントの外に寝たこともあった。」(中略)

 「彼は、多くのお客さんたちから、可愛がられた。山に詳しい誠実なガイドとして信用されていた。一度でも、長次郎と共に山に行った旦那たちは、必ず山の道具類を彼の家に預けて置いた。2階がお客さんたちの部屋であった。

 長次郎は73歳で死んだ。死ぬ直前に孫たちに云った言葉を口にするときの(娘の)のぶさんの目頭に光るものがあった。

 『2階には東京からお出でになったお客さんがいるから静かにしろよ』

 彼は、もう老齢で久しくガイドはしていなかった。しかし、彼の頭の中には山のこと、お客さんのことが常にあったようである。」


 冷静に状況を分析し、どんな苦難に遭遇しても落ち着いて行動した柴崎芳太郎と、危険な箇所を事前に察知する動物的な勘を持ち、温度や湿度の僅かな変化、風の向き、雲の動きなどから天候を予測する宇治長次郎の2人が何度も話し合いを重ね、協力して挑んだから剱岳登頂が実現できたのではないかと考える。
 もし、この2人の内どちらかが別の者だったら、予め剱岳の登山道を造ってから登るということになり、剱岳登頂はもっと後になっていたのではないかと思う。

 その後、宇治長次郎が登った剱岳東面の大雪渓は「長次郎谷」と命名され、宇治長次郎の案内人としての功績が後世に伝えられた。

 剱岳は今も一般登山者が登る山のうちでは危険度の高い山ということになっている。
 電鉄富山駅から電車に乗って30分程経つと、進行方向左側の車窓から剱岳
が見えてくる。剣を立てたような尖った峰が連なり、日本の山ではないような峻険な山容は、遠くから見ていても緊張する。

 近くに、かつて宿坊だった教算坊(きょうさんぼう)の建物が建っている。文化文政(1820年前後)頃に建てられた建物である。明治以降、宿坊を止めて一般の民家となった。昭和57年(1982年)、所有者の佐伯家から建物と庭園が県に寄贈され、現在、建物と庭園が一般公開されている。

 板塀に沿って石段を上がる。表門を潜って庭園へ入る。


教算坊 庭園


 爽やかな風が吹いて、瑞々しい新緑の葉が風に揺れている。広い庭園のあちらこちらに立山杉を配している。風格のある立山杉が庭園をおおらかで開放的なものにしている。
 周囲を巡らす板塀の高さを抑えているため立山連峰や近くの杉林が借景となって、庭園が自然の一部に見える。深山渓谷を登ってきて、明るく開けた場所に辿り着いたような爽快な気分になった。
 説明によると、庭園に置かれている石は近くの山や谷から運ばれたものである。

 木立に囲まれて教算坊が建っている。寺の庫裏のような簡素な美しい建物である。


教算坊


 説明板が立っている。一部を記す。


 「この建物は、江戸時代後期に建てられた宿坊で、明治以降一般の民家として使用され、昭和57年まで佐伯宗義氏の邸宅として使用されてきたものです。
 この宿坊は、江戸時代、芦峅寺33坊の一つで、立山信仰の隆盛に伴い諸国から多くの参詣者で賑わいました。
 宿坊建築は、民家、宿、寺の三つの機能を持つもので、民家構造を基本としながら宗教的色彩を持つところにその特徴が見られます。」


 説明書を見ながら内部を見学する。
 部屋数が多い。建物の中心に仏間を設けている。その左隣に、接待の間だった床の間を持つ部屋が四つ並ぶ。右隣りは家人の生活に使われた部屋が並ぶ。
 宿坊は登拝の方法も教えていた。教算坊に宿泊した参詣人は、美しい庭園を眺めて息抜きができたことと思う。

 教算坊を出て道路に下りる。左へ曲がる。200m程歩いて右側の石段を下りる。下りたところは墓地の中だった。墓地を出て旧道へ入り左へ曲がる。左側に先ほどとは別の墓地が続く。静かな道を500m程歩く。

 右側に、かつて宿坊だった善道坊(ぜんどうぼう)の建物が建っている。江戸時代の創建である。外側から内部を見る。民家、宿、寺の三つの機能を持っていた宿坊の在りし日の姿をよく留めている。分かりやすい間取りだった。建物の中心部に須弥壇の宗教施設を設け、左側に家人の生活の場、右側に参詣者の宿泊する場所を配している。


善道坊


 隣接して旧嶋家(しまけ)住宅が建っている。富山県婦負郡細入村片掛(現・富山市片掛)にあった住宅を昭和47年(1972年)、現在地に移築した。片掛は飛騨街道筋にあって宿場町として発展した。建築年代は不明だが18世紀末のものと推定されている。国指定重要文化財である。
 内部の修復工事が行われていて、外からも内部を見ることはできなかった。建物の周囲を回りながら土壁、板葺き石置き屋根を見る。


旧嶋家住宅


 停留所「芦峅寺」に戻る。バスは12時44分に発車する。乗客は私だけだった。短い時間だったが、運転手さんと、初めて剱岳に登った人はどんな方法で登ったんでしょうね、と話した。12時50分に千垣駅に着く。千垣駅12時53分発の電車に乗る。13時48分に電鉄富山駅に着く。
 今日も、JR富山駅に隣接する名店街の中の寿司屋「すし玉」へ入り、「朝とれ地物盛り11貫」を食べる。


・同年5月14日(金) (帰京)

 懐石風のおいしい和食膳をいただいてホテルを出る。富山駅9時8分発北陸新幹線「かがやき506号」に乗る。11時20分、東京駅に着く





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