26 野沢温泉 上ノ平高原(長野県)


・平成28年2月15日(月) 野沢温泉


北陸新幹線E7系


 朝、6時10分を過ぎて、東京駅22番線ホームに、北陸新幹線E7系12両編成「はくたか551号」が入線した。先週、富山と福井の旅で乗った「かがやき501号」も同じE7系12両編成だった。

 気品と落ち着きを表す車体のアイボリーホワイト、北陸の空の青さを表現した車体上部のコバルトブルー、車体に流れるラインの銅の色は、日本の伝統工芸である銅器や象嵌を表しているといわれている。日本の美しさを表す三つの色の美しい新幹線である。

 6時28分、「はくたか551号」が滑るように動き出した。


 10年前の平成18年3月4日(土)、私が住んでいる地域のセンターで、日本経済新聞編集委員である土田芳樹さんの講演会が開かれた。
 土田さんは、前年の平成17年5月から10月まで芭蕉と同じ5ヶ月間で「奥の細道」
の全行程を歩かれた。その体験を語る講演会であった。
 その頃、私も「奥の細道」を歩いていて福井へ入ったところだったので、講演会に出席し、お話を伺った。

 休憩を挟んで、後半は、土田さんが撮った写真をスライドで見せながら説明を続けられた。
 土田さんは、敦賀へ向かうのに木の芽峠越えではなく、北陸本線旧線の廃線跡地である県道を歩かれた。
 最後に質疑応答があった。私も、休日を利用して「奥の細道」を歩いていることを述べて質問させていただいた。

 土田さんは、旅の途上、原稿を日本経済新聞社本社に送り、それが「『奥の細道』を歩く」と題して毎週金曜日の夕刊に連載されていた。
 連載の20回目に、福井から敦賀までを3日間で歩いたことが述べられている。
 その3日間の旅に同行されたかたがおられた。元国鉄機関士の川端新ニ氏である。川端氏は、昭和4年(1929年)1月、福井市に生まれる。昭和18年(1943年)3月、国民学校高等科(高等小学)卒業後4月に鉄道省に就職する。14歳であった。爾来41年機関士として勤務し、昭和59年(1984年)3月、国鉄を退職する。

 以前、土田さんが川端氏を取材して以来、お付き合いが続いていると述べられている。
 川端氏から、「出身地が福井なので越前路をぜひご一緒したい」と連絡が入り、3日間を一緒に歩くことにしたとのことであった。

 土田さんと川端氏は、川端氏ご自身が機関士として乗務していた北陸本線旧線の廃線跡地を歩き、トンネルを通る。

 廃線になった旧線の区間の今庄~敦賀間26、4キロは、1、000m進む間に25mの高さを増す25パーミルの急勾配の峠越えがあり、北陸本線最大の難所と言われた。この区間の今庄駅と敦賀駅の間には、大桐(おおぎり)駅、杉津(すいづ)駅、新保(しんぼ)駅の三つの駅があり、杉津駅は海抜200mの位置にあった。

 連載の20回目に、トンネルを抜けて、土田さんと川端氏が杉津駅跡から敦賀湾を眺めたとき、美しい風景を前にして、川端氏が「あのころは、投炭に忙しく、外の景色なんか見られませんでした」と語った言葉が載っていた。
 この言葉から、急勾配の坂道を上るとき、煤煙と焦熱に苦しみながら休むことなく焚き口からカマに石炭を投げ入れる激しい労働の過酷さを思った。

 その後、同じ年の平成18年8月13日の午後、敦賀駅の待合室で偶然に土田さんにお逢いした。
 その日、私は、敦賀市内の観光をして、その日に宿泊する長浜のホテルへ戻るために待合室で電車を待っていた。そこへ旅行の格好をした土田さんが入って来られた。

 土田さんは、これから小浜線に乗る予定であることを話された。お互いの乗る電車の待ち時間が15分程あったので、その間、お話することができた。
 私は、前日、杉津を訪ねたことをお話して、「杉津は上から見た方が良いんですね。」と申し上げると、土田さんは、「そりゃそうですよ。敦賀湾と敦賀湾を囲む岬の風景の美しさは高い所から見た方が良いんですよ。」と仰った。

 土田さんのお言葉と、川端氏の「あのころは、投炭に忙しく、外の景色なんか見られませんでした」と語った言葉を思い合せて、私もいつか、敦賀湾と杉津の町を高い所から眺めようと思った。
 (杉津については、「奥の細道旅日記」目次31、平成18年8月12日参照) 

 講演会から7年後の平成25年9月17日、北陸本線旧線廃線跡地の一部である南今庄から杉津まで歩いた。
 山中トンネルから始まり、六つ目のトンネルを抜けると、右手に美しい風景が広がっていた。美しい青い色の敦賀湾と対岸に横たわる敦賀半島が見えた。杉津の集落があり、黄金(きん)色の棚田が見えた。

 立ち止まって、しばらく美しい風景を眺めていた。

 川端氏が絶景を前にして感慨深く語った杉津駅跡は、現在、北陸自動車道上り線の杉津PAになっている。杉津駅跡からは、私が見た風景よりも、もっと雄大で美しい風景を見ることができただろう。
 私は杉津駅跡に立つことはできなかったが、望みの一端を叶えることができた。

 この旅の記録は、以上のできごとを含めて「日本紀行」目次12に記した(目次12参照)。 

 川端氏は、『ある機関士の回想』、『15歳の機関助士』の2冊の本を上梓しておられる。土田さんは旅の記録を新聞に連載されておられ、土田さんの文章はインターネットで読むことができるものもある。
 しかし、個人であるから、お名前を出させていただくからには、せめて土田さんに事前の許可を得て、内容をチェックしていただいた方が良かったのではないか、とあとから思うようになってきた。

 それで、昨年の11月、2年もたっていたけれども、土田さんへお手紙を差し上げた。私の非礼をお詫びして、内容のチェックをお願いし、間違いや不都合な箇所がありましたら、すぐに訂正または削除いたします、と申し上げた。

 1週間ほどして、土田さんからお手紙をいただいた。間違いを一ヶ所指摘された。それはすぐに削除した。
 土田さんからのお手紙は、北陸本線旧線の廃線跡地を川端氏と歩かれたことを懐かしむ内容であった。

 土田さんは、講演会の翌年の平成19年、秩父巡礼を果たされ、エルサレムバチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つであるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路を歩かれた。
 二つの旅は、「秩父巡礼」、「スペイン巡礼記 還暦カミーノ」の題で、それぞれ日本経済新聞夕刊に連載された。

 その後、平成21年12月から3ヶ月間、長野県下高井郡野沢温泉村に滞在し、翌年の平成22年1月から3月まで、野沢温泉村の記事を「北信濃の豪雪地帯 野沢温泉村に住んでみる」と題して、日本経済新聞夕刊に連載した。

 土田さんは、定年後、冬の間、野沢温泉に滞在し、標高1、300mの上ノ平(うえのたいら)高原を走る雪上車遊覧のガイドをボランティアでおやりになって、お仕事の合間には、スキー、温泉、地元の住民との交流を楽しんでおられる。
 野沢温泉村でのご活躍の様子は、平成24年8月4日から9月29日まで日本経済新聞土曜日夕刊に、「野沢雪上ガイド奮闘記」の題で連載されたので知ることができた。これは、「雪原遊覧ガイドの野沢日記」と改題され、加筆されたものをインターネットでも読むことができる。 

 「雪原遊覧ガイドの野沢日記」は、ユーモアに富み、読んでいて楽しくなる。それで、手紙の最後に、10年前の春に野沢温泉に行ったことがあることと「雪原遊覧ガイドの野沢日記」を楽しく拝読しています、ということを書いた。
 土田さんからのお手紙には、3m、4mの雪に埋もれた野沢も面白いですよ、というようなことが書かれてあった。

 その後、土田さんにご連絡して、土田さんが冬の間滞在される民宿・白樺に、2月15日から2泊3日の宿泊を予約し、雪上車も、翌日の16日、1日6回運行しているうちの一番早い時間の9時45分を予約した。

 土田さんは、「雪原遊覧ガイドの野沢日記」の第一回で、野沢の魅力を三つ挙げておられる。1つ目はスキー場と温泉の組み合わせ。2つ目は北信濃の景色。3つ目は人情の機微である。

 土田さんが美しく描写された北信濃の山並みと、その稜線の向こうに見える日本海を私も見たくなったのである。


 長野駅を過ぎると、左手に千曲川(ちくまがわ)が現れる。千曲川は蛇行しながら大河の風格を漂わせて滔々と流れている。千曲川は新潟県に入って信濃川と名前を変え、日本海に流れ込み長い旅を終える。
 新幹線は千曲川に近づいたり離れたりしながら走る。

 8時21分、飯山駅に着く。雪が降っている。8時35分発「野沢温泉行き」のバスに乗る。満員の乗客を乗せてバスは走る。道路の所々に、積み上げられて高くなった雪の山が見える。9時に野沢温泉に着く。
 10年前の春、野沢温泉に来たときは、長野新幹線に乗って終点の長野駅で降りて、JR飯山線に乗り換えた。1時間程乗って戸狩野沢温泉駅に着く。駅からまたバスに15分程乗って温泉街に着いた。北陸新幹線が開通して乗り換えが1回で済み、時間も30分程短縮された。

 バスを降りて道路の反対側にある観光案内所へ行き、野沢温泉のマップをもらう。
 マップを見ながら、予約している民宿・白樺
へ行く。予約するとき、チェックインは2時だけれども、早く着いても荷物はお預かりします、ということを伺っていた。玄関へ入ると、女将さんが出て来られて、部屋の掃除は済んでますから荷物は部屋へどうぞ、と言って、私のリュックを持ってくれた。
 2階の部屋へ案内されて、荷物を置かせてもらって外へ出る。

 起伏の多い温泉街に、幅の狭い道が木の枝のように岐れている。立ち止まってマップを見ていると、ライトバンに乗った若い男性が車を停めて窓から顔を出して、どこへ行くんですか、と親切に声をかけてくれる。

 国の天然記念物に指定されている麻釜(おがま)に着く。野沢温泉は30余りの源泉があるが、麻釜は、その一つである。


麻釜(おがま)



 案内板が立っていて、麻釜の温度は90数度あり、泉質は弱アルカリ性硫黄泉、湧出量は毎分約500リットルである、と説明されている。

 昔、麻をここで茹でて皮を剝きやすくして皮をはぎ、繊維を取っていた。それが麻釜の名前の由来とされている。
 前回来たとき、野菜を入れた籠を熱湯に入れて野菜を茹でているのを見た。野沢菜も漬ける前に麻釜の湯で洗う。野沢温泉に住む人にとって麻釜は台所の一部になっているのだろう。

 昼になった。ビリケン食堂に入る。寒いので鍋焼きうどんとご飯を注文する。ご飯がおいしい。野沢菜が付いていた。野沢温泉で過ごした3日間、どこで食事をしても、いつも野沢菜が付いていた。また、いつもご飯がおいしかった。

 野沢温泉は外湯が13軒ある。前回来たとき「大湯(おおゆ)」に入った記憶がある。今回も「大湯」に入ろうと思って行ったが、清掃中の札が下がっていた。坂を下り「河原湯(かわはらゆ)」に入る。

 地元の人と思われる60代くらいの男性が浴槽に入っていた。挨拶をする。かけ湯をして浴槽に入る。入ったときは熱いと感じたが、その熱さが次第に体になじんでくる。
 どちらから来られましたか、と話しかけられた。野沢温泉の道祖神祭りは過激な祭りですね、と話したら笑っていた。
 民宿・白樺に戻る。雪は降っていたが、宿に着くまで身体はポカポカとして温かかった。

 部屋で休んでいると、6時頃、土田さんが来られた。お目にかかるのは久しぶりだった。
 土田さんは、用事があって、これから出かけなくてはならないので、明日は、夜、外で食事しましょうと言われた。
 マップに、明日の雪上車の発着場までの道順を書いていただいた。それには、動く歩道の「遊ロード」から日影ゴンドラで上ノ平スキーセンターへとなっていた。

 土田さんは、毎朝、別の道を上り、長坂にあるスキー場の管理事務所に立ち寄る。各ゲレンデの積雪、気象状況をチェックしたあと、事務所内に置いてあるスキー板を持って長坂ゴンドラに乗る。終点のやまびこ駅から上ノ平ゲレンデを滑って上ノ平スキーセンターに到着、9時45分発の雪上車遊覧①便に備える。
 1日6便あり、午後3時過ぎ仕事が終わると帰りもスキーで山を下る、ということだった。
  

 夕食の時間の6時半になったので食堂へ行く。食事はご馳走だった。ご飯がおいしい。自家製コシヒカリと表示されていた。長野県らしく蕎麦もあった。


・同年2月16日(火) 上ノ平高原

 静かな夜だったから8時間以上も熟睡して、目が覚めたのは7時前だった。部屋の中が明るい。外を見ると、雪は止んで明るく陽が照っている。
 朝食の時間の7時半に食堂へ行く。女将さんが、いいお天気になって良かったですね、道路の雪はお昼頃には融けますよ、と言った。

 8時頃に宿を出る。雪が積もっている坂道を滑らないようにゆっくりと上る。湯沢神社の白木の両部鳥居の前に出た。左に曲がり坂を上る。右手の聳える杉木立の間から湯沢神社の拝殿が見えた。


湯沢神社 拝殿


 動く歩道の「遊ロード」の前に着いた。おおぜいのスキーヤーやスノーボーダーが次々と「遊ロード」に乗る。外国人が多い。
 「遊ロード」は50m以上はあるのではないかと思うほど長い。山の斜面を這うようにして上がる。一度降りて平らな金網を歩く。また、「遊ロード」が始まる。

 「遊ロード」を降りる。目の前に日影ゲレンデが広がっている。


日影ゲレンデ


 右に、日影インフォメーションセンターが建っている。そこで、日影ゴンドラリフトの往復チケットを買う。

 左の建物の前に、幾つもの円いテーブルが並べられ、テーブルを囲んで椅子が置かれている。スキー客が椅子に座り、暖かい陽を浴びながらお喋りを楽しんだり、仲間が滑っているのを眺めたりして思い思いに寛いでいる。映像で見る、ヨーロッパのスキーリゾート地のような明るい雰囲気がある。

 その建物を回り、日影駅からゴンドラに乗る。
 ゴンドラが上がるにつれて、眼下に広がる温泉街と、周辺の山々が見えてきた。雪で白一色に変わったブナの原生林の真上を通る。動物の足跡が見える。カモシカだろうか。 

 約8分乗って上ノ平駅に着いた。9時15分だった。赤い雪上車「かもしか号」が上ノ平ゲレンデの雪上車の発着場に既に待機している。


雪上車「かもしか号」


 上ノ平スキーセンターで雪上車の料金を払う。ドリンク代が含まれています。ご希望のドリンクがあれば仰ってください。温めときますから帰りに受け取ってください、と言われ、缶コーヒーをお願いする。

 土田さんが来られた。挨拶する。土田さんも、いい天気になりましたね、午前中で良かったんですよ、午後から曇るかもしれませんからね、と仰った。
 出発5分前に雪上車の発着場へ行く。運転手さんに挨拶する。車に取り付けられた梯子を使って車内に乗り込む。

 定刻の9時45分に発車する。早い時間だったからか、定員16名の車内に乗客は私だけだった。土田さんが、貸し切り状態ですね、と言って笑った。
 一人だけれども運行してくれて、土田さんにガイドをやっていただける。空は青く晴れ上がり、日射しは暖かい。所要時間45分の短い旅だけれども、贅沢な旅になった。

 雪上車は上ノ平ゲレンデの斜面を上り、標高1、300mの上ノ平高原に入る。
 ブナの深い森の中を走る。白樺が見える。戦後植えられて丈高く成長した杉の木も見える。「ここは普段、車が通れる道ですが、現在、1m50cmの積雪の上を走っています。これは、いつもの年の三分の一の積雪量です。」と説明がある。 

 10分程走る。左手に、大きな楕円形で、平らに雪が積もっている場所が見えてきた。草原の上に雪が積もっているのだろうか、と思っていたら、「これは、巣鷹湖(すたかこ)という名前の湖です。湖面は凍ってなくて雪に覆われているだけです。湖に流れ込む伏流水の温度が高く、積雪が保温の働きをしているからです。」という説明にびっくりした。

 湖を半周程走って車が停まった。車から降りる。
 湖の向こうの正面に、標高1、650mの毛無山(けなしやま)が聳えている。毛無山は白く輝いていた。


毛無山


 毛無山について、「毛無山の本当の名前は御巣鷹山。日航ジャンボ機が墜落した群馬県の御巣鷹山と同じ名前です。江戸時代、将軍家に献上する鷹狩の鷹の雛を育てた山です。御巣鷹山という名前の山は他にもまだあります。」との説明があった。

 車に乗る。車内でも、春になると人間と熊の間で「ネマガリダケ」という細くて小さい筍の争奪戦が始まる、などユーモアをまじえたお話が伺える。しかし、次に熊の写真を見せられたときはびっくりした。仔熊だったけれども写真を写せる距離に熊が現れたことに驚いた。カモシカの写真も見せていただいたが、カモシカは優しい顔をしている。

 車は湖を一周してもとに戻る。発着場を見下ろす高い場所に車が停まる。車から降りる。

 ここから壮大な景色を見ることができた。180度、視界いっぱいに北信濃の山並みが見える。山々は白銀に輝き、神々しい姿だった。この素晴らしい景色を見ただけでも来た甲斐があったと思った。


北信濃の山並み

 

 土田さんの説明を伺った。素晴らしい説明だった。その全部を記す。


 「正面に頂上が台形のかたちをした特徴ある山が妙高山(みょうこうさん)です。その右の白いピラミッドのような三角の山が火打山(ひうちやま)、妙高、火打とも、深田久弥の日本百名山に名を連ねる名峰です。
 妙高山は野沢温泉からみて真西にあたります。妙高から左、つまり南西方向に向かって見える富士山のような格好の山が
黒姫山(くろひめやま)です。そのすぐ左奥にゴツゴツした感じの岩山が戸隠山(とがくしやま)、黒姫山の左手前にあるゲレンデが三つに分かれた山が斑尾山(まだらおさん)、その左後ろ、どっしりした山容を誇っているのが飯縄山(いいづなやま)です。
 南から西へ
、飯縄、斑尾、戸隠、黒姫、妙高を、北信濃の名だたる山ということで、地元では”北信五岳(ほくしんごがく)”と呼んでいます。

 黒姫山の右うしろ、白い屏風を立てたような山が高妻山(たかつまやま)、これも日本百名山の一つです。その高妻山の右奥、白い二等辺三角形の山が白馬岳(しろうまだけ)、白馬の並びで左側に唐松岳(からまつだけ)五竜岳(ごりゅうだけ)鹿島槍ヶ岳(かしまやりがたけ)といった後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)の山々も比較的よく見えます。
 すこし霞んでいますが、飯縄山の左に連なるのが北アルプスの主脈で、真ん中あたりのピークが槍ヶ岳(やりがたけ)、その左の峰が穂高連峰(ほたかれんぽう)です。きょうは視認できませんが、気象条件が良ければ、その左に乗鞍岳(のりくらだけ)、そして木曽の御嶽山(おんたけさん)まで望むことができます。」
 

 それから北側を見る。「鍋倉山(なべくらやま)の東にある関田峠(せきだとうげ)は、昔、越後の農家の人たちが農閑期に野沢温泉へ湯治に来るとき越えた峠です。骨休みが終わったら、また関田峠を越えて帰りました。」 

 鍋倉山の東の稜線を越えて日本海が見えたようだったが、空と海の境界がはっきりしなかったので、よく分からなかった。

 説明が山から谷に移る。谷間を貫流する千曲川とその流域の説明に深く感動した。説明の全部を記す。


 「谷間を左から右に流れているのが千曲川。10数キロ下って新潟県に入ると信濃川と名前を変えます。源流は奥秩父の甲武信岳です。佐久平、上田盆地を潤し、長野の善光寺平で犀川と合流します。その上流に上高地を流れる有名な梓川があります。飯山盆地に入り、野沢の下を激しく蛇行しながら流れ下ります。千曲川を『千』に『曲る』と書くのはそのためでしょう。新潟県に入り、津南、十日町、小千谷、長岡を流れ、新潟で日本海に注ぎます。全長367km、日本でいちばん長い川です。

 5月の連休の頃になると千曲川の流域は菜の花で黄色に染まります。小学唱歌に『おぼろ月夜』という歌がありますが、あれは、この野沢から飯山にかけての早春の景色をうたったものなのです。ここが、あの歌の舞台です。
 作詞は高野辰之さん。彼のいちばん有名な歌は『ふるさと』でしょう。“うさぎを追ったかの山”がいま見えているあの斑尾山、“小鮒を釣ったかの川”は千曲川の支流の
斑尾川なのです。
 高野辰之さんは、斑尾山のふもとの豊田村(現・中野市)の出身ですが、晩年は、気に入った野沢温泉に山荘を構え、戦後まもなく、昭和22年、野沢で亡くなっています。その後、東京の自宅にあった斑山(はんざん)文庫を野沢に移し、いま、『おぼろ月夜の館』として記念館となっています。」


 土田さんのご説明は美しい紀行文になっている。
 登山の趣味もお持ちの土田さんが北信濃の自然は勿論、町や村も愛しておられることを感じた。  

 来年の冬も、この美しい景色を見ようと思った。

 最初に車に乗るとき、土田さんから「野沢温泉スキー場上ノ平から見える北信・北アルプスの山々」と書かれた資料をいただいた。イラスト入りで、山の形や名前が書かれている。これも見るべきだったのだが、絶景を前にして説明を伺っていたので資料を見る余裕がなかった。次回は、この資料と照合しながら景色を楽しみたいと思う。

 上記の山と峠について、いただいた資料に記載されている標高を転記する。

          妙高山     2、446
          火打山     2、468m
          黒姫山     2、053m
          戸隠山     1、911m
          斑尾山     1、382m
          飯縄山     1、917m
          高妻山     2、353m
          白馬岳     2、932m
          唐松岳     2、696m
          五竜岳     2、814m
          鹿島槍ヶ岳   2、889m
          槍ヶ岳      3、161m
          乗鞍岳     3、026m
          御嶽山       3、067m
          鍋倉山     1、289

          関田峠     1、100m

 車は発着場に戻る。次の10時30分発の便を8人ほどの人たちが待っていた。
 運転手さんと土田さんにお礼を申し上げる。

 上ノ平スキーセンターで缶コーヒーをいただく。暖かい休憩所で熱い缶コーヒーを飲みながら休む。

 下へ下りる。朝、宿の女将さんが言ったとおり、道路の雪は融けて路面は乾き、歩きやすくなっていた。

 昨日、土田さんに昼ご飯のことを尋ねたら、新屋(あたらしや)で時々親子丼を食べる、と言っていたので新屋へ行く。
 きれいな店だった。親子丼や焼き鳥丼を食べている人が多い。うな丼やうな重もやっている。
前にウナギを食べたのはいつだったか思い出せないほどウナギを食べてなかったので、うな重を注文する。ウナギはふっくらとして、柔らかくておいしかった。
 次回来たときは親子丼か焼き鳥丼を食べようと思う。

 共同湯「ふるさとの湯」へ行く。5年程前に建てられた共同湯で、13軒の外湯の他の共同湯である。昨日、宿の女将さんに優待券をいただいていたのでそれを使う。100円割引してもらった。
 「あつ湯」と「ぬる湯」と露天風呂がある。「ぬる湯」にゆっくり入って温まる。風呂から上がって休憩室で休む。

 宿に戻って部屋で休む。

 夜、土田さんに案内されて、焼肉屋・萬里(ばんり)へ行く。
 ビールで乾杯し、お互いの1日の疲れをねぎらう。肉もおいしいが、野菜もおいしい。野菜は地元産のものだろう。肉厚のネギがおいしい。話しながら、ビールを飲み、肉や野菜をお替りする。

 店内は客でいっぱいだった。殆どが外国人である。盛んにビールを飲み、笑い、賑やかである。野沢温泉のスキー場の雪質の良さが海外にも広く知られているようである。 

 ここは、かつ丼も美味いんですよ、と土田さんが仰ったが、これ以上入りそうもなかった。かつ丼は来年の楽しみにとっておこう。


・同年2月17日(水) (帰京)

 朝、起きると、雪が降っていた。朝食後、9時過ぎに宿を出る。9時30分発のバスに乗る。降り方が激しくなった雪の中を飯山駅に向かってバスは走る。





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