スイス旅行記/地理誌
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2014年6月、スイスの主にドイツ語圏・イタリア語圏を旅した。訪問した要地とその歴史等について記す。

ベルン Bern
ベリンツォーナ Bellinzona
アンデルマット Andermatt


スイス誓約同盟の成立とザンクト・ゴットハルト(St.Gotthard)峠
アルプスの山々は極めて急峻であり、イタリア・ドイツ間でアルプスを越えようとすれば峠を通行しないわけにはいかない。 その中でもザンクト・ゴットハルト(St.Gotthard)峠を通るルート(ゴットハルト街道)は、標高約2,100mの峠を1度通行するのみでよく、 比較的遠回りにならない点で優れていた。 イタリアからザンクト・ゴットハルト峠を超えて、峠のふもとのアンデルマットに至るまでの道は難路ではないが、 その先のシェレーネン渓谷がこのルートの難所であった。



シェレーネン渓谷の開発が難しかったため、ザンクト・ゴットハルト峠の開通は1200年ごろまで遅れた。 しかし、開通するやその利便性により、交通路として栄えるとともに、 ドイツの王である神聖ローマ皇帝とイタリアにいる教皇を結ぶ位置にあることにより、緊要な戦略上の要地となった。

ザンクト・ゴットハルト峠のすぐ北に位置するウーリ(Uri)は、 もともと僻遠の地で争奪の対象にならず、住民による自治が進展していた。 スイスの広い領域にわたる守護権をもっていたツェーリンガー家が断絶すると、 その守護領域は細分化され、ウーリに対する守護権はハプスブルク家に与えられた。 しかしながら、イタリア政策を重んじる神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、 イタリアへの交通路を確保するため、1231年ウーリを皇帝直下とし自由特許状を与えた。 ハプスブルク家に対する担保解除の弁済金は、 ウーリの住民が自らゴットハルト街道から得られる収入を用いて支払い、ウーリの住民は自由を買い戻した。

ウーリの北東にあるシュヴィーツ(Schwyz)は、ウーリと同様一定の自治組織ができあがりつつあったが、 ハプスブルク家の支配を受けていた。 シュヴィーツの住民は自治を望んでおり、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とローマ教皇の対立において、 ハプスブルク家が教皇側につくと、シュヴィーツの住民は皇帝側につき、ハプスブルク家の支配に抵抗した。 これによりシュヴィーツは1240年に皇帝より自由特許状を与えられたが、当時皇帝は教皇に破門されて窮地にあったため、 その実効性は必ずしも十分でなかった。 1250年にフリードリヒ2世が死去すると、ドイツは神聖ローマ皇帝の力が衰微した大空位時代に入った。

ハプスブルク家は、1232年に分裂していたが、本家のルドルフ4世は勢力拡大に余念の無い人物であった。 1973年に分家の領地を吸収して再統合し、スイス北部とアルザスにまたがるスイス最大の領主となった。 同年アルザスとスイスの中間点にあるバーゼルを攻撃していたまさにそのとき、選帝侯からドイツ王(神聖ローマ皇帝)に推挙する旨の連絡を受けたのである。 ルドルフ4世はバーゼルとすぐに講和し、神聖ローマ帝国のルドルフ1世として即位した。

ルドルフ1世は、ウーリに対してすぐに自由特許の更新を行ったが、発展するザンクト・ゴットハルト峠ルートには強い関心をもっていた。 ウーリの南側、ザンクト・ゴットハルト峠のふもとのウルゼレン地方を確保するとともに、ルートの北側の水運の要衝ルツェルン(Luzern)を獲得し、 南北からゴットハルト街道を抑えにかかった。



ドイツ(神聖ローマ帝国)王である強力なルドルフ1世に南北から挟まれ、 ゴットハルト街道の利益と自治を脅かされることになったウーリ・シュヴィーツは、 ウンターヴァルデンも誘ってハプスブルク家に対して対抗しようとした。 (ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンは森林3州と呼ばれる。) 折りしも、1276年、ルドルフ1世はボヘミア王を破ってオーストリアを領地として獲得した。 ルドルフ1世はオーストリア経営に注力し、ハプスブルク家の本拠地もウィーンに移ったため、スイスにおけるハプスブルク家の圧力は低下した。 その結果、森林3州では自治が進展し、ハプスブルク家に対抗する力が備わりつつあった。

1291年、ルドルフ1世が死去すると、スイスで反ハプスブルク蜂起が起こり、森林3州の代表はリュットリ(Rütli)の草地に集まり、永久同盟を結んだ。 こうしてスイスの原形(スイス誓約同盟)ができたのである。





1315年、ハプスブルク家はついに森林3州に対して出兵した。レオポルト1世が率いる騎士を主力とした約9000の軍は、シュヴィーツに侵攻した。 対するシュヴィーツは2州の援軍400を含めた1300の兵数で、すべて斧を装備した歩兵であった。 スイス軍はハプスブルク軍を山の隘路に誘い込み、奇襲してこれを撃破した。 スイス側の損失は僅少であったのに対して、ハプスブルク軍は2000人が戦死した(モルガルテンの戦い)。 こうして、森林3州はその武勇によって自治を守り、また、歩兵の新たな時代の幕開けを飾ったのである。

スイス兵の全盛期と終焉
ブルゴーニュ戦争(1474-1478)において、スイス誓約同盟は報奨金を受ける代わりにフランス王について戦い、ブルゴーニュ大公シャルルを戦死させた。 これは、実質的なフランスとの傭兵契約であるといえた。 この後、スイスにおいては傭兵を派遣する動きが加速していった。

1494年、フランス王シャルル8世はスイス傭兵8千を含む2万5千の軍を率いてイタリアに侵攻した。 これに対して、教皇・神聖ローマ皇帝・ミラノ・ヴェネツィアは神聖同盟を結成した。 神聖同盟はフォルノーヴォでフランス王を包囲したが、スイス兵が突撃によって退路をひらき、 フランス王はなんとか本国へ退却することができた。(第一次イタリア戦争

1499年、フランス王ルイ12世はスイス誓約同盟と10年間の同盟および傭兵契約を結び、ミラノに侵攻してこれを占拠した。 スイス誓約同盟は、ザンクト・ゴットハルト峠のイタリア側登攀口であるベリンツォーナの領有をこの条件としていた。 1500年、ミラノ大公ロドヴィゴ・イル・モーロはこれもまたスイス傭兵を中心に2万の兵を集めてこれを奪還した。 その結果、ノヴァラの地では敵味方両方でスイス傭兵が主力の状態で対峙する事態となった。 誓約同盟は共同防衛を定めた軍事同盟に過ぎず、この利益相反を防ぐ仕組みを有していなかったのである。 (基本的に、フランス側の諸州はフランス寄りであり、東部諸州はミラノ寄りであった。) 結局、ミラノ側のスイス傭兵が戦闘を拒否し、ミラノ大公はスイス兵にまぎれて脱出しようとしたが、 ウーリ州のハンス・トゥルマンという兵士がフランスにこれを密告したため、ミラノ大公は捕らえられた。 (ノヴァラの裏切り のちにハンス・トゥルマンはウーリに帰国するや裏切り者として処刑された。)

この後、フランスが約束を履行しなかったためスイス誓約同盟とフランスの関係は悪化した。 一部の傭兵は、チェーザレ・ボルジアに雇われてフランスやジェノヴァと戦ったり、 神聖ローマ皇帝に雇われて戦ったりした。 1503年には、スイス誓約同盟はついにベリンツォーナに出兵して実力行使によってこれを占領した。



こうしたスイスに目をつけたのは教皇ユリウス2世であった。 ヴァレー州の州都シオンの枢機卿マットイス・シンナーを使ってスイス誓約同盟の取り込みを行い、 フランスとの傭兵契約を更新させず、教皇との新たな5年間の傭兵契約を結ばせるに至った。 1512年、1万8千のスイス傭兵は神聖同盟を結んでフランスと戦う教皇について戦い、 ラヴェンナ、ミラノを制圧し、さらにジェノヴァに侵攻し、フランスを北イタリアから追い払った。 スイス誓約同盟は、さらにルガーノ・ロカルノ等を誓約同盟の共同支配地に組み込む一方、 ミラノ大公にロドヴィゴ・イル・モーロの息子マッシミリアーノ・スフォルッツァを擁立して、 ミラノ大公国を支配下に置いた。 翌1513年、フランス王ルイ12世はミラノを攻略しようと出兵したが、スイス軍の反撃を受けて敗走し、 スイス軍はフランス国内にまで追撃戦を行った。

しかしながら、状況は再び変化しつつあった。 教皇も傭兵料金の不払いをおこしたため、再び西部諸州では親フランス派が勢いを増し、 ベルン州・フリブール州はベリンツォーナを除く領地を返上し、 ミラノ大公マッシミリアーノ・スフォルッツァを下野させることでフランスと合意するに至った。 このため、ミラノに駐留するスイス側兵力は大きく減じられることとなった。 また、神聖同盟を主導していた教皇ユリウス2世が死去し、フランスでも新王フランソワ1世が即位した。

1515年、フランス王フランソワ1世は5万5千の大軍を率いてミラノを攻撃した。 対するスイス側は森林州を中心とする2万まで減っており、マリニャーノの戦いで激戦の末敗れた。 翌年にスイス誓約同盟とフランスは「永久平和」を結んだ。

以後、スイスは領土拡大を放棄し、フランス革命までスイスは傭兵を主にフランスに送った。 フランソワ1世は延べ12万のスイス傭兵を用いたとされる。 太陽王ルイ14世の時代には、常時2万の傭兵が用いられており、 スペイン継承戦争に至ってはフランスに2万5千、オランダにも1万6千、 オーストリアに4,800、サヴォアに4,900と5万を超える傭兵が敵味方に分かれて属していたとされる。 これは莫大な傭兵収入をスイスにもたらし、フランスの財政破綻の一因となったのである。 2代後のルイ16世の時代には、衛兵としての役割を占める程度にスイス傭兵の規模は縮小していた。 フランス革命のなか、スイス衛兵はテュイルリー宮殿で死闘を繰り広げ、多くが虐殺された。 フランス革命による国民軍の登場をあいまって、スイス傭兵の時代は完全に終焉した。



ツヴィングリ 宗教改革と内戦
1517年、カトリック教会への不満がたまっていたドイツで、 ルターが免罪符販売への神学上の論点批判を行うと、大反響を巻き起こした。 そのころの、スイスではドイツに面したバーゼルに学術出版業者が集積しており、 人文学の大家エラスムスも拠点としていたため、 宗教改革を受け入れる土壌が育まれつつあった。

1519年、チューリッヒの司祭
ツヴィングリ(Zwingli)はエラスムスの影響を受け、 免罪符への批判を皮切りにチューリッヒで宗教改革を開始した。 また、ツヴィングリは精神的堕落をもたらす傭兵業へ強い問題意識を持っており、 これらを含んだ広範な社会的改革を志向した。 これを実現するため、ツヴィングリは政治的権力を必要とし、 チューリッヒ市参事会へ協力を求めた。 1522年にはチューリッヒで傭兵業の禁止が実現した。 1523年、ツヴィングリの要請で開催された公開討論会でチューリッヒ市参事会の支持を得て、宗教改革に大きく前進した。



スイス誓約同盟内でも宗教改革の波が起こった。ザンクト・ガレン、グラウビュンデンでも宗教改革が進展した。 バーゼルでも宗教改革が進展しつつあり、ベルンでもツヴィングリの教えが広まりつつあった。 こうした情勢を受けて、カトリックを支持する森林5州(ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン・ルツェルン・ツーク)は、 1524年4月にカトリック擁護の同盟を結成した。 スイス誓約同盟内での対立が深まりつつあり、同年夏には、誓約同盟の共同支配地であるトゥールガウでは、 暴力沙汰が発生し、チューリッヒ側が折れて信仰問題には触れない条件で引き渡した人物が拷問の後斬罪に処される事件が起こった。 これを受けて、ツヴィングリは武力衝突も辞さない覚悟を決めたといわれている。 1525年4月、ツヴィングリはチューッリヒでミサを廃止し、宗教改革を完遂した。 1525年11月、森林州はカトリックを捨てようとしている州に対して、誓約同盟の更新を拒絶すると脅しをかけた。 一方で、スイス内では誓約同盟を守りたいと考えているものも少なくなかったのも実体であった。

1526年5月、森林5州とフリーブールの呼びかけにより、バーデンで宗教討論会が開催されることとなった。 トゥールガウの事件を受けて、チューリッヒはツヴィングリを代表には送らなかった。 この会自体は、森林州の支持を背景にカトリックを支持する決議を行ったものの、 ベルン・バーゼル・シャフハウゼンは同意しなかった。 このため、新教派を代表したバーゼルの宗教改革者エコランパッドの名声が高まり、 バーゼルでの宗教改革の進展に寄与した。 また、ベルンでは、カトリックに配慮する都市貴族が傭兵業で多く戦死した状況もあり、 このバーデンでの宗教討論会を契機に宗教改革が大きく進展した。 1527年、新教派の南ドイツの都市コンスタンツはチューリッヒと個別に同盟を結んだ。 ツヴィングリは、来るべきカトリック派との武力衝突に備えて、 南ドイツの新教派諸勢力との共同防衛を企図したのである。

1528年、ベルンツヴィングリと入念に打ち合わせた宗教会議をベルンで開催し、 ベルンは完全に新教派との立場を明確にした。 ベルンはスイス最大の都市国家であり(現在でも連邦首都である)、影響が各地に波及した。 ザンクト・ガレンで宗教改革が貫徹され、 翌1529年にはバーゼル、トゥールガウ、アッペンツェルで宗教改革が完遂された。 また、南ドイツのシュトラスブルクでも宗教改革が完遂された。 結果として、チューリッヒ・ベルン・バーゼル・コンスタンツ・ザンクトガレン・ ビール・ミュールーズ(アルザス地方)からなるキリスト教都市同盟が形成されるに至ったのである。 一方カトリック側でも、1529年4月森林5州とフリブールがオーストリアとキリスト教同盟を結び対抗の構えを見せた。

事態は緊迫の度合いを高めつつあった。 チューリッヒの新教派牧師がシュヴィーツに連行され処刑される事件が起こると、 1529年6月、ツヴィングリはついに森林州に対して宣戦布告し、ツークとの州境であるカッペルに軍を進めた。 チューリッヒ兵1万2400を中心とした兵力3万をこえる陣容であったが、 ベルンを中心としてスイス誓約同盟を維持したいと考えるものは多かったのである。 グラールスの首長が戦争回避に奔走し、スイス間での内戦を倦む空気が前線で醸成され、 結局和議交渉が持たれ、大規模衝突に至る前に和議が結ばれた。 この結果、オーストリアと森林州のキリスト教同盟は破棄された。 しかし、それ以外の面ではあまり進展が無く争いの種は残ったままであった。(第一次カッペルの戦い

このころ、シュパイエルの帝国議会で神聖ローマ皇帝は新教禁止を決議しようとし、 ザクセン選帝侯・ヘッセン方伯らがこれに抗議(protest)し、歴史上いわゆるプロテスタントが成立した。 ヘッセン方伯は、ツヴィングリらと連帯し、新教派を糾合することをもくろんでおり、 そのために1529年10月マールブルクでルターとツヴィングリの会談が持たれた。 しかし、合意を見ることができず、会談は物別れに終わった。 同時期、ツヴィングリを支持するシュトラスブルクはルター派から排除されキリスト教都市同盟に加わり、 シャフハウゼンも宗教改革を成してキリスト教都市同盟に加わった。

このときの神聖ローマ皇帝カール5世は、スペイン王も兼ねてハプスブルク家の最盛期にあたるが、 当時はフランスとオスマン帝国の圧力があり、教皇もフランスと組む姿勢を見せていたため、 新教派に対して強く出ることが難しい時期であった。 そこで、1530年6月、アウグスブルクで帝国会議を開き、信仰について釈明をさせることにした。 ルター派は、メランヒトンがカトリックとの妥協を目指した「アウグスブルク信仰告白」を記した。 ツヴィングリも「信仰の弁明」を書き、シュトラスブルク・コンスタンツ等は「四都市信仰告白」を提出した。 結局皇帝はこれらを認めず、皇帝と新教派の妥協は成立しなかった。 1530年12月、ザクセン選帝侯・ヘッセン方伯らはシュマルカルデン同盟を結成し、 「アウグスブルク信仰告白」または「四都市信仰告白」を承認することをその条件とした。 これにより、シュトラスブルク・コンスタンツはシュマルカルデン同盟に入った。 ツヴィングリはこの条件を呑まず、ドイツとスイスの新教派は別々の道を歩むこととなった。 一方で、ヘッセン方伯は別の枠組みで、チューリッヒ・バーゼル・シュトラスブルクとキリスト教的一致同盟を成立させた。 森林州は皇帝に使者を派遣し、皇帝との同盟復活を求めたが、皇帝はスイス介入に否定的であった。 こうして、スイス内の新教派とカトリック派の問題は完全にスイス内の問題となったのである。

1531年3月、イタリア・ムッソーの領主ジャン・ジャコモ・デ・メディチとグラウビュンデン州の間にムッソー戦争が発生した。 グラウビュンデン州はスイス誓約同盟に救援を求め、森林5州を除く各州がこれに応えて約5千の兵を送った。 ツヴィングリは、カトリック派がこれを契機に先頭を仕掛けてくると考え、 キリスト教都市同盟に攻撃を提案した。 ベルンはスイス誓約同盟内での内戦には反対の立場であり、 新教迫害・誓約同盟の不履行を理由として森林5州への経済封鎖を主張し、これが採択された。 この結果、森林5州は困窮し、経済封鎖を破るための戦争準備を始めた。 1531年10月、森林州は宣戦布告し、フリブール・ヴァレー・教皇の援軍を含めた8,000の戦力でカッペルに向かって進軍した。 これに対し、チューリッヒ側の動員は遅く、2千弱の前衛部隊だけでカッペルに布陣していた。 この中にツヴィングリもいた。 森林州は奇襲をかけ、チューリッヒ側の戦線は崩壊して敗走した。 この中で、ツヴィングリも戦死するに至った。(第2次カッペルの戦い(このときにツヴィングリが装備していたとされるヘルメット・剣・斧がチューリッヒの国立博物館に展示されている。 チューリッヒ中央駅のすぐ北にあり、スイスパスで入ることができる。2014年6月時点) チューリッヒは1万3000の兵を集め、ベルン兵7000と合流した。 森林州は、その一部6000を再度破り、チューリッヒ湖岸に進出した。 ここに至って、休戦が結ばれた。

休戦の条件では、新教とカトリックの並存を原則とし、もとのスイス誓約同盟の復活が図られた。 キリスト教都市同盟は解散した。 ツヴィングリの教義は都市ではある程度維持されたが、ツヴィングリの死後、 もやはスイス誓約同盟内の内戦は望むものがほとんどいなかった。

ジュネーヴでもカルヴァンによる宗教改革が行われ、ジュネーヴで神権政治を行った。 やがて、ジュネーヴはスイス誓約同盟に加盟することになる。 カルヴァン派は、清教徒(イギリス)・ユグノー(フランス)などと呼ばれ、大きな影響を与えていくことになる。


参考文献

Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/


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