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ツヴィングリ(ウルリッヒ・ツヴィングリ Ulrich Zwingli,Huldrych Zwingli) スイス 中世


スイス・チューリッヒ州の宗教改革者であるが、政治指導者でもあった。 中世スイスの主要産業だった傭兵業に強く反対し、チューリッヒ州で早期に傭兵業が禁止されるのに大きく影響した。

ツヴィングリは、ザンクト・ガレン修道院長の支配するスイス・トッケンブルク地方に生まれ、 ウィーン大学・バーゼル大学で学び、司祭となった。

ドイツでルターによる宗教改革が始まると、人文学者エラスムスの影響を受けつつ、 ツヴィングリは聖書の研究に没頭し、やがて自ら宗教改革を行うことを目指すようになる。

1519年、チューリッヒの司祭となったツヴィングリ(Zwingli)は、 免罪符への批判を皮切りにチューリッヒで宗教改革を開始した。 また、ツヴィングリは精神的堕落をもたらす傭兵業へ強い問題意識を持っており、 これらを含んだ広範な社会的改革を志向した。 これを実現するため、ツヴィングリは政治的権力を必要とし、チューリッヒ市参事会へ協力を求めた。 1522年にはチューリッヒで傭兵業の禁止が実現した。 1523年、ツヴィングリの要請で開催された公開討論会でチューリッヒ市参事会の支持を得て、宗教改革に大きく前進した。

ツヴィングリとルターの影響で、スイス誓約同盟内でも宗教改革の波が起こった。 ザンクト・ガレン、グラウビュンデンでも宗教改革が進展した。 バーゼルでも宗教改革が進展しつつあり、ベルンでもツヴィングリの教えが広まりつつあった。 こうした情勢を受けて、カトリックを支持する森林5州(ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン・ルツェルン・ツーク)は、 1524年4月にカトリック擁護の同盟を結成した。 スイス誓約同盟内での対立が深まりつつあり、同年夏には、誓約同盟の共同支配地であるトゥールガウでは、暴力沙汰が発生し、チューリッヒ側が折れて信仰問題には触れない条件で引き渡した人物が拷問の後斬罪に処される事件が起こった。 これを受けて、ツヴィングリは武力衝突も辞さない覚悟を決めたといわれている。

1525年4月、ツヴィングリはチューッリヒでミサを廃止し、宗教改革を完遂した。

1526年5月、森林5州とフリーブールの呼びかけにより、バーデンで宗教討論会が開催されることとなった。 トゥールガウの事件を受けて、チューリッヒはツヴィングリを代表には送らなかった。 この会自体は、森林州の支持を背景にカトリックを支持する決議を行ったものの、 ベルン・バーゼル・シャフハウゼンは同意しなかった。 これを契機にバーゼルで宗教改革が進展し、ベルンでもカトリックに配慮する都市貴族が傭兵業で多く戦死した状況もあり、 宗教改革が大きく進展した。 1527年、新教派の南ドイツの都市コンスタンツはチューリッヒと個別に同盟を結んだ。 ツヴィングリは、来るべきカトリック派との武力衝突に備えて、 南ドイツの新教派諸勢力との共同防衛を企図したのである。

1528年、ベルンはツヴィングリと入念に打ち合わせた宗教会議をベルンで開催し、 ベルンは完全に新教派との立場を明確にした。 ベルンはスイス最大の都市国家であり(現在でも連邦首都である)、影響が各地に波及した。 ザンクト・ガレンで宗教改革が貫徹され、 翌1529年にはバーゼル、トゥールガウ、アッペンツェルで宗教改革が完遂された。 また、南ドイツのシュトラスブルクでも宗教改革が完遂された。 結果として、チューリッヒ・ベルン・バーゼル・コンスタンツ・ザンクトガレン・ ビール・ミュールーズ(アルザス地方)からなるキリスト教都市同盟が形成されるに至ったのである。 一方カトリック側でも、1529年4月森林5州とフリブールがオーストリアとキリスト教同盟を結び対抗の構えを見せた。

事態は緊迫の度合いを高めつつあった。 チューリッヒの新教派牧師がシュヴィーツに連行され処刑される事件が起こると、 1529年6月、ツヴィングリはついに森林州に対して宣戦布告し、ツークとの州境であるカッペルに軍を進めた。 チューリッヒ兵1万2400を中心とした兵力3万をこえる陣容であったが、ベルンを中心としてスイス誓約同盟を維持したいと考えるものは多かったのである。 グラールスの首長が戦争回避に奔走し、スイス間での内戦を倦む空気が前線で醸成され、 結局和議交渉が持たれ、大規模衝突に至る前に和議が結ばれた。 この結果、オーストリアと森林州のキリスト教同盟は破棄された。 しかし、それ以外の面ではあまり進展が無く争いの種は残ったままであった。(第一次カッペルの戦い

このころ、シュパイエルの帝国議会で神聖ローマ皇帝は新教禁止を決議しようとし、 ザクセン選帝侯・ヘッセン方伯らがこれに抗議(protest)し、歴史上いわゆるプロテスタントが成立した。 ヘッセン方伯は、ツヴィングリらと連帯し、新教派を糾合することをもくろんでおり、 そのために1529年10月マールブルクでルターとツヴィングリの会談が持たれた。 しかし、合意を見ることができず、会談は物別れに終わった。 同時期、ツヴィングリを支持するシュトラスブルクはルター派から排除されキリスト教都市同盟に加わり、 シャフハウゼンも宗教改革を成してキリスト教都市同盟に加わった。

1530年6月、神聖ローマ皇帝カール5世はアウグスブルクで帝国会議を開き、信仰について釈明をさせることにした。 ルター派は、メランヒトンがカトリックとの妥協を目指した「アウグスブルク信仰告白」を記した。 ツヴィングリも「信仰の弁明」を書き、シュトラスブルク・コンスタンツ等は「四都市信仰告白」を提出した。 結局皇帝はこれらを認めず、皇帝と新教派の妥協は成立しなかった。 1530年12月、ザクセン選帝侯・ヘッセン方伯らはシュマルカルデン同盟を結成し、 「アウグスブルク信仰告白」または「四都市信仰告白」を承認することをその条件とした。 これにより、シュトラスブルク・コンスタンツはシュマルカルデン同盟に入った。 ツヴィングリはこの条件を呑まず、ドイツとスイスの新教派は別々の道を歩むこととなった。 一方で、ヘッセン方伯は別の枠組みで、チューリッヒ・バーゼル・シュトラスブルクとキリスト教的一致同盟を成立させた。 森林州は皇帝に使者を派遣し、皇帝との同盟復活を求めたが、皇帝はスイス介入に否定的であった。 こうして、スイス内の新教派とカトリック派の問題は完全にスイス内の問題となったのである。

1531年3月、イタリア・ムッソーの領主ジャン・ジャコモ・デ・メディチとグラウビュンデン州の間にムッソー戦争が発生した。 グラウビュンデン州はスイス誓約同盟に救援を求め、森林5州を除く各州がこれに応えて約5千の兵を送った。 ツヴィングリは、カトリック派がこれを契機に先頭を仕掛けてくると考え、 キリスト教都市同盟に攻撃を提案した。 ベルンはスイス誓約同盟内での内戦には反対の立場であり、 新教迫害・誓約同盟の不履行を理由として森林5州への経済封鎖を主張し、これが採択された。 この結果、森林5州は困窮し、経済封鎖を破るための戦争準備を始めた。 1531年10月、森林州は宣戦布告し、フリブール・ヴァレー・教皇の援軍を含めた8,000の戦力でカッペルに向かって進軍した。 これに対し、チューリッヒ側の動員は遅く、2千弱の前衛部隊だけでカッペルに布陣していた。 この中にツヴィングリもいた。 森林州は奇襲をかけ、チューリッヒ側の戦線は崩壊して敗走した。 この中で、ツヴィングリも戦死するに至った。(第2次カッペルの戦い(このときにツヴィングリが装備していたとされるヘルメット・剣・斧がチューリッヒの国立博物館に展示されている。 チューリッヒ中央駅のすぐ北にあり、スイスパスで入ることができる。2014年6月時点)

ツヴィングリの死後、スイスは誓約同盟を守る道を選び、宗教に関しては新旧の並存が図られることとなった。

参考:
ツヴィングリ 宗教改革と内戦 スイス旅行記/地理誌
alias,無し


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