ベルンは1191年に、ツェーリンゲン大公ベルトルド5世によって建設された。 ツェーリンガー家が断絶すると、皇帝により自由特許状を与えられた帝国都市となった。 大空位時代に入ると、都市国家としての色合いを強めていく。 サヴォア伯の保護時代を経て、再び帝国都市となると、 ハプスブルク家の支配下にあったフリブールと対立した。 このころ、1921年、森林3州が誓約同盟を結んだ。 1298年、フリブールはベルンを襲撃したが失敗し、休戦条約が結ばれた。 ベルンは、キーブルク家・ラウペン・ビールと同盟し、 西スイスにおいて有力な都市国家となっていった。 1315年、ハプスブルク家のレオポルト1世が、森林3州を攻撃したが敗れた(モルガンテンの戦い)。 1318年、レオポルト1世はゾーロトゥルン市を包囲し、森林3州の攻撃も企図したが、 ベルンが援軍を送り追い払った。 森林3州と反ハプスブルクで一致したベルンは、1323年森林3州と同盟を結んだ。 その後、ベルンはトゥン・ラウペンを買収し、 ヴァイセンブルク家を攻め落として市民権を与えてその領地を吸収した。 ベルン西方の貴族領主たちはベルンの発展に反感を抱き、 フリブールを中心に結集してベルンと敵対した。 ベルンは和平政策を取ろうとしたが、うまくいかず、1339年ラウペン戦争の勃発を見た。 フリブール側は17,000の兵力でラウペンを攻撃した。 ベルンは4,200の市民兵と、スイス誓約同盟などからの応援1,500を得てラウペン防衛戦を戦い抜き、 これに勝利した。 このとき、誓約同盟のウーリ兵が最も戦死者を出した。 スイス誓約同盟には、1332年にルツェルン、1351年にチューリッヒが加入した。 ハプスブルク家のオーストリア大公アルブレヒト2世は同時期チューリッヒと同盟交渉を行っていたが、 チューリッヒが誓約同盟についたことで危機感を感じ、 16,000の兵でチューリッヒの包囲を開始した。 オーストリア大公アルブレヒト2世はベルンにも出兵を要請し、 断る余力のなかったベルンはやむを得ず兵を出した。 チューリッヒは誓約同盟の応援を得て反撃してこれを破った。 誓約同盟はさらに軍をツーク・グラールスに進め1352年に誓約同盟へ加入させた。 オーストリア大公アルブレヒト2世は1352年に再度出兵してチューリッヒを包囲し、ベルンにも出兵させた。 戦意に乏しく、結局和平が結ばれた。 この状況においてベルンは誓約同盟との関係強化が必要になり、 1353年、ついに誓約同盟に加入するに至った。
ベルンは歴史的にスイス内で最大の都市国家であり、現在もスイス連邦の首都がおかれている。 アインシュタインも、ベルンの特許庁で働きながら特殊相対性理論・光量子仮説・ブラウン運動の理論を考案した。 アインシュタインが住んでいたところは、現在アインシュタイン・ハウスという記念館になっている。
ベルンの旧市街は世界文化遺産に登録されている。