ユングマン「きっとどこでも」
『ミサ』 J. A. ユングマン著
福地幹男(神父)訳
オリエンス宗教研究所、1992年
第三部 ミサのかたち ──その典礼形態
第六章 交わりの儀
(…)
p. 255
拝領
こうして準備がととのうと、続いて会食による交わりに入る。どの典礼でも、また最古の資料を見ても、まず司式者、次に奉仕者、そして会衆という、奉仕のための制度上の順に拝領する。
古代キリスト教ではきっとどこでも、それは次のようなやりかたで、おおよそ行われていたことだろう。エルサレムの『秘義教話』(22)に記述され、有名な(五百年ごろの)『ロサノ写本』(23)に描かれている。信者は司祭のもとに行き、「左手を、王を迎える右手の玉座のようにして」聖別されたホスチアを受けとる。司祭が「キリストのからだ」と言うと、信者は「アーメン」と答える。
p. 356
第三部第六章 注
(22) MS Ⅱ 469 31 ; MRR Ⅱ 378 31
(23) MS Ⅱ 468 30 ; MRR Ⅱ 378 30
上の注(原注ではなく訳注)にある「MS」「MRR」とは何か。
同書の先行する訳注によると──
p. 360
第三部第一章 注
(2) さらに詳しくはユングマン著『ローマ典礼のミサ』Missarum Solemnia(英訳 The Mass of the Roman Rite)Ⅰ, 341f. : 今後述べていくミサ典礼の典拠はこの本に探すこと。個々の場合にのみ,その都度 MS(英訳は MRR)と略記して明示する。
何故 p. 360 にある訳注が p. 356 にある訳注より「先行する」かと云うと、同書の巻末にまとめられている訳註は「横書き」だから。(どうでもいい話)
Josef A. Jungmann
(1889 - 1975)
私は前回の最後で「『全域で』という言葉を付け加えて言うほど度胸のある(?)典礼学者を見たことがない」と書いたわけだが、それを少し修正しなければならないだろうか、ユングマンは「どこでも」と言うのである。
「きっとどこでも」と。
「推量」である。
しかし、二つばかり痕跡を挙げて「きっとどこでも」とは、この人はどの種の人なのか。この人は一般には典礼学の「大家」「巨星」みたいに思われていて、中には彼のことを典礼学の「神」とさえ呼んだ人さえあったそうだが、こんな感じでは、「推量は自由」とだけ考える “その辺の人” とどれだけ違うのか。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌