キリスト教とはこれである。
この本が日本語に訳されていたならと思う。
キリスト教に於いては、単に「神は愛」と言うのでは足りない。「贖いの愛」と言わなければならない。「イエズス様は私たちを贖ってくださった。非常に高い(お辛い)代価を払って贖ってくださった」──これがキリスト教である。私たちはここを大事にしなければならない。当り前。
しかし、現代に於いては、この「当り前」の事がなかなか大事にされない。現代の神父様方は、この事を嫌ってしまって──あるいは、御自身では嫌ってはいなくとも「他の人々には通じ難い」とか思って──あまり前面に出さないようにしている。
しかし、私みたいな者が言うのは何だが、それは大いなる間違い。極端な言い方をすれば(私は本当は「極端」とは思っていない)、それはやんわりとした裏切り行為、人間に対する慈愛の顔をした裏切り行為である。
*
人間に対してニッコニコ?
十字架の聖パウロ
日本の御受難会は、御受難会の御受難会たるところ、所以、「御受難会の魂」みたいなものを、果たして「保って」いるだろうか?
愚問だったかも知れない。訊くまでもないかも知れない。「御受難会も例外ではなく」云々と、悲しい言葉を続けるべきかも知れない。
(然り。例外は、目に入る範囲では、内山恵介神父様だけだ)
同会の来住英俊(きし ひでとし)神父様などは、こう言っている。
「彼が教えた祈りの仕方は今の日本では通用しそうにありません」
「彼」とは御受難会の創立者、十字架の聖パウロのことである。つまり、御受難会の司祭が御受難会の創立者の教え方を「日本人には不向きなもの」と言っているのである。(来住神父様は「彼が教えた祈りの仕方」とは何なのか具体的に言っていないとしても)
そして、私の考えでは、そのように言う司祭は、次の瞬間には、案外容易に、このように考えるだろう。
「彼が教えた祈りの仕方は現代人には通用しそうにありません」
今や、司祭の誰もが、そんなふうな考え方をするのに慣れ、すっかり慣れ、疑うことをしないだろう。
現代人の多くが「私たちは苦しみにフォーカスしたくありません。私たちはそれが苦手です。私たちにはもっと明るく楽しい世界が必要なのです」とでも言えば、そのような司祭はそれに容易に “なびく” だろう。(ちょっと関連)
「日本人にとって」「現代人にとって」うんぬんかんぬん・・・
現代の司祭たちがすっかり慣れたそんなところから、キリスト教のキリスト教たるところ、所以、「キリスト教の魂」みたいなものまでもが希薄化する、している。
それにもかかわらず、私たちの神父様方は安心している。彼らの「神に対する信頼」は実に偉大で(?)、例の「教え自体は変わっていない。ただ教え方が変わっただけ」という何とも浮薄な言い方の中に安んじていることができるほどである。しかし、それは霊的盲目(spiritual blindness)であり、そして、もう一度言うが、やんわりとした裏切り、人間に対する慈愛の顔をした裏切りである。(ちょっと関連)
今や、御受難会の中にさえこんな感じの司祭が少なくないように思われる。しかし、何かを「しない」ということはただ「しない」ということにとどまらない。「集めない者は散らす者である」とイエズス様がおっしゃったように、何かを「しない」ことはその逆のことを「する」ことである。イエズス様の御受難のことを「言わない」ことは、イエズス様の御受難から存在を奪うことである。「いいえ、私はそれを覚えています。ただ、あまり言わないだけ」では済まない。
*
さて、私は、そんなふうな傾向の神父様方には大層受けが悪いだろう一冊の本を見つけた。
『The School of Jesus Crucified』
by 19世紀の御受難会司祭
そう、これは19世紀の、つまり「昔の」司祭が書いた本である。しかも外国の、イタリアの、「ヨーロッパの」司祭が書いた本である。
二つ合わせて、
「昔のヨーロッパの」(ちょっと関連)
しかし、私は言う。
「何か問題ありますか?」
著者名
イエズスの御脇腹のイグナチオ神父
英 Father Ignatius of the Side of Jesus
伊 Padre Ignazio del Costato di Gesù
(1801 - 1844)
出版元はアメリカの TAN Books 。
日本の Amazon からでも買える。
また、1886年版(!)は Internet Archive で読める。
イタリア語での書名は次のような感じだが、現代のイタリアのカトリック出版界は──あるいは、現代のイタリアの御受難会は(!)──この書を刊行していないようだ。(イタリアも駄目である)
著者について TAN Books はこんな感じに書いている。
イエズスの御脇腹のイグナチオ(Carsidoni)神父は1801年に生まれた。彼は当初ローマで神学を教えていたが、イギリスのカトリック信仰の再興に隠された影響を及ぼした一人となった。彼は、彼の仲間の御受難会司祭、福者ドミニコ・バルベリ神父から、その国を回心に導こうとする熱意を受け継いだ。バルベリ神父の方は、彼らの修道会の創立者、十字架の聖パウロからその同じ情熱を受け継いでいた。イグナチオ神父の『The School of Jesus Crucified』は、霊的生活の全体をどのようにキリストの受難と死に基礎づけられたものにするかについて教えるために書かれた。著者は1844年に死亡した。
御受難会の時系列に於ける同神父様の位置。
彼は福者ドミニコ・バルベリ神父様と全く同時代人である。
また、彼は聖ヴィンセント・マリア・ストランビ(司教)の伝記も書いているようだ。ebay,amazon
以上のような細かい情報は、ホントはどうでもよいと思う。
(或る種の性癖で書いてしまったけれども)
この書の初めの数章を試訳してみた。
これ以上は訳しそうにないが。 Click
二番目の文章は “イエズス様の御言葉” という形で、“イエズス様の私たちへの御訴え” という形で書かれている。現代の神父様方はこれを「昔のヨーロッパの」司祭たちの脳髄から生まれたものと考えるだろうか。単に「その地方の伝統から来たもの」と?
私はそうは思わないのである。これはイエズス様の実際の御心を映したものだと信ずるのである。
「27. 諸教会に潜入し、啓示された宗教を『社会的』な宗教と入れ替えよ」 - 共産主義の目標
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」 - フリーメイソンの雑誌