2015.02.08

無思慮な一致崇拝 Part 8

この小器用さ

インカルチュレーション

アジョルナメント

赤あげて 白あげて 赤さげないで 白あげない

 検討対象は同じ「聖体拝領者の身体姿勢」でありながら、非西洋に対しては「インカルチュレーション」の旗を挙げて見せながら「それを見直してもいいのではないか」と促し、西洋に対しては、先ほどまで大事そうに挙げていた旗のことはどこかに忘れたようになって、「アジョルナメント」というもう一つの旗を挙げて見せながら「それを見直してもいいのではないか」と促す──と云うことであったならば前回の観察を参照のこと)、私達は少しは不思議に思うべきではないでしょうか?──「この “小器用さ” は何なのか」と。

 何のことはない(と私は思います)、彼らにとっては本当は “西洋” も “東洋” もなく、ただ “全世界” の教会に「立って受ける聖体拝領」をさせることが《目的》だったのであり、「インカルチュレーション」とか「アジョルナメント」とか云う “概念の旗” はそのための《道具》であったに過ぎないのです。

 例えばアジアの教会の典礼を変えさせたいと思えば、彼らが「文化風習の違い」に目を付けるのは当然です。そこに真っ先に目を付けます。何故なら、確かにヨーロッパとアジアでは文化風習が違うので、アジアの教会のためにはそれを利用すること、その違いを《理由》にすることが、最も手っ取り早く効果的だったからです。だから、彼らはアジアの国々に対しては「インカルチュレーション」の旗を挙げて見せたのです。

 しかし、西洋諸国の教会に対して同じ旗を挙げられますか?
 今はどうか知りませんが、1960年代や1970年代、「跪き」は西洋人たちの心身に何の問題もなく馴染んでいた筈です。だから、彼らが西洋諸国で「インカルチュレーション」の旗を挙げれば、西洋の教会に「跪き」を存続させることにしかならなかったでしょう。だから彼らは、西洋では「インカルチュレーション」の旗を挙げず、「アジョルナメント」の旗を挙げたのです。

補足)もちろん学者先生たちは私のこの話を「少し単純化し過ぎではないか」と思うに決まっています。しかし、浅学の私も、西洋の教会のために「アジョルナメント」だけが働いたのでないことは、或る程度知っています。しかし第一に、私は一遍には書けません。そして第二に、この二つの旗の話は単純であれ十分に示唆的だと信じます。これに “奇妙” を感じない人は、他の何を見ても感じないでしょう。

 つまり、私は以前「手による聖体拝領」に関して次のように書きましたが──

彼らにとって「手による聖体拝領」の導入は、どうしても達成しなければならない、無理押しに押してでも通過させなければならない、一つの固い <遂行課題> だった。

参照

彼にとっては「司教たちに手による聖体拝領を実行させること」は最初から決まっていた

参照

 ──「立って受ける聖体拝領」に関しても全く同様だったのです。

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