2015.02.08

無思慮な一致崇拝 Part 7

不思議にも、西洋では「インカルチュレーション」は
重視されなかったようである

立って、お辞儀して、手で受ける。
そして、私達は不思議にもこの所作を現在の「西洋」のあらゆる教会の中に見ることができます。

前回

 日本の神父様方に於いては、前々回見たように、「インカルチュレーション」という考え方がとても強いようです。それが余程素晴らしい概念だからでしょうね。

 しかし不思議にも、視野を世界大にすれば、次のような次第です。

注)

下の「日本」は「非西洋」と言い換えることもできます。
しかし、身近さを出すために「日本」としました。

西洋

日本

御聖体拝領時に「跪く」

 

 

インカルチュレーション

 

聖体拝領時に「立つ」

  • 初めは西洋にも日本にも「跪き」だけがありました。

  • しかし日本は「インカルチュレーション」という素晴らしい概念により「立つこと」に移行しました。

  • ところが、その素晴らしい概念は西洋の信者たちのためには働かなかったようです。その概念がそれほど素晴らしいものなら、「跪き」に親しかった西洋は「跪き」を保持してもよかった筈でした。ところが実際に起こった事はと云えば、西洋の全教会がものの見事に「跪くこと」から「立つこと」に切り替わった事でした。

  • そうして最終的に、西洋も東洋もなく──全世界的に──「立つこと」だけになったのでした。チャンチャン。

 「インカルチュレーションという考え方はもともと非西洋の世界のためのものだ」などという主張は成り立ちません。それは「各国・各民族の風土の中に元々ある感覚を大事にし、信仰の世界の中にも取り入れよう」という考えでしょうから、西洋も東洋もないものです。

 では、「西洋」はどういう理由で、日本の神父様方が「西洋式」であると主張する「跪くこと」を捨てて、「立つこと」に移行できたのでしょうか? 上の図の「?」には何が入るのでしょうか?

 幾つか考えられるでしょう。私には全てを一遍に述べる能力はありません。しかし、考えられる一つの大きなものは、あの「アジョルナメント(現代化)」というやつでしょう。

 しかしそれは、考えてみれば、もう一つの「インカルチュレーション」ではないでしょうか?
 相手が「現代世界」という “国” になっただけの。

 「インカルチュレーション」という考え方に於いては、各国・各民族がもともと持っていた慣習なり感覚なりを参照します。そして、それらの慣習なり感覚なりは〈世俗的な領域〉にあるものと〈宗教的な領域〉にあるものから成ります。そして、そのどちらも「御聖体」を知らないのです。もう一度言います、「御聖体」を知らないのです。だのに、どうして、「御聖体」を知らないそれらの世界を参照しながら「御聖体拝領の仕方を変える」などということができるのです?
 これは最初からほとんど一つの「暴挙」ではありませんか?
 神父様方はここから何の不都合も生じないと考えるのですか?

 そして、話を戻せば、「アジョルナメント」。それは、もう一度言えば、「現代世界」という大国に住む人々の感覚を参照するもう一つの「インカルチュレーション」ではないでしょうか? そしてそれ故に、ここにも「インカルチュレーション」の場合と全く同じ問題が、単純だが根源的な仕方で、深刻な形で、あるのではないでしょうか?

 「現代性」には神の保証印が押されていますか?
 「現代化」と言いながら私達が目を向ける世界はそもそも「御聖体」を知っている世界ですか?

 では次に、上の図表の中に書いた「チャンチャン」という言葉に戻らせて下さい。私がそのような不真面目ぎみな言葉を出したくなるのは、そこに「インチキ」の匂いを嗅ぐからです。

インカルチュレーション

アジョルナメント

 日本の神父様方も、そろそろ気づいてもいいのでは?

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