不思議にも、西洋では「インカルチュレーション」は |
日本の神父様方に於いては、前々回見たように、「インカルチュレーション」という考え方がとても強いようです。それが余程素晴らしい概念だからでしょうね。
しかし不思議にも、視野を世界大にすれば、次のような次第です。
注) |
下の「日本」は「非西洋」と言い換えることもできます。 |
西洋 |
![]() |
日本 |
御聖体拝領時に「跪く」 |
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↓ |
↓ |
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? |
インカルチュレーション |
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↓ |
↓ |
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聖体拝領時に「立つ」 |
「インカルチュレーションという考え方はもともと非西洋の世界のためのものだ」などという主張は成り立ちません。それは「各国・各民族の風土の中に元々ある感覚を大事にし、信仰の世界の中にも取り入れよう」という考えでしょうから、西洋も東洋もないものです。
では、「西洋」はどういう理由で、日本の神父様方が「西洋式」であると主張する「跪くこと」を捨てて、「立つこと」に移行できたのでしょうか? 上の図の「?」には何が入るのでしょうか?
幾つか考えられるでしょう。私には全てを一遍に述べる能力はありません。しかし、考えられる一つの大きなものは、あの「アジョルナメント(現代化)」というやつでしょう。
しかしそれは、考えてみれば、もう一つの「インカルチュレーション」ではないでしょうか?
相手が「現代世界」という “国” になっただけの。
「インカルチュレーション」という考え方に於いては、各国・各民族がもともと持っていた慣習なり感覚なりを参照します。そして、それらの慣習なり感覚なりは〈世俗的な領域〉にあるものと〈宗教的な領域〉にあるものから成ります。そして、そのどちらも「御聖体」を知らないのです。もう一度言います、「御聖体」を知らないのです。だのに、どうして、「御聖体」を知らないそれらの世界を参照しながら「御聖体拝領の仕方を変える」などということができるのです?
これは最初からほとんど一つの「暴挙」ではありませんか?
神父様方はここから何の不都合も生じないと考えるのですか?
そして、話を戻せば、「アジョルナメント」。それは、もう一度言えば、「現代世界」という大国に住む人々の感覚を参照するもう一つの「インカルチュレーション」ではないでしょうか? そしてそれ故に、ここにも「インカルチュレーション」の場合と全く同じ問題が、単純だが根源的な仕方で、深刻な形で、あるのではないでしょうか?
「現代性」には神の保証印が押されていますか?
「現代化」と言いながら私達が目を向ける世界はそもそも「御聖体」を知っている世界ですか?
*
では次に、上の図表の中に書いた「チャンチャン」という言葉に戻らせて下さい。私がそのような不真面目ぎみな言葉を出したくなるのは、そこに「インチキ」の匂いを嗅ぐからです。
インカルチュレーション |
アジョルナメント |
![]() |
日本の神父様方も、そろそろ気づいてもいいのでは?
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