2016.09.20

内山恵介神父様(司祭のマリア運動、御受難会) 1

司祭のマリア運動」とは正確に何であるかは別にして、つまりステファノ・ゴッビ神父様が受けた “メッセージ” は正確に何であったかは別にして、つまり、それに対する幾つかの疑義のことは私の念頭にもあるけれども(それがあったために私は気づくのが遅れた)、それにも関わらず私は思わざるを得ない、どうしても思わざるを得ない、その運動のかつての(少し前までの)日本の責任者・内山恵介神父様は日本ではおそらく「最上の」「素晴らしい」と形容されていい、数少ない、非常に勝れた、信頼すべき「司祭」であり、そして「司牧者」であると。

以下、有志たち(私とは交流がない)がアップしてくれている(感謝!)内山神父様のミサ説教と御講話を収めた YouTube 動画を全て(私の検索が確かならば)掲げる。そして、各動画の中で私の耳に最初にとまった内山神父様のお言葉を書き起こして付す。但し、これは飽く迄「私の耳に最初にとまったので読者のためにもアイキャッチとして役立つかも知れない」と思うだけのことで、人はもちろん内山神父様のお話の “全体” を聞かなければならないだろう。

とにかく、通常の司牧者たちに絶望しがちになる信徒にとって、このような神父様は「希望」である。また、動画には彼と共に祈る信徒たちの声も入っているが、私はそれにも「希望」を感じた。ありがとう。

2013年6月15日

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32:04-
そういう色んなものを動員して、ブルトマンなりの解釈学を打ち立てたんです。で、このルドルフ・ブルトマンの人たちの解釈学はまた、名前が付けられました。それはですね、「非神話化」という神学なのです。なにか、新約聖書などで、例えばイエズス様が長い ◇◇〔聞き取れず。聖別?〕ののちにマリア様から処女懐胎をされて、そしてお生まれになった。ルドルフ・ブルトマンから言わせると、「それは神話です。事実ではありません」と言うんです。そして、イエズス様が例えばカナで水を葡萄酒に変えました──「それは神話です。事実ではありません」。イエズス様が大病人を治しました──「それも神話です」。イエズス様が丘の上で五千人のパンを増やされました──「それも神話です」。イエズス様が「神の子である」と言った──「それも神話です」。イエズス様は多くの人の罪の贖いのために十字架に掛けられ、つまり御受難を受けられた──「神話です」。イエズス様は復活した──「それも神話です」。皆さん、どこに信仰が残りますか。

2013年7月20日

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1:13:32-
私たち御受難会と云えば、一日に一時間は御聖櫃の前で念祷しなければなりません。これは会憲、憲法です、会の憲法。一時間はしなければなりません。だから、朝30分程度でしたら、まあ、夕方は30分以上。毎日は確実にできる人も居ないと思いますから、用心してもう少し長めに取っておきます。

1:19:25-
世界に危機が迫れば迫るほど、私たちは、何の関係もないと思われるような行為をしなければなりません。それは、御聖体の前に坐ること。尖閣列島の問題を解決するのに、そんな、お御堂の中で坐ってていいんですか? いいんです。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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