2017.04.05

現実の一側面と解答

現実の一側面

「二度とこの教会に来るな」?

18歳の時、初めて同性愛の経験を持ちました。私は自分が何故そのようなことをしたのか理解できず、通っていたカトリック教会に助けを求めようとしました。私は司祭に告白しに行きました。すると彼は、私に、3回の主祷文と4回の天使祝詞を唱えるように言い、そして、二度とこの教会に来るなと言ったのでした。

ルイス・デヘイスース

この話が本当だとして──私は、もし LGBT CJ の主筆(だろう)小笠原晋也氏がこの司祭のことを「キリストの御心に反している」と言うならば、同意します。当り前です。

「同性愛者は地獄に行く」?

以前取り上げたアメリカのキリスト教ミュージシャン、デニス・ジャニガン氏のドキュメンタリー映画の中に、次のような情景がありました。

ある日曜日の朝、大人の男性が数名、
同性愛に関して話していました。
私のような人に関してひどい言葉を言いました。
「同性愛者は地獄に行く」
絶望的な気持ちになりました。

参照

「蔑む」?

これも以前取り上げたプロテスタント牧師、スティーブン・ブラック氏の証しのビデオの中に、彼の次のような言葉がありました。

両親は同性愛の人を蔑むような言い方で呼んでいましたが

YouTube

彼の言によれば、彼の両親はクリスチャンでした。
もっと言えば、カトリックだったようです。

「硫黄の火で裁かれるべき」?

SEOUL×TOKYO

ある青年の死と韓国の現状

May 30, 2015

2003年4月、19歳の青年が「こんな阿鼻叫喚のような世界は嫌だ」と遺書を残して自ら命を絶った。彼の名はユグダン(六友堂)、本名はユン・ヒョンソク。熱心なカトリック信者で詩人だった。(…)

2003年4月、保守プロテスタント系の韓国キリスト教総連合会は、青少年保護法から同性愛差別条項を削除せよという国家人権委員会の勧告に対して「同性愛者はソドムとゴモラのように硫黄の火で裁かれるべき」「同性愛は創造秩序に刃向かいエイズを拡散させる」との声明を出した。キリスト教系全国紙の「国民日報」などはセクシュアルマイノリティに対するヘイトを煽る記事を連発した。(…)

韓国キリスト教総連合会は本当に「同性愛者はソドムとゴモラのように硫黄の火で裁かれるべき」と言ったのでしょうか? 裁かれる「べき」? 語尾を本当に「べき」と結んでいましたか? 「であろう」ではなかった? ん? 「そんなの、どっちだって同じだ」だって? まあ、当事者にとってはそうかも知れません。そして私も、「であろう」であっても賛成できません。

私は以上の情景すべてを残念に思います。私は “クリスチャン” の中にまま見受けられる(らしい)以上のような態度に反対です。

欧米にはこんな馬鹿者が居るようです(右写真)。左のプラカードには韓国キリスト教総連合会が言ったとされるのと同じような言葉が書かれています。しかし、この二人の女性は更に酷い。何故なら、彼女らは「笑って」いるから!
ただし、ただし... 彼女らはアメリカのウエストボロ・バプティスト教会のメンバーかも知れません。と云うのは、英語版の Wikipedia を見ると、プラカードに最初に「God Hates Fags」という言葉を書いたのは彼らのようだからです。また、彼らのウェブサイトには、そのトップページに「Meaning of "God Hates Fags"」という文字があるからです。いずれにせよ、こういうのは「キリスト教保守派」とさえ言えない “頭のおかしな教会” です。

解 答

前回見たように、カテキズムはこう言っています。

2358(…)同性愛的な傾向を持つ人々を軽蔑することなく、同情と思いやりの心をもって迎え入れるべきです。

教会は、この一文をもって、私が上に並べたような情景を斥けています。「そのようであってはならない」と否定しています。つまり、上のあれらの情景は、或る意味、既に「解答」を受け取っているのです。「そんな思いやりのない態度じゃいけないんだよ」と。
だから、もしカトリック信者の皆が、上の一文を自分の中に深く入れるならば、上に見たような情景すべては、カトリックに於いては無くなるでしょう。

そして、プロテスタントの言葉も見ましょう。

彼らには、彼らが助けを必要とする時に、本当に温かく腕を開いて迎えてくれる教会が必要です。彼らには、それが自分自身のことであるかのように彼らを抱きしめる、愛情深い、共感的な信者が必要です。彼らと連れ立って歩き、彼らが恵みと共に成長している時、彼らを裁かない信者が必要です。

シャーリン・コトラン

「愛すること」と「知らせること」について新しい仕方を見つけましょう。私は、あなたが誰か御父の力を本当に必要としている人に会った時、私の証言ビデオや他の同様のものをその人の前で振ってみせる前に、まずその人のために心をこめて祈ってくれるよう頼みます。

ナタニエル・フロック

そして、メリッサ・フライリーアを助けてくれた夫妻、ドリスと LJ の御顔をもう一度見ましょう。

私は、「脱同性愛者」たちの物語というのは、彼ら自身の物語であるばかりでなく、彼らを愛し助けてくれた人々の物語でもあると思います。

さてしかし、彼らはプロテスタント信者です。私はこのことを、こうまとめようと思います。このようなことは「カトリック」と「プロテスタント」の別なく、キリスト教精神の基本である。このようなことを知るために、本来、なにも、カトリック教会の「カテキズム」という大御所にお出まし頂く必要はない。賢明なクリスチャンなら誰でも弁えていることである。「自分を正しい人だと信じ、他の人をさげすむある人に対して、イエズスは、次のたとえ話を語られた」(聖ルカ 18:9)云々。

ところが、また別の問題があります。それは、カテキズムの一文や上のような人たちの温かさにも満足せず(確かに、前回の最後に書いたように、教会には不足がありますが)、「教会は、同性愛には何の問題もないと知るべきだ。同性カップルが真心から愛し合っているならば、教会はそれを祝福すべきだ」と主張する人たちが居ることです。(もちろん LGBT CJ のことです)

私はもちろん下のような事例を知っています。こういうのを知っていながら「同性愛には何の問題もない」ということにしてしまわない私は人非人ということになるのでしょうか?

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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