2016.07.12

供え物の準備の祈り Part 6

これも「参考」程度に。

ディダケー

前回見たところから、私は、「供え物の準備の祈り」というのは結局、特に「超自然的」なところのないユダヤ教の「ベラカー」にカトリックの超自然的な視点を少し付け加えただけの、いわば「切り貼り的」な横着仕事から生まれたものではないかと思った。
しかし、その推測に修正を促すものに出くわした。ジョン・ハードン神父編の『カトリック小事典』である。

カトリック小事典

奉献文(ほうけんぶん)Offertory

ミサの一部分で、聖別されていないパンとぶどう酒が神に奉献される。このときに司祭によって唱えられる祈りは、新しい典礼儀式書の中では、1世紀の典礼に関する著作『ディダケ』(12使徒の教訓)からほとんど言葉どおりにとられたものである。この書は、1873年にコンスタンティノープルで発見された。挙式司祭は(パテナにのせた)パンと(聖杯に入れた)ぶどう酒を別々に奉献しながら次のように唱える。「万物の主である神はたたえられますように。私たちはあなたの満ちあふれる怒愛によってパン〔ぶどう酒〕をいただきました。私たちはこの大地の実り〔ぶどう酒〕と人の労働と結実をささげます。私たちの生命のパン〔霊的飲み物〕となりますように」。

p.276

注)この文章は「供え物の準備の祈り」を「奉献文」の一部として言っている。
注)上の青文字にした部分はただ単に現在の「供え物の準備の祈り」を書いただけのものではないか。翻訳が若干違っているとしても。

この小事典は「供え物の準備の祈り」が『ディダケ』なるものから「ほとんど言葉どおりに取られた」と言っている。逆に言えば、「供え物の準備の祈り」が『ディダケ』の中に「ほとんど言葉どおりに “載っている” 」と。

しかし、この「ほとんど言葉どおり」という言い方は、ちょっと悩ましい。何故なら、「ほとんど」というのは “程度” を表わす言い方だが、具体的にどの程度か分からないからである。「ほとんど言葉どおり」ということは「全く同じではない」のである。しかし、それにも拘わらず「ほとんど言葉どおり」なのである。しかし、一体どの程度?
それで、私はこの『ディダケ』なるものについて調べてみた。

概 要

カトリック小事典

ディダケ(『十二使徒の教訓』)
Didache

1世紀の論文で、紀元100年以前に書かれたもの。本書は1833年にギリシャ正教のニコメディアの大主教ブリュエンニオス(Bryennios)によって写本の中に再発見され、それによって1875年に同大主教は聖クレメンス1世の書簡全文を発行した。『十二使徒の教訓』は3部に分けられる。1)二つの道、すなわち生命の道と死の道。2)洗礼、断食、告白、聖体拝領についての典礼用手引。3)職務についての小論。教義上の論説が前提になっている。生命への道は神と隣人に対する愛である。死の道は避けるべき悪徳の列挙である。洗礼についての簡単な教え、使徒・司教・助祭への言及、キリストの来臨に注目しそのために準備するようにという勧告がある。

p.223

Wikipedia

ディダケー、(12使徒の遺訓、コイネーギリシア語: Διδαχή

は、教えを意味する、初期キリスト教の論述である。12使徒の教えと伝えられるが、多くの学者によって1世紀後半から2世紀初頭に成立した文書と考えられている。文書は最初のカテキズム(教理問答)と見なされ、洗礼(バプテスマ)と聖餐、キリスト教の組織についての三つのおもな項目からなる。

これは19世紀に正教会のコンスタンディヌーポリ総主教庁図書室で発見された。ローマ・カトリック教会は、これを使徒教父文書として受け入れた。

本 文

小事典が「供え物の準備の祈り」が「ほとんど言葉どおりに」載っていると言っている箇所は『ディダケー』全文の第十章であることが分かった。典礼学者たちは九章と合わせて関心を持っている。共に「聖餐」について書いているものだからである。その二つの章のカトリック訳を見てみる。強調は管理人。

P・ネメシェギ校閲/佐藤清太郎訳
『十二使徒の教訓』(中央出版社、1965年)より

第九章 聖餐の儀式についての教訓

1.

聖餐に対してはつぎのように感謝せよ。

2.

まず聖盃については、「われらの父よ、なんじの僕管理人注1イエズスを通してわれらに知らしめたまいし御身の僕、ダヴィドの聖なるぶどうの樹に対して感謝し奉る。永遠の栄光御身にあれかし」と。

3.

つぎに裂かれたパンについては、「われらの父よ、なんじの僕イエズスを通してわれらに知らしめたまいし生命と知識とに対して感謝し奉る。永遠の栄光御身にあれかし」

4.

「この裂かれたるパンが山上において分散せられ、集められて一つになりしごとく、御身の教会も地の果てよりみ国に集められんことを。けだし栄光と権能とはイエズス・キリストを通して永遠に御身のものなればなり」と。

5.

しかし、主のみ名において洗礼を受けた者のほかは、なにびとにもなんじらの聖餐を食べさせても、飲ましてもならない。なぜなら、これについて主は御自ら「なんじら、聖なる物を犬に与うべからず」と仰せられたからである。

第十章 聖餐式後の謝祷

1.

なんじら満腹した後にはつぎのように感謝せよ。

2.

すなわち、「聖なる父よ、われらの心を住居となしたまいし聖なるみ名と、なんじの僕イエズスをしてわれらに知らしめたまいし知識、信仰並びに永遠の生命とに対して御身に感謝し奉る。永遠の栄光御身にあれかし。

3.

全能の主にてまします御身は万物をみ名ゆえに創造し、人々には飲食物を与えて喜ばしめ、彼らをして御身に感謝せしめたもう。されどわれらにはなんじの僕イエズスを通して霊的飲食物と永遠の生命とを与えたまえり。

4.

御身は権者にてましませば、われらすべてのものに越えて御身に感謝し奉る。永遠の栄光御身にあれかし。

5.

主よ、御身の教会をあらゆる悪より救い、御身の愛の内に全きものたらしめんために聖心に留め置かれんことを。かつ地の隅々より集めて、御身の備えたまいしみ国へ入らしめたまえ。けだし永遠の権能と栄光とは御身のものなればなり。

6.

恵みをして来たらしめ、この世をして去らしめたまえ。ダヴィドの神に栄えあらんことを(ホザンナ)。聖なる者、近づけよ、しからざる者悔い改めよ。マラナー夕(われらの主来たりたまえ)、アーメン。」

7.

かつ預言者たちには、その望むがままに聖餐の式を行なわしめよ。

[管理人注1] 天主様に対して「なんじ」という呼び方はないだろうと思う。「御身[おんみ]」だろう(他の箇所ではこの訳者もそうしているように)。戻る

さて、「ほとんど言葉どおり」の「ほとんど」とは、実際どの程度のものなのか。対照表を作ってみた。(ご苦労さん)

供え物の準備の祈り

ディダケー  10:3

神よ、あなたは万物の造り主、

全能の主にてまします御身は万物をみ名ゆえに創造し、

ここに供えるパン・ぶどう酒はあなたからいただいたもの、大地の恵み、

人々には飲食物を与えて喜ばしめ、彼らをして御身に感謝せしめたもう。

労働の実り、

なし

私達のいのちのパン・霊的飲み物となるものです。

されどわれらにはなんじの僕イエズスを通して霊的飲食物と永遠の生命とを与えたまえり。

だから解答は──「ほとんど言葉どおり」と言えるかどうかは受け取る人の主観に依るかも知れないが、まあ、「だいたい同じ」というぐらいには言えるのではないか、というところだろう。

ただ、「労働の実り」だけは違う。それは「供え物の準備の祈り」にあって「ディダケー」にないものである。そして、私が思うに、これは “なくてよいもの” である。神への賛美は本来 “神から直接来るもの” に対してだけであるべきで、「大地の恵み」(神から直接来るもの)の横にわざわざ「人間による労働の実り」を持って来るこのやり方は──どう言おう──何かしら「パフッ♡」と空気が抜けたものある。

彼我[ひが]の分離

そして、もう一つのこと。重要なこと。
小事典は「ほとんど言葉どおり」と言ったけれども、私たちは個々の「言葉」を見るばかりでなく「文脈」も見なければならない。
つまり、私自身、上で「言葉は確かにだいたい同じ」と認めたけれど、しかしそれと同時に「文脈は大いに違っている」と言わなければならない。それは──私は上のあれらの引用にいちいち強調を付けたから既にお気づきだろうが──以下の如くである。

「ディダケー」はもちろん「万物の造り主」たる天主様を称えている。しかし、ほかに目立つものがある。それは──「分け隔て」はとにかく「悪」であるかのように思っている神父様方には受けの悪いことだが──信仰を持つ者と未だ持たざる者の「別」をはっきりと書いていることである。そして「普通の飲食物」は「人々」のこととし、しかし「我ら」は「霊的飲食物」に向かうのだ、特にそれに感謝するのだ、という世界を描いていることである。もう一度見よう。十章である。

3.全能の主にてまします御身は万物をみ名ゆえに創造し、人々には飲食物を与えて喜ばしめ、彼らをして御身に感謝せしめたもう。されどわれらにはなんじの僕イエズスを通して霊的飲食物と永遠の生命とを与えたまえり。

P・ネメシェギ校閲/佐藤清太郎訳『十二使徒の教訓』1965年

※ 他の翻訳でも確認できる。参照

補足)私たちも「人々」の一員であることは確かである。私たちも通常の飲食物なしで生きることができない。通常の飲食物を馬鹿にすべきでない。感謝すべきである。そして、もしそれに困窮している人がいるならば、助けるべきである。しかし、これは宗教祭儀の話である。単なる形式的の儀式ではなく、実際に天主様の神秘的な御力が働く儀式の。

「ディダケー」はかなり明確なコントラストを以って「霊的」な事柄に関して天主に感謝する。「イエズスを通してわれらに知らしめたまいし生命と知識とに対して」(九章)。「イエズスをしてわれらに知らしめたまいし知識、信仰並びに永遠の生命とに対して」(十章)。

カトリック小事典は「供え物の準備の祈りはディダケーからほとんど言葉どおりにとられた」と言うけれども、以上のようなコントラストは「供え者の準備の祈り」には見られない。

供え者の準備の祈り(逐語訳)

司祭   

神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちのいのちのパンとなるものです。

会衆   

神は代々に誉め称えられますように。

司祭   

神よ、あなたは万物の造り主、
ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、大地の恵み、労働の実り、わたしたちの霊的飲み物となるものです。

会衆   

神は代々に誉め称えられますように。

「供え物の準備の祈り」はひどく「あっさり」している。
簡素の美」である。

私が思うに、「彼我の分離」は罪でも傲慢でもない。つまり、そういう場合もあるだろうが、また、そうと決まったものでもない。
つまり、「我らは神から特別の恵みを受けている。しかし、彼らはそうではない」などと言うと、人は「自惚れている」とか「得意になっている」とか思うかも知れないが、そうとも限らない。

そもそも、最も根底的の事として、「我らは神から特別の恵みを受けている。しかし、彼らはそうではない」と知っているからこそ、「彼らにもその素晴らしい恵みを伝えよう」とする動きが出て来るのである。この意味から、「彼我の分離」はむしろ必要である。

「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」

フリーメイソンの雑誌『Humanisme』1968年11月/12月号 より

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