エウカリスティアは、早[はや]1世紀に、食事そのもの、通常の食事とは切り離された。その後も「神的食事」ではあり続けたとしても。
ユングマンの『古代キリスト教典礼史』から。
p. 45 - |
第四章「パンを裂くこと」 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
(…)
感謝の食事
さてここで、かねてから大いに関心がもたれてきた問題にぶつかる。すなわち使徒の時代には、どのように感謝の祭儀(エウカリスティア)を祝っていたのか、ミサの最初の姿はどんなものだったのか、という問いである。残念ながらこの疑問に明確な答えを与えることはできない。関係史料がほとんど残っていないからである。だから大部分は、後世の史料からの推論や総括に頼らざるをえない。だがそれでも個々の点では、かなり確実に推定できることも多い。
最古の感謝の祭儀は、食事の形で祝われていた。少なくともいくつかの地方で、何十年かの間はそうだった。これに対する証拠は、パウロの「コリントの信徒への手紙一」の、主の晩餐に関する章(一一章)である。少なくともコリントでは、この祭儀は日常の食事に結びついていた。パウロは、この慣行を当然のことと考え、変えさせようとはしていない。彼はただ、その乱用を取り除くよう努めたのである。したがって他の使徒の下にある教会、またエルサレムの教会でも、このように食事と結びついていたことは確実なようである。
次のことを考えると、この確実性はいっそう強まる。主の復活の後には、使徒たちはほとんどいつも食事のときに集まっていた。共同の食事が、互いに使徒たちを引き寄せたように思われる。ともかくそれは、主についての記憶を新たにする機会だった。このことは、ユダヤ教的な考え方でも主の譬え話でも、食事に著しく象徴的な意義があったのを考え合わせると、ますますはっきりする。メシアの栄光を表すためには、祭りの食事のイメージが好まれていた。イエスと席を同じくしていた一人は、イエスに「<神の国で食事をする人は幸いです>と言った」。すると、主はこのイメージを明確にし、神の国を盛大な宴会に譬えるのである(ルカ一四:一五—二四)。福音書がカナの婚宴をはじめとして、しばしば食事に触れているのは注目に値する。したがって使徒たちは、主を記念する際に、主が感謝の祭儀を制定したときの食事の形式を、できるだけ守らねばならないと思ったに違いない。
(…)
p. 49 |
最初の形からの変化 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
しかし、こういう形式で感謝の祭儀を祝うことは、長続きしなかったらしい。(…)
p. 51 |
食事の名残りのある典礼 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
以上のことがあったにもかかわらず、この感謝の祭儀と食事との結合は、前述のように、それほど長続きしなかったらしい。(…)
p. 54 |
食事のない形式への変化 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
(…)一世紀に、すべての共同体で徹底された大きな変化、しかもミサの歴史を通じて最大の変化と言えるもの──それは、実際の食事をなくし、エウカリスティア、すなわち感謝の祈りを前面に打ち出した祭儀形式へと、移行したことである。
(翻訳は以前取り上げさせてもらった石井祥裕氏である。感謝)
1世紀という極めて早い時期にエウカリスティアが食事と切り離されたことは、私には「もっともなこと」「理の当然」そして「聖霊の導き」だったように思われます。何故なら、理由は簡単、同じ一つの食卓の上に「通常の食物」と「神的な食物」の両方が乗っているべきではないからです。なぜ乗っているべきではないかと云うと、乗っていると、人々の心の中で「通常の食物」と「神的な食物」の別が曖昧になるからです。
人は「初めにあったもの、“原型” こそが最上だ、神の御心だ」と簡単に思いがちだけれど、私は、「主御自身が、それを食事の中でなさった」という事と「しかし、程なくそれは食事とは切り離された」という事の <両方> が神の御心だったのだと思います。
すなわち、初めの「導入」、初めの「助走」に於いては、人間たちにとって何か「とっかかり」のあるものを提示するが、時の経過とともに、それがより純粋なものになるよう、聖霊を通じて人間たちを導いていく、ということは、あり得ることだと思うのです。
つまり、「感謝の祭儀」が発生後程なく「食事性」を薄め、純粋に「祭儀性」を高めて行き、やがて「トリエント・ミサ」に到達したことは、基本的に正しい(天国から見て)ことだったと、私は信じて疑わないのです。
「罪の概念は中世の哲学が聖書の内容を悲観的に解釈したものである、という考えを徐々に刷り込むことによって」